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女性たちと地域活動

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女性たちと地域活動
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琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科 川澄ひかり

はじめに

 今回、南城市佐敷冨祖崎におけるフィールドワークでは古写真を用いた聞き取り調査を行った。本調査では、冨祖崎に生きる人々のライフヒストリーや行われてきた行事の背景を明らかにすることで字の変遷と冨祖崎の自治の在り方を考察することを目的としている。

1.調査テーマと背景

(1)テーマと選んだ古写真
【テーマ】
 今回は聞き取り調査のなかでも婦人会の活動に焦点を当て、冨祖崎において女性がどのような役割を担っていたのか明らかにする。また、実際にその活動に携わっていた方にお話を伺い、当時の生活の様子も含めて活動の意義を考察する。

選んだ古写真
第七回婦人バレーボール大会優勝記念(G000006217)
撮影場所:佐敷中学校 撮影時期:1979(昭和54)年7月15日

(2)テーマと写真の背景
 今回は佐敷町史と字誌冨祖崎を中心に、冨祖崎における社会組織と女性の組織内の位置と役割をまとめた。

<「むら」での役割>
 1941年以前は農業が主な産業であったため、生活様式は農業を中心としたものであった。明治・大正・昭和初期における佐敷町の民俗において年齢層で区分けされ、明確な目的をもってつくられて恒常的な組織というものは、むらの伝統として存在しなかった。そのため、近代になるまでは冨祖崎においても女性による恒常的な集まりはなかったと思われる。

<家庭内での役割>
 女性の主な役割は洗濯、育児、炊事、掃除などの家事全般に加え、豚の餌づくりや牛馬の草の補充など家畜の世話であり、キビの収穫や製糖、豆の植え付けなども女性たちは行った。特に農繁期は手伝いやイーマール(結まーる)で多くの人々がやってくるため、食事の準備や後片付けなどで農作業の手伝いをする時間が極めて少なかった。

<婦人会>
戦前
 1906年(明治39)に婦人同志会として、生活全般の改善を目的として発足する。1931年(昭和6)には愛国婦人会として組織変更し、太平洋戦争中は国防婦人会として当時の国策遂行に協力団体として活躍した(出征兵士の送り出し、壮行会の世話など)。1942年(昭和17)になると戦争が激化し、銃後の守りだけでなく自らも戦闘員として備えることとなった。

戦後
 1947年(昭和22)に佐敷町婦人会が設立される。冨祖崎婦人会の主な活動は、交通安全街頭指導、佐敷町バレーボール大会への参加、区民運動会への協力、美化コンクールに向けて公民館周辺の清掃、婦人主張大会への参加、模擬議会(学習会)、生活改善グループとの共同活動などであった。冨祖崎婦人会は、2015年(平成27)3月31日をもって活動を休止した。

2.聞き取り内容

(1) 話し手のプロフィール
・新垣さん(仮名)1936(昭和11)年2月2日生まれ
・比嘉さん(仮名)1952(昭和27)年9月28日生まれ
・屋良 影敏さん 1955(昭和30)年6月30日生まれ

(2) 調査場所、調査日時
場所:南城市佐敷冨祖崎公民館
第1回:6月17日 9時半~12時
第2回:6月29日 10時~12時
第3回:7月13日 10時~12時
第4回:7月21日 15時~17時

(3) 婦人会活動の概要
 婦人会の現在活動は行っていないが、当時実際に婦人会で活動していた新垣さんにお話を伺った。婦人会では芸能大会への出場や、講師を招いて漬物講習、味噌づくりなどを行った。活動で作った漬物や味噌は部落の方々に配布した。また、婦人会は自らの活動の資金造成も行っていた。婦人会のなかに生活改善グループというグループがあり、婦人会とは予算も役員も別であった。年齢層は幅広く、入退会については特に制限はなかった。模合で3ドルずつ集めて鹿児島などに旅行に行くなどかなり活動は活発であった。
 グループの活動予算をつくるために婦人会と青年会で土地を借りてそこでサトウキビを栽培・生産を行い、収穫したものを売って資金造成をしていた。(写真番号:G000006137)当時は機械などはなく、すべて手作業で行った。活動予算は農連市場から漬物用の野菜など材料調達などに利用した。

(4)婦人バレーボール大会について
 佐敷町では12字対抗による婦人バレーボール大会が行われていた。婦人会の集まりは娯楽施設が少なかった当時からすると、字のレクリエーションのような感覚で、練習には子供を連れていくこともあった。今でも何名か婦人会のメンバーが現在の老人会でスポーツなどの活動を継続して行っている。

<写真に写っている方々>
・婦人会長(前列中央で賞状を持っている白い服の女性)
・副会長(後列右の白い服の女性)
・監督(左側の赤いズボンを履いた男性)
・コーチ(右側のワイシャツを着た男性)
・選手の方々
 他にも写真には写っていないが2,3名マネージャーのような方がいた。

<ユニフォーム>
 ユニフォームは部落からの助成金と参加者個人からの募金で、毎年監督が変わるたびに変更していた(デザインの変更はなく、色だけ変更していた)。当時中学校の隣に制服を売っている字の方が居り、そこへ毎年ユニフォームを注文していた。ユニフォームのデザインはおそらく監督が考案したものである。

<日々の練習>
 日々の練習は旧冨祖崎公民館の校庭(現冨祖崎公民館のゲートボール場)で行っており、大会本番のみ体育館で行われた。練習は夕方16時~19時頃まで行い、島草履やスニーカーをはいて練習したりなかには裸足で練習に参加する方もいた。監督とコーチはそれぞれ選手の方の旦那さんで、かなり厳しい指導を受けたが、女性たちは子育てや家事と両立しながら練習に励んでいた。大会後は、盛大にお祝いや反省会などはあまり行わず公民館でお菓子などを少し持ち寄って質素に行うことが多かった。練習後も大会後も学校から帰宅した子供の世話や夕飯の支度などをする必要があったため、早々に解散することが多かった。

おわりに

 冨祖崎フィールドワークを通して、改めて聞き取り調査における事前準備の大切さと臨機応変な対応が求められることを痛感した。事前準備に関しては、主に中間報告のあたりで気が付いた点である。第1, 2回目の聞き取り調査は話し手の方々のライフヒストリーを聞き出すことを主な目的としていた。そのため、第3, 4回目の聞き取り調査ではライフヒストリーから得られた情報と古写真から読み取れる情報をすり合わせて質問を考える必要があった。しかし、実際の聞き取り調査を振り返ると、会話の流れを意識しすぎて聞きたいと思っていた質問を聞きそびれてしまったり、質問を切り出すタイミングを逃してしまうことが多かった。このように自身の聞き取り調査を振り返って、聞き取り調査を行う上で必要な技術のひとつは会話のなかで質問をどのように織り交ぜるかという点であると感じた。一問一答ではなく、会話という手段をとることで相手の話し方や表情を細やかに読み取ることが出来る。民俗学を学ぶ上で必要なのは文字や言葉による情報だけでなく、実際に五感で感じることであり、そこから当時の時代背景や人間関係などを推測する手がかりを得るのである。今回の野外調査は、聞き取り調査の練習だけでなく、他者から話を聞くことの意義やそれに対する聞き手の在り方を考えることが出来るとても良い経験となった。

参考文献・参考資料

佐敷町史編纂委員会 1984
 『佐敷町史 二 民俗』 佐敷町役場
浜元盛正、宮城勇 2007
 「沖縄県における家庭婦人バレーボールに関する一考察」『琉球大学教育学部紀要 第二部』琉球大学教育学部 pp.139-156
冨祖崎区字誌編集委員会2023
  楚南幸明ほか編『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎公民館