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前川婦人会における地域交流

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前川婦人会における地域交流
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琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科
2022年度琉球民俗学野外調査 チームD(安座間、濱崎、宮城、澤田、新城)

1.はじめに(安座間)

 沖縄県南城市玉城前川集落の婦人会を対象とし、古写真をもとに婦人会の変遷や地域内での役割について調査しました。2022年6月10日に南城市前川むらやーにて婦人会の知念カズ子さん、知念ノリ子さん、知念国雄さんにご協力を頂き、聞き取り調査を行いました。その後、書簡をやり取りする中で、後述する「婦人学級」の役員をされていた方にご協力いただき、地域の中での婦人会の役割や各行事との関係、婦人会の変遷についてお話を伺いました。
 紹介する5枚の写真は、この調査のもとになった古写真であり、前川の婦人会の記録の一部です。女性たちが楽しそうに活動している様子や、丁寧に記録に残されていることが、私たちのグループの研究テーマを設定するきっかけとなりました。

前川での婦人学級の活動アルバムの一部。糸満市にある琉球ガラス村での体験と思われる写真がまとめられています。

2.婦人会のきっかけと活動(濱崎)

 前川婦人会は大正初期頃に発足し、婦人の教養を高め、風俗の改善、生活の向上を目的としていました。また、知念さん方は戦争への備えという面もあったと考えています。第二次世界大戦によって一度自然消滅しますが、終戦後、混乱した社会のなか生活の向上と婦人の教養・品格を高め、心身の安定を図ることを目的として婦人会活動を再開し、前川に住むご婦人方の親睦を深める場となります。
 古写真に写るアルバムが作られた1985年頃の前川では、20歳(学校を卒業して)から26歳まで(27歳以降は結婚するものと考えられていたため)青年会に所属し、結婚して60歳までは婦人会に、60歳をこえると老人会(老人クラブ)に所属していました (正会員は数え65歳から)。
 前川婦人会の会長は毎年変わりますが、なかなかやりたがる人がいないため、挙手制ではなくお願いをしていたそうです。活動内容としては、ママさんバレー、盆料理講習会、盆踊り大会、正月料理講習会、忘年会などの事業があります。講習などのイベントは最初に決めますが、会員の声を聞いて企画したり役員に対して個人的にやりたいことを伝えたりしていました。
 昭和55(1980)年、玉城村中央公民館前川分館として公民館が設立されました。公民館ができたことで料理講習などの活動ができるようになりました。公民館は集落の社会組織の主な活動の場になります。また、新しい時代にふさわしい教養を身につけること、地域の歴史や文化、産業などを学び、婦人の連帯意識を高めることを目的として、婦人学級が設立されました。職業婦人がほとんどであったため、夜の余暇を利用して活動していました。次の計画は、玉城村前川誌編集委員会(1986)『玉城村字前川誌』玉城村前川誌編集委員会のP236~P237から引用しました。正確にいつのものかは記載がなく不明ですが(計画内容が違うことから古写真が撮られた1985年のものではないことだけ判明しました)、様々な講習・教室を開催していたことや毎月のように活動していたことがわかります。

四月開級式―村教育長・公民館主事              
五月料理実習―自家農作物使用
六月着付講習
七月体力作り教室―主婦の健康作り
八月消費生活の合理化―貯蓄推進活動運動
九月ゲートボール教室―老人会との親睦大会
十月テーブルマナー教室―現代婦人としての資質向上
十二月手芸教室―不用品を利用した手作り
一月生花講習―心身共に花のごとく美しく新年を迎える為に
甘蔗運搬始まり閉級式となる
婦人学級活動計画

 この調査によって、写真1から写真5は「婦人学級」としての活動アルバムを撮影したものだとわかりました。当時の前川婦人学級の学級長であった稲嶺さんが、このアルバムや行事案内などをすべて作成していました。
 また、婦人会とは別の組織ですが、玉城村農業協同組合の傘下に農協婦人部というところがあり、みそ作りや漬物作りなど講習会を主体的に行っていました。みそ作りは話者の方々が小さい頃まで、農協婦人部で豆を発酵させ、米麹も作っていたそうです。前川の場合、婦人会会長が農協婦人部副会長に、婦人会副会長が農協婦人部会長に就くことになっており、婦人会の会長は農協婦人部の会員として入会していたと伺いました。昔は農家が多かったため、婦人会の方々は農協婦人部にも所属し、農協婦人部には年齢制限がないことから、みそ作りに興味のあるご年輩の方も入会していたそうです。

3.古写真から見る婦人会の思い出(宮城)

 この写真は婦人会学級での活動の様子です。アルバムやポスターは当時婦人学級長を務めた方により非常に丁寧にまとめられています。前章で述べたように、婦人会学級とは玉城村中央公民館前川分館として公民館が設立された際、区民の交流と学習活動の場として前川婦人会が村から受けた補助事業です。年10回の講座内容は、会員からの提案を受け役員らにより決められ、フラワーソープ作りやサーターアンダギー作りなどが企画されました。手紙でのインタビューによると、講座は子連れでの参加や、仕事で遅れての途中参加も大歓迎で、和気あいあいとした賑やかな雰囲気の元行われたそうです。
 活動の一つであったサーターアンダギー作りは、「外は黒焦げで中は生」の状態になり上手に揚がらないという会員の声から企画されたといいます。その際、講師には観光地でもある玉泉洞で販売用にサーターアンダギーを作っていた前川の方を招きました。このように講師の方が集落に身近な方だということもあり、皆気軽に婦人会の活動に参加できたそうです。また、老人会の会員が参加することもあったそうです。活動が終わると、サーターアンダギーの作り方を家庭に持ち帰り、子や孫に振舞ったり、一緒に作ったりとそれぞれの家庭で婦人会での学びが活かされました。会員の多くが働いていたため、婦人会活動は家庭との両立が難しかったそうですが、このように夜の空いた時間を利用した活動は、当時を知るみなさんのよき思い出となっているようでした。

前川での婦人学級の活動アルバムの一部。フラワーソープ作りのものです。子供たちも参加しており、「お母さん 誰ですか。夏休みの宿題にしたのは……」とコメントが添えられています。
前川での婦人学級の活動の一部。サーターアンダギーの料理講習の案内が手書きで作成されています。
前川での婦人学級の活動アルバムの一部。写真-3で案内した料理講習の風景と、「サーターアンダーギー」と「カボチャアンダーギー」のレシピが丁寧に書かれています。
前川での婦人学級の活動アルバムの一部。「老人会も特別参加」というコメントから、老人会の方もこの講習に参加していたことがわかります。

4.婦人会の役割(澤田)

 婦人会は前川の女性たちの交流の場としても機能していました。女性たちが家庭や仕事でなかなか集まれない中、このような場所があったからこそ親睦を深める機会を獲得することができました。他の地域から嫁入りした方も婦人会があったために、他の女性たちと交流することができたようです。インタビューに答えてくださったカズ子さんは、かつて商店を経営していましたが、お店には婦人会の方々が集まり、賑やかだったといいます。カズ子さんは「人が来るのが好き」と、笑顔でお話してくださいました。商店をしめた後も、カズ子さんのお店は女性たちの憩いの場となっているそうです。
 前川婦人会は親睦だけでなく「助け合い」も大切にしていました。婦人会の方々は、それぞれできないことは仲間同士で互いに補い合っていました。知念ノリ子さんは婦人会のようにみなで集まれる場所があると互いの生活状況を知り、助け合うことができるとおっしゃいました。また、婦人会は前川集落の人々とも助け合うことがありました。例えば、集落内で病気になった方がいると聞けばその方の家に料理を持っていったり、話を聞いてあげたりするなど、困っている方を積極的に助けていました。
 婦人学級で料理講習などのイベントを開催する時は、子連れの方がいたり、興味のある老人会の方が特別ゲストとして参加していたそうです。実際に古写真にあるサーターアンダギー作りやフラワーソープ作りでは、婦人会の中に子供たちや老人クラブの方が混じって参加している様子が見られます。前川集落におけるカジマヤー祝や、区民運動会、敬老会といった行事でも、その役割の一つを婦人会が担いました。婦人会は7班に分かれて舞台稽古を行ったり、運動会における参加者全体の踊りでは中心となって音頭を取ったりしたそうです。集落内で葬式があった場合も7班に分かれて受付や接待、ジューシー作りなどを行いました。
 一方で、婦人会活動と家庭との両立が難しかったと教えてくださったのは、当時婦人学級の役員をしていた方です。大きな地域行事があると、舞台稽古で夜に家を空けることが多かったため、子供の勉強もろくに見てあげられなかったとお話しました。「それでも、よく我慢してくれていた家族に感謝している」とおっしゃいました。特に、婦人会の活動は旦那さんの理解がないとできなかったと言います。前川婦人会が活発に活動することができたのは、こうした家族の理解や協力もあったからかもしれません。

5.婦人会から女性会へ(新城)

 この章では、前川婦人会が「前川女性会」へ名称変更したことに触れながら、時代的な背景や影響について、また現在の前川の女性のコミュニティに婦人会の活動や役割がどう影響し、続いているのかについても紹介していきたいと思います。

名称変更と生活の変化の影響

 前川婦人会は2009年から約5年間、活動を休止しました。その後、2014年に「前川女性会」に名称変更し、活動を再開したそうです。婦人会活動が中止となった一番の要因は、役員の担い手不足にあります。役員になると2〜3年継続するため、会員からは敬遠されるようになったそうです。そのため、会長選出ができず5年間の活動中止となりました。また役員選出が難航している背景には、女性の社会進出という生活の変化も深く関わっているようです。
 元々、前川集落はサトウキビ栽培や畜産がさかんな地域でした。実際に知念区長の案内で集落を歩いた時も、サーターヤー(製糖工場)跡や牛舎、豚小屋跡などが残っており、かつての前川の暮らしの風景が、今の様子からもうかがい知ることができました。今回調査した古写真が撮影された1985年頃の前川婦人会は、活動記録や参加会員の数など古写真の様子からも読み取れるように、非常に活発な活動をしていたことが分かります。今回の聞き取り調査でご協力いただいた方々は「昔はみんな農家で、結婚したら婦人会に入るのが当たり前だったから活動も活発だった」とおっしゃっていました。既婚女性の婦人会入会は強制的な面もありましたが、生業が家族単位の農家で家にいることが多かった女性たちにとって、地域の活動にも参加できるきっかけともなったという背景があるようです。
 しかし、時代と共に女性が働くのも当たり前となり、地域活動に参加できる時間も少なくなっていったようです。「昔は農家で家にいたが、今の人は仕事や子供の塾、習い事などの送迎があって忙しい」と、知念ノリ子さんはお話してくださいました。このような生活の変化が組織としての活動にも影響を与えたと考えられます。

現在の前川の女性コミュニティ

 「婦人会があったから、年代を問わずみんなと仲良くなることができた。結婚しないと入会できないため、仕事をしている未婚の女性との交流はあんまりなかった」と知念さん方はおっしゃいました。交流の場として大きな役割を担っていた婦人会ですが、先述したように現在は名称を変更して「前川女性会」という組織になっています。活動内容としては婦人会と変わりませんが、老人会に正会員として入会できる65歳までの5年間も女性会で活動してほしいとの思いから、婦人会会則の「第四条:本会の会員は当区内に移住する満六十歳までの既婚婦人を以て組織する」という年齢の枠を外したそうです。しかし女性会となった現在、会員は減少傾向にあり存続問題を抱えています。また、新型コロナ感染拡大により、この2年は活動中止という状態になっています。
 現在は、当時婦人会で活動していた数名の方が組織の必要性を痛感し、前川女性会と前川若水会(老人会)の両方に入会して活躍しているようです。また、新型コロナでこの2、3年は行われていませんが、老人会が地域行事を主体となり支えているそうです。
 昔は働いている人も時間を見つけて集落の集まりに参加し、お茶をするなど、最近は集落内ではなく個人同士での交流が多く行われているようです。仲の良い人たちで旅行に行ったり模合をしたり、新しいコミュニティの形が生まれています。「昔は昔で楽しかったけど、今は今の楽しみ方がある」と、知念ノリ子さんは教えてくださいました。

6.考察・感想 婦人会の存在が地域にどのような影響を与えていたのか

安座間:
 前川婦人会は、女性の社会進出、人口流動、市町村合併などの影響を受けながらも、前川集落において人と人をつなげる大きな役割を果たしていました。インタビューを通して、婦人会は前川集落になくてはならないものであったし、地域の人に愛されていたことが分かりました。その理由として、前川婦人会が、地域に来てくれた人を歓迎する温かい心を持ち、助け合いの精神に溢れていたからだと思います。現代では、地域の行事や集まりに参加する人も減ってきており、婦人会の活動も収縮している状況です。しかし、一人暮らしの高齢者や孤独を感じる人が多い中、前川婦人会のような、人と人をつなげる存在こそ必要になっているのではないかと考えました。

濱崎:
 古写真のアルバム、そして実際にインタビューを行い、婦人会の活動をとても楽しんでいたことが伝わりました。また、婦人会で大切にされていたことや始まったきっかけについて質問すると「親睦」という答えが返ってきました。そのことから、同じ前川に住んでいてもそれぞれに生活があるため、全く会わない人や近所でも話す機会のない人もおり、そういった人たちを結びつけていたのが前川婦人会という交流の場であるとわかりました。前川婦人会の存在は長く続く相互扶助関係と地域の連帯感を育んだと考えます。

宮城:
 古写真アルバムやインタビューを通し、前川婦人会という場での交流は女性たちの親睦を深める役割を果たしてきたことが分かりました。また、そこで育まれた助け合いの精神は地域全体を大きく支えていたのではないかと考えました。婦人会を通じて集落のウチの状況をよく知っていたことで、料理を差し入れたり相談に乗るなどして互いに支え合ったそうですが、そこで多くの人が精神的にも救われたと思います。交流の場を通して人と人を繋ぎ、社会的孤立を防ぐ地域コミュニティの重要性を改めて認識しました。

澤田:
 古写真調査の結果より、前川婦人会は家庭と仕事で忙しくしていた女性たちの交流の架け橋的存在だったことを知りました。また、婦人会が大切にしていた親睦と助け合いの精神は地域の活性化にも貢献したことも学びました。地域に住む人々が互いに相手のことを知って助け合い、地域を活発にしていくために婦人会といった地域組織が必要になるのだと考えます。 現在、婦人会は女性会へと名称変更しましたが、組織の役員の担い手について問題があるそうです。当時婦人学級の役員をしていた方はその問題緩和と継承存続があってこそ地域の活性が生まれる、とお答えしてくださいました。このように、地域を活発にするためには婦人会のように地域の人々が交流できる場所を作り出すこと、そして維持することが大切であるとわかりました。

新城:
 今回の聞き取り調査を通して、前川婦人会の活発な活動は婦人同士の交流において大きな役割を担っただけでなく、一つの組織として地域と関りを持っていたことが分かりました。現代では核家族や一人暮らしの高齢者も増え、介護や孤独死といった問題がありますが、集落の事情を把握し困っている人を助けるという婦人会の活動は、現代において非常に有意義であり、当時の地域の人にとっては精神的にも大きな支えになっていたのではないかと考えます。また、地域行事では老人会や青年会と共に踊りの披露や着付け、化粧などの舞台裏の手伝いもしていたそうですが、参加する人、支える人がいるからこそ地域行事というものは成り立つということが分かりました。地域の存続において、交流の場を作る行事はとても大きな役割を担っており、そこに関わっていた婦人会は地域にとって重要な存在であったといえると思います。婦人会は様々な活動を通して、会員同士だけでなく、地域の人々の交流の場を作っていたということが分かりました。
また、このように地域と関わる組織というのは、今回私たちの聞き取り調査に協力してくださったように、地域の歴史を知るものとしてそれを伝えられる貴重な存在であるということが言えると思います。今回ご協力くださった方々のお話から、資料では分からなかった婦人会の果たす様々な役割について知ることができました。個人の体験やエピソードには地域を知る様々なヒントが隠されているということが分かりました。

参考文献

玉城村前川誌編集委員会(1986)『玉城村字前川誌』玉城村前川誌編集委員会.

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