
【資料群紹介】新垣孫一コレクション

【資料群紹介】無形民俗文化財多方向ハイビジョン映像記録

ここでは、南城市が所蔵する新垣孫一(あらかき まごいち,1885-1972)のコレクションを紹介します。
新垣孫一は知念村出身の郷土史研究家で、第3代知念村長を務めた人物です。教員時代には久高尋常高等小学校の校長となり、久高島の風俗習慣に関心を持ちました。また、1921年(大正10)、柳田國男が沖縄を訪れた際には、斎場御嶽を案内しました。以降、孫一はおもに「琉球発祥の地」としての知念村・玉城村に関心を寄せ、郷土史研究に取り組みました。本コレクションには、孫一の著作のほか、孫一が調査研究の過程で収集した資料や書き残した資料、柳田國男ら県内外の研究者との交流がわかる資料などが含まれています。
新垣孫一は1885年(明治18)、知念間切の志喜屋村(カンチャ)に生まれました。孫一が4歳のとき、知念間切久手堅村に住む、実父の親戚である新垣孫平の養子となり、以降は久手堅で育ちました。
沖縄県師範学校を卒業後、1903年(明治36)、知念尋常小学校の准教員として採用されます。1918年(大正7)5月から1920年(大正9)8月までの約2年半は、知念村の離島である久高島の久高尋常高等小学校で校長を務めました。この久高島赴任中に島の風俗習慣を見聞きしたことが、後の郷土史研究へとつながっていきます。
養父・孫平の跡継ぎとして養子に入った孫一でしたが、その後、養父に男の実子が生まれました。養父の実子が家を継ぐことになったため、孫一は1915年(大正4)、同じ久手堅村内に分家しました。屋号はニールク(二六)です。
1921年(大正10)2月、後に民俗学者として知られる柳田國男が孫一を訪ねました。柳田は当時、貴族院書記官長を辞任し、朝日新聞論説委員として沖縄各地を訪ねていたところでした。柳田は伊波普猷(当時、沖縄県立図書館長)から紹介を受け、孫一を訪ねたのでした。孫一は柳田を斎場御嶽に案内したほか、「久高の屁」[「黄金の瓜実」として知られる説話]など久高島で見聞きした風俗習慣について語りました。
また、久手堅の拝所も案内しました。このとき柳田から拝所の由来や意味など様々な質問を受けましたが、孫一は十分に答えることができませんでした。孫一は、これを契機に郷土史や民俗学に興味を持つようになったと、後に振り返っています(新垣孫一「柳田國男先生と私」『民俗 第5号―柳田国男先生追悼号―』1962、琉球大学民俗研究クラブ)。
柳田の訪問以後、孫一は地元側の案内役・仲介者として知られるようになります。柳田の門下の研究者である折口信夫、鎌田久子をはじめ、人類学者のシャルル・アグノエル、法制史研究者の奥野彦六郎など、さまざまな研究者が戦前から戦後にかけて孫一のもとを訪れました。こうした研究者との交流を通して、孫一は自身の知識や思想を深めていきました。
孫一は、ほぼ独学で郷土史の研究を行いました。孫一の関心は、「琉球発祥の地」としての知念・玉城にあったようで、後年に研究の集大成としてまとめた著書には『琉球発祥史』(1955年)と名付けました。また、庶民が自身の先祖を知ることや、「家」の歴史を継承することにも関心を持っていたようで、家系図や家族の履歴書を書き込む様式を備えた『系図のてびき』(1958)も出版しました。
孫一は、戦前には政治家として活動したほか、個人事業として養蚕、商店、牛乳販売、風呂屋、理髪店などを営みました。戦後は新聞の専売所長も担いました。また、村の人びとからは「ニールクタンメー」と呼ばれ、親しまれました(ニールクは孫一の屋号。タンメーは「おじいさん」の意)。1972年、自身のトーカチ(数え年88歳のお祝い)の後、永眠しました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1885(明治18) | 知念間切志喜屋村(カンチャ)にて父・新垣源助、母・キヨの三男として出生。 |
| 1889(明治22) | 知念間切久手堅村の新垣孫平の養子となる |
| 1896(明治29) | 知念尋常小学校を卒業。島尻高等小学校に入学。 |
| 1899(明治32) | 島尻高等小学校の廃止により、新設された佐知城高等小学校に入学。 |
| 1902(明治35) | 佐知城高等小学校を卒業。沖縄県師範学校准教員講習科に入学(当時、大里間切の大南高等小学校に併置されていた)。 |
| 1903(明治36) | 沖縄県師範学校を卒業。知念尋常小学校准訓導として採用される |
| 1905(明治38) | 5月、補充兵召集で鹿児島歩兵第四十五連隊に入隊。同年11月召集解除により帰還。(同年9月、ポーツマス条約により日露戦争が終結) |
| 1906(明治39) | 沖縄県師範学校講習科乙種に入学。 |
| 1907(明治40) | 沖縄県師範学校講習科乙種を卒業。知念尋常高等小学校に改めて訓導(本科正教員)として採用される。 |
| 1915(大正4) | 30歳のとき分家。屋号はニールク(二六)。 |
| 1918(大正7) | 久高尋常小学校校長に就任 |
| 1920(大正9) | 知念尋常高等小学校に転任 |
| 1921(大正10) | 柳田國男と出会う。柳田を斎場御嶽に案内し、久高島の風俗習慣について語る |
| 1923(大正12) | 第3代知念村長に当選、就任(1期) |
| 1927(昭和2) | 屋敷内で養蚕室、雑貨店を開業 |
| 1934(昭和9) | 乳牛を仕入れ、牛乳販売を開始 |
| 1945(昭和20) | 5月下旬から6月上旬にかけて米軍が知念半島を制圧。久手堅は収容地区となり、多くの避難民が収容された。孫一は久手堅収容地区の区長に任命される。 |
| 1954(昭和29) | 琉球文化財保護委員会史跡専門委員に委嘱 |
| 1955(昭和30) | 『琉球発祥史』を刊行 |
| 1958(昭和33) | 『系図のてびき』を刊行 |
| 1972(昭和47) | トーカチ祝い(数え年88歳のお祝い)。同年逝去。 |
孫一本人や家族の肖像写真があります。戦後、柳田國男と再会した際の写真も含まれています。
孫一が執筆・出版した『琉球発祥史』(1955)、『系図の手引き』(1958)のほか、「知念村誌」と題された種々の資料の合冊、草稿とみられる簿冊などがあります。また、柳田國男から孫一へ宛てたハガキや、柳田の著書『後狩詞記』の復刻版など、柳田本人や柳田門下の研究者らと交流があったことが伺われる資料もみられます。
コレクションの全体はこちらからご覧ください。
※資料の一部には、著作権やプライバシーの観点から、メディア情報(資料の中身)を非公開としているものもあります。ご了承ください。
参考文献
・新垣源勇『二六家誌』2010(自費出版)
・新垣孫一「柳田國男先生と私」『民俗 第5号―柳田国男先生追悼号―』1962、琉球大学民俗研究クラブ
(文責:新垣瑛士)