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【南城市の戦後史 聞き取り調査】久高島・漁業

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【南城市の戦後史 産業編】
オーラルヒストリー

はじめに

本レポートは、久高島出身の船舶機関士・漁師である西銘一彦さん(以下、西銘さん)のオーラルヒストリーを報告するものである。筆者は2025年、西銘さんに生い立ちから現在に至るまでの歩みについて話を伺った。
なお本レポートでは、一人称・敬体での表記とする。

西銘一彦さんのプロフィール

話  者:西銘 一彦(にしめ かずひこ)氏
生年月日:1953 年(昭和 28)9 月 28 日生まれ
出 身 地:知念村字久高

キーワード:漁業、久高島、八重山、カツオ漁、マグロ漁、イカ漁、漁業協同組合

生い立ち、家族

・私は1953年(昭和28)、知念村の久高島生まれです。父の西銘順昌(にしめ じゅんしょう)は1920年(大正9)生まれ、屋号は〈三男(サンナン)ミー〉です。母の内間(うちま)ムメは1919年(大正8)生まれで、生家の屋号は〈前大里(メーウプラト)〉です。両親ともに久高島出身です。
・私は6人きょうだいの4番目で次男として生まれました。

父・西銘順昌

・父の順昌は漁師でした。戦争中はニューギニア辺りに出征していたようですが、戦時中のことはほとんど聞いたことはありません。
・父は戦後、久高島に戻るとすぐに八重山へカツオ漁に行きました。戦前、戦後すぐまでは久高島の男性の多くが中学校を卒業すると、カツオ漁をするため八重山に渡ったようです。女性たちもカツオ節の工場に勤めるために八重山に行ったようです。
・父は私が小さい頃は年に一回くらいしか島に帰ってくることができなかったので、祖父の西銘亀(にしめ かめ)のことを父親だと思っていました。祖父は1898年(明治31)生まれ、1963年(昭和38)に病気で亡くなりました。生家の屋号は〈前西銘(メーニシミ)〉です。小さい頃、祖父が網でエビを獲っていた記憶がかすかに残っています。
・父は私が9歳くらいのころ(1962年頃)に八重山から引き揚げてきました。その頃には、八重山方面のカツオ漁も下火になってきていて、そのために父は島に戻ったようです。
・島に戻った父は、すぐサバニを入手して、おもに島の周辺で素潜り漁をしていました。獲物はイラブチャー(ブダイの一種)、アカジンミーバイ(ハタの一種)、タコ、クブシミ(コブシメ、コウイカの一種)などです。
・素潜り漁のほかに、父は夏場の6月~8月はトビイカ漁をすることが多かったです。天気の良い、凪の日の夜に本島の灯りがかろうじて見えるくらいの沖までサバニを出して、灯油ランプの灯りでイカをおびき寄せ、集まってきたところをカギで引っ掛けて獲ります。そのため、父の服やサバニは墨だらけでした。
・父は素潜り漁で獲った魚やタコ、クブシミ等を島内で売っていましたが、イカだけは知念まで売りに行きました。字知念の浜まで一緒にサバニに乗って行ったことがあります。
・父がトビイカ漁から帰ってくると、いつも母が迎えて片付けを手伝っていました。しかし、私が中学2年生の夏、私の弟(四男)が入院したので、母はその付き添いで不在になりました。そのため私が2週間くらい父の漁の迎えと片付けをすることになりました。イカの墨だらけになった船内を洗うのですが、父は元々気性が荒く、厳しい口調で指示するので、あまりいい思い出はありません。

母方の祖父・内間多千

・母方の祖父、内間多千(うちま たせん)は1896年(明治29)生まれで、屋号は〈前大里(メーウプラト)〉です。多千は久高尋常高等小学校を卒業後、八重山にカツオ漁に行きました。宮崎県の「ハツタ※1」という漁業会社が八重山でもカツオ漁船を操業していたようで、多千はそこの船に乗り組んでいました。
・小浜島にはカツオ漁の基地があったようで、私の母ムメ(多千の長女)は幼少期に小浜島で過ごした時期があったそうです。母は晩年、テレビに映る小浜島を観て懐かしんでいました。※2
・多千は後に独立し、石垣島の新川(あらかわ)に移り住み、カツオ漁船とカツオ節工場「高津(たかつ)」の経営を始めました。
・次第に多千の漁業経営は軌道に乗り、ついには八重山で納税額が二位までになったそうです。私の母ムメは八重山時代、裕福な幼少期を過ごしたようです。
・その後、久高島系統の「福治(フクヂ)」、「安福(アンプク)」というカツオ漁会社が出来て、多くの久高島の人々が八重山に渡りました。父の順昌は婿でありながら、多千の「高津」の船には乗らず、従兄弟(いとこ)の船に乗りくんでいたそうです。
・私の母ムメは多千の最初の子どもで、下に妹、弟がいました。ただ、多千と私の祖母マカ(ムメの母)は離婚しため、ムメを含む子ども3人と祖母は久高島に帰ってきました。
・その後多千は再婚し、5人の子どもが生まれました。しかし昭和30年代に入ると、八重山のカツオ漁は下火になり、多千は家族とともに昭和30年代末には八重山から引き揚げて、那覇市松川に亡くなるまで住んでいました。

※1 与那国島を拠点にした、宮崎県出身の発田貞彦の会社のことと思われる。与那国町史によると、「発田は久部良に製氷施設を具備する近代的な鰹節工場を設立。最盛期の1935(昭和10)年には漁船23隻(うち専属13隻)漁民150人、工場従業員50人を擁し、年産額は20万円に達していた」という。(与那国町史編纂委員会編『与那国町史 別巻Ⅰ記録写真集』与那国町役場 1997 232頁)
※2 小浜島は太平洋側、東シナ海側へ行き来するのに立地条件が良く、周辺の海ではカツオ漁の餌として必要なジャコが捕れた。大正期の末ごろからカツオ節工場やカツオ会社が複数建ち、そこを本拠地としてカツオ漁が盛んにおこなわれ、沖縄本島の漁民が集まって集落を形成するまでになった。(竹富町史編集委員会編『竹富町史 第三巻 小浜島』竹富町役場 2011 158頁参考)

高校進学、県外での仕事を経て、漁師へ

・1969年(昭和44)、私は久高中学校卒業後、久高島を出て県立知念高校(与那原町)に進学しました。当時、私と同世代の久高島の多くの男性は、漁師になる意識はなかったと思います。
・1年後くらいから高校の数が一挙に増えて、一浪してもほとんどが本島の高校へ進学するようになりました。
・知念高校在学時は首里儀保町(ぎぼちょう)の長屋に住んでいました。儀保町からは東陽バスで知念高校まで通っていました。儀保町では、私の祖母(順昌の母)、6歳年上の兄(長男)、2歳年上の姉(次女)と一緒に生活しました。兄は琉球大学の夜間部に通いながら沖縄電力※3に勤めていました。とても勉強家で国家資格も持っていたようです。
・高校は2年生のときに中退しました(1971年頃)。経済的な理由ではなく、学校生活に行き詰まっていたからです。
・私は子どものころから手先が器用で、モノづくりが大変好きでした。建築家になりたいという夢があったので、建築家のある工業高校に進みたかったのですが、長兄と中学校の先生に普通科への進学を勧められました。そこで、知念高校の普通科に進学したのですが、私自身の目標とのズレから勉強に身が入らず、成績は落ち込んでしまい、ついには退学しました。
・その後、東京に行き様々な仕事をしましたが、器用さが災いし、一生の仕事を見つけることが出来ませんでした。そして、身内にも自分の居所さえ知らせないこともありました。
・そんな折、たまたま東京に遊びに来ていた、漁船乗りをしている久高島出身の先輩に出会いました。その先輩は私が海を大好きであることをよく知っており、船に乗るよう誘われました。そこから、一年間遠洋漁業の漁船、大王丸に乗りました。
・大王丸は西銘順治(にしめ じゅんじ)※4の弟が経営する企業の船でした。静岡県の焼津(やいづ)港を拠点に、遠洋のカツオ漁を行う漁船で、船は360トンもあり、南洋群島※5まで航海できる規模でした。

西銘さんが乗船していた漁船のカツオ漁の様子(西銘一彦さん提供)


・7年間、焼津の船に乗った後、御前崎市の船にも1年間乗りました。そして同じ静岡県の清水(しみず)港で、カツオ船やマグロ船を乗り換えながら、数年間を過ごしました。乗った船が海洋調査船として水産庁に雇用され、私は一等機関士としていい給料を貰っていた時もありました。
・清水時代には、辛く悲しい思い出もあります。それは旧知の方が乗船した海洋調査船「へりおす」が、北海道までの処女航海の途中、福島県の相馬沖で沈没した事でした[この海難事故では船長、機関長他乗組員2人調査員5人の9人全員が亡くなっている]。「へりおす」は出航前、清水港で私が乗る船と並んで停泊していました。そのとき「へりおす」の機関長だった佐々木豊蔵さん(通称「豊さん」)から「へりおす」の乗船に誘われたのですが、私は乗っていた「第五十二海王丸」が水産庁に海洋調査船として徴用されたばかりで、すぐ下船する訳にもいかず、次の航海から一緒に乗る約束をしたところでした。
・ところが私が先に出航した1週間後の船上で、共同通信のファクシミリで「へりおす」の海難事故を知り、大きなショックを受けました。事故で亡くなった豊さんは、私が利用していた焼津市の喫茶店のママさんのご主人で遠洋マグロ船上がりでした。私は航海を終えて、お見舞いのため豊さん宅を訪れたところ、逆にママさんから「西銘さんも死なせるところだった」と謝られ、悲しかったことを覚えています。
・海洋調査船「第五十二海王丸」では小笠原諸島あたりや、太平洋の赤道周辺、パラオやポナペ(ポンペイ)、ハワイ等にも航海しました。パラオでは日本語が通じたことに驚きました。ポナペでは沖縄出身の女性がエージェントをしていました。ハワイでは、現地の沖縄系の人に「あなた沖縄の人でしょ」と声をかけられたこともありました。私の顔を見て沖縄出身に違いないと、すぐに分かったそうです。

※3 沖縄電力(株)は1972年5月15日、沖縄の日本復帰に伴い、沖縄振興開発特別措置法に基づく特殊法人として前身の琉球電力公社の資産を引き継ぎ設立された(沖縄電力五十年史編纂事務局編『沖縄電力五十年史』沖縄電力株式会社 2023 68頁)。西銘さんの兄が入社したのは復帰前ごろであったため、入社時は琉球電力公社だった可能性もあるとのこと。
※4  西銘順治(1921-2001)は政治家。与那国村(現・与那国町)生まれ。那覇市長2期(1962-1968)、衆議院議員当選4回、沖縄県知事3期(1978-1990)。順治の父・西銘順石は久高島出身で、与那国島やパラオでカツオ漁船を操業した。
※5 太平洋西部の赤道以北にある諸島群で、マリアナ・パラオ・カロリン・マーシャル諸島をさす。第一次世界大戦後に日本の委任統治領となり、第二次世界大戦後はアメリカの信託統治領となった。

久高島に帰る

・静岡で漁船に乗っていた34歳の頃(1987年頃)、久高島と佐敷(さしき)町の馬天(ばてん)港間に新しく高速旅客船が就航するから、その機関士をやらないかと声がかかりました。私は20代後半に「乙種一等機関士」の免許を取得していました。
・機関士免許だけでなく、船舶操縦免許も必要になったので、高速船を建造していた広島県の尾道(おのみち)市で艤装※6中、「一級小型船舶操縦士」免許取得の合宿があったので受講し、免許を取得しました。
・久高島に帰り、内間新三(うちま しんぞう)さんが代表社員を務める久高海運の高速船に乗りました。
・それまで、久高~馬天港間の定期船は、日に一便だけでしたが、高速船は日に三便運航し、島の人々に大変喜ばれました。
・ただ、高速船にはレーダーすらなく、遠洋漁業で経験を積んできた私には驚きでした。
・当時、馬天港のチケット売り場から船乗り場までかなりの距離がありました。そのため、定期船の出向間際に乗る乗客はチケットが買えず、現金で乗船する客もいました。
・後で、乗客数とチケット、現金を照合すると合わず、不正があることに気が付きました。直ちに、沖縄離島海運振興株式会社にその旨を報告し、港内の船乗り場に近い場所にチケット売り場を設けると同時に、現金での乗船も辞めさせました。
・高速船の運航の合間には、素潜り漁をしていました。子どものころ、よく島の周辺を潜っていましたが、その頃の感覚もよみがえり、また漁に出たくなりました。
・高速船には2年近く乗りました。それから2年ほど素潜り漁をやって知念村漁業協同組合に加入し、漁船を購入することにしました。最初に建造した船が1993年(平成5)に出来た5トンの海恵丸(かいけいまる)でした。最初の船から4隻の船を乗り換えながら、引退するまでの約30年間、おもにマグロ漁、イカ漁をしてきました。

※6  船体に各種設備を装備することを艤装という。

西銘さんの漁船「海恵丸」。写真は1998年12月に撮影された。(西銘一彦さん提供)

結婚、子どもの成長と漁場の展開

・久高島に帰ってから、久高小中学校の先生たちと懇親会がありました。そこで、当時学校に勤めていた現在の妻と知り合いました。
・私が38歳のとき、妻と結婚しました。子どもは3人の男の子に恵まれました。長男だけは久高島に住んでいるときに生まれましたが、1年後には佐敷町に引っ越しました。
・久高島を拠点に漁をしていましたが、燃料補給や漁具の整備等の仕事がしにくく、効率の悪さを感じました。そこで、佐敷(さしき)町の津波古(つはこ)に引っ越し、船は漁協のある知念村の海野(うみの)漁港に置きました。
・5トンの船で漁を続けていましたが、漁獲物の保冷設備は水氷で、船の規模もセーイカ(ソデイカ)漁をするには、航海日数、積載量に問題がありました。そこで私は、息子たちの将来のためにも、もっと漁業収入を得る必要があると考え、規模の大きい船に乗り換えることにしました。
・二代目の船、第五海恵丸は14トンもあり、冷凍設備も充実した船になりました。遠洋漁船時代、機関士をしていてイカ類の鮮度保持に慣れていたこともあり、新しい船を探す際は補助機関が付いている船を求め、動力で冷凍機が運転出来るようにしました。
・夏は集魚灯を利用したマグロ漁、冬はセーイカ漁というサイクルで漁をしてきましたが、船の規模を大きくしてから、セーイカ漁の実入りはよくなりました。
・セーイカ漁が始まって間もなくは、沿岸で獲るのが主流だと思われていましたが、私はセーイカが沖合でも獲れることを知っており、漁場を沿岸から沖合へと展開していきました。約30年の間に、だいぶ沖まで拡がったと思います。大東島沖100海里の海域まで行きましたが、他船と漁場が被ることはあまりありませんでした。
・セーイカは「旗流し」という漁法で獲ります。旗竿の下、500メートルの深海に潜むイカを、スッテを使って釣り上げる漁法です。たまに旗竿を消失したり、冬場の漁なので海が時化(しけ)て辛いときもありました。
・セーイカ漁に比べるとマグロの漁場は、ほとんど変わっていません。
・漁に出ると、数日間海上で寝泊まりしながら漁をします。夜に家を出ることもあるのですが、ある日いつものように出港準備をして家を出ようとすると、不意に幼い息子が私の服の裾を掴んできました。それが切なくて、子どもたちに早く会うために頑張って漁をして、できるだけ短い日数で帰るようにしていました。

知念村漁業協同組合

・久高島から海野漁港に拠点を移して仕事はしやすくなったのですが、ひとつ不利になったこともありました。それは知念村に住所がないのでいくら水揚げしようと、漁業協同組合の定款上、正組合員になれないことでした。知念村外に住む者は、全て準組合員となり、総会等では議決権がありませんでした。
・知念村漁業協同組合は1971年(昭和46)に設立されました。おかげで、いろんな体制、仕組みや設備が整って、販路もできました。それまでは、久高島で魚を獲っても販路が狭く、思い切り漁業ができなかったように思います。
・漁獲物を漁協のセリにかけると、その代金が翌日には漁協から漁業者に支払われ、漁協はセリ落とした小売業者や加工業者など(買受人)から代金を回収します。
・漁協ができてからは燃料タンクや製氷などの設備が整い、漁獲物の販路ができて、漁業をするには最適の環境になり、島の後輩たちも漁業を志すようになったと思っています。
・私は知念漁協の組合長を1期、理事を2期、監事を1期務めましたが、本業はおろそかになった気がしています。
・久高島では、戦前から昭和40年代の初め頃まで、漁業協同組合がありました。漁協の看板が掛けられていたことを少し覚えています。漁業活動をしている様子もなく、おそらく長期間休眠状態にあったと思われます。組合長をしているときに、そのことが気になり、調べたところ戦前の役員名簿もあり、スーパーまで経営していたことも判明しています。後に、久高島の漁協が自然消滅となり、知念漁協が立ち上げられたと聞きました。

引退、今後の漁業について

・遠洋漁業をしていた頃の無理がたたったのか腰を痛めて、3年前くらいから徐々に漁業を辞めることを考えるようになりました。
・2023年からは漁に出なくなり、最終的に2024年(令和6)には船(4隻目)を売却して完全に引退しました。
・日本では漁業資源が減ってしまったと感じます。日本は漁業技術が高くて、効率よく獲るのですが、稚魚、幼魚まで獲りすぎてしまったのではないでしょうか。温暖化も影響しているのでしょうか。
・セーイカ漁は沿岸から沖合へと漁場を拡げていきましたが、この30年間、漁に携わってきたが、その海洋資源が減っていることを実感してきました。漁業者の皆さんは、もっと危機感を持たなければならないと思います。
・漁業の担い手や志す者も、なかなかいなくなりました。私の子どもたちに漁業を勧めることはできませんでした。漁獲物の販売価格は上がらず、燃料費は高騰、海洋資源は減少の一途で、このままでは漁業の将来はないと考えていました。
・沖縄の漁業は新しい魚種や漁法が、これから生まれる可能性は少なく、獲るだけの漁法から更なる制限をする必要があると思います。海洋資源の保護をしなければならないことは明白であり、同時に、養殖技術ももっと発達させる必要もあります。

(2025年 南城市教育委員会文化課 新垣瑛士)