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南城市の綱引き

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南城市の綱引き
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1. 沖縄各地でみられる綱引き

奄美から八重山にいたる琉球弧の島々では、字の人びとが東と西、北と南のように二手にわかれ、綱を引き合う「綱引き」が各地でおこなわれています。綱引きは、五穀豊穣や字の繁栄、住民の健康などを祈願しておこなわれ、その勝敗は神意のあらわれとみなされることも少なくありません[鈴木 2008 : 347-348]。沖縄県教育委員会の『沖縄の綱引き習俗調査報告書』によると、2004年の時点で綱引きがおこなわれている字は、県内で170か所にのぼります[沖縄県教育委員会(編) 2004]。その内訳を地域別にみると、もっとも字数が多いのは島尻(85か所)で、中頭(34か所)、国頭(21か所)、那覇(13か所)、八重山(12か所)、宮古(5か所)がそれに続きます。行事が行われる時期は六月カシチー、旧盆、旧正月など、字によってさまざまです。今回は、「なんデジ」に登録されている資料を用いて、南城市の各字でおこなわれている(おこなわれていた)綱引きの様子と特徴をご紹介します。

2. アミシヌウガンと綱引き―仲村渠―

仲村渠の綱引き

仲村渠(玉城エリア)では、字の祭祀委員会が中心となり、ハチウビーやウマチー、親田御願など年8回の祈願を施行しています[字仲村渠祭祀委員会(編) 2006]。綱引きがおこなわれるのは、旧6月25日のアミシウガンの日です。住民たちは、一週間前から大量の藁を束ねて、50mもの長さになる本綱を編んだり、祈願に用いるウンサク(神酒)を仕込むなど、準備を進めます。                    アミシヌウガンの”アミシ”は「水を浴びる」という意味で、かつては稲の成長や五穀豊穣、子孫繁栄を神に願う行事でした。現在は、字の繁栄と人びとの健康を祈願します。当日の日中は、地元で「ウフガー」とよばれる仲村渠樋川を筆頭に、ヤブサチの御嶽やミントンなど、計25の拝所で祈願をおこないます。日が暮れるころからはガーエーや棒術がはじまり、やがて児童館前の道路で綱引きが開始されます。住民は、上と下の二手にわかれ、それぞれが雄綱と雌綱の側につきます。カナチ棒でふたつの綱をつなぐと、それを合図に両者が綱を一斉に引き合います。仲村渠における綱の引き方やチンク(金鼓)は、大城という人物を介して、首里の綾門大綱から習い受けたものといわれます[沖縄県教育委員会(編) 2004 : 8]。

3. 祖先を送る綱引き―目取真―

目取真(大里エリア)では、旧盆明け(旧7月16日)に住民が集まり、綱引きをおこないます。現在、南城市内では旧6月に綱引きをおこなう字が多く、盆にあわせておこなう字はわずかです。

ここからは、2019年の記録をもとに、綱引き当日の様子をみていきます。かつて、目取真では旧7月14日の朝から男たちが集まり、綱づくりと灯篭づくりをおこないました[ 記念誌編集委員会(編) 2000 : 155]。現在使用されている綱は、近隣の区から購入したもので、普段は公民館の倉庫に保管されています。夕方には、集落の役員らが集まり、線香や酒を供えて数か所の拝所でウガン(祈願)をおこないます。その後、綱と旗頭を農村公園へ運び、綱引きの準備を進めます。綱引きは、イリ(西)とアガリ(東)の二手にわかれておこないます。イリとアガリはそれぞれ2本の旗頭をもち、イリの旗頭には「農振」、アガリの旗頭には「豊年」と書かれています。

住民らは各家庭で盆の送りを終え、21時ころから公園に集まり始めます。イリとアガリがそれぞれに出席をとり、22時ころからはガーエーが始まります。23時すぎには旗頭を観客席側に立て、綱の準備をおこないます。区長の合図でカヌチ棒を入れると、綱の引き合いが開始されます。例年、決着は1分ほどでつくそうですが、2019年には両者の拮抗した引き合いが2分ほど続き、アガリの勝利で幕を閉じました。

綱引きが終わると、再び旗頭のガーエーがおこなわれたのち、区長によるあいさつや、寄付・寄贈の紹介がおこなわれます。23時半ころに住民は解散し、旗頭保存会のメンバーらは旗頭と綱を公民館に運びます。その後、区長や副区長、組頭らは農村公園の奥にあるヒームイグヮーへ向かい、そこで綱の切れ端を燃やします。これには、祖先を送る意味が込められているそうです。盆にあわせておこなわれる綱引きは、目取真でもっとも盛大な行事のひとつとなっています。

綱の準備
旗頭が立ち並ぶ農村公園
イリとアガリに分かれての綱引き
綱の切れ端(藁)を燃やし、祖先を送る

4. 復活した大綱引き―知念―

字知念では、旧暦6月25日に大綱引きがおこなわれてきました。しかしながら、昭和30年代に大干ばつが発生し、綱の材料となる藁は入手困難となりました。加えて、農業の中心が稲作からサトウキビ栽培へと移行したこともあり、昭和33年を最後に綱引きは実施されなくなりました。字では、綱引きを復活させる話題が何度も持ち上がりましたが、人手や経費の問題に加え、綱引きにかんする資料が少ないことから、なかなか実現にはいたりませんでした[知花 2004]。そうしたなか、2003年に国の「ふるさと文化再興事業」による助成が決定し、字の人びとは45年ぶりとなる綱引きの復活に取り組むことになりました。

区長を中心とした実行委員会は、大綱引きがおこなわれている他地域の関係者からも情報収集をおこない、準備を進めました。とくに苦労した点のひとつは、綱の準備(綱打ち)だったそうです。「与那原大綱曳き」の関係者から紹介を受け、材料となる藁は金武町から調達することが決まりました[知花 2004]。しかしながら、綱打ちの経験者はほとんどおらず、住民らは年長者の話を参考にし、試行錯誤しながら作業を進めました。開始から2週間後には、長さ40m、重量は1.5トンにもなる立派な雌綱(ミーンナ)と雄綱(ウーンナ)が無事に完成しました[知念の大綱曳き編集員会(編) 2005]。

2003年8月14日、綱引き会場となる知念農村広場には、多くの住民と見物人が集まりました。道ジュネーやガーエー、棒術などに続き、午後5時より綱引きが開始されました。知念の綱引きは昔から「ケンカ綱」ともよばれ[知花 2004]、綱を上下に持ち上げ、地面に叩きつける点に特徴があります。西と東にわかれて綱を引き、西が勝つと豊年を、東が勝つと平和を招くといわれていますが、2003年は西の勝利で幕を閉じました。

見事に復活した知念の大綱引きは2003年以降、5年おきに続けられています。綱引きを含め、沖縄各地でみられる民俗行事のなかには、担い手不足や産業の変化によって断絶を迎えたものも少なくありません。しかしながら、なかには知念のように、住民たちの主体的な取り組みをとおして、行事が復活をとげる場合もあるのです。

2018年の大綱曳き
2018年の大綱曳き

5. 山崩れと綱引き―新里―

字新里(佐敷エリア)では、綱引きは毎年の行事としてではなく、干ばつが続いた年におこなわれました。しかしながら、新里には綱引きをおこなうと、山崩れが起きるという言い伝えがあります。実際、『字誌新里』(2000年)には、明治時代と大正時代におこなわれた綱引きの直後に、地滑りが発生したことが記されています。

なかでも大きな被害が出たのが1959年です。この年6月、住民らは46年ぶりに綱引きをおこないました。すると、10月に来襲した台風が激しい雨をもたらし、新里の背後にそびえる場天山で大規模な山崩れが起きたのです。家屋倒壊や死者も発生し、とくに被害の大きかった桃原ヤードゥイの住民は、他地域への移動を余儀なくされました。この台風は、シャーロット台風とよばれ、沖縄全域で死者46名という甚大な被害をもたらしました[沖縄開発庁沖縄総合事務局開発建設部(編) 1982 : 6]。これ以降、新里で綱引きがおこなわれることはなくなりました。

新里の綱引き
山崩れ直後の様子
桃原ヤードゥイの人びとが、分散会で撮った記念写真。背後に崩れた山肌がみえる

6. おわりに

県内各地をみわたすと、那覇や糸満、与那原などでは大規模な綱引きがおこなわれ、それらは多くの見物客を集めています。いっぽう、それぞれの地域は、たとえ小規模であれど字の大切な年中行事として、綱引きが続けられてきました。

感染症の流行が続くなか、実際に行事の様子を見に行くことは難しいかもしれません。「なんデジ」では、今回紹介した以外にも、綱引きにかんする写真や動画資料をいくつか公開しています。今年の夏は、「なんデジ」を使って、市内各地の年中行事に触れる機会を設けてみてはいかがでしょうか?

参考文献

字仲村渠祭祀委員会(編) 2006(1990) 『ミントン––仲村渠祭祀資料 No.1』南城市玉城字仲村渠.

沖縄開発庁沖縄総合事務局開発建設部(編) 1982 『沖縄の風水害』沖縄総合事務局開発建設部河川課.

沖縄県教育委員会(編) 2004 『沖縄の綱引き習俗調査報告書(沖縄県文化財調査報告書143集)』沖縄県教育庁文化課.

記念誌編集委員会(編) 2000 『農村集落総合管理施設「記念誌」』目取真区集落地域整備事業実行委員会.

鈴木正崇 2008 「綱引」渡邊欣雄ほか(編)『沖縄民俗事典』吉川弘文館、pp.347-348.

知念の大綱曳き編集委員会(編) 2005 『知念の大綱曳き』知念区大綱曳き実行委員会/知念村教育委員会.

知花幸栄 2004 「45年ぶりに大綱曳き(知念区)」『斎場の杜12』知念村文化協会、pp.47-56.