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斎場御嶽が神社に? ~村社計画鳥瞰図~

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斎場御嶽が神社に? ~村社計画鳥瞰図~
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一枚の絵

今回は「村社計画鳥瞰図(そんしゃ けいかく ちょうかんず)」と題された、一枚の絵を紹介します。

「村社計画鳥瞰図」(昭和17年)

この絵は、戦前に南城市の世界文化遺産である斎場御嶽(せーふぁうたき)(南城市知念字久手堅)が、神社になる計画があった際に描かれたものとされています。

今回の特集では、戦前の御嶽をめぐる状況や、残された資料から、この絵の描かれた背景を探っていきたいと思います。

斎場御嶽とは

まず、斎場御嶽について簡単に説明します。

御嶽”とは、沖縄や周辺離島地域に広く存在する、村落の祭祀の核となる場所です。沖縄の各村落には、その村落の中心となる御嶽(拝所)が必ずあると言っても過言ではありません。

ただ、斎場御嶽はそのような沖縄の一般的な御嶽とはすこし異なります。琉球王国時代には、王国の神女組織の頂点である聞得大君(きこえおおきみ)の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行われた国家的な祭祀の場であったことが知られています。1998年(平成10)に御嶽内から一括出土した金の勾玉や厭勝銭などは、王府との関わりを示すものと考えられています。
琉球王国はその後琉球処分によりなくなりますが、明治以降も斎場御嶽は沖縄の庶民によって拝まれてきました。現在でも、斎場御嶽を含む本島南東部の御嶽・拝所を巡る「東廻り(アガリマーイ)」という行事は親族や門中単位でよく行われています。

2000年(平成12)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして世界文化遺産に登録されました。

斎場御嶽 サングーイ(2001年)

戦前沖縄の、神社と御嶽をめぐる状況

沖縄では、古琉球の時代から各地域の御嶽が信仰の中心であったので、一般庶民の間に神社の信仰は広まりませんでした。「琉球八社」と呼ばれる波上宮(那覇市)などのいくつかの神社は、ほとんどが王府による創建で、あくまでも王府や首里の役人などの間で信仰されていたものでした。

1879年(明治12)の「琉球処分」以降、沖縄の御嶽と神社をめぐる状況は大きく変動します 。
琉球という国から、日本のひとつの県となった沖縄では、文化的・宗教的な側面でも「日本化、皇民化」が進むようになります。

1890年(明治23)1月に琉球八社のひとつ波上宮が、官幣小社となります。官幣社とは、簡単にいえば、神社がおこなう新嘗祭(にいなめさい※1)などの祭に対して国から予算が出される「格上」の神社です。加治順人は「沖縄にも官幣社を設置するということは、琉球国だった地が日本の一県であることを文化的・宗教的にも示す意味があった」[加治2018:47]とします。官幣社となった波上宮では、明治後期以後、波上祭という大規模な祭りが、1937年(昭和12)の盧溝橋事件(※2)により自粛ムードに転じるまで開催されました。

廃藩置県(※3)後、全国各地で大きな神社が新設されましたが、沖縄でも「県社」を設置する動きがみられるようになります。1910年(明治43)、沖縄県は「県社・村社建設理由書」を内務省神社局に提出しました。県社を設置することで、「全県民で奉斎することは県民の心を一つにすること」と構想したようです。
紆余曲折がありましたが、1925年(大正14)、首里城内に「沖縄神社」が設立され、1926年(大正15)に「県社」として内務省より承認されました。沖縄神社で行われた例祭では芸能も披露され、県内各地の人でにぎわったそうです。
そのほか、首里以外でも新しい神社が創建されました。那覇の世持神社、宮古島の宮古神社などです。

正殿後ろの金蔵があったあたりに設けられた沖縄神社の本殿『首里市市制施行十周年記念誌』より(パブリック・ドメイン)

神社設立の動きは、戦争ともかかわります。村から兵士が出征する際、日本本土では地域の神社で「武運長久」の祈願などを行いますが、沖縄には地域に根差した神社というものがほとんどないためそれができません。政府や県、地域の指導者からすると、地域に根差した神社がないことは、県民の戦争に向かう意識を高揚させることや「皇民化」の障壁となりました。

そこで1940年(昭和15)ごろから「御嶽再編」、「一村一社」の構想が出てきます。沖縄各地域の御嶽を整理して、一町村に神社を一つ置くことを目指したものです。1943年(昭和18)から県が主導し、「普天間宮・斎場神社・北山神社・宮古神社・八重山神社」の5カ所を県社とすることを構想します。
そのほか、最終的には、村社60社、末社150社に御嶽を整理統合する計画だったといいます。

現在でも、沖縄の各村々にある御嶽に鳥居が建てられていたり、「お宮」や「○○神社」と呼ばれたりするのも、これら御嶽の神社化を含む明治以降の沖縄における神社の成立過程と関係があります。
南城市玉城の字前川では、字の最も重要な拝所である「知念之殿」は現在でも「お宮」とも呼ばれ、戦時中には出征兵士の武運長久祈願が行われました。また佐敷城跡には1938年(昭和13)に「つきしろの宮」が創設されました。皆さんの地域にも、鳥居が立っていたり、神社やお宮と呼ばれたりしている御嶽(拝所)があるのではないでしょうか。

南城市玉城字前川の知念之殿(お宮)での武運長久祈願(昭和12年) 『玉城村前川誌』421頁

ただし、御嶽再編の構想は、財政的な問題や太平洋戦争の局面の変化で、頓挫することになりました。1944年(昭和19)3月に沖縄には第32軍司令部が置かれ、県内各地の村々にまで軍が入ります。軍施設の建設、陣地構築に住民、学童まで動員され、一村一社の整備どころではなくなったのです。

斎場御嶽の神社化計画

このような流れのなかに、斎場御嶽の神社化計画も位置付けられます。
先に述べたように、斎場御嶽を「斎場神社」とすることが1943年(昭和18)に県により計画されます。

斎場御嶽の所在する知念村でも、有志らによって斎場神社設立に向けた動きがあったようです。
当時の新聞記事によると、民俗学者の鳥越憲三郎、元知念村長の新垣孫一、当時村長の親川栄蔵らが、「斎場神社設立奉賛会」を立ち上げました。新垣によって奉賛会設立を報じる新聞記事の切り抜きと、「奉賛会会則」の資料が残されています。[※記事の新聞名と年月日は不明で『知念村史 第3巻 戦争体験記』25頁では、時期を昭和17年7月と推定しています。「奉賛会会則」の翻字は同書26~27頁]

資料ページ:『知念村誌』(新垣孫一コレクション) (ページ266~267が「奉賛会会則」、277がそれを報じる新聞記事)

鳥越は以前より沖縄で民俗調査を行っており、久高島を訪れたこともあることから、郷土の歴史文化研究をしていた新垣と交流があったと思われます。鳥越は1942年(昭和17)に来県し、県の嘱託として御嶽の整理および神社化計画の中心となり、神職の養成も担当しました。
しかし、先に述べた通り、御嶽の再編構想がうやむやになっていくなかで、斎場神社も実際に建立されることはありませんでした。また、鳥越も1944年(昭和19)に沖縄を離れました。

図の作者 仲座久雄

この「村社計画鳥瞰図(以下、「鳥瞰図」)」には「昭和十七年八月 仲座久雄」と署名されていますが、仲座久雄とは、どのような人物でしょうか。

仲座久雄は、1904年(明治37)に中城間切津波村(現中城村)で生まれました。
大阪で建築を学んだのち帰郷、1936年(昭和11)からの守礼門修理工事では工事主任を務めました。終戦直後は米国海軍軍政府のもと標準家屋(規格住宅、いわゆる「トゥーバイフォー」)の設計、建設指導をしました。その後は琉球政府立博物館など戦後沖縄の主要な建築物の設計に携わり、1955年(昭和30)には沖縄建築士会を設立し初代会長を務めました。また守礼門復元工事など多くの文化財修復にも携わり、琉球政府文化財保護委員も務めるなど、その活動は沖縄建築界の発展だけでなく、文化財保護にも大きく貢献しました。

仲座は1937年(昭和12)から沖縄県に建築技手として勤務しています。その在職中、1939年(昭和14)~1941年(昭和16)には波上宮の工事に携わり、1942年(昭和17)10月には朝日新聞沖縄版で『琉球八社の建築』という連載(4回)をしています。仲座が神社建築の研究および実際の現場で取り組んでいる時期と、「鳥瞰図」の署名「昭和17年8月」が重なることが分かります。

つまり、「鳥瞰図」が描かれた時期は、県が御嶽の神社化計画を進めていた時期、その計画の中心人物で、斎場神社の設立にも関わる鳥越憲三郎が県嘱託として勤務していた時期、同図の作者の仲座久雄が県職員として神社建築に関わっていた時期と同時期であるということです。

仲座久雄のご子息で、ご自身でも久雄の活動についての著書がある仲座巖さんに、「鳥瞰図」を見ていただきました(2020年3月)。巖さんによると、久雄の残した戦前の資料の大部分は沖縄戦で失われてしまいましたが、この絵の存在は初めて知ったとのこと。また、この署名は久雄本人のものだろうと語っていました。

「鳥瞰図」を見る仲座巌さん(2020年)

「鳥瞰図」その後

斎場神社の設立が実現されることはありませんでしたが、「鳥瞰図」は知念村によって保管され、設立奉賛会に関する資料は新垣孫一によって保管されてきました。
どのような経緯、目的で仲座がこの絵を描き、なぜ知念村が所有していたかが分かる直接的な資料は現在のところありませんが、すくなくとも、上記のとおり、斎場御嶽の神社化計画や、仲座の活動状況が重なることがわかります。

この「鳥瞰図」は、長らく旧知念村の村史編集室のキャビネットに眠ったままとなっていましたが、変色、虫食い、サビなど劣化が激しくなっていました。そこで、教育委員会文化課では2019年に同図を修復し、現在は適切に保管しています。

「鳥瞰図」修復前(2019年)シミや虫食いなど劣化がが目立つ
修復中の「鳥瞰図」(2019年)
修復後の「鳥瞰図」

※1 収穫を感謝する祭り。朝廷では11月23・24日のいずれかの日に天皇が新穀を神々に供えて収穫を感謝し、自らも食した。勤労感謝の日の前身。天皇即位の年に行われるものは特に大嘗祭という。
※2 1937年(昭和12)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で起こった中国北部駐屯日本軍部隊と中国軍との衝突事件。日中戦争の発端となる。
※3 1871年(明治4)、幕藩体制の旧態を解体し、全国を政府の直轄地とする改革。木戸孝允・大久保利通らが提唱。薩摩藩・長州藩・土佐藩から御親兵を集めて武力を強化し、廃藩を断行。

参考文献

加治順人2018「沖縄の神社、その歴史と独自性」『非文字資料研究』16:37-68 神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
首里市1931『首里市市制施行十周年記念誌』首里市
● 玉城村前川誌編集委員会1986『玉城村前川誌』玉城村前川誌編集委員会
● 知念村史編集委員会1994『知念村史 第3巻 戦争体験記』 知念村役場
● 仲座巖2020『仲座久雄 その文化財保護活動 1936年~1962年』 私家版
● 平敷令治1983「御嶽再編」『沖縄大百科事典 上巻』 沖縄タイムス社

(新垣 瑛士)