琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科
2022年度琉球民俗学野外実習(チームC)
はじめに
ここは沖縄県南城市前川区。伝統的な集落形態が残る景観が特徴です。前川の人びとの憩いの場である公民館や伝統的な石積みの屋敷囲い、集落の高台にある「お宮」と呼ばれる知念殿。前川の人々は集落とどのように関わりながら生活してきたのでしょうか。古写真を通して、集落と人びとの関わりについてみていきたいと思います。
あれ?この写真、一体何の写真でしょう?
人々が集まっています。旗が見えますね。何かの行事でしょうか。
どうやらこの写真は、1986年に撮影されたようです。
行事の様子のようです。沢山の人が写真に映っていますが、誰がこの行事を運営しているのでしょうか。人々はどんな思いで、この行事に参加しているのでしょうか。
この古写真は多くの謎を秘めています。私達と一緒に、この写真の謎を解き明かしましょう。
写真が撮られた1986年には、どのような行事が前川で行われているのでしょうか。まずは、前川集落の年中行事を見ていきましょう!
◆その前に…1986年ってどんな年?
1986(昭和61)年は、バブル景気が始まった年だと言われています。人々の生活がとても豊かになった時期です。沖縄復帰から14年が経ち、「沖縄振興開発計画」のもと、他府県との経済格差是正や、社会資本の整備や観光産業などの自立的経済の確立を目指し、沖縄の社会経済は大きく変化しました。「本土並み」の生活へと激動する一方で、「沖縄大百科事典」や「歩く・みる・考える沖縄」など、沖縄の文化や歴史を考える書籍が多く発刊された時期でもありました[1]。
[1]沖縄タイムスプラス『充実期の1980年代、おきなわキーワードコラムブックと沖縄大百科事典~沖縄県産本のあゆみ(4)』
◆年中行事って何?
年中行事とは、1年間で特定の時期に行われる行事のことです。日本全体で見ると、1月には初詣をし、7月には七夕をしますね。民俗学では、このように一年の中の折々で行う行事を「年中行事」といいます。沖縄ではそのほとんどが旧暦で行われます。前川ではどのような行事が行われていたのか、見てみましょう。次の表は、『玉城村字前川誌』(1986)を元に、1980年代の前川の年中行事を整理したものです。
この表からも分かるように、1980年代には多くの年中行事が行われていたようですね。しかし、この表には写真に撮られている行事がないようです。ということは、この行事は年中行事ではなく、特別な行事だったのでしょうか。
おや、どうやら写真が増えているようです。写真をもう1度、見てみましょう。
古写真が映すものを追って ~250周年記念式典~
これは1986年に前川で撮影された写真です。道の開けたところに、旗を持った人達が集まっています。彼らは一体何をしているのでしょうか?
旗を持った人々の後に、とても長い行列が続いています。どうやら前川の高台にあるお宮を目指しているようです。後を追ってみましょう。
お宮の前に沢山の人々が集まっています。どうやら「250周年記念式典」が行われているようです。いったいどんな行事なのでしょうか?詳しく見てみましょう。
お宮の前の広場に、老若男女問わず、前川区の人々が集まっています。
250周年記念式典って何?
250周年記念式典とは、前川集落が糸数区の古島(前川村の発祥の地。農耕を営みながら約150年間住んだと伝えられている)[2]から移住して、250周年となることと、前川誌を発刊した記念の行事でした。前川誌と玉城村誌には、次のような記述があります。
糸数城の南麓の嶺地でおよそ69年間、玉城間切前川村は発展し続けた。しかし、土地が狭く、村としての活動に限界があったので、王府に請願して玉城間切前川村を、当時の仲千原(原本字地)に尚敬王24年(1736)に移動を実施され、それ以来250周年を迎えることになった。
玉城村前川誌編集委員会『玉城村前川誌』,1986年,133頁.
現在の前川部落に初めて移住した人は、今から約二百七十年前識名村より移った山川堂神谷親雲上であったようで、当時前川は糸数城跡の南西方にあったが、(俗称山川堂)、その後現在地に移動し、大部落を形成したようである。
金城繁正編「字前川」『玉城村誌』,玉城村出版,755頁.
つまり、かつて前川村は糸数にありましたが、土地が狭いため、現在の場所に村を移しました。この移動から250年を迎えた記念として、1986(昭和61)年11月3日に「250周年記念式典」が行われました。
では、この記念式典は、どのような人がリーダーとなって関わっていたのでしょうか。さらに、地域の人々はどのように関わってきたのでしょうか?古写真をもとに、この式典と人々との関わりについて聞き取り調査を行いました。
[2]玉城村前川誌編集委員会『玉城村字前川誌』,1986年,26頁.
行事の主体となる地域の人々
「250周年記念式典」の準備に向けて、当時の区長が先頭に立って、式典の1年前から計画し、青年会や婦人会、老人会の役割を決めていきました。
1.スーマチをする人々
お宮の前で行ったのはスーマチと呼ばれる前川独特の団体で行う棒を用いた踊りです。式典の2か月程前から練習が始まりました。練習は、仕事が終わった夜8時頃から始まり、夜中の12時まで続くこともありました。練習が終わった後に飲み会となると、解散は明け方頃…、ということもあったそうです。練習は、ほぼ毎日行っていました。動作を覚えてきたら練習は一日起きなど、練習日程を調整したといいます。スーマチの「出来」は、師匠となる教える人の腕にかかっていました。練習場所は、師匠の家や公民館でした。お話を伺った方によると、最初は覚えるのが大変だったそうですが、「人が集まってワイワイするから、集まるのが楽しみ」だったそうです。
2.女性(婦人会)
子どもたちの衣装の着付けをしたり、化粧の手伝いなどをしたりしていました。
3.子どもたち
演目「長者の大主」には子供役が登場します。衣装を着た子供たちが出演しました。
4.祭りの道具の用意
祭りで使う小道具は、集落の得意な人が作りました。衣装は集落の人から借りたり、那覇のまちぐゎー(市場)で買うこともありました。
5.その他
演目の役割がない地域の人々は見物をしました。スーマチは練習期間が長かったこともあって、圧巻な演舞となりました。当日は、大盛り上がりだったといいます。
6.ビデオ(記録)係
1986年当時、ビデオカメラはまだ一般家庭では珍しいものでした。そんなビデオカメラを持って、祭りを撮影する人がいました。ビデオ係です。この時、ビデオ係をしていた知念さんは、元々子どもたちの成長を家庭用に記録するためにビデオ撮影をしていました。しかし、式典の際、行事を映すように頼まれたそうです。知念さんは踊りが出来ないため、ビデオで撮影することで250周年記念式典に参加することができたと振り返ります。知念さんは、「踊りの集団の動きと人物を後世に残そう」と撮影に集中していたと語ります。今では他界した人も写っており、動画が残って良かったと思っていると言います。
写真から、集落の歴史を盛大に祝う、地域の人々が団結した行事だったことがわかります。少しずつ。古写真の謎が解けてきました。では、現在の前川では、年中行事はどのように実施されているのでしょうか。
現在の前川の年中行事
次の表は、2022年現在の前川集落の年中行事です。
集落で行う年中行事が、1986年に比べて随分と少なくなっていますね。特に、1年を締めくくる行事が簡素化しているようです。前川ではコロナ禍の影響を受け、多人数が参加する年中行事や区全体で行う交流行事などは中止しています。村落儀礼などは、公民館を運営する役員など少人数に限って実施しています。
年中行事の現状
前川の年中行事として、250周年記念式典が開催された1980年代にはカジマヤー祝や生年祝などを行ってきました。しかし、現在は、その多くの年中行事は行われていません。カジマヤー祝は、最近では以前のように集落全体でお祝いをするのではなく、ホテルなどで親戚のみで行われることもあるそうです。お話を聞かせてくれた方によると、公民館で行った生年合同祝いは1980年代が最後だったとのことです。いつが最後の生年合同祝いだったのか思い出せないほど、最近では行われていないそうです。
これから
現在は踊りの後継者がいないため、スーマチは1986年の250周年記念式典以後演じられていません。2036年には、前川が現在の場所に移動して300年になりますが、お話を聞かせてくださった区長さんは、300周年記念式典については、踊りの継承不足を危惧しながらも、「(集落のみんなの)話が盛り上がったらやりたい」とおっしゃっています。そして、私たちに次のように地域の文化を継承する思いを語りました。
「元気なうちに、踊りなどをビデオに残したかったが、あまりできなかった。現在は今までのビデオを見て思い出して作業をしていく。趣味などでこういった行事を撮る人がもっといればさらに色々な情報を継承できたはず」
「集落の人が集まる価値は、団結が高まることにある。ゆいまーるやコミュニケーションを図りながら行事だけでもやっていきたい。前川は集落を出ていく人が多く、現代は娯楽があり過ぎて、若い人たちの地域への関心がなくなってきている」
終わりに
この調査を通して、年中行事と古写真にまつわるエピソードを、以上のように聞くことができました。1986年に開催された「250周年記念式典」では、区長らを筆頭に区民のほとんどが関わって運営していました。そして、当時の地域と人々は密接にかかわっていたことが分かりました。
そして当時、この式典に参加していた方へのインタビューから、写真だけでは分からない演目の練習期間から行事への情熱、写真に写っている「地域の団結」という価値、ビデオが回されていた意図などを伺うことができました。
前川の人々と集落の年中行事との関わりは、今でも受け継がれています。しかし、コロナ禍の影響を受けて、その多くは現在では公民館を運営する役員によって少人数で行われています。このような災厄の他にも、前川は後継者不足などから、年中行事や芸能などの文化継承の危機に直面しています。今後、どのようこの地域課題を乗り越えていくのか、地域が一丸となって取り組む必要がありそうです。
感想
今回の古写真調査では、写真だけでは知りえなかった当時の状況やその背景を知ることができました。写真というと現在ではとても身近にあるために、その価値や意味が薄れているように感じます。しかし、今回調査したような歴史を持つ写真には撮られた意味が必ずあり、その当時を生きた人々の思いに触れるきっかけになってくれる存在だと気付かされました。また、前川の250周年記念式典のことを調べていく中で、当時と現在の地域の比較に目を向けることになり、変遷していく文化や伝統、そしてその継承の問題についても考えさせられました。やはり当時と比べてしまうとその変化への寂しさに焦点が向けられがちです。ですが、私は前川に変わらず今も存在する「地縁」という関係性はとても羨ましく、素敵な文化だと感じました。ご協力いただいた全ての方に感謝したいです(タマ)。
今回の古写真調査で、行事から地域と人々との関わり方を明らかにすることができたと思います。古写真に映る250周年記念式典には地域の人々全員が主体となって祭りを運営していたことが分かりました。年中行事には地域の人々が一丸となって運営していく行事は、表1を見るにあまりないように思います。運営の形態からも特別な行事であったのでは、と調査を通じて考えさせられました。現在の前川についてもお話を聞かせてもらいましたが、「集落の人が集まる価値は団結が高まることにある。」とおっしゃられていたことがすごく印象に残りました。集落の人々が集まることの価値をそのように思っていらっしゃることは、地域への思いがすごく強いことの表れだと考えます。調査にご協力いただいた全ての方に、ここで感謝申し上げます(ウーパールーパー)。
今回の調査で、写真だけでは分かりにくい当時の様子を知ることができました。250周年記念式典は年中行事ではないものの、区長を中心として地域の人々が役割を分担し、地域全体で取り組まれていました。記念式典で用いる小道具は得意な人が作り、演目の練習後に飲み会をすることもあったとありましたが、ここに地域の人のつながりが強く表れていると思います。本番に向けてお互いに協力・交流しながら準備を進め、行事が区長などの一部の人たちだけでなく、区民が主体となって行われていたことは、この行事が行われるきっかけとなった前川村の移動が、現在の前川の人々にとって、歴史ある特別なものであるからだと考えます(ウエ)。
参考文献
沖縄タイムスプラス『充実期の1980年代、おきなわキーワードコラムブックと沖縄大百科事典~沖縄県産本のあゆみ(4)』
URL: https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/50088 (最終閲覧日:2022/07/31)
玉城村前川誌編集委員会『玉城村字前川誌』1986年
金城繁正『玉城村誌』玉城村役場、昭和52年
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デジタルアーカイブを活用した大学教育プログラム
A班「南城市前川のお墓と門中のこと」
B班「芸能のまち前川の今」
D班「前川婦人会における地域交流」
E班「前川の公民館ってどんなところ?」
F班「古写真からみる前川の農業と簡易水道の変遷」