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南城市前川のお墓と門中のこと

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南城市前川のお墓と門中のこと
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琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科
2022年度琉球民俗学野外調査 チームA(トクナガ・タムラ)

1.はじめに

 沖縄の独特な文化といえば、あなたはどのようなものを思い浮かべますか。この文を書いている私は、沖縄県外出身です。このため、私は首里城や勝連グスクなどのお城、沖縄そばやチャンプルー料理などの沖縄料理、きれいな青い海とサンゴ礁と言った、観光資源になっているものを思い浮かべます。これを読んでいる皆さんも、同じものを思い浮かべたかもしれませんね。しかし地味ながらも、というよりも身近であるがゆえにあまり目立たない沖縄独特の文化があります。それが今回のテーマである「お墓と門中」です。
 沖縄のお墓は他府県に比べて、とても大きいのが特徴です。琉球王国時代やそれ以前に作られたお墓は特に「古墓」と呼ばれます。古墓には、自然の洞穴や岩陰を利用した「洞穴墓」や「岩陰墓」、崖などを掘り込んで作った「掘込墓」、掘込墓から発展したと考えられている家の屋根のような装飾をした「破風墓」、その見た目が亀の甲羅のようであることからその名がついた「亀甲墓」があります。

写真1. 岩陰墓(運天古墓群百按司墓群第3号墓所・今帰仁村)
筆者撮影
写真2. 掘込墓(島添大里按司の墓・南城市)
写真3. 破風墓(佐敷ようどれ・南城市)


 そして、「門中」とは、始祖を共通とする父方の血縁をたどる父系出自集団のことです。門中制度は、17世紀頃の近世琉球において士族層による家譜編纂を機に成立したと言われています。その後、門中制度は農村社会においても模倣され、沖縄島中南部を中心に各地に広がっていきました。門中では、祖先とのつながりを大切にし、この門中単位で清明祭などの祖先祭祀を行います。門中ごとに行う祭祀が異なることもあります。

写真4.亀甲墓(銘苅古墓群伊是名御殿墓・那覇市)
筆者撮影

2.前川の門中とお墓

 今回、私たちは前川集落には、どのような門中やお墓があるのか、そして、どのような行事を行っているのかを調査しました。このレポート記事では、調査に協力して頂いた知念國雄さんの所属する「大城門中」を中心に紹介します。
 南城市字前川集落は、かつて糸数グスク(南城市玉城糸数)の南側にありましたが、1736年に現在の位置に移りました[1]。前川には、「内間門中」「大城門中」「門中」と呼ばれる3つの大きな門中があります。この3つの門中は前川集落が現在の場所に移ってきた時からあると言われています。

[1] 球陽研究會『球陽 原文編』313頁(十三巻1034段).

3.大城門中の歴史

 調査に協力くださった知念さんが所属する「大城門中」は、前川集落が糸数グスク南側にあった時代に、今の南城市大里大城にある屋号泊である「元祖大城」から分家したと言われています。この大里にある屋号泊の家は、今の中城村字泊にある屋号「大屋」からの分家と言われています。大城門中の元祖大城には男子がなかったため、今の南城市玉城富里にあった屋号「世利」から養子を迎ました。その子孫がさらに分家し、現在の「大城門中」に至ると言います。知念さんの所属する「大城門中」大元である、中城村泊の屋号「大屋」は、中城グスクを居城としていた先中城按司(中城の領主)の子孫と言われています。
 大城門中で編纂した『第一尚氏 大城門中』という家系図には、家族の物語が刻まれています。この家系図は、沖縄戦の戦火で失ったものを戦後に再編纂されました。この家系図によると、中城村字泊にある屋号「大屋」である中城按司家は、その4代目の時に第一尚氏王統第6代目の王・尚泰久の命で護佐丸が中城へ入ることになったために、糸満に移り、真栄里グスク(糸満市真栄里)を築いたと言われています。また迎えた養子の元家である富里の屋号世利は、尚泰久王につながるとも伝わっています。

 知念さんに見せていただいた家系図の中に、「ある人(名前は伏せる)が明治元年頃、御墓の敷地を開墾してあるのを当時の地頭役人に見付けられて島流しを命じられた」という興味深いエピソードがありました。お墓の敷地を開墾した人が島流しにあったとあるのです。知念さんにその経緯を伺いましたが、「詳しくはわからない」とのことでした。

図1 大城門中関係図(聞き取り調査をもとに筆者作成)

4.大城門中のお墓

 大城門中のお墓は、公民館である「前川むらやー」から東に200mほど行ったところにあります。門中墓は、亀甲墓2基と破風墓1基の計3基で構成されており、西側から破風墓、亀甲墓(小)、亀甲墓(大)の順に並んでいます。亀甲墓(大)が今も使用されている墓で、墓庭前に「明治十五年十月廿二日改築」(1882年10月22日)の石碑が立っています。知念さんは、これまで2度中に入ったことがあるとのことです。中には厨子甕が収められていたそうです。厨子甕とは、お骨を納めるための焼物や石製の甕です。とても大きい骨壷だと考えてください。かつて沖縄では、火葬ではなく、遺体を野ざらしあるいは棺ごとお墓に納め、骨だけになるまで待つという「風葬」を行なっていました。風葬後に洗骨を行い、遺骨を厨子甕に納めました。下の図5は知念さんに、記憶を手繰り寄せながら、お墓の内部について図にして頂いたものです。知念さんによると、前川集落の葬送は5、60年前にはすでに火葬だったとのことです。このため、知念さんは洗骨を行っているのは見たことがないそうです。分家元である大里大城の門中墓は、近年のバイパス建設の際に立退がなされましたが、内部調査は行われなかったそうです。

写真6. 大城門中墓 亀甲墓(大)
筆者撮影
写真7. 大城門中墓 亀甲墓(小)
筆者撮影
写真8 大城門中墓 破風墓
筆者撮影
図2 大城門中墓内部の図(知念さん作成)

5.大城門中の門中行事

 大城門中では、一年の中で主な年中行事は7つあります。その中でも一番人が集まるのは旧暦6月15日(今年は7月13日)に行う「6月ウマチー」(6月御参り)です。この行事は、前川と(前川が現在の場所に移ったときの最初の家)、養子をもらった元の家である世利門中、分家元である大里大城の新地御神屋といった前川・大城門中のルーツといえる場所へ拝みに行く行事です。現在は門中に属する30から40名ほどが参加するそうです。前川からは、もちろん那覇や読谷からの参加者もいます。知念さんが子供であった5〜60年前には、100名ほどが参加する大きな行事だったそうです。もちろん、清明祭も行います。大城門中では清明祭を「」と呼び、調査を行った2022年は4月2日に行っていたそうです。「神御清明」では大城門中墓、泊(中城村)、護佐丸の墓(中城村)、中城城内の墓2ヶ所(中城村)、尚巴志の墓(読谷村)など、大城門中とその形成に関わった家・人物の墓に参る行事です。現在では、この行事を含め、「6月ウマチー」以外の6つの大きな行事は大城門中会の役員6名のみで回るといいます。これは参る場所が、前川集落だけではなく、中城村や読谷村など広範囲に及ぶため、負担がかかるからだと考えられます。
 門中の「役員」とは、会長1名、副会長1名、会計2名、会費徴収などの業務役2名の計6名で構成されています。現在、大城門中の「門中会」に属している世帯は90世帯ほどとのことです。聞き取り調査によると、大城門中では各世帯から年会費3000円を徴収していますが、これは年中行事で用意する重箱や各所への寄進、墓掃除などの門中行事に係る費用、墓の維持費に当てているそうです。
 知念さんの記憶によると、前川集落では、遺体を集落からお墓まで運んだ神輿のような「龕(がん)」に、前川の年長者を存命中に乗せて集落を歩くという年中行事がありました。知念さんはその光景を見たわけではないそうですが、その年中行事を行った年長者は、知念さんが子供の頃にはまだご存命であったそうです。しかし知念さんが子供の頃には、すでに龕とそれを納めるは朽ち果てていたそうです。そのため、子供だった知念さんは近づくのも怖かったそうです。

写真9.「龕屋之跡」の石碑

6.おわりに―感想

 沖縄のお墓や門中に関しては多くの研究者や沖縄県、各市町村で調査が行われ、報告書や書籍でまとめられています。それらを読むことでお墓や門中に対する理解はかなり深まると思います。しかし一部地域に調査対象を絞ることで本や資料を読むだけでは分からないこと、今回の例では大城門中の最大の行事は清明祭ではなく6月ウマチーであること、集落の年長者が存命中に龕に乗るという本来の用途とは異なる龕の使用法など体験者や当事者、地域の住民の方ではないと分からないことを知る事ができました。また門中行事などの昔から行ってきた行事は人口が減少していることや現在の新型ウイルスの流行などで中断することで廃れてしまう可能性があります。伝統行事を途絶えさせないようにこの文を読んでくださった方々には自分が住んでいる地域や所属している門中のことを知り合いや親戚の方に聞くなどして学んでいただけるきっかけになってほしいと思っております。南城市にお住まいの方や南城市の文化財や地域行事などに興味のある方は南城市教育委員会文化課が制作している「なんじょうデジタルアーカイブ」をぜひ覗いてみてください!(トクナガ)

今回、このお墓や門中というテーマについて学ぼうと思ったきっかけはシンプルに「門中ってなんだろう」という疑問を抱いたことでした。私は内地出身である上に、このような分野について学ぶ学部には所属していません。普段は理系の学部で学んでいます。ですが、せっかくなら沖縄について知りたいと思い講義を取り、その中で「門中」という言葉になぜか惹かれました。言葉の意味は簡単に言えば親戚のようなものでした。けれど、地元ではあまり見ることができない(見ることができなくなった)形の血縁集団の在り方だと思いました。それはとても興味深いものであり、それぞれの地域でそれぞれの在り方があるのだろうと思わせられ、さらに興味深く感じさせられるものでした。今回の機会を通して、沖縄独特の門中やお墓について知ることができたことはもちろんのことですが、まだまだ知らない沖縄について知っていきたいと感じさせられるとても良い機会でした。沖縄は、言葉では上手く言い表せないですが、いい意味で「日本であり日本でない」そう感じる部分があります。それは、このような文化や歴史からきているのでは無いでしょうか。これらについて学ぶこと、少しでも沖縄の気になったことについて知る機会を私のような普段関わりがあまり無い人だけでなく、あまり沖縄を知らないかもと思ったり、少しでも興味を持ったりした沖縄出身の皆さんにも是非、体験し、語り継いでもらいたいと思いました。(タムラ)

参考文献・サイト

沖縄県教育庁文化財課史料編集班 2020『沖縄県史 各論編 第九巻 民俗』沖縄県教育委員会.
沖縄県中城村教育委員会 2014 『中城村 戦前の集落 Series1泊』沖縄県中城村教育委員会.
喜舎場一隆編 2000『琉球・尚氏のすべて』新人物往来社.
球陽研究會 1974『球陽 原文編』球陽研究會.
金城繁正 1977 『玉城村誌』玉城村役場.
玉城村前川誌編集委員会 1986『前川誌』玉城村前川誌編集委員会.
今帰仁村教育委員会 2013『今帰仁村文化財調査報告書第33集 運天古墓群Ⅰ村内遺跡発掘調査報告書』今帰仁村教育委員会 .

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