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【地域行事の”いま”】③久手堅と知名のヌーバレー

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【地域行事の”いま”】③久手堅と知名のヌーバレー
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1.ヌーバレーとは?

 旧盆最終日(ウークイ)の翌日にあたる旧暦7月16日、南城市の一部ではヌーバレーという行事がおこなわれます。この行事は、ウークイの日に帰ることのできなかった霊(無縁仏)を慰め、あの世へ送り返すためのものです。旧知念村の郷土史家・新垣源勇は、ヌーバレーの”ヌー”とは、サンゴ礁の浅瀬(礁池。イノーという)から外海への出入り口を指し、そこから村の厄災を追い出す(払う=バレー)のが、ヌーバレーという行事名の由来であると述べています[新垣 1983]。

 沖縄のなかでも、”ヌーバレー”という名称で呼ばれる行事のほとんどは、南城市に集中して分布しています。南城市教育委員会の『南城市の御嶽』(2018)には、市内の年中祭祀一覧表が区ごとに掲載されています。それによると、12カ所の区に”ヌーバレー”あるいは”ヌーバレー御願”という行事を確認することができます。その内訳は、佐敷エリアが4カ所(津波古、新里、屋比久、外間)、知念エリアが5カ所(久手堅、安座真、知名、海野、久原)、大里エリアが3カ所(西原、古堅、真境名)※1で、玉城エリアには該当するものがありませんでした。これら12カ所における行事の内容は、区長が祈願をおこなうだけの簡素なものから、ステージを組んで盛大に芸能を披露するものまで、多岐にわたります。また、古式エイサーを奉納する手登根の「ウークイ」のように、ヌーバレーという名称はついていないものの、旧暦7月16日に類似した行事が行われている例もあります。南城市以外でも、獅子舞や舞踊、棒術などが披露される八重山諸島のイタシキバラ(イタツキバラ)など、ヌーバレーと同じような意味合いをもつ行事が行われています。

 ヌーバレーにおける大きな目玉のひとつは、地域の人々が披露する組踊やエイサー、舞踊といった多彩な芸能です。今回はコロナ禍の2022年に行われた、久手堅と知名におけるヌーバレーの様子をレポートします。

▶当日の様子をまとめた映像はこちら
▶あらたに公開したヌーバレー関連写真(久手堅・知名・安座真)はこちら

安座真のヌーバレーに登場したミルク(弥勒)。撮影時期不明。

2.久手堅のヌーバレー

 久手堅は、沖縄有数の観光地でもある「斎場御嶽」が立地する区です。久手堅の集落は、「斎場御嶽」の入り口から徒歩で5分ほどの距離にあり、2022年8月末の人口は320人、世帯数は149世帯となっています。
 例年、久手堅のヌーバレーでは公民館前にステージを設営し、さまざまな芸能が披露されます。母子の再会を描いた組踊「鏡の割」を筆頭とする久手堅の芸能は、2016年1月に東京の国立劇場で開催された民俗芸能公演にも招かれるなど、高い評価を得ています。
 2020年以降、久手堅では新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、ヌーバレーの舞台芸能をすべて取り止めてきました。本年度のヌーバレーでも舞台芸能は中止し、旗スガシーと舞踊「かぎやで風」の奉納だけを執り行うことになりました。

公民館前のステージ(2016年のヌーバレー)
ステージ横の地謡席(2015年のヌーバレー)

 ウークイ翌日にあたる8月13日(旧暦7月16日)の朝9時すぎ、地元の男性たち10名ほどが公民館に集合しました。一行はシム(下茂)という神屋に移動して、準備にとりかかります。シムは、久手堅における旧家のひとつであり、無人の建物内には神棚が設置されています。区長が線香と酒を供えて拝んだのち、神棚下から衣類ケースを取り出します。このなかには、歴代の衣装や舞台幕などが収納されており、それらを一枚ずつ塀に掛けて干していきます。この作業と同時に、シムの前では旗頭の準備も進められます。「祈 平和」「招 豊年」と書かれた旗や飾りをつけ終えると、シムの門に旗頭を立てます。ここまでの作業を終えると、集まった人々はいったん解散しました。
 強烈な日差しが降り注ぐ午後3時すぎ、地元の方々が再び集まり、奉納舞踊の準備をはじめました。4時ころ、踊り手や地謡らがシムに到着し、神棚に向かって「かぎやで風」を奉納しました。シムでの奉納が終わると、一行は50mほど離れた當間殿へ移動します。當間殿は、コンクリート製の小さな拝殿で、その背後には集落を加護する神の鎮座する、ヒャーという小高い森がひろがっています[知念村文化協会学術部(編) 2006: 156-157]。
 拝殿前の広場にビニールシートを敷き、そこで「かぎやで風」を再び奉納したあとは、国道沿いにある戦没者の慰霊塔を参拝して日程は終了しました。例年のように、大勢の見物客が集まることもなく、今年のヌーバレーは静かに執り行われました。

シムの門に旗頭を立てる(2022年のヌーバレー)
當間殿での「かぎやで風」の奉納(2022年のヌーバレー)

3.知名のヌーバレー

 久手堅から車で5分ほどの距離にある知名でも、同じく8月13日にヌーバレーが実施されました。標高約160mのスクナ森を背に広がる知名の集落には、ドーム型の覆いが特徴的な井泉「知名御川」や、久高島に渡る琉球国王が航海安全を祈願した「テダ御川」など、東御廻り(あがりうまーい)※2の巡礼地としても知られる文化財が点在しています。
 2022年8月末における知名の人口は653人、世帯数は279世帯となっています。知名のヌーバレーは200年以上の歴史をもつと伝えられており、市内有数の規模で行われます。知名区の資料によると、昭和4年(1929年)に船溜まりと水道タンクの完成を祝い、3日間にわたり開催された「ヌーバレー大遊び」には、わざわざ船をチャーターして、本島中部から見物に来る人たちもいたそうです。もともと、ヌーバレーの舞台に立つのは男性のみでしたが、兵役などで男性が不足するようになったため、昭和16年(1941年)より女性の出演も認められるようになりました[知名ヌーバレー保存会(編) 2013]。
 例年、知名のヌーバレーでは午後3時ころから、「長者」を先頭に集落を練り歩く道ジュネーが行われます。一行は、数カ所で芸能を奉納しながら巡行し、農村公園へと向かいます。舞台芸能が行われる農村公園は、アシビナー(遊び庭)ともよばれ、ステージの正面には傾斜を利用した観客席が設けられています。観客席の上には久高島への遥拝所があり、海を一望することができまます。ここには、かつてノロ(神女)が馬に乗る際に踏み台として利用したといわれる石が残されています。
 2022年に開催されたヌーバレーでは、道ジュネーの一行が農村公園に到着後、公園の端にある「英霊の塔」(戦没者慰霊碑)に観客らが黙とうを捧げました。その後、「長者の大主」を皮切りとして計9つの演目がステージ上で披露されました。例年のヌーバレーでは、30前後の演目が演じられますが、今年は感染症の流行状況を考慮して、大幅に規模を縮小したそうです。2020年と21年のヌーバレーでは、少人数での道ジュネーや拝所での拝みのみが執り行われ、ステージで芸能を披露するのは3年ぶりです。集まった人々は感染症対策をとったうえで、久しぶりに地域の芸能を楽しみました。

青空にたなびく旗頭(2017年のヌーバレー)


 

組踊「手水の縁」の一場面(1992年のヌーバレー)
農村公園に向かう一行(2022年のヌーバレー)
3年ぶりの舞台芸能を楽しむ観客たち(2022年のヌーバレー)

4.地域行事を支える住民の熱意

 今回紹介したふたつの区では、住民が主体的に芸能やヌーバレーの保存と復興に取り組んできました。戦時中の知名では、社会や生活が不安定な状況でもヌーバレーが細々と続けられ、いくつかの芸能が奉納されていたそうです[知名ヌーバレー保存会(編) 2013]。戦後は、青年会が中心となって住民からの寄付を集め、戦争で紛失した楽器や衣装を買い揃えることにより、ヌーバレーは盛大な行事の姿を取り戻していったのです。また、久手堅の組踊「鏡の割」は、半世紀ほど上演が途絶えていましたが、地域の芸能を復興させようという住民たちの努力により、2006年に復活を遂げました。今回見学したヌーバレーの様子からも、困難な状況のなかでも工夫して行事を存続させ、将来に残していこうとする、地域の人々の強い熱意を感じることができました。

【地域行事の”いま”】
①古堅のミーミンメー
②奥武島の海神祭

※1 『南城市の御嶽』には記載されていないが、當間(大里エリア)でもヌーバレーが行われている[大里村教育委員会(編) 2005]。
※2  琉球王府の祭祀と関係する、沖縄本島南部の聖地を巡礼する行事。

参考文献

新垣源勇 1993 「ヌーバレーの由来」『斎場の杜』23:36-38.
大里村教育委員会(編) 2005 『大里村の民俗文化財』大里村教育委員会.
知名ヌーバレー保存会(編) 2013 『平成25年度 知名ヌーバレーの歩み』知名区.
知念村文化協会学術部(編) 2006 『知念村の御嶽と殿と御願行事』新星出版.
南城市教育委員会(編) 2018 『南城市の御嶽』南城市教育委員会.