琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科
2022年度琉球民俗学野外調査チームE(森本・桃原・金城・仲宗根)
1.はじめに
南城市玉城字(1)前川の公民館は過去に二度建て替えられており、現在は三代目の公民館として地域づくりに貢献しています。今回私たちは、三代それぞれの歴史や役割、利用法を明らかにすることを目的に、2022年6月5日、現在の公民館である「前川むらやー」の運営に携わっているお二人に話を伺いました。
(1)市町村を細分する区画。(沖縄タイムス社(1983)『沖縄大百科事典 上』44頁)
2.戦前の村屋(ムラヤー)
前川の集落で、「公民館」が建てられたのは、昭和26年(1951)のことです。戦前の沖縄において、公民館のように字の中心的な存在であったのが「村屋(ムラヤー)」でした。
村屋は、間切り番所(村役場)の末端の行政を担っていました。各字にあり、財務・勧業・営林・農政などの事務を処理していました。村屋は、「近くに広場と拝所があるのがふつうで、心理的にも村の中心」(2)でありました。大正7年(1918)に新設された、木造本瓦葺きの前川の村屋は、区行政の発展に大きな役割を果たしていたものの、沖縄戦で焼失してしまいました。
戦後の昭和21年(1946)、区の再建と同時に、前川集落の東側、現在の公民館の敷地に木造トタン葺の「区事務所」が建設されました。場所は、製糖小屋(サーターヤー)跡で、材料は、戦争中にアメリカ兵が兵舎等を建設するときに地面整地用に集落から運び出した石材を戦後になってまた運んできたようです。建設には区民の大工が活躍したそうで、屋根のコンクリートの材料となる小石は、区民が集落周辺にある琉球石灰岩をハンマーで砕いて集めたようです。しかし、区民が協力して建てた区事務所は、昭和23年(1948)に台風により、柱のみを残して屋根が全部吹き飛ばされてしまいました。
その後、昭和26年(1951)に、区予算に加えて、区民やハワイ・ペルー在住の前川出身者の寄付金により、積みの建物が完成しました。区事務所の看板も「公民館」という名称に改名されました。
(2)沖縄タイムス社(1983)『沖縄大百科事典 上』642頁。
3.一代目の公民館
一代目の公民館は、昭和26年(1951)~昭和54年(1979)の28年間利用されていました。
この公民館は、「粟石」という石で作られていました。粟石とは、「海にすむ有孔虫の殻や石灰岩・貝殻などの欠片が固まってできた石灰砂岩のこと」(3)です。後に作られた滑り台も粟石で出来ていて、滑り台の隣には大きなデイゴの木があったといいます。
この頃の公民館は、幼稚園として利用されていました。幼稚園は午前中のみ開校していました。お話を伺った方が幼稚園にいた昭和35年(1960)頃は、20人ほどの子どもがいたそうです。先生は、幼稚園教諭の資格をもっていない地域の大人たちでした。昭和31年生まれのOさんは「当時は勉強はせず、ずっと遊んでいたよ。」と楽しそうに思い出を語ってくださいました。どのような遊びをしていたのか聞いたところ、身近な自然も利用して様々な遊びをしていたことが分かりました。
例えば、ソテツの葉をつかって虫かごをつくったり、ソテツの実をくりぬいて人形をつくったそうです。ススキの穂は、ホウキの材料となりました。また、当時各家庭にあった竹でトンボとりをつくり、セミ取りをしていたといいます。トンボとりの作り方は、まず、竹を持ち手の部分とし、その先に針金か竹の枝を輪にして取り付けます。その輪のところにビニール袋を張り付ける、あるいは蜘蛛の巣を巻き付けると完成です。蜘蛛の巣は粘着力があり、何回も巻き付けていったそうです(図1)。その他、折り紙やお絵かきをしたり、木登りをしたり、近くの池でヤゴを捕ったり、壕の中で遊んでいたりしました。グラジオラスや百合などの花が咲いていたら取りに行きました。冬には、竹を骨組みにして新聞紙を貼り付け、凧をつくって凧揚げをしていました。
当時のおやつは脱脂粉乳で作ったミルクです。さらに、近くに生えていたバンシルー(グアバ)、スモモ、シークヮーサー、野イチゴ、クワの実、アカギの実などもおやつになりました。
このように、一代目の公民館は「公民館幼稚園(字幼稚園)」としても機能していました。しかし昭和49年(1974)、前川集落の北東に位置する船越集落に玉城村立船越幼稚園が設置され、子どもたちは皆そちらに移動します。そのため、続く二代目の公民館が幼稚園として利用されることはありませんでした。船越幼稚園は船越小学校に附属するかたちで建てられ、昭和51年(1976)1月からバスでの送迎になったそうです。
旧玉城村には百名・玉城・船越の3つの小学校があり、どれも幼稚園が付設されていました。
【公民館幼稚園(字幼稚園)の背景】
公民館が幼稚園として利用されていたのは、前川の公民館だけではありません。1960年代の沖縄県には、300園ほど存在していました。その背景には、戦後義務教育として出発した公立幼稚園の運営源であった軍政府補助金が打ち切られたこと、その後、昭和23年(1948)に新学制である6・3制(4)施行と同時に幼稚園の義務制が解かれたことにあります。
沖縄は戦後27年間米軍統治下にありました。終戦直後の昭和21年(1946)、沖縄民政府は「初等学校令」を公布し、8・4制(5)の学校制度ともに公立幼稚園1年の義務制を施行します。幼稚園の設置は沖縄各地に急速に広まり、全幼児を対象とした公教育として形成され始めますが、その実態は、園舎設備や教材教具もなく、無資格者による教育活動でした。当時、公立幼稚園は初等学校の附属園として位置づけられ、初等学校とほぼ同数程度で推移していましたが、昭和22(1947)年、軍政府補助金の打ち切りが決定し各園の運営は窮地に立たされます。さらに、翌年の昭和23年(1948)年には新学制である6・3制の施行と幼稚園の非義務化が決まったことで、市町村の財政困窮などを理由に廃止せざるを得ない幼稚園が続出します。そのような中、地域の子どもの保育問題は切実であったため、公民館に幼稚園を付設した「公民館幼稚園(字幼稚園)」として活動を始める地域が出てきました。字幼稚園の園長は、近隣小学校の校長や公民館の区長が兼ねることが多く、また、保母や先生は地域の人が担うなど、公民館を拠点とした地域の子育て組織の中で教育が行われました(嘉納 2019)。
以上のことから、1960年代の沖縄において、就学前の保育・教育は「地域の子どもは地域が育てる」という地域実践活動として取り組みがなされていたといえます。
(3)琉球新報デジタル「粟石(あわいし)-琉球新報デジタル❘沖縄のニュース速報・情報サイト」
(4)初等学校6年、中等学校3年、高等学校3年の学校制度。(文部科学省「七 沖縄の教育」)
(5)初等学校8年、高等学校4年の学校制度。(文部科学省「七 沖縄の教育」)
4.二代目の公民館(1980-2015年)
二代目の公民館は、昭和55年(1980)年~平成27年(2015)年の35年間利用されていました。「やむなく先祖の残してくれた大切な字有地を売却して」(6)得た資金に加えて、国庫からの公民館補助金により建てられました。地域行事にかかわらず、8時30分~17時まで開館し、字費徴収などの業務を行っていました。
この頃、青年会や子供会、婦人会、老人会などの活動が最も盛んに行われていました。行事の際は班を作り、婦人会が主体となって班ごとで余興を行っていたといいます。余興の内容はハワイアンや民謡に合わせた踊り、老人会による踊りなどです。また、棒術には名人がいて、三線の曲に合わせ披露していました。カジマヤーの出発前にも、景気づけとして踊っていたそうです。これらの行事は観覧客が多かったため室内ではできず、公民館の駐車場のスペースに舞台を設置して開催されていました。また、この公民館は結婚式の会場としても利用されていました。準備などはすべて依頼人の親戚らが行っていたため、前川集落の字費や地域住民が関わるわけではありませんでした。
夏休みには子供会の勉強会の場ともなりました。勉強会では、退職した方や地域の大人が、地域の子どもたちに勉強を教えていました。
(6)玉城村前川誌編集委員会(1986)『玉城村前川誌』50頁
5. 三代目の公民館(2016年-現在)
三代目の公民館は、平成28年(2016)に沖縄振興特別推進交付金を活用した「観光交流・防災機能拠点整備事業(ムラヤー構想)」の一環として建て替えられ、「観光交流・防災機能拠点施設 前川むらやー」となりました。同年には、旅館業法の簡易宿所営業の許可を取得し、県内小中学生の部活の宿泊受け入れを実施してきました。前川むらやーは、津波の際の避難所として指定され、災害時には炊き出しも行える設備が整えられています。また、交流ホールやステージのほか料理研究室や図書館も設けられています。日頃の業務内容は、集落の草刈り、お宮(知念之殿)やヒージャーガー(7)の整備、簡易水道の管理などです。
二代目の公民館は様々な地域行事や社会活動の中心的な役割を果たしていましたが、三代目の公民館になってからは、その地域行事などが縮小していきます。役員の人数不足で婦人会がなくなり、また、カジマヤー(写真5)は介護施設に入る方の増加や、棒術など余興準備の長さが原因で行われなくなりました。その他、生年祝いなどこれまで行われた活動の多くがなくなりました。子供会の卒業祝いも公民館で行っていましたが、近年は娯楽施設で遊ぶようになったといいます。
しかし、地域交流の場がなくなったわけではありません。令和2年(2020)のコロナ禍になるまでは公民館に地域の人々が集まり、ある時には、英語教室や伝統行事の練習、健康体操の講師を招いて運動をするなど地域活動が行われていました。また、以前から毎月第4木曜日にミニディサービスを実施しており、午前10時から市の社会福祉協議会職員による血圧測定、そのあとはゲームをしたり歌を歌ったりします。午後はみんなで弁当を食べ、14時までカラオケを楽しんでいました。この活動もコロナ禍によって中止を余儀なくされていましたが、最近から感染予防対策をしたうえで再開されています。
地域行事が少なくなる一方、コミュニティ以外の人々によって活用される機会も増えました。公民館にはシャワー室やキッチンが完備されているため、一泊500円の宿泊施設として利用されることもあります。これまで東京の私立大学サッカー部や北海道の塾、近隣のサッカーサークルなどが合宿に利用していました。また、普段は料理教室が開講されていたそうです。現在、このような活動はコロナ禍により中止しています。
(7)前川民間防空壕の近くにある前川樋川(ひーじゃー)を指す。きれいな冷たい水がこんこんと湧き出る井戸。(南城市ホームページ)
6. おわりに
聞き取り調査の結果、一代目は「幼稚園としての活用」、二代目は「子ども会や婦人会などの地域交流の場」、そして現在の三代目は「宿泊施設としての活用」という、公民館が果たす役割のなかでも、特に大きな特徴だと思われる点を捉えることができました。
現在は、地域行事の減少やコロナ禍による活動自粛など、老若男女が一堂に会して一つの行事をするという機会は減っているようです。しかしそのような中でも、イベント企画や地域クラブの練習場所など地域交流や技術向上の場を維持し、更に、以前の公民館にはなかった”宿泊施設”という役割のもと、県内外の学生や団体の受け入れを行っています。前川の三代目公民館「前川むらやー」は、人づくり・地域づくりの中心的役割を担うだけではなく、地域外のニーズにも応えていることが分かりました。
7. 感想
M:本調査を通して、前川の公民館は現在までの三代の各公民館がそれぞれの時代背景に合った役割を果たしていること、そして共通して(地域内、外の)人々のニーズに合わせた重要な場所であることが分かりました。時代や状況の変化によって人々の暮らしも少しずつ変化していますが、公民館が前川の人々にとって必要不可欠な存在であることが再確認できた調査でした。
A:前川の公民館を通して、前川集落ひいては戦後の沖縄県全体の歴史を捉えることができました。いつの時代でも公民館が果たす役割に差異はないと思っていましたが、特に一代目の公民館が幼稚園として機能していたこと、そこから戦後沖縄の教育体制を知った時は驚きました。様々な時代背景に合わせてコミュニティに貢献していたことが分かり、その存在意義を確認できた調査だったと思います。
K:公民館は、地域の人々にとって身近に存在するものであるがゆえに、その歴史や役割について知らないことも多いように思います。今回の調査によって、それぞれの時代の前川公民館の役割や利用法が異なっていることがわかりました。時代による変化はありつつも、公民館という場所は、地域の人々が集まる大切な場所として変わらず存在し続けていると思います。前川の公民館は、新たに「観光交流・防災機能拠点」としての役割も生まれており、今後も時代の変化に伴って、公民館に求められる役割も変わってゆくのではないかと考えました。
N:今回の調査をしていくと、時代が変化していくごとに公民館に求められる役割も変化していったことがわかりました。第一の公民館では戦後に幼稚園としての役割を果たし、第二の公民館では伝統行事の舞台として、第三の公民館では人口の減少に伴いサークルや他地域の方の活動の場となるなど、時代背景と関連した変化が感じられました。地域の交流の場となる公民館について調べる際には時代背景について調べていくことでより考察を深められるのかなと感じました。
参考文献
沖縄タイムス社(1983)『沖縄大百科事典 上』
玉城村船越公民館(2002)『玉城村船越誌』
玉城村前川誌編集委員会(1986)『玉城村前川誌』49-50頁
琉球新報「観光交流、防災拠点に/南城「前川むらやー」落成」2016年3月7日 朝刊 27面
琉球新報社編 (2003)『最新版 沖縄コンパクト辞典』
参考ウェブサイト
沖縄県「平成26年度(繰越)沖縄振興特別推進市町村交付金事業成果一覧」(最終閲覧2022年8月8日)
https://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/shichoson/zaisei/ikkatu/documents/160826h26kurijigo.pdf
嘉納英明「沖縄の字公民館幼稚園を支える地域の教育自治に関する研究―研究成果報告書」KAKEN (最終閲覧2022年7月12日)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-16K04560/16K04560seika.pdf
国立国会図書館レファレンス協同データベース、2011年(最終閲覧2022年8月6日)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085455
南城市ホームページ「前川民間防空壕+前川樋川〔まえかわひーじゃー〕」(最終閲覧2022年8月8日)
https://www.city.nanjo.okinawa.jp/movie_library/movie_ja/1579046288/1579240168/
南城市ホームページ・ムラヤー利活用戦略「ムラヤー利活用戦略策定及びコミュニティビジネス調査業務 報告書」平成29年、86頁(最終閲覧2022年8月8日)
https://www.city.nanjo.okinawa.jp/shisei/keikaku/kakusyu/muraya/
文部科学省学制百年史「七 沖縄の教育」(最終閲覧2022年8月7日)
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317861.htm
琉球新報デジタル「粟石(あわいし)-琉球新報デジタル❘沖縄のニュース速報・情報サイト」(最終閲覧2022年7月3日)
https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-40159.html
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