なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

多様性とデジタルアーカイブ

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多様性とデジタルアーカイブ
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堀川輝之(南城市文化課)

1.はじめに

 この10年間ほどで、筆者は多様性という言葉をよく耳にするようになりました。マイノリティの人権を擁護するという文脈でこの言葉が用いられる際、理解に困ることはありません。しかし、「情報の多様性」という言葉を初めて聞いた時、その意味を理解することができませんでした。そして、恥ずかしい思いをしました。なぜなら、筆者は、情報サービスに携わる者であるからです。それ以来、「情報が多様であるということはどういうことか」を考えるようになりました。
 筆者は、それについてある程度学習してから、議論の必要性を感じて、同業者の人々や大学生たちに、次のように、多様性に関する様々な問いをするようになりました。「なぜ情報は多様であるべきか」「多様な情報を利用に供するためには、具体的に何をしなければならないのか」「社会全体にとって、情報の多様性はなぜ必要なのか」「多様性を重要視するということは、価値づけをしないということなのか。優劣はつけないのか。個々の内容の質を吟味しなくてもよいのか」「人文科学のこれまでの多様性の議論をどのように理解・評価しているのか」など……。
 正直言って、有益な議論ができたことはほとんどありませんでした。ここで1つ、ある大学生との会話を紹介したいと思います。

筆者:多様性がなぜ大事なの?
学生:だって、最近、みんな多様性が大事って言っているから。
筆者:みんなは、どのような理由で大事と、言っているの?
学生:マイノリティを差別してはいけないとか、どのような個性も等しく認められる 平等な社会のほうがよいとか……。
筆者:どのような個性も認められるべきということは、ヒトラーのような個性も認められるべきなのかな?
学生:ヒトラーはダメ。
筆者:どうして?
学生:だって、そんなの常識だから。
筆者:じゃあ、みんなが多様性を批判し出したら、どうする? 多様性擁護は、おかしい人たちにも優しくするということだから、よくないことだと。
学生:それは……。
筆者:多様性なんて間違っているという考えが常識になったら、その常識を認めるの?
学生:……。
筆者:言い方を変えよう。みんなが、全体主義が素晴らしいと言うようになったら、どうする? かつてそういう時代があったし、日本ではひと昔前、全体主義が当たり前だったよ。我々の先人たちは、全体主義を愛していたんだよ。
学生:……。
筆者:スポーツチームでも、企業でも、『一丸となって』とか『心を1つにして頑張ろう』とかよく言うけど、それは悪いことなの? 高度経済成長期には、サラリーマンは労使一体になってがむしゃらに働いたから、世界市場を席捲することができたのでは?
学生:……。
筆者:もし戦争が始まったらどうしよう。負けるより勝つ方がよいから、国民の心は1つになるほうがよいのではないか? いったん戦争が始まったら、“一億一心”は正しいということにはならないか? 心バラバラでは、負けちゃうよ。
学生:……。
筆者:ある民族のある伝統について考えてみよう。その伝統は、その民族の個性の1つだから、その個性を尊重することは、多様性を認めるということになる。しかし、その民族の中にも、その伝統を毛嫌いする人がいると思う。その人の考えも個性の1つと言える。多様な考えの1つだ。さあ、この場合、「個人の個性」と「民族の個性」のどちらが尊重されなければならないの?
学生:……。

 これは大学生との会話ですが、実は、社会人でも、多様性について深く考えたことがない人と話をすると、だいたいこれと同じような会話をすることになります。「極端な例ばかり出されては困る。もっと常識的に話をしよう」と叱られたことがありますが、筆者はその時「その態度では多様な議論はできないですね」と言い返しました。建設的な議論ができたことはほとんどありません。
 そのような経緯もあり、一度、多様性について考えをまとめたいと思っていました。筆者は、教育委員会文化課に所属する者として、また、公的な歴史文化情報サービスの従事者の1人として、多様性を考える時、憲法の精神に準拠しなければなりません。その枠組みの中で、本稿では、多様性について少し議論を深めたいと考えています。
 本稿では、第1章で、憲法の精神が多様性とどのように関係しているのかを述べ、第2章で、現代における多様性について述べます。第3章では、社会の多様性を高めるために、個人が「認知的複雑性」を高めることが必要であることを説明します。そして、第4章では、多様性を語る上で欠かすことの出来ないJ・S・ミル著『自由論』に記されている多様性に関する議論を紹介します。また、第5章では、デジタルアーカイブと多様性の関係について筆者の意見を述べます。最終章では、筆者の主張を簡潔にまとめます。

2.憲法と多様性

本章では、日本国憲法の第15条と第13条をみながら、多様性の考え方を整理したいと思います。

① 日本国憲法第15条
公共の情報サービスに携わる者は、第15条「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」ということを念頭に入れなければなりません。よって、ある特定の層に対して偏った内容の情報を提供してはいけません。全体の奉仕者として、できるかぎり様々な層の需要を満たすために、できるだけ多種多様な情報を公開する義務を負っているのです。

② 日本国憲法第13条
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」これが第13条です。筆者は、多様性を考える上で、第13条はひじょうに重要であると考えています。なぜなら、すべての人が、「異なる個性を持つ個人」として尊重されるという前提があって初めて、多様性が尊重されるからです。憲法学者の樋口陽一氏は、同じく憲法学者の小林節氏との対談本『「憲法改正」の真実』で、次のように、第13条の重要性について話しています。

私はよく学生への講義で言っていました。「日本国憲法で一番肝腎な条文をひとつだけ言えと言われたら、十三条だろう」と。すべての国民が「個人」として尊重されるということが憲法の要なのです。

[樋口・小林2013:68]

 樋口氏は第13条が「一番肝腎」であると述べていますが、小林氏も同条の重要性を主張するために、次のように、同条を少し噛み砕いて説明しています。

人は人として生まれただけで幸福に生きる権利があり、幸福とはそれぞれが異なった個性をもっていることを否定せずにお互いに尊重しあうことで成立します。

[樋口・小林2013:69]

 「それぞれが異なった個性をもっていることを否定せずにお互いに尊重しあう」は「多様性を認め合う」と翻訳することができると、筆者は考えます。

3.現代における多様性

 学問の発展とともに、多様性のある社会が望ましいという考え方が確立されてきました。文化人類学者の青木保氏は、1920年代から現代に至るその流れを、次のようにわかりやすく説明しています。

文化の多様性を擁護していこうとする考え方が人類学や社会科学の中に明確な形で現れたのは一九二〇年代ぐらいからで、その歴史はまだ若いものです。アメリカの人類学では国内の先住民擁護や人種差別克服のために、マーガレット・ミード、ルース・ベネディクトらが、文化相対主義を説きました。そして、政治哲学では文化複合主義、すなわちプルーラリズムが現れました。これは、イタリアの哲学者ヴィーコを先例として発展した思想ですが、(略)アイザイア・バーリンによって展開され、人間の合理的理性を信頼しながら、同時に文化というものは多様であることを認識して、それを保存しながら人類共通の合理性を尊重していこうという主張です。

[青木2003:35]

 「文化相対主義」は、簡単に言うと、「何が正しくて何が間違っているのかは各々の文化の中で決定され、二つの異なる文化/道徳の体系が評価される客観的立場などない」[シム2001:262]という考え方です。これは、多様性を認める考え方であり、それまでの「西洋中心の合理性」に基づく価値判断の誤りを指摘したという点で画期的でした。
また、多様性を認める考え方は、世界人権宣言(1948年)にもみられます。同宣言では、「人類社会のすべての構成員の、固有の尊厳と平等にして譲ることのできない権利を承認する」と謳われています。政治哲学者のキムリッカは、世界人権宣言を人権革命とみなし、その延長線上に、多文化主義をとらえる思想を次のように展開しました。

 彼は、フランス革命以降の国民国家が均質な国民文化の創出を理想とすることによって国内のマイノリティをマジョリティ文化に同化させたり、北米諸国やオーストラリアなどが先住民の文化を抑圧してきたという近代国民国家の歴史を批判しつつ、国内の先住民や文化的マイノリティの「集団的権利」と、集団に属する「個人の基本権」とをともに保護する政策によって、文化の多様性と文化横断的価値(=人権)の両立をめざす「リベラルな多文化主義」を展開しているのです。

[山脇2009:165]

 なお、プルーラリズム(pluralism)については、青木氏の説明に加えて、次の有名なリオタールの主張も忘れてはなりません。

 ジャン=フランソワ・リオタールによれば、政治の領域に絶対的な大きな物語(すなわち普遍的な説明理論)はもはや存在しないのであり、存在するのは局地的な目的を達成しようとする諸々の小さな物語の多元性である。

[シム2001:162]

 この通り、文化人類学や政治哲学などにより、多様性についての考え方は発展してきました。では、現代、リオタールの言う通り、「絶対的な大きな物語」はなく、「局地的な目的を達成しようとする諸々の小さな物語の多元性」だけが存在すると断言できるでしょうか。確かに一面的には、それは正しいと言えるでしょう。人とモノ、カネ、サービス、情報が目まぐるしく移動する変化の激しい現代においては、「万人の認める大きな物語」は後景し「多種多様な小さな物語」が目立つと言えるでしょう。しかし、現代社会がそのような近代資本主義体系にあるがゆえに、逆説的に、一元化(一様化)に向かう大きな力も働きやすくなっているということも言えます。その点について、今村仁司氏は、次のように説明しています。

 近代資本主義体系では、すべての物や人間は商品・貨幣・資本の原理の内に包摂されて、万物が交換価値の表現になってしまう。政治的領域でも、権力の一様化が発展し、あらゆる人間がひとつの権力に自発的であれ強制的であれ服従せしめられる。日常生活においても、大量消費時代に入り、流行現象がたえず反復されると、消費行動は一様化(商品化)する。経済・政治・思想の領域で一様化が全面的になるのが現代の特徴であるとすれば、近代が理想として掲げた個人の自立と独立、自立的人間の相互的連帯の観念は地盤を掘り崩されてしまう。

[今村1988:419]

 現代社会では、この一様化の動きへの反発として多様性が求められていると、今村氏はさらに次のように説明を続けています。

こうした事態への批判として、多様性への要求が立てられる。この場合、多様性は実質的には異質性の概念に近づく。均質化した世界への異議申し立てとして、多様性は批判力をもつことになる。個人の生活が非画一的で異質的な領域を抱え込み、それを生きぬくこと、現実世界が異質的なものを排除せず(一元化せず)、異質なものたちが自律的に協働しあえるように希望すること、これらが多様性の概念にいまやこめられるようになった。

[今村1988:419]

 一元化する力を抑制するためには、多様性が尊重される社会の実現が必要であり、その実現のためには、異質なもの同士が協働し合えるようにならねばならないと言えます。そして、異質なもの同士がお互いを認め合うためには、バーリンの言う「人間の合理的理性を信頼しながら、同時に文化というものは多様であることを認識して、それを保存しながら人類共通の合理性を尊重していこうという態度」が求められるでしょう。バーリンの著作でも、その点について確認しておきましょう。
バーリンの言う「文化というものは多様であることを認識して、人類共通の合理性を尊重する態度」は、決して「多くの考えの中からある真理を見出し、それを多くの人に盲従させるという態度」ではありません。また、「多様なものすべては批判も解釈もなく等しく尊重するという態度」でもありません。
 これについて、バーリンは、「歴史の必然性」という論文で、決定論と相対主義を批判することにより説明しています[バーリン2000(1971):518]。決定論とは、絶対的に正しい真理は存在しているという考え方で、相対主義は価値判断により優劣をつけてはいけないという考え方です。福田歓一氏によると、バーリンが決定論と相対主義を批判したのは、「選択の自由を抹殺し、人間を道徳的責任から解放して、牢獄の平和を与えようとする態度の歴史への投影(中略)を見るから」[バーリン2000(1971):518]です。さらに、「自由は妄想であるとする責任解除の歴史観が横行するのは、現代が『選択肢のなかからどれかを選ばなければならないという恐怖』と『責任を放棄したいという願望』に充ちた『混乱と内的虚弱の時機』だから」と、福田氏はバーリンの見解を説明しています。
 つまり、バーリンの言う「文化というものは多様であることを認識して、人類共通の合理性を尊重する態度」とは、虚弱で消極的なものではありません。バーリンは「人間観・世界観における多元性の価値を強調」[バーリン2000(1971):519]しつつも、「選択の責任を強調」[バーリン2000(1971):519]しているのです。つまり、バーリンは、絶対的真理などはないし、すべてが同じ価値であるはずもないという理由で、「個人としての責任を持って、能動的に価値づけをして選択すること」を主張しているのです。そのような「選択」が、個々の人間の「合理的理性への信頼」の上で成り立つべきであるというが、バーリンのプルーラリズムなのです。
 「選択の責任」とは、能動的に精神的な活動をする(自分自身の生きる意味のために、自分自身の責任でものごとを選択する)ということです。これに関連して、バーリンは「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」という論文の中で、ミルの『自由論』から学ぶ意義を強調していますが、その理由は、福田氏の説明によると、こうなります。「(ミルは)生きるに価する意味を社会体制を超えたところ(個人の個性)に認め、消極的自由(干渉されない自由)を強く主張するとともに、何よりもそれを精神的な活動に求めて、価値の多元性と個性の尊重とを強調する点において、ミルの『自由論』は最もすぐれたモデルを提供しているからである」[バーリン2000(1971):520](丸括弧内の文言は筆者による)。
 「個性の尊重」は、「多くの人間の様々な個性」を尊重するということですが、ミルは、各人がそれぞれの目的を追求することにより、自分だけの閉じた世界で満足すればよいということを主張しているわけではありません。むしろ、ミルは、多種多様な個性が関係しあうことにより新たなものを生み出すことができるようになると、考えています。それについて、バーリンは同論文で次のように詳しく説明しています。

 

 彼(ミル)にとっては、人間が動物と異なるのは根本的には、理性を所有するからでも、また道具や方法を発明するからでもなく、選択しうる存在、選択する場合に最も自分自身となり、手段として選択されるときにそうでなくなる、という存在であるから、騎手であっても馬ではないから、目的を追求するものであって単なる手段ではないから、自分自身の仕方で目的を追求するから、そうなのであります。こうして、この仕方が多様になればなるほど、人びとの生は豊かになるし、個人間のかかわり合いの領域が広くなればなるほど、新しく予期せられなかったものが生まれる機会は多くなるし、また、新鮮でまだ誰も踏み入ったことがない方向へ自分自身の性格を変える可能性が多くなればなるほど、個人にはより多くの道が開け、彼の行動と思考の自由の幅は広くなるというのです。

[バーリン2000(1971):401]

 バーリンは、このミルの考えを重要視し、同論文の他の箇所でも、人間が関係しあう結果、新しい事柄が不断に起きてくるという言い方で紹介しています[バーリン2000(1971):420]。そして、バーリンは続けて、ミルの考えをこう紹介します。新しい事柄が不断に起きるゆえに、人間の生活はどこまでも不完全で、その結果人間は自己を変化させ、常に新鮮であるという認識を持つことができる、と。ミルがその認識に拠っているという理由で、バーリンは、ミルの言葉は「今もなお生なましく、われわれ自身の問題にとっても重要なものとなっているのであります」[バーリン2000(1971):420]と述べています。

ここで、「人間の合理的理性を信頼しながら、同時に文化というものは多様であることを認識して、それを保存しながら人類共通の合理性を尊重していこうというバーリンの主張」(多分にミルの考えに拠った主張)のポイントをまとめておきましょう。

・価値の多元性(多様性)と個性は、尊重されるべきである。
・人間は個々に目的を持ち、能動的に責任をもって選択するべきである。
・人間は消極的自由(個人が選択する際に干渉されない自由)の確保された環境下で、選択ができるようになるべきである。
・人間は関わり合い、自己を変化させ、新鮮な認識を持ち続けるべきである。
・世界は常に不安定であり不完全であるので、絶対的な真理に到達すると考えてはいけない(決定論への批判)。
・すべては等しく価値があると考えて選択をしないという態度は、誤りである(相対主義への批判)。

 以上が、多様性に関する基本的な知識です。第5章では、J・S・ミルの『自由論』を参考にしながら、多様性に関する考え方ついては、さらに詳しく説明します。
 次章では、個人や社会に多様性を生むためには、個人の認知的複雑性を高めることが重要であるという説明をします。

4.認知的複雑性と多様性

 本章では、認知的複雑性の低下が導いた悲劇を、ナチスを事例として取り上げることにより、認知的複雑性を高めて多様な社会をつくることが重要であることを説明します。
 認知的複雑性とは、「パーソナリティを記述する一変数であり、特定の個人がどれほど 他者を多次元的に認知しているかを示す変数」[山口・久野1994:279]であり、幾つかの英文のパーソナリティ心理学関係の辞書の定義を要約すると「周囲の環境を多次元的に認知できる能力」[山口・久野1994:280]であります。複雑なものを複雑なまま認知できる能力、または、1つのことに対して複眼的に見ることができる能力とも言えるでしょう。
 筆者は、認知的複雑性を高める必要があると考えています。そうすることにより、多元的にものごとをみることができるようになり、その結果、多様な考え方や見方が存在することが当たり前であると考えることができるようになるからです。
認知的複雑性を高められると、1つの考えに容易に支配されなくなります。これにより、個人の中での多様性が生まれることになります。そして、そのような「多様性をもつ個人」が増えていくことにより、社会全体に多様性が広がっていくことになります。そのような社会では、全体主義的な人間が幅を利かせられなくなり、あらゆる組織で、認知的複雑性の高い人がリーダーになっていくようになります。そのようなリーダーたちが社会を動かすようになれば、かつてのように「進め一億火の玉だ」のスローガンで盛り上がる社会は生まれにくくなるでしょう。つまり、個々人が認知的複雑性を高めることは、最終的に、全体主義の最悪の形態(戦争)を起こりにくくするということに繋がります。要するに、平和のために、認知的複雑性は高めるべきであるということです。
 「平和のために」と考えることは、大袈裟なことではなく、公務としてデジタルアーカイブ業務を行う者にとっては、義務です。その根拠は、日本国憲法の前文と第99条にあります。前文には「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と記されています。そして、第99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とあります。よって、公務を行う者は、常に、究極のゴールとして、憲法の前文の実現を考えねばならないのです。
 心理学者の岡本浩一氏は、認知的複雑性が低い社会がいかに危険であるかを、ナチスの例を用いて説明しています。本章では、岡本氏の著作『権威主義の正体』から、ナチスの事例を3つ紹介します。それらは「焚書」「差別的教育政策」「ロマン主義に基づく殺害」です。

(1)焚書

 人々の認知的複雑性を低下させることで全体主義を推進したナチスの手口の1つとして、まずは、焚書を説明します。
 為政者が自分の都合の悪い情報を国民の目に触れないようにすることは、反民主主義的行為ですが、ナチスは大胆な方法でそれを実施していました。『権威主義の正体』によると、1933年5月10日、ナチス党員の学生・教職員が、ほぼ全国の大学や図書館で焚書を行なった[岡本2005:37]とあります。焼かれた本は、ドイツの文化的純血を損なうと懸念される図書でした。「本を焼却する国はやがて人を焼却するようになる」という詩人ハインリッヒ・ハイネの言葉[岡本2005:37]が、やがて、強制収容所でのユダヤ人虐殺により実証されるようになりました。
 ハイネの残したメッセージは、抽象的に言うと「隠してはいけないものを隠すと危険が生まれる」ということです。そう考えると、このメッセージは、次のような具象化ができるでしょう。「情報を公開しない国は、いつか、若者を火の上がる地へ送るようになる」「為政者にとって都合のよい書籍や資料だけを図書館や公文書館、博物館に置くような国は、為政者に抵抗する者を平気で殺すようになる」と。
 筆者が、見栄えのよい写真だけを厳選して公開することに抵抗を感じる根拠は、ここにあります。多種多様な情報を大量に公開することは、認知的複雑性を高めることに寄与します。やはり、多様性のある社会を生み出すためには、そうすることを目指さねばならないと、筆者は考えます。

(2)差別的教育政策

 ナチスは、非ドイツ人に対してまともな教育を与えませんでした。「高い教育を受ける=批判精神を涵養する」ということを知っていたからでしょう。批判力を持つということは、複雑に事象をとらえるということと同義なので、「高い教育を受ける=認知的複雑性を高める」と言い換えることも可能です。
 では、具体例を見ていきましょう。『権威主義の正体』によると、人種的に「ドイツ人」と判断されたポーランド在住者は、ドイツへ送還され、アーリア化プログラムに入れられましたが、人種的に「ドイツ人」と判断されなかった通常のポーランド人の子弟に対しては、不十分な教育のもとで奴隷化が進められました[岡本2005:44]。
 また、1940年5月25日に配布された極秘メモ「東部(ポーランドのこと)における劣等人種の取り扱い」に、ゲシュタポ長官ヒムラーは次のように書いています。

東部における非ドイツ人については、小学校四年生より上の教育を与えてはならない。教育の目的を、500を超えない数字についての簡単な算数と、自分の氏名と、『ドイツ人にお仕えすることは神聖な決まりです』の教条を書くのに十分なだけの読み書きの教授におくこと。それ以上の読書は好ましくない。

[岡本2005:44]

 こうした政策を実施していたということは、ナチスは、「教育水準の低い人間は、権威に服従しやすい」ということを知っていたのでしょう。実際、岡本氏の心理学研究によると、権威主義が相対的に高い人(権威を崇める傾向の強い人)は、教育程度が低い人、老人、田舎に住んでいる人、障害者、教条主義的色彩の強い宗教に関わっている人、社会経済的地位の低い人、社会的に孤立している人という結果が出ています[岡本2005:115]。岡本氏 は、「認知的複雑性の低い人は、複雑な情報を複雑なまま処理することが苦手であるため、教条や権威など単純で明瞭な概念によって自分の認知を割り切る傾向が強く出ることになるだろう」[岡本2005:128](太字は筆者による)と述べています。これは、「複雑な情報の塊の各要素をすべて正確に把握することができないため、その塊の全体像を理解することができず、単純明快で理解できる局所だけを理解して満足する」と言い換えることができるでしょう。
 ヒトラーは、人種差別を行なっただけでなく、そもそも、アーリア人に対しても、エリートと大衆を区別して、大衆に対しては差別的感覚を持っていました。ヒトラーの著書『わが闘争』で、彼は大衆について次のように述べています。「大衆は、英雄心もなければ知性もなく、単に凡庸な存在で、独創性を恐れ、優越した存在を憎むけれども、本当は指導者を欲しがっている。(中略)大衆を支配するのは、合理的な議論ではなく、憎悪や熱狂、ヒステリーといった激しい感情である。(中略)繰り返し情熱的に同じことを叩き込むことが肝心であって、議論の公平性などといったものはどうでもよい」[佐々木2007:104-105](太線は筆者による)。ヒトラーからみると、大衆はずいぶん低級な存在です。大衆は公平で知的な議論などできないのだから、繰り返し同じことを吹き込まれると、それを信じてしまう愚劣な連中というわけです。
 ちなみに、大衆を愚民と考えていたのは、当時、ヒトラーだけではありませんでした。ナチスの影響を受けていた日本の例を1つ紹介しておきましょう。それは、東条英機(当時首相)の例です。ミッドウェー海戦(1942年6月)の敗北後に東条がとった対応について、兵務局長であった田中隆吉は、彼の著書『敗因を衝く』で次のように描写しています。

  大臣、次官の他には何人にも知らさぬことにして極力事実の隠蔽に努めた。私は痛烈に当局のこの態度を非難した。それはある日の局長会報の席上であった。(中略)「ミッドウェーの海戦は明らかに敗北である。敗北は敗北として、それの偽らざる真相を国民の前に発表しなければならぬ。(中略)」と。(中略)首相は傲然たる態度で答えた。曰く、「政治というものはそんなものでない。大衆は愚だ。真相を知らしむれば士気を挫折する」と。(太字は筆者による)

[田中1988:97-98]

 東条英機内閣は、「大衆は愚だ」と言って敗北を隠蔽しました。おそらく、東条は大衆を次のようにみていたと、筆者は考えます。大衆は、戦況が不利な状態にある真相を知ったところで、そこから冷静に巻き返しの対策を考え、士気を高めることができない。むしろ、眼前の情報に感情的に反応し、士気を失うだけである、と。しかし、ミッドウェー海戦以後も続いた「当局による事実の隠蔽」こそが愚策であったことは、歴史が証明しています。国民は戦況を多面的に知る機会を奪われ、認知的複雑性を高めることができないようになり、政府や軍の誤った方針を信じるようになり、いつの間にか、国家全体が多元的な議論ができなくなり、その結果、無意味に戦争を長引かせるようになったのです。

(3)ロマン主義に基づく殺害

 ここでは、ロマン主義の危険性について述べます。
ロマン主義はどのような主義かというと、啓蒙主義と真逆の主義です。啓蒙主義との対比で考えると理解しやすいです。哲学研究者の丸山高司氏は、次のようにロマン主義を説明しています。

 ロマン主義は、啓蒙主義のたんなる裏返しにすぎない。啓蒙主義は、神話を排撃し、ロマン主義は神話を敬愛する。(中略)啓蒙主義において、「神話」は原初の蒙昧とされ、「権威」は盲目的服従と考えられ、「伝統」は迷信の源泉とみなされた。ロマン主義は、その評価を逆転する。神話・権威・伝統は、いずれも知恵の源泉とされる。

[丸山1997:121-122]

 また、歴史学者の増田四郎氏は、ロマン主義が発生した歴史的背景も含めて、次のようにロマン主義を説明しています。

 浪漫主義は、一八世紀のフランス的合理主義に対して、一九世紀のドイツの文学者とくに詩人たちが行なった反抗とみられるものであるが、その赴くところ、一種の文化革命となり、総じて、「説明し難きもの」、「非合理的なるもの」、「歴史的なるもの」、そして「与えられたるもの」の価値を強調し、深い愛情をもって、自分たちの属する民族の過去に沈潜、そこから祖国の再興をはかる身についた活力を得ようとする運動に発展した。

[増田1994:66]

 ロマン主義では、神聖、神話、伝説、精霊の世界、伝統文化、民族性、血統が尊ばれます。ナチスは、ドイツ民族が神秘性の高い民俗にセンチメンタルな感情を持っていることを利用し、ナショナリズムを昂揚させることに成功しました。つまり、国民を「国家の権威」に服従させることに成功しました。これが、ロマン主義による統治です。
 岡本氏は、ドイツのロマン主義について、次のように記しています。

ドイツの民俗文化がキリスト教伝播の前から、神秘性への傾性が強かったことがうかがえる。木霊や妖精、精霊などから構成される土着多神教の民俗伝承を豊かにもっていたことが権威主義の土壌であったことを指摘する論調がかなり多い。この種の神秘性への志向は、東ヨーロッパからロシアにかけてゆるやかに広く分布している。

[岡本2005:210]

 また、岡本氏は、ヒトラーが1925年に著した『わが闘争』の中に、ヒトラーのロマン主義的な傾向を見出しています。「人種的にもっとも貴い構成分子を集めて残し、優越的な地位に就かしめることは、ドイツ民族の崇高な使命である」[岡本2005:36]というのが、その箇所です。これは、人種や民族という大きな括りで、人間の優劣を決定するという、恐ろしい思想です。これが、非アーリア人差別・虐殺という形で具体化されていきますが、ユダヤ人に関するホロコーストはよく知られているので、ここでは割愛し、ほかの事例を紹介することにします。ここでは、人種の優越性を高めるために、アーリア人として「相応しくない」とみなされたアーリア人が殺害された例をみてみます。

1939年9月、ヒトラーは安楽死を可とする命令書に署名。これにより、身体障害者、精神障害者、情緒障害者の組織的な殺人プログラム「T4」が実施される。殺された患者の家族は、治療のための入院という説明を受ける。次に、嘘の死因が書かれた死亡通知が手元に届く。これは、アーリア系ドイツ人は優秀でなければならないという考えに基づいている。

[岡本2005:45-46]

 このように、血統や民族の優秀性を追求するなかで、アーリア系ドイツ人のマイノリティは排除されました。当時、個人の尊厳は、ナチスの全体主義の中で埋もれてしまっていたと言えるでしょう。
 ちなみに、岡本氏は、ドイツのロマン主義と日本人の思考様式の類似性について、次のように述べています。

仏教伝来などより古いと考えられる八百万の神などの伝承、木には木の神、山には山の神、海には海の神があるとする感性は、ドイツ人の神秘性への傾性と共通した要素を感じさせる。またそのような観点から、天照大神をめぐる伝承を見直すと、ドイツ民族よりもさらに強い神秘性への傾性を感じさせる。天照大神の伝承は、国の成立をひとりの人物によって象徴させるという、極めて属人的な思考といえよう。

[岡本2005:211]

 要するに、岡本氏は、この説明により、日本人も多分にロマン主義的要素を有していて、それが原因で認知的複雑性を高めることができなくなる可能性があるということを主張しているのです。

 以上、ナチスによる「焚書」・「差別的教育政策」・「ロマン主義に基づく殺害」をみてきましたが、これらを認知的複雑性と関連させて、以下のようにまとめることができます。

・焚書:認知的複雑性を高めるには、多元的にものごとを見る訓練が必要であるが、そうするためには、多種多様な情報が必要となる。しかし、ナチスは焚書により、ナチスにとって都合のよい書物だけが利用されるようにした。
・差別的教育政策:認知的複雑性を高めるということは、批判力を持てるだけの複雑な思考ができるようになるということである。そのためには、最低限の知識が必要であるが、ナチスは、「小学校四年生より上の教育を与えてはならない」という方針を立てて、アーリア人以外には、低劣な教育しか与えなかった。
・ロマン主義に基づく殺害:認知的複雑性を高めるには、多元的かつ論理的に議論ができるようになる必要があるが、人種や民族、神話、伝統に絶対的な価値観を与えるロマン主義に陥っては、理性的な議論はできない。神秘的な感覚で、自国の人種・民族・歴史を愛する国民が多い国(ドイツ、日本など)では、ロマン主義は、国民を統治する上で強力な武器となりえる。

 本章では、認知的複雑性を有しない社会で起きた最悪のケース――ナチスが支配した多様性なき社会――を見ることで、認知的複雑性を持つ意義を明らかにしました。認知的複雑性を持つことにより、多様な思考ができるようになることは、平和実現のための条件であると言うこともできるでしょう。
 次章では、多様性についてさらに議論を深めます。

5. J・S・ミル『自由論』で学ぶ多様性

 本章では、J・S・ミル著の『自由論』で展開される多様性を紹介します。簡単に言うと、『自由論』では、少数意見を無視しないこと、そして、完全な知識に近づくために多様な意見を知ることが重要であると、主張されています。以下、それらの点について詳しく説明します。

(1)少数意見(異見)を無視しない

 ミルは、次のように、たった1人の異見であっても無視してはならないと主張します。

仮に一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮にその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない。

[ミル1983(1971):36]

 ミルは、「1人の独裁者が、全人類を支配すること」と「全人類が、1人の反対者を数の力で抑え込むこと」は等しいと言っています。次の点で等しいと言えます。

・「力こそすべて」という考えに基づいている。「1人の独裁者の権力」も「数の力」も、力である。

・公平な議論がない。

 少数意見に耳を傾けないということは、ナチスが権力で表現の自由を抑圧することと等しいということです。これは、恐ろしいことです。数の論理で少数意見を抑え込むことは当然であると思った瞬間に、ナチズムに足を一歩踏み込んだことになるので、我々は注意が必要です。日本国憲法第13条では「すべて国民は、個人として尊重される」と明記されていると先に述べましたが、1人の異見を無視することは、この憲法の精神に反する行いなので、我々は異見がなくなるまで議論を行わねばなりません。たった1人でも、反対者がいる限り、その人の意見に耳を傾けねばならないのです。ミルは、そうすることには、次のようなメリットがあると主張しています。

もしもその(1人の反対者の)意見が正しいものであるならば、人類は誤謬を棄てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っているとしても、彼らは、これとほとんど同様に重大なる利益―即ち、真理と誤謬との対決によって生じるところの、真理の一層明白に認識し一層鮮やかな印象をうけるという利益―を、失うのである(括弧内の文言は筆者による)。

[ミル1983(1971):37]

 この説明は、かつてガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回っている」と言ったことを思い出させます。少数意見が正しいことは、我々の日常の社会でもよくあります。また、革新的なアイデアは、理解されるようになるまでに多くの時間がかかります。「現状維持思考」や「横並び思考」でいるほうがラクですし、安心感を得続けることができるので、斬新なアイデアには反射的に抵抗を感じて、「普通ではない」「違和感を覚える」「おかしい」「ずれている」「浮いている」と言ってしまうことはよくあります。それは、日本に住む多くの人にとって日常茶飯事ではないでしょうか。

(2)完全な知識に近づく

人間は、議論(他者の意見と自分の意見とを比較すること)によって、自分の考えを改めることができます。自己の経験や知識のみでは不十分です。ミルも「人間は、議論と経験とによって、自分の誤りを正すことができる。経験のみでは充分ではない。経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなくてはならない」[ミル1983(1971):44]と述べています。なぜなら、1人の経験や知識など、古今東西の全人類の経験と知識からみると小さいからです。よって、自己の考えの正当性を確認するためには、他者との比較が必要となります。そのような検証によってのみ、より正しい答えを見出すことができるようになると考えられます。

その点について、ミルは、次のように述べています。

何びとかの判断が真に信頼に値するという場合に、彼の判断はいかにしてそうなったのであろうか?(中略)人間が或る主題に関する完全な知識に或る程度まで近づきうるための唯一の途は、あらゆる異なった意見の持ち主たちがその主題に関して言い出すかも知れない意見に耳を傾け、また、各種の精神的性格の人々がこの主題に注目するその一切の注目の様相を研究することにある(後略)。

[ミル1983(1971):45]

 まず、ここで確認しておきたいことは、「完全な知識」に完全に達成できるという前提に立っていないという点です。「完全な知識に或る程度まで近づきうるための唯一の途(the only way in which a human being can make some approach to knowing the whole of a subject)」とある通り、人間の不完全性を考慮した記述がなされています。これは、人間は、不完全な存在である限り、永遠に議論を続けなければいけない(将来出てくるかもしれない異見を受け入れる準備をしていなければならない)ということを意味しています。決定論から解放されたこの自由な態度は、多様性を認める態度と言えるでしょう。

 次に、「あらゆる異なった意見の持ち主たちがその主題に関して言い出すかも知れない意見に耳を傾けまた、各種の精神的性格の人々がこの主題に注目するその一切の注目の様相を研究する」という箇所に、筆者は注目します。これは、単に異見にも耳を傾けることの重要性が述べられているのではなく、積極的な態度も求められています。つまり、能動的に、多種多様な意見をできるかぎり多く聞くという姿勢が要求されているのです。これも、多様性を高めるということ同義であると言えるでしょう。

 「能動的」という点は重要です。ミルは、次の通り、慣習に従うのではなく、自らの考えで選択することの重要性を説いています。

単に慣習であるが故に慣習に従うということは、人間独自の天賦である資質のいかなるものをも、自己の裡(うち)に育成したり発展させたりはしないのである。知覚、判断、識別する感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨されるのである。

[ミル1983(1971):118]

 まず、「人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨される」という点に注目します。これは、サルトルの実存主義にも通じる考え方です。サルトルはこう言います。「私自身にたいし、そして万人にたいして責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである」[サルトル1978(1955):21-22]と。「万人にたいして責任を負い」というのは、倫理的道徳的な責任を負うということです。また、サルトルは、こうも言っています。「人間は自分をつくっていくものである。はじめからできあがっているのではなく、自分の道徳を選びながら自分をつくっていく」[サルトル1978(1955):60-61]と。これは、ミルの言う「道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨される」と同義であると、筆者は考えます。習慣や他者によって、自分の道徳的選択が決定されるのではなく、自らによって決定されるべきであると、ミルやサルトルにより主張されているのです。

 そして、ミルは、次の通り、「道徳的選択により自らを錬磨する人間」は自由であるべきであると述べます。

人間性は、模型に従って作り上げられ、あらかじめ指定された仕事を正確にやらされる機械ではなくて、自らを生命体となしている内的緒力の傾向に従って、あらゆる方向に伸び拡がらねばならない樹木のようなものである。

[ミル1983(1971):120]

 「あらゆる方向に伸び拡がらねばならない」ということは、表現の自由が担保された環境で多元的に思考し、能動的に選択するということです。つまり、人間性の錬磨は、多様性と密接な関係があるということです。

 また、ミルは、次の通り、多様性こそが人類を停滞させず、改革を生み出すと言っています。

ヨーロッパ諸国民を人類の停滞的部分たらしめず、改革的な部分たらしめて来たものは、果たして何であろうか? 彼らに何らかの卓越せる長所が存在したからではない。(略)真の原因は実に、彼らが性格と教養との驚くべき多様性をもっていたことにある。

[ミル1983(1971):146]

 なお、これと同様のことを、文化人類学者の青木保氏も述べています。青木氏の説明は次の通りです。

ハプスブルグ帝国でも、民族固有の権利は少数民族であっても憲法で認められていて、その集団の言語も使用することができました。大都市ウィーンは、さまざまな異文化を持つ民衆が集まったからこそ、文化的にも活発になったといいます。精神分析のフロイト、音楽のマーラーやシェーンブルクらが活躍できたのも、帝国の「民族的宥和政策」によると言われています。

[青木2003:78]

 ここで、ミルの多様性に関する議論を整理してみます。

・大多数が数の力で少数意見を抑圧することは、1人の独裁者がその他全員を抑圧することと、力でねじ伏せるという点で同じである。

・1人の反対者をも無視せずに、その人の言葉に耳を傾けなければならない。

・1つのテーマに関する完全な知識(the whole of a subject)にある程度近づくためには、「あらゆる異なった意見の持ち主たちがその主題に関して言い出すかも知れない意見に耳を傾け、また、各種の精神的性格の人々がこの主題に注目するその一切の注目の様相を研究すること」が必要である(要するに、出来る限り多くの多種多様な考えを知ることが必要である)。

・「道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨される」とある通り、自発性が要求される。

・人間性とは、「あらゆる方向に伸び拡がらねばならない樹木のようなもの」であり、型(習慣、抑圧的な力)により形作られるべきではない。つまり、自由自在に多様な選択ができることが、人間性を育むことにとって好ましい。

・多様性のある社会で、人類は停滞せず、改革的でありうる。

5.デジタルアーカイブと多様性

 本章では、これまでの多様性に関する議論を参考にしながら、デジタルアーカイブのあり方について考えます。まずは、これまでの議論をまとめます。


・人類をナチスドイツのような全体主義に陥らせないためには、また、人類を改革的にならしめるためには、社会の多様性を高めることが必要である。また、そのためには、認知的複雑性を高めることができるような環境が必要である。
・文化相対主義やプルーラリズムなど、多様性擁護の考えが発達してきた。つまり、多様性擁護は、社会的に受け入れられる考えになってきた。
・現代という時代が、多様な社会となっている。人とモノ、カネ、情報、サービスの移動が激しく、現代社会は複雑な社会となっている。
・公務を行う以上、日本国憲法の第15条に基づき、できるだけ多くの人にサービスを利用してもらうことを理想としなければならない。
・公務を行う以上、日本国憲法の第13条に基づき、多様な個性を尊重することを忘れてはならない。

 では、これらのことを考慮した上で、デジタルアーカイブで何ができるでしょうか。筆者は、多くのことができると考えています。ウェブに大きな可能性を感じています。IT企業経営コンサルタントの梅田望夫氏も、オプティミズム(楽観主義)という言葉を用いて、ウェブの可能性に期待しています。梅田氏は、『ウェブ時代をゆく』で、ウェブ(ネット)の技術に、5つの希望できる点があると述べていますが、筆者はそれらに賛同しています。それらは次の5点です。

(1)ネットが「巨大な強者」(国家、大資本、大組織・・・・・・)よりも「小さな弱者」(個人、小資本、小組織・・・・・・)と親和性の高い技術であること。
(2)ネットが人々の「善」なるもの、人々の小さな努力を集積する可能性を秘めた技術であること。
(3)ネットがこれまでは「ほんの一部の人たち」にのみ可能だった行為(例:表現、社会貢献)を、すべての人々に開放する技術であること。
(4)ネットが「個」の固有性(個性、志向性)を発見し増幅することにおいて極めて有効な技術であること。
(5)ネットが社会に多様な選択肢を増やす方向の技術であること。 [ 以上、梅田 (2007)、pp.14-15]

これら5点はすべて、多様性に関係していると、 筆者は考えます。

・(1)について。ウェブが「小さな弱者」に親和性があるということは、間違いない。ウェブでは、誰もが、出版社や放送局を介さずに、自由に情報を発信することができる。そのため、多くの多種多様な人がウェブに参加することができている。
・(2)について。「善」なるものが集積されるということはある程度証明されている。多くの多種多様な有益な情報が善意によりウェブに大量に集積されている。検索をすれば、たいていの情報は手に入るようになった。ある特定のジャンルの情報だけがウェブに蓄積されているのではなく、様々なジャンルの情報が、多くの個人によりウェブ上で公開されている。人間には「素晴らしい情報は他者と共有したい」という本能があるが、これは善意の1つであり、ウェブ上ではその善意を形にしやすいと言える。誰もが気軽にウェブを利用することができるゆえに、多くの人がウェブで情報を公開することに参加する。基本的に、その参加には制限はない。それゆえに、様々な人が自由に参加できる。その結果、膨大な多様な情報がウェブに集まるようになった。
・(3)について。ウェブはすべての人々に開放される技術であり、PCやスマートフォンの普及により、ますます、利用の幅が広がっている。かつては専門的技術を持つ人しか行わなかった音声・画像・動画の編集でさえ、今や多くの一般の人ができるようになった。その結果、誰もが、楽しみながら創造性の高いコンテンツをつくり、ウェブ上で公開するようになった。現在、ウェブ上で表現力の高い多様なコンテンツが溢れているのは、技術獲得と利用のハードルが下がったからであると言える。
・(4) ウェブでは、 YouTubeやインスタグラム、ツイッターなどで、「個」の固有性(個性、志向性)を増幅させることができる。個人は、「多種多様な他者の個性」をウェブの中に発見し、視野を広めながら、自身の個性を磨いていくことができる。そのプロセスの中で、個人の中にある多様性を高めていくことができるのである。
・(5)について。「社会に多様な選択肢を増やす」ということも、様々な形で実現できている。ウェブ上では、ボーダレスに様々な組織や個人とつながることが可能である。多言語翻訳も可能になり、世界の様々な情報を知ることができるようになった。選択肢の多様化が進んでいると言える。

 これらの5点をみると、デジタルアーカイブにより多様性を拡大することが可能であることは自明です。筆者は、このことを踏まえて、次のことをデジタルアーカイブの大きな方針とするべきであると考えています。

・多種多様な情報を大量に利用に供すること。「なんデジ」では、南城市が所蔵する資料はすべて市民の財産であると考えて、個人情報や著作権、肖像権などを考慮した上で、できるだけ多くの資料を公開することにしている。デジタルアーカイブでは、それが可能である。ウェブ公開ゆえに、量の制限なく公開することが可能である。また、印刷・製本コストをかけなくてすむ。しかも、ウェブ公開では利用者数を増やすことが、紙の本の発刊 より容易である。「なんデジ」は、毎月千人前後のユーザーに利用されている(紙媒体でこの数字に達することは不可能!)。これは、デジタルアーカイブは、いつでもどこでも利用できるからである。
・ウェブ上では、不特定多数の多様な声を集めることが容易にできるので、アンケートなどで常に市民の声を集めるように努力すること。この目的は、多いリクエストだけに応えることではない。大きい需要に呼応することは重要であるが、憲法第15条の精神(全体の奉仕者)に則って、様々な少数意見を把握してそれらの小さな需要を満たす努力を行うことも 、アンケートの主な目的であらねばならない。デジタルアーカイブの実務担当者は、日常業務を通じて、「重要かつ需要があるものは何か(顕在需要は何か)」「重要だが需要がないものは何か(潜在需要は何か)」をだいたい把握していて、顕在需要にも潜在需要にも応えるようにバランスをとって業務を行っている。しかし、担当者が自身の考えが常に絶対的に正しいと考えることは危険である(偏見の押し付けになる恐れがある)。よって、担当者自身の中で多様性を生み出すためにも、外の声を聞くことは重要である。アンケート結果を見て、予想が外れることはよくある。時々、まったく想像していなかった貴重な意見を得ることもある。そのようなプロセスを経ることで、事業に多様性を持たせることが重要である。
・市民参加型の企画により、市民が事業に参加できるようにすること。この目的は、市民から様々な情報(市民の記憶、写真・日誌などの私的な資料、「公民館だより」などのローカル色の強いレアな地域資料など)を収集することである。「なんデジ」では、古写真トークイベントを開催することにより、市民の方々から写真を提供してもらったり、写真に関する情報を口頭で教えてもらったりしている。
 紙焼きの写真やネガ写真をデジタル化し、そのデジタル写真をイベント当日にスクリーンに映し出し、イベントを終えた後はなんデジでウェブ公開する。世界に向けて公開することで、古写真は地域の公共財のみならず世界の公共財となる。

地域からの古写真収集と聞き取り

 ここまで、個人と社会の両方において多様性を高めることが重要であるということを説明してきました。最終章では、まとめとして、筆者が強く主張したいことを2点だけ述べます。

・認知的複雑性を高めることで、多様性を高めることができる。よって、公的情報サービスの従事者は、利用者が認知的複雑性を高めることができるように、多種多様な情報をできるだけ多く公開するべきである。
・デジタルアーカイブは、多種多様な情報を大量に利用に供するための強力なツールであるので、最大限活用できるようにするべきである。デジタルアーカイブが社会のなかで果たす役割は、今後ますます大きくなることが予想される。そうしたなか、従来的な情報サービスの方法は全面的に見直す必要があるだろう。

 最後に、ロマン主義に関して誤解を与えないよう、その美点にも触れておきます。先に、筆者は、ロマン主義は全体主義を導くと批判しましたが、これはあくまでも一面的な見方です。筆者は、ロマン主義にはよい面もあると考えています。文学や音楽、美術などは、ロマンの世界です。人間の心を豊かにするのは、自然科学的・人文科学的論理だけではありません。ロマン主義の欠乏した世界(精神的・感覚的な美しさを楽しめない世界)は、無味乾燥で、息苦しいです。そのような世界では、生きる楽しみの大部分が奪われているに等しいと言えるでしょう。また、ロマンあふれる世界を空想で創造する芸術的活動は、多様性にあふれています。多様性の豊かな社会をつくるには、ロマンの世界は絶対に必要であると、筆者は考えています。
なお、ロマンの世界をより多元的で色彩豊かなものにするためにも、認知的複雑性を高めることは有益であると筆者は考えています。

参考文献

青木保2003『多文化世界』岩波書店
今村仁司編1988『現代思想を読む事典』講談社
梅田望夫2007『ウェブ時代をゆく』筑摩書房
岡本浩一2005『権威主義の正体』PHP研究所
佐々木毅2007『民主主義という不思議な仕組み』筑摩書房
サルトル、J・P著、伊吹武彦訳1978(1955)『実存主義とは何か』人文書院
シム、スチュアート編、相原優子[ほか]訳2001『ポストモダン事典』松柏社
田中隆吉1988『敗因を衝く』中央公論社
長谷部恭男, 石田勇治2017『ナチスの「手口」と緊急事態条項』集英社
バーリン、アイザイア著、小川晃一ほか訳2000(1971)『自由論』みすず書房
樋口陽一, 小林節2016『「憲法改正」の真実』集英社
増田四郎1994『歴史学概論』講談社
丸山高司1997『ガダマー 地平の融合』講談社
ミル、J・S(著)、塩尻公明・木村健康訳1983(1971)『自由論』岩波書店
山口陽弘、久野雅樹1994「認知的複雑性の速度に関する多面的検討」東京大学教育学部『東京大学教育学部紀要』第34巻 pp. 279-299
山脇直司2009『社会思想史を学ぶ』筑摩書房