なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

古写真からみる前川の農業と簡易水道の変遷

更新:

シェアする

古写真からみる前川の農業と簡易水道の変遷
クリックで画像を拡大できます

琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科
2022年度琉球民俗学野外実習(チームF)

はじめに

 本調査では、古写真にまつわる思い出やエピソードをお聞きし、南城市玉城村前川集落の1980年代以降の農業や簡易水道の変化、そして、それらが前川集落に与えた社会的影響を明らかにしたいと考えています。さらに、1985年5月19日に撮影された写真に映っている「昭和59年度 野菜産地総合整備対策事業」と前川の関わり、この事業による、農作物や水道の行きわたり方、社会関係にどのような変化があったのかについてもお話を伺いました。ここでは、社会的影響とは、地域社会のつながりや農作物の売買、農業組合などの経済・経営的な面を意味しています。

調査方法

・文献調査(南城市誌、玉城村誌、前川誌を中心に)
・聞き取り調査と往復書簡 
 調査協力者:知念信光さん(1952年生まれ)

前川の農業と農作物、簡易水道

1960年代以前の前川の農業

 前川では、1960年代まで稲作を主な生業でした。しかし、1963年の大干ばつにより、多くの農家が稲作からサトウキビ栽培へと移行しました。1960年頃までは集落一帯が田んぼで、みんな稲作をしていたそうです。サトウキビは干ばつに強いのですが、生長期には大量の水を必要とします。このため、かつて田んぼだった土地の土壌には水分が含まれていて、サトウキビがとても育ちやすい環境だったと言います。
 1960年代後半から1970年代までサトウキビや稲を育てながら、自分たちで食べる野菜などは家庭菜園などで栽培していました。その自給自足程度のおかずとして、養豚の餌と自分たちの食べる芋、大根、ニンジン、キャべツ、トマト、大豆、トウガン、ゴーヤーなどさまざまな野菜類を作っていました。お話を聞かせてくださった方によると、野菜を栽培して市場へ出荷するようになったのは1975年頃だったと振り返ります。特に大豆は豆腐やみそを作るために消費者の需要があり、那覇で売ることもあったそうです。そして売ったお金で、他の品物を買って帰ってきたそうです。
 聞き取り調査でお話を伺った知念さんに、次のように復帰前後の前川の暮らしとサトウキビの関わりについて語っていただきました。

「高校生だった(1965~70年頃)には、友だち2、3名とお年寄りだけで暮らしている農家の家で、サトウキビを畑から脇の道に出すアルバイトをしていた。1トンで大体5ドルくらい。もらったお金で映画館に行ったりして遊んだこともあった」

復帰(1972年)後の農業と年中行事とのかかわり

 生業として稲作が少なくなると、特に集落の年中行事に変化があるのではと思い、お話をお伺いしました。知念さんが小学校低学年だった1960年代前半には、稲を収穫した後、藁を集落から集めて綱を作り、村の年中行事として綱引きをしたそうです。稲作が行われ、綱引きがあった頃、各家庭から藁を集めるのは子どもたちの仕事でした。
 しかし、いつの間にか、その綱引きはなくなってしまったとのことです。知念さんは、ほとんどの農家が稲作からサトウキビへ転向したことで綱引きの綱を作れるほどの藁を集めることが難しくなったためではないかと考察していました。

 写真1. 畑(手前からイモ、ソングオブインディア、サトウキビ)

古写真の場所を訪ねてみた!

 写真2は、写真1の場所へ実際に足を運んでみた時の写真です。2022年7月現在の様子が写されています。写真2の畑の奥にあるのがサトウキビです。写真3の小さな植物はソングオブインディアという観葉植物です。この畑は前川に位置しますが、隣の集落である船越区の方が借りているそうです。この観葉植物は、船越区の人が栽培し出荷しています。前川では、観葉植物の栽培・出荷は行っていないと言います。写真4に映っている植物はドラセナで、「幸福の木」とも呼ばれています。

写真2. 現在の「写真1」の場所の様子(筆者撮影)
写真3. ソングオブインディア(筆者撮影)
写真4. ドラセナ、幸福の木(筆者撮影)

現在の前川の農業

 農林水産省のデータによると、現在南城市では豚・乳用牛・鶏卵などの畜産が盛んで、南城市の農業全体の生産額の約7割を占めています(図1)。その他には、野菜や果実、サトウキビをはじめとする、工芸や工業の原料とすることを目的に栽培される「工芸農作物」が含まれます。南城市において工芸農作物は農業産出額としては低いのですが、農業経営体数が最も多いことが特徴です。

図1. 農業産出額の内訳(令和2年度調査)
出典:農林水産省「沖縄県南城市の農業産出額内訳」

 また、玉城村はピーマンとレタスの指定産地[1]として認定されています。しかし前川のピーマンとレタスについて知念さんに伺ってみると、「前川ではピーマンは出荷用に生産しているがが、レタスの出荷用は少ないのではないか」とのことでした。現在は、それぞれの作物を個人個人で栽培し農協等へ出荷しているそうです。さらに前川では、出荷用に生産する農家が多く、その生産物にはインゲン豆、オクラ、冬瓜、カボチャ、キャベツ、ニンジン、トマト、ナーベーラー(ヘチマ)、マンゴー等があるそうです。さらに、自分たちで食べるための家庭用の作物も栽培している場合もあるそうです。このことから、現在は必ずしも国から指定されている野菜中心に育てているのではなく、複数の野菜類を栽培していることが分かります。

[1]指定産地とは、国が指定した指定野菜を毎年作る大規模な産地のことです。指定産地は890産地(令和3年5月7日現在)あります。指定野菜の価格が安くなった場合に、来年もその野菜を作ってくれるように指定産地の農家に安くなった分だけ支払う制度があります。指定野菜とは、野菜のうち特に消費量の多いと国が定めたもののことです。指定野菜は、キャベツ、きゅうり、里芋、大根、たまねぎ、トマト、なす、にんじん、ねぎ、白菜、ばれいしょ、ピーマン、ほうれんそう、レタスの14品目です[農林水産省 (https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0410/02.html)、最終閲覧:2022年7月21日]。

機械化・ビニールハウス

 戦後、沖縄ではトラクターなどの農業機械の導入が進み始めていました。前川では機械導入前は、家族や親戚、気の合う仲間などでグループを作り、協力して稲作も畑作もしていたそうです。また、前川の畑の土地はそれほど広くないため、大々的な機械化はなかなか進みませんでした。また、すべての人が機械を買えるわけではありませんでした。知念さんたちは、1977年頃に5、6名でさとうきび協同組合を作り、トラクター1台と2トンのバキュームカー1台、4トンのバキュームカー1台を買ったことがあったそうです。

 ビニールハウスについて、知念さんは次のようにお話してくれました。

「ビニールハウス建設の補助金は役場・役所に申請する。補助してくれるのは大体全額の80%くらいで、3~6名くらいのグループで共有して使う。申請が通るかどうかは、自己負担金がきちんと払えるかによる。あとは補助額が高く、たくさんのグループに補助を通すことができないため、申請するタイミングにもよる」

「2000万円くらいが自己負担になる為、グループで申請してグループで使うことがほとんど。1人でビニールハウスを使う人は見たことがない」

「ビニールハウスの補助金をもらうための申請書に、そこで何を作るのかも記入するため、ビニールハウスで作る作物の種類は決まっている。どのようなルールで決められているのかは分からないが、特にピーマン、オクラなどが多い。自己負担額の返済がある程度終わる頃、大体5年ほど経つと自由に作物を作れるようになる。しかし、その作物の市場価値は変わっていくので大変。安くなっていってしまうと、生計がたてられなくなるから」 

 ビニールハウス建設のメリットは、天候に左右されにくいことです。ビニールハウスの無い畑の場合、台風が来てしまうと作物に多くの被害が出ます。しかし、ビニールハウスなどの施設栽培であれば台風に強く、被害があまり出ないというメリットがあります。また、ビニールハウス内の温度調節が可能なため、野菜を本来の旬の時期と異なる季節に育てることができるのがよいと語ってくれました。台風などでビニールハウスが壊れてしまった場合は、「自分たちで修理する。保険に加入していれば、補助金が出る」とおっしゃいます。ただもちろんメリットだけではありません。補助金を申請した際に栽培種が固定されるため、価格変動に生計が左右されると言います。

前川の井戸

井戸や湧き水を利用していた時代
 前川村は、1736年、古島である糸数城跡の南側から現在地へ移動してきたと考えられています。知念さんによると、古島の土地には井戸は2つ、現在地の前川は3つ(アダニ井泉、新井泉、坂下井泉)ありました。1902年頃からは、前川は人口が増加し、3か所の井戸では水が足りなくなりました。このため、新たにメーガー・ヒージャーガー(図2)を使うようになりました。メーガー・ヒ―ジャーガーの湧水が豊富だったため、そこだけで飲料水を十分に確保することができました。これに伴い、以前から使用していた三つの井戸は農業用水として使用するようになりました。しかし、知念さんによると、新しく使うようになったメーガー・ヒ―ジャーガーは、集落から坂から約40m下ったところあったため不便だったと言います。

図2.メーガーヒージャーガー(中央の丸)

簡易水道の敷設
 終戦後の1946年、前川区の水道は糸数区下方にある前川字有地苗代御井泉から直径5センチほどのパイプを敷設する工事を行いました。この公共工事は、水道諸資材は米軍政府が提供し、労働力は区民が提供するという条件のもと行われました。当時を知る知念さんは、次のように語りました。

パイプで前川区の上の方に引っ張り、タンクに水を貯め、集落内にある8か所の簡易水道(図3)へとパイプで水を運びました。タンクのある場所では洗濯物をしたり、野菜を洗ったりしていました。簡易水道の下はため池で、水が溜まるようになっていました。ため池の水は、防火用水、馬の水浴びや農具を洗うことに使っていました。簡易水道から、生活用水を汲んで家に運ぶのは子供の仕事で、毎日学校帰りに棒の両端に一斗缶を吊り下げ、簡易水道と家を5、6往復していました。タンクと集落内の簡易水道をつなぐパイプはむき出しになっており、子どもたちがパイプの上を歩いて遊び、破れてしまうこともありました。その時には、近くの大人がタイヤのチューブを巻いて応急処置をしていました。(知念信光、1952年生まれ)

 図 3. 1946~1967年頃の前川区の簡易水道の様子(知念さんの証言より筆者作成)

 念願であった水道が戦後初めて前川に設備され、区民は喜んでいましたが、1958年、糸数区との間で水問題が起こりました。昔から前川区の人々にとって苗代田や飲料水の水源地として所有していた土地が、いつの間にか糸数区の所有地となっていたのです(『玉城村前川誌』によると、所有権簿に糸数区の所有地であると記載されていたという)[2]。そして、前川区は水道使用料金を求められたと言います。前川区には水源地の水の使用権があると、糸数区と前川区は話合いを持ちました。しかし前川では水道パイプも老朽化していました。このため、安定した水の確保を求めて、前川の水源池開発を開発するため、1960年代初め頃に水源池調査が区民常会で審議されました。

[2]戦後まもない頃、土地整理が何度か行われ、その度に自分の土地台帳を閲覧して、その確認を怠った場合、申請人が故意に他人の土地を自分のものとして申請したら、申請人の所有になりうる時代でした(玉城村前川誌編集委員会、1986『玉城村前川誌』67頁より)。

生活用水が各家庭へ
 1966年、前川区民常会では、地下水汲み上げ式の打ち込みボーリング計画案が出され、審議の後(玉城)村当局に申請されました。その結果、1,500ドル(当時はドルを使用)の予算が計上され、同年6月に前川区の西側にある池(シバクムイ)広場にて、第1号ボーリング打ち込み工事が開始されました。その1か月後に工事は完成しましたが、地下水の量が少なく取りやめとなりました。そして、現在の馬場運動場(農村公園)(写真5)の西側で第二号ボーリング打ち込み工事が開始されました。工事は10月に完成しました。地下水が予想以上に豊富で、水質もよく飲料水としての検査にも合格したといいます。
 1967年2月、区長は水道工事委員会を設置し、3月には工事申請書を玉城村長に提出しました。しかし、当時の予算制度上、前川区の人口(約1,100人余り)では区民の負担金が大きいことが分かりました。なにか良い方法はないか、前川区工事委員会にて意見を出し合ったところ、前川区では一度も弁務官資金[3]を受けておらず、この資金が受けられる可能性が充分にあることがわかりました。その後、一部の区民から反対が出たため、緊急区民大会を開催しました。区民に対して経緯を説明し、集会者全員が弁務官資金を受け入れ、水道工事を着工するよう決議をしたといいます。その決議案を、玉城村長と立法院議員に提出し、協力をお願いしたところ、1967年8月30,000ドルの弁務官資金の提供が決定されました。同年11月に工事が開始し、1968年末頃には水道工事が完了しました。この工事により、生活用水が各家庭に豊富に行きわたるようになりました。その完成祝いは、集落で盛大に挙行されたといいます。さらに1978年には、飲料水の水道工事が玉城村水道課によって始められ、1979年3月に完了しました。この工事により、弁務官資金によって整備された前川水道は飲料水としての使用を中止します。今日では、その用水は家畜や洗濯用水、屋敷内野菜の灌漑に利用されています。

[3]弁務官資金とは、米軍統治下の沖縄で、最高責任者である高等弁務官が、その裁量で決定した。主に集落の道路や水道施設の整備、公民館建設などに充てられた。

第2号ボーリング打ち込み工事が行われた馬場運動場(1991年頃撮影)

おわりに

 今回、前川の農業と簡易水道の変遷について調査してみると、地域社会のつながりや協力があったこと、そしてそのつながりがとても大切であったことが分かりました。特にビニールハウス建設の申請やサトウキビ協同組合をつくってトラクターを購入したこと、サトウキビのアルバイトのお話がとても印象的でした。これらのお話から前川区の地域のつながりを強く感じ、農業や水道などの私たちの生活に欠かせないものは人々のつながりや協力がとても重要なのだと考えさせられました。今回の調査を行う前までは、農作物や農協に関する統計などが主で、あまり詳しい情報を得ることができませんでしたが、インタビューを行うことで、南城市誌や玉城村誌には載っていない地域の人々しか知らないお話までも知ることができ、とても面白かったです。私の住んでいる地元についても祖母などから色々話を聞いてみたいと思います。とても良いきっかけになりました。(A子)

 簡易水道の変遷についても、当時を知っている地元の方に聞き取り調査を行うことでしか知ることができないようなお話をたくさん聞かせていただきました。特に、1946~1967年頃の簡易水道の様子を、現在の前川区の地図に落とし込めたことが、私自身とても嬉しかったです。水道と前川区の人々の関わりについてのお話を聞く中で、「子どもがタンクと簡易水道を結ぶパイプの上を歩いたり跳ねたりして、パイプが破れることもあった」というお話がありました。それまでは少し遠い昔の話を聞いているような感じがしていましたが、この話を聞いて、今も昔もそんなに変わらないなと感じることができました。また、知念さんが私たちに農業や簡易水道について、昨日の話をするように詳細に話してくださったことからも、どれだけ農業や水道が前川区の人々の生活に密接に関わっていたのか感じることができました。さらに、私が将来沖縄や地元のことをインタビューされたとき、知念さんのように話すことができるだろうかと考えるきっかけも頂けました。
はじめに「昭和59年度の野菜産地総合整備対策事業と前川の関わりを明らかにする」ことを調査目的としてあげていましたが、これは前川区の事業ではなかったことが分かりました。メンバーの一人がこの事業にとても関心を寄せていたので少し残念な気持ちになりましたが、今回の調査を通して前川の事業ではないと知ることも大きな発見なのだと学ぶことができました。(B子)

 協力してくださった知念信光さん、前川区の皆さん、本当にありがとうございました。今回の調査が「なんじょうデジタルアーカイブ」を通して次の世代の方へ伝わると嬉しいです。

参考資料

沖縄県公文書館「あの日の沖縄」(https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4883)最終閲覧:2022年7月21日.
金城繁正編(1977)『玉城村誌』玉城村役場.
米浪信男(2021)「サトウキビ栽培の適地」農畜産業振興機構 調査情報部(https://www.alic.go.jp/content/001189863.pdf) 最終閲覧日:2022年8月1日.
・玉城村前川誌編集委員会(1986)『玉城村前川誌』
那覇事務所 大塚健太郎、小木曽貴季(2020)「特集:高齢化や人口減少などに伴う労働力問題への対応に向けて『沖縄本島南部における作業受託の若き担い手「農業生産法人有限会社大農ファーム」の取り組み』農畜産業振興機構 調査情報部 
(https://www.alic.go.jp/content/001174348.pdf)最終閲覧:2022年6月12日.
南城市役所「耕作関係」(https://www.city.nanjo.okinawa.jp/jigyosha/nougyoushinkou/1579517374/)最終閲覧:2022年7月21日.
南城市史編集委員会(2010)『南城市史 総合版(通史)』南城市教育委員会
農林水産省 (http://www.machimura.maff.go.jp/machi/contents/47/215/index.html)最終閲覧:2022年7月21日.

ほかのレポートはこちら

デジタルアーカイブを活用した大学教育プログラム
A班「南城市前川のお墓と門中のこと」
B班「芸能のまち前川の今」
C班「古写真の謎を追って 前川年中行事・250周年記念式典」
D班「前川婦人会における地域交流」
E班「前川の公民館ってどんなところ?」