沖縄戦がはじまる前年の1944年12月。現在の南城市大里・稲嶺にあった県営軽便鉄道「稲嶺駅」付近で、「列車爆発事故」が起きた。本コラムでは、この事故の概要について掲載する。
列車爆発事故については、『南城市の沖縄戦 資料編』(410頁~418頁)において、日本軍資料や証言を用いて解説している。本コラムは同書をもとに構成しているほか、関連資料についても閲覧できるようリンクを付けている。
1.列車が爆発
1944年(昭和19)12月11日、午後3時30分ごろ。大里の県営鉄道(軽便鉄道)※稲嶺駅付近で大きな爆発音がして、間もなく炎と黒煙が上がった。
当時、県営鉄道(軽便鉄道)は日本軍が管理・運営し、軍事優先の運行が行われていた。そのため、民間人は列車に許可なく乗ることができなかったが、公務員や中学生・女学生は許可されていた。
※沖縄県営鉄道のこと。軽便(ケイビン、ケービン)と呼ばれる。1914年に与那原線、1922年に嘉手納線、1923年に糸満線が開通。沖縄戦で破壊されるまで陸上の貨客輸送の要であった。写真:軽便機関車、軽便鉄道稲嶺駅)(那覇市歴史博物館デジタルミュージアム)
※戦後、稲嶺で写された写真に、軽便鉄道の汽車道が写っている。写真:キビ刈りの風景(なんじょうデジタルアーカイブ)
事故当日、列車のようす
事故当日の列車は、合計で8両だった。列車の1両目は無蓋貨車(屋根のない貨車)でガソリンが入ったドラム缶、2両目は有蓋貨車(屋根のある貨車)で衛生材料、3両目以降は無蓋貨車で弾薬が積み込まれていた。また、日本軍の兵士が約210人(兵士約150人、衛生兵約60人)、女学生約13人も一緒に乗せていた。
列車は積荷が重いことから速度が落ち、ゆっくりと進んだ。喜屋武駅を通り過ぎ、もう間もなく稲嶺駅にさしかかろうとする南風原村神里の集落(現 南風原町神里)の東側で、突然大轟音を起こし爆発した。
爆発の原因
爆発の原因は、1両目に積んでいたガソリン入りのドラム缶に、機関室からの火の粉が引火したことで起きた。その後、列車に積載した弾薬にも引火し、炸裂音とともに爆弾の破片が飛び散った。さらに、事故現場周辺に集積されていた日本軍の弾薬にも引火したため、あたり一面が火の海になった。
火だるまになった兵士が列車から転がり落ち、肉片や粉々になった衛生材料、破裂した破片が周辺一帯に飛び散った。神里集落(現 南風原町神里)の民家にも飛び火し2軒が焼失、1軒が爆風の風圧で潰れた。
この事故は、兵士、女学生、県営鉄道職員が亡くなり、負傷者も多数出るという大惨事となった。
事故の証言
事故当時、大里村目取真出身の糸数禧子さんがこの列車に乗り合わせていた。糸数さんは当時那覇市泊にあった昭和女学校の4年生で、那覇から大里の自宅に帰るために、友人たちと共に古波蔵駅から列車に乗っていた。
糸数さんは、火の粉がガソリンに引火する瞬間を目にして、列車を飛び降りたが、両手の皮がただれるほどの火傷を負ってしまった。また、糸数さんの友人の一人はこの事故により亡くなった。
糸数さんの列車爆発事故、および沖縄戦体験についての証言は『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』に掲載している(31頁~38頁)。詳細については、こちらをご覧いただきたい。
2.事故処理
爆発が静まった夕暮れ、現場近くの神里に駐屯していた輸送部隊と、東風平国民学校(現 東風平小学校)にいた日本軍の衛生兵が駆けつけ、救出作業と事故処理にあたった。息のあった負傷者は南風原国民学校(沖縄陸軍病院)に、遺体は東風平国民学校(野戦病院)に運んだという。
事故現場には憲兵隊と兵隊が駆けつけ、事故調査にあたっていた。事故現場に民間人が立ち入ることは許されなかった。また、周辺住民に対して事故のことを口外しないように「かん口令」を敷いた※。この事故は日本軍の不祥事だった。
※南風原町史戦災調査部会編『神里が語る沖縄戦』(南風原町沖縄戦戦災調査12)南風原町史編集委員会 1996 26頁
民間人のようす
当時産業組合で供出係をしていた上原清光さんは、事故の翌日に供出のため稲嶺駅に行くと、「帰らぬ我が子や家族の遺品を探して、涙を拭きながら袋を手にして遺族が歩いていた。その姿を見るのも痛ましく、胸のつまる思いであった」と語る※。
また、神里に住んでいた軽便鉄道の職員でさえ、現場に入ることができたのは事故の3日後だった。このときには、死体処理や負傷者の搬送は終わっていたが、現場は臭気がただよい、人間の肉片や軍服の切れはし、粉々になったガーゼなどの衛生材料が散乱していたという。
※大里村役場企画課編『私の戦争体験記』大里村役場1987 36頁[再掲:南城市教育委員会編『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』2021 528頁]
日本軍の動き
玉城村(現 南城市)に駐屯していた独立歩兵第15大隊(第62師団 石部隊)は、爆発発生の10分後には、以下のような隊長命令を発している。
「稲嶺西北側高地附近に集積中の球部隊弾薬は一五三〇頃より爆発中にして稲嶺駅に集積中の大隊弾薬も危険に瀕しつつあり」
「石十五作命第56号 独立歩兵第15隊命令」(アジア歴史資料センター)[事務局により翻刻『南城市の沖縄戦 資料編』413頁掲載]
「大隊は直ちに兵力を派遣し稲嶺駅集積中の大隊弾薬資材の防護を実施せんとす」
「各隊長は速やかに一ヶ個小隊を稲嶺東北二〇〇メートル十字路に急派し三輪大尉の指揮に入らしむべし」
この命令を受けて、各中隊が小隊を派遣したことが、同大隊の陣中日誌※からわかる。
注意すべきは、独立歩兵第15大隊(第62師団 石部隊)は「稲嶺駅集積中の大隊弾薬資材の防護」のために兵力を派遣したということである。列車に積載され爆発した弾薬は山部隊のもの、稲嶺駅北側高地に集積され列車爆発に伴って爆発した弾薬は球部隊のもの、稲嶺駅に集積されていた弾薬は石部隊のものだった。
※陣中日誌とは、原則として中隊以上において作成することが義務付けられていた、いわば軍の公文書のこと。それぞれの部隊の毎日の位置、主要な命令・報告・通報、行軍・宿営のこと、戦闘の景況、人馬の異動および原因の概要、死傷者および勲功者の事蹟、主要な時期における編制表および将校職員表、宣伝、武器・弾薬・器材・装具・軍馬などに関すること、補給・給養・衛生・教育・軍紀に関することなどが記されている。
死傷した兵士と民間人の扱い
爆発事故で死傷した軍人や民間人はどのように扱われたのか。記録として残っているのは、列車に乗車し多くの死傷者を出した歩兵第89連隊(山部隊)の陣中日誌のみである。
負傷した衛生教育隊岡田三郎一等兵は東風平国民学校の山第一野戦病院に運ばれたが、「顔面、頭部、背部及び、両大腿部に大火傷を負ひ」重傷、治療の甲斐なく13日に死亡、14日に大隊長列席の下で慰霊祭が行われ、15日には那覇の護国寺に遺骨が安置された※。
陣中日誌の記録を見る限り、事故で亡くなった兵士は丁寧に扱われ葬儀も行われている。しかし、亡くなった女学生や軽便鉄道職員の葬儀はどのように行われたのか、また補償があったのかについて、詳しいことは不明である。
※「自昭和19年12月1日 至昭和19年12月31日 陣中日誌 歩兵第八九連隊第二中隊」(アジア歴史資料センター)
3.日本軍の不祥事
第32軍は、1944年12月の第9師団(武部隊)の台湾転進に伴って部隊配備の変更を行った。中頭(一部は金武村・恩納村)一帯に駐屯していた第24師団歩兵第89連隊を、これまで第9師団が駐屯していた南部(現在の八重瀬町一帯)に移動させた。この移動(兵士や弾薬、資材の輸送)の際に県営鉄道を使用したのである。そして事故が起こった。
事故から3日後の12月14日、長勇第32軍参謀長は、この事故は十・十空襲の被害に比較できないほど大きな被害であり、国軍創設以来初めての不祥事件であるとした。さらに、規定に反して無蓋車に弾薬やガソリン等を積載したことが事故の原因であるので、輸送した兵団(山部隊)と輸送を援助した兵器廠(第三十二軍野戦兵器廠)、そして兵站地区隊(第四十九兵站地区隊)の責任者は厳罰に処されなければならないと断じた※。
※「第九四号 石兵団会報」(アジア歴史資料センター)
参考資料
南城市教育委員会が発行、製作した列車爆発事故に関する資料について以下にまとめる。
●『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会 2021(第2版)
列車爆発事故については、第4章第3節「列車爆発」(410頁~418頁)において解説。
●南城市教育委員会『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会 2021
大里村目取真出身の糸数禧子さん、大里村銭又出身の仲程シゲさんの他、複数の方の証言において列車爆発について言及されている。
●南城市の沖縄戦 証言の朗読 【証言者:糸数禧子(朗読:井上あすか)】
上記『証言編』掲載の糸数禧子さんの証言を、俳優が朗読した動画。