なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

生業の場としての冨祖崎海岸

更新:

シェアする

生業の場としての冨祖崎海岸
クリックで画像を拡大できます

琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科 榊原愛

1. はじめに

 私たちは、今回この琉球民俗学野外実習の授業において、南城市冨祖崎の方々からライフヒストリーや、自分たちが気になった古写真についてお話を伺い、写真が撮られた当時冨祖崎の方々がどのように生活してきたのか学んだ。

1)調査者の概要
調査日:2023年6月17日/6月29日/7月13日/7月21日
調査場所:南城市佐敷町冨祖崎 冨祖崎公民館
調査者:榊原愛、他3名

2)話し手のプロフィール
・新垣さん(仮名)昭和11年2月2日生まれ
・比嘉さん(仮名)昭和27年9月28日生まれ
・屋良 影敏さん 昭和30年6月30日生まれ

2. 聞き取りしたこと

冨祖崎の全体的な変遷

① 人口
昭和60年は650名、平成26年は372名、平成28年は350名、令和5年は445名で、比嘉さんによると、近年の人口増加は県外からの移住者(主に30~40代)によることが大きいと述べていた。

② 高い自治会加入率
冨祖崎自治会では、現在の加入率は97.4%である(冨祖崎自治会調べ、2023年7月)。区長さんである比嘉さんによると、区費がアパートなどの家賃にもともと含まれていたり、移住者宅に訪問し、自治会の説明と勧誘を積極的に行っているという。冨祖崎の規約(平成16年)には「居住から2カ月以上経過した際、自治会に入会し区費を納める権利を有する。」という文言が記載されている。しかし、法的な強制力はなく、それによって民主的・開放的な自治を目指してきたという。

字旗のあらわす意味

上図は字旗が描かれた冨祖崎公民館の写真である。
冨祖崎の「冨」という文字をハマジンチョウ花弁の中心に添え、三つの波で支えることで冨祖崎の自然豊かな様子を表している。
冨:富に通じるという意味。字の豊年と繁栄を表現している。
ハマジンチョウ:5つの花弁で冨祖崎を構成する5つの班を表現している。
3つの波:冨祖崎の理念である、「融和・協調・団結」を表現している。

写真の概要

塩田跡と男性

撮影時期:詳細な年月日は不明であるが戦後(60年から70年前)だと思われる。
撮影場所:現在の慰霊塔やガジュマルの木がある場所の近辺(当時は砂浜)で現在はこの砂浜が埋め立てられて冨祖崎運動公園となっている。

冨祖崎の製塩業について

 冨祖崎海岸は波が静かで製塩業に適しており、小規模であったが明治ごろから製塩が行われていた。沖縄全体での塩業は、1694年に那覇の泊で始まったとされているが、冨祖崎で製塩がされ始めた時期ははっきりとわかっていない。しかし、冨祖崎の塩田(マースナー)の跡の位置などから冨祖崎の創設以降(100 年弱)であると思われる。戦前は個人が塩田の土地を所有して塩業を行っていたようだが、戦後間もないころ、冨祖崎の有志が買取って字の所有物となった。製塩業は太陽熱によって作る量が左右され、夏と冬で製塩高に差があるが、夏の15日で60俵(1俵50斤)を生産したという。(当時は1俵1円20銭)一度衰退し、戦後復活したかと思われたが厳しさと輸入塩に圧倒されて昭和23年に全面的に姿を消した。(冨祖崎公民館 2023)

製塩業が行われなくなった後の海岸の活用

 昭和以降の時代にほとんど製塩業が行われていなかったこともあり、聞き取り調査の話者である新垣さん・比嘉さん・屋良さんから直接マースナーや製塩業について詳しくお話を伺うことができなかった。しかし、3人のさまざまなライフヒストリー聴く中で、塩田跡の海岸でよく遊んでいたというお話があった。そこから、塩田がなくなった後海岸がどのように使われたのかを詳しく伺うことにした。
 新垣さんが20代前後だった昭和1950年代には、夜塩田跡の海岸や現在の公民館そばのガジュマルの木の近くで男女数名ずつ集まって、よく「モーアシビー」をしていたという。「モーアシビー」とは、「王府時代から戦前までの沖縄に存在した婚姻媒介機能を有する歌舞の習俗である。夜なべ仕事を終えた男女が村外れの野原(毛)や海浜などに集まり、深夜遅くまで歌い踊った。」というものである。(井谷泰彦 2014)新垣さんは、モーアシビーを通して旦那さんとなる男性と交流を深め、23歳のときに結婚したという。当時は移動手段も少なく、遠くに出かけることもなかったので、年頃の若者たちは、よく海岸に集まって遊んでいたということを伺うことができた。
 一方、戦後生まれの比嘉さんと屋良さんは幼少期のころからよく海岸や砂浜でよく遊んでおり、釣りなどをしていたと言う。比嘉さんと屋良さんが幼少期だった1960年代の海岸や塩田跡では、ワーヌフル (タチウオ)やイシダイ、アシチン(リュウキュウドロクイ)を釣ることができた。主に煮付けや刺身にして食べていたという。特にアシチンは刺身で食べるととても美味しいが、細かい骨が多いため、鱧を調理するように骨ごと細かく切れ込みを入れて食べやすいようにしていた。また、砂浜では潮干狩りもよく行っていたらしく、アファケー (ハマグリなどの二枚貝)やチンボーラ (サザエなどの巻き貝) がよく採れた。これらの具は茹でて身と殻を分けた後、身を刻んで油味噌と一緒に漬けて食べていた。
 1980年に埋め立てられて、冨祖崎公園が完成するまで、塩田跡では人々が集う憩いの場であり、遊びの社会空間であった。このように海岸がよく活用されていたため埋め立てられることに反対する人もいたのではないかと考えたが、比嘉さん日く特にそのような意見はなかったということを聞くことができた。

漁業について

 塩田跡近くの海は遠浅で魚が多かったというお話を伺ったため、冨祖崎の漁業はどうだったのかについても興味を持った。
冨祖崎で漁業の専業を行っていたところはなく、ほとんどが農作業との兼業であった。
 主に漁の方法としては地引網漁と置き網漁が主流であった。写真の左上にもサバニが映っているように、漁師たちはサバニを漕いで(時代が進むにつれてエンジンとモーターで動くようになった)沖に出て、漁を行っていた。海に潜って魚を銛でつくといった漁の仕方はされていなかったことがわかった。

3. 考察

 この古写真についてお話を伺ってみて、製塩業が行われなくなった後にも、冨祖崎の海岸にはたくさんの人が集い、憩いの場となっていることが分かった。現在は埋め立てられて公園となっているが、それもまた時代に合わせた人々が集まるいい場所となっているのだと感じた。それに加えて、事前調査で用いた佐敷町史を読んだ際にもっと大きく漁業が行われていたと思っていたがそうではなく、農業の傍らで行っていたということも、現地の方のお話を伺うことで分かった。

4. おわりに

 4回にもわたってお話を聞かせて頂いた新垣さん、比嘉さん、屋良さんの3名の方には本当に感謝の意を述べたい。選定した写真に関することだけでなく、ライフヒストリーなどは沖縄独特の考え方やまじない、食生活など自分の知らないことだらけであった。私にとって、地域に出向いて現地の方にインタビューをするというフィールドワークは初めての経験だった。最初はとても緊張したが、優しい3名の方やチームの方との協力でこのようなレポートを作成することができた。この経験から、より琉球民俗学への興味とライフヒストリーを伺うことの楽しさとを感じることができた。
 今回特に冨祖崎の塩田について詳しくお話を伺おうと思ったが、塩業が大正時代までしか行われていなかったこともあって実際に体験した人がおらず、調査が行き詰まってしまうかという場面があった。しかし、塩業が行われなくなった海岸で字史には書かれていない当時の貴重なお話を伺うことができた。直接インタビューすることならではの体験をすることができたと思う。これからの研究においても、海や海岸と人々の繋がりがどのようなものであったのかについて研究したいと考えているので、この経験を上手くいかしたい。

参考文献

井谷泰彦2014
 「沖縄のモーアシビ(毛遊び)に見る「習俗としての教育」–その教育的役割と機能–」(早稲田大学大学院).
清野聡子2016
 「沖縄本島泡瀬の塩田の郷土史にみる地域住民の砂州と干潟への環境認識の変遷」『環境システム研究論文集』34:37-46.
佐敷町史編集委員会1984
 『佐敷町史 2 民俗』佐敷町役場.
冨祖崎史編集委員会2023
『ハマジンチョウの里 字誌冨祖崎』.