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湧上洋さんオーラルヒストリー(8)「主税課・工業研究指導所・工業試験場時代」

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湧上洋さんオーラルヒストリー(8)「主税課・工業研究指導所・工業試験場時代」
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 湧上洋さんのオーラルヒストリーの第6回目と第7回目では、農業部門で湧上さんが行った仕事を紹介しましたが、今回の第8回目では、農業部門で勤務する前の仕事を取り上げます。 湧上さんが1976年に沖縄県農林水産部農業試験場化学室長として農業部門の業務に携わるようになるまでの経歴は、次の通りです。

1957年11月  琉球政府内政局主税課(後、主税局総務課)技手に採用
1963年9月   琉球政府計画局主税庁総務課鑑定官
1969年1月   琉球政府通商産業局琉球工業研究指導所技術指導室長
1972年2月   沖縄県労働商工部工業試験場化学課長

 本稿では、主税課時代の糖度検査業務、琉球工業研究指導所時代の天然ガス調査業務・ダム建設事業での水質調査業務、工業試験場時代の泡盛製造指導及び公害対策業務を紹介します。なお、参照文献の明示がない記述は、湧上さんへの聞き取りで得た情報に基づいています。

1.内政局主税課・主税庁総務課時代

 湧上さんが琉球政府に就職して初めに配属された部署は内政局主税課でした。当時の沖縄は、「日本が潜在主権を有し、米国が施政権を持つ」という特殊な体制下にあったので、琉球政府は一種の独立国のようになっていました。それゆえに、琉球政府は国が行う仕事も行わねばなりませんでした。税関業務もその1つでした。
 湧上さんは、税関・税務署の税務に関連する業務(酒造工場調査、輸入物品鑑定など)を広く行いました。なかでも、税関に関連する業務が主なるものでした。物品により輸入関税が異なるので、物品の識別を行わねばなりませんでした。例えば、飲み物では、嗜好飲料と健康飲料では税率が異なるので、両者は化学分析により識別しなければなりませんでした。また、輸入菓子類も、糖分含有量によって税率が異なるので、糖度分析(化学分析)による識別が必要でした。
 本章では、糖度検査業務に焦点を当てて、湧上さんがどのような仕事を行なっていたのかを見ていきます。
 主な糖度検査業務は、パイン缶詰工場で製造されたパイン缶詰の糖度分析でした。パインそのものにも糖分は含まれていますが、缶詰では甘さを加えるためにグラニュー糖(砂糖)が使用されていました。パイナップル自身のブリックス糖度は、夏パイン約18度冬パイン約16度で、缶詰になった時点の糖度は21~22度です。湧上さんは、グラニュー糖が工場で作られたパイン缶詰にどのくらい含まれているかを化学分析により鑑定しました。この検査により、パイン工場がグラニュー糖を「申告した通りの量を使用したかどうか」を明らかにすることが出来ました。
 では、なぜそのような検査を行う必要があったのでしょうか。当時の状況を説明することにより、その点を明らかにします。当時、グラニュー糖は輸入品でした。これが重要なポイントです。輸入品には通常、税金が課されます。課税されるということは、その分、グラニュー糖の価格は上がります。そして、当然、グラニュー糖を使用する製品価格も高くなります。価格が上がると、製品の競争力は落ちます。そこで、当時の琉球政府は、沖縄の産業(ここではパインビジネス)を保護育成するために、グラニュー糖に課税をしませんでした。グラニュー糖は沖縄では作ることができなかったので、輸入するしかありませんでした。甘みのあるパイン缶詰を安く製造するには、グラニュー糖にかかるコストを下げる必要がありました。そこで、パイン缶詰用のグラニュー糖の輸入関税は非課税とされたのです。
 しかし、パイン缶詰工場がグラニュー糖を非課税で購入できるとはいえ、それには条件がありました。つまり、グラニュー糖は、パイン缶詰に利用されるという条件でのみ、非課税で輸入することが許されていたのです。ですので、各工場が「パイン缶詰に利用する分だけのグラニュー糖を輸入・使用したかどうか」を検査する必要がありました。もし、工場がパイン缶詰に利用する量を超えてグラニュー糖を輸入できた場合、その余剰分を転売することにより利益を上げることができました。なぜなら、市場に流れる通常のグラニュー糖は課税されていたからです。つまり、安く購入して高く売るということができたというわけです。それは、不正な横流しです。工場にそうさせないために、湧上さんは厳格に検査を行っていました。検査とは、先に述べたように、パイン缶詰のグラニュー糖の含有量が申請通りの量となっているかどうかを化学分析により鑑定することです。その糖度さえわかれば、申請書に書かれているグラニュー糖の輸入量が正しいかどうかを明らかにすることができたのです。
 湧上さんが化学分析を行っていた時には、幸い、横流しをしているケースはありませんでした。ただ、小規模業者は、事務仕事が大手と比べてずさんで、申請書に誤記することがありました。実際には不正を働いていたわけではないにもかかわらず、数字の記載をミスすることがあったのです。「当時はパイン缶詰のブームで、やや工場が乱立していて、小さな缶詰工場もありました」と湧上さんは述べています。

2.琉球工業研究指導所時代

 湧上さんは1969年1月琉球政府通商産業局琉球工業研究指導所の技術指導室長に就任しました。本章では、天然ガス開発に関わる調査研究と福地ダム建造と地下ダム建造に関わる水資源調査を概説します。

(1)天然ガス開発調査
 当時、琉球政府は、地下資源開発(天然ガスなど)に力を入れていました。1960年、日政技術援助要請計画により通商産業省地質調査所の本島公司・牧野登喜男両技官を招聘して第1次調査を実施しました。その結果、沖縄の天然ガスがにわかにクローズアップされたので、琉球政府はその調査開発のための長期計画を立て、年次的に技術者を養成するとともに、日政技術援助により講師を招聘して日琉協同の調査研究を継続しました。琉球工業研究指導所は1966年の第3次天然ガス調査研究から通商産業省地質調査所との共同研究を開始しました。
 琉球政府は1960年代だけを見ても、次の通り、日本政府の通産省地質調査所との共同で、日本政府技術援助による天然ガス調査研究を6回にわたって行いました。

・1960年、第1次沖縄天然ガス調査開始(通商産業省地質調査所と共同研究)
・1965年、第2次沖縄天然ガス調査開始(通商産業省地質調査所と共同研究)
・1966年9月、第3次沖縄の天然ガス調査研究開始(通商産業局工業課、通商産業省地質調査所と共同研究)
・1967年9月、第4次天然ガス調査研究開始(通商産業省地質調査所と共同研究)
・1968年10月、第5次天然ガス調査研究開始(通商産業省地質調査所と共同研究)
・1969年10月、第6次天然ガス調査研究開始(通商産業省地質調査所と共同研究)

 天然ガス調査では、地質調査(どの地層にどのような成分が入っているかを調べること)が必要です。ボーリング調査により、地下のどの地点で有孔虫(化石)がどれくらい含まれているかを調べます。有孔虫は顕微鏡で目視します。なぜ有孔虫の含量を調べるかというと、有孔虫は分解されるとメタンガスを放出するからです。つまり、有孔虫が多いとメタンガスも多いということになります。
 このメタンガスは、地下深く(1000m近く)では水に溶けた状態になっています。メタンガスが含まれている水のことを、ガス付随水と称します。揮発性の高いガスが水に溶けているのは、地下で高圧力の中にあるためです。ガス付随水は、地上に出ると、圧力から解放され、ガスが水から分離され、天然ガスとして利用されることになります。
 ちなみに、有孔虫を顕微鏡で目視する仕事は、非常勤の若い女性が行っていました。湧上さん曰く「若くて目のよい人でないと難しいのです」とのことです。
 1970年、天然ガスを確認するための試験井を那覇市奥武山球場近くと糸満町(現在糸満市)字潮平の海岸近くで掘削しました。試験井の掘削工事終了後、産出試験(産出量の測定、坑内測定、水位測定等)を実施しました。その結果、本島南部の地下には大量の天然ガスが賦存している(潜在的に存在している)ことが確認され、また、ガス付随水にヨードが含有されていることも判明しました。さらに、ガス付随水は温泉に利用可能であることも明らかになりました。
 長年の地道な調査研究によって、天然ガス資源の開発が目途付けできたことは勿論、ガス付随水が温泉水として利用可能であることが目途付けできたことは、地下資源利用の実績に乏しい沖縄にとっては、画期的なことでした。この天然資源の活用は、沖縄の経済発展に大きく寄与するものと期待されるようになりました。ところが、公害問題(地下水を汲み上げることによる地盤沈下)が起こる可能性が懸念され、開発は進みませんでした。本土復帰後、開発事業は打ち切りとなりました。
 開発が再開されたのは、それから数十年経ってからです。現在、瀬長島ホテルなど数箇所のホテルが地下水(ガス付随水)を汲み上げて温泉水として利用しています。南城市佐敷字新里に立地するウェルネスリゾート沖縄休暇センターユインチホテル南城も、調査を資源利用につなげることが出来た成功例の1つです。現在、ガスコージェネレーションシステムが導入されたこのリゾート施設では、天然ガスが燃料として利用されるとともに、ガスから生まれる熱が給湯ボイラーの熱源水として利用されています。くわえて、ここでは温泉が湧出しており、温浴施設で利用されています。湧上さん曰く「調査当時は、温泉の発見は想定していなかった」とのことです。

ボーリングマシン。糸満町(現在糸満市)字潮平にて。
ガス付随水が地上に出ているところ。糸満町(現在糸満市)字潮平にて。
ボーリングマシン。糸満町(現在糸満市)字潮平にて。
重力探査(調査地の地表において重力を測定し、測定した結果から地下の構造を把握する調査)を行っているところ。
重力探査(調査地の地表において重力を測定し、測定した結果から地下の構造を把握する探査)を行っているところ。
微化石(ミリサイズからミクロンサイズの微小な化石の総称)探査を行っているところ。
ガスクロマトグラフ装置(熱で気化する気体や液体に含まれる特定のガスの量(濃度)を測定する装置。天然ガス分析で使用された)。
ボイルさせて泥岩中の有機物を抽出する装置。

(2)ダム建設のための河川調査
 沖縄ではしばしば水不足が発生し、ダム建設による

貯水は大きな課題の1つでした。そこで、琉球政府の企画局が中心になって、ダム建設の計画の立案をすることになりました。

 その計画の1つが、福地ダムの建設でした。内閣府沖縄総合事務局北部ダム統合管理事務所のウェブサイト「やんばるのダム」では、福地ダムは次のように紹介されています。

 福地ダムは、沖縄北部河川総合開発事業の一環として、洪水調節、流水の正常な機能の維持、水道用水及び工業用水の供給を目的に、福地川(流域面積34.4km²、流路延長16.7km)の河口から約2km上流地点に建設した高さ91.7mのロックフィルダムです。

 福地ダムは、沖縄北部河川総合開発事業の一環として、洪水調節、流水の正常な機能の維持、水道用水及び工業用水の供給を目的に、福地川(流域面積34.4km²、流路延長16.7km)の河口から約2km上流地点に建設した高さ91.7mのロックフィルダムです。
 福地ダムは、新川ダム、安波ダム、普久川ダム及び辺野喜ダムの東系列5ダムを構成する多目的ダムです。福地ダム建設工事は、米国陸軍工兵隊により昭和44(1969)年7月に着手されましたが、昭和47(1972)年5月の本土復帰に伴い、日本政府に承継され、昭和47(1972)年12月に堤体盛立を完了しました。
 その後、基礎岩盤の改良、洪水吐きの増設等の追加工事を施工し、昭和49(1974)年12月に完成、管理を開始しました。

「やんばるのダム」2022年12月21日閲覧

※西暦は引用者が追記。

 この通り、福地ダム建設は5年間を要した大事業でしたが、湧上さんが所属していた琉球工業研究指導所は企画局の委託で、福地川、新川川、安波川、普久川及び辺野喜川の東系列5河川の水質調査を実施しました。各河川の5か所の固定位置で、5河川の水が飲料水として利用できるかどうかを調べました。年4回現地へ行きサンプリングを行い、採取した水を化学的に分析しました。当時、沖縄にはダム建設に関する水質調査のノウハウはまったくなかったので、通産省地質調査所の技官からの指導助言で水質調査を行いました。 国からの技術援助は本土復帰前(1969年)から行なわれましたが、地下水の調査に関しては、野間泰二氏の貢献が大きいです。野間氏は、地下水の専門家で、通商産業省地質調査所時代に技術指導員として本土政府から派遣され、約40年間にわたって琉球諸島における

地下水調査に携わり、琉球政府職員(復帰後は県職員)に対して技術指導を行いました[野間2007:45]。なお、野間氏の著書『琉球諸島における諸島の地下水』には「水質分析については、通商産業局商工部工業課(町田昇課長)の付属機関である琉球工業研究指導所(朝武士靖雄所長)で、湧上洋研究室長・山城充真技師のほか多くの所員が担当した」[野間2007:45]と記されています。
 湧上さんは当時を振り返って、こう述べています。「沖縄にはダム建設に関する水質調査のノウハウはまったくなかったので、通産省地質調査所の技官から一から教わりました。どのような場所を調査ポイントとするか、そこで採取された水をどのように分析するかなどの方法を学びました。分析データをとりまとめた後は、会議で議論しました。それを定期的に行いました。また、長期計画の立て方なども教わりました。私は室長だったので、実作業は基本的に部下が行いましたが、時々、部下といっしょに現地へ行きました。現地でどのように調査がなされているのか、本土の技官からどのような技術指導を受けているのかは、管理者として、目で見て把握しておく必要があったからです。なお、部下が分析した結果をチェックするのは、室長の仕事でした。
 室長の仕事として大変だったのは、スケジュール管理でした。業務の進捗をみながら、予算の範囲内で補助員を雇用したこともありました」
 ちなみに、ダム建設のための河川調査では、水質だけでなく水量の調査も実施されました。それは、水の安定供給が可能かどうかを把握するためのもので、河川課の担当者により水量の年変化が調査されました。

(3)地下水調査
 琉球工業研究指導所は、河川水調査以外に地下水(湧水)調査も実施しました。ボーリング調査の結果、次のことが明らかになりました。

・沖縄本島の地層は、北西方向から南東方向へ下り傾斜している。
・沖縄本島南部では、新第三系鮮新統の砂岩泥岩層(不透水性の島尻層群)が地下水の受盤となって南部全域を構成している。
・沖縄本島南部では、琉球石灰岩(透水性)が、比較的起伏に富む丘陵や緩やかな台地状の地形を形成して、新第三系鮮新統の砂岩泥岩層を広く覆って分布している。

 糸満市から八重瀬町(旧具志頭村)、南城市(旧知念村、旧玉城村)にかけての南部海岸地帯には、琉球石灰岩が発達しています。これらの地帯では、水を通しやすい琉球石灰岩と水を通しにくい新第三系鮮新統の砂岩泥岩層との間に水が溜まりやすくなっているので、多数の湧水が分布しています[野間2007:17]。例えば、糸満市の与座ガーや八瀬町(旧具志頭村)仲座のギーザバンダ、南城市(旧玉城村)垣花の垣花ヒージャー、南城市(旧玉城村)糸数の糸数ヒージャー、南城市(旧知念村)志喜屋のカンチャ大川など数多くあります。これらの湧水をサンプリングして分析した結果、Mアルカリ度(水中に占めるアルカリ分の総量)と硬度が著しく高いということが明らかになりました。硬度は、全硬度(水1リットル当たりのカルシウム硬度とマグネシウム硬度を足した和。CaCO 3 mg/L)として200~300mg/L程度でした[野間2007:3]。この数値は、琉球石灰岩地帯の地下水が「非常な硬水」であることを意味しています(WHO飲料水水質ガイドラインによると、180mg/L以上は「非常な硬水」。那覇市のウェブサイト参照)。また、サンプリングした水の溶存成分の大部分は、石灰岩からの溶出による重炭酸カルシウムとマグネシウムであることが分かりました。一方、鉄分・マンガンの含有量は、非常に少ないことも分かりました。
 現在、琉球石灰岩が島尻層群の泥岩を広く覆った地域では、上部の琉球石灰岩が水を通しやすく下部の島尻層群の泥岩が水を通さないという地質を活かしたダムが建設されています。つまり、島尻層群の泥岩を受盤として、琉球石灰岩地帯の地下水を地中で堰き止める構造の地下ダムが建設されています。その構造の地下ダムは、飲料用水源や農業用水源として広く活用されています。例えば、宮古島の皆福地下ダム・砂川地下ダム・福里地下ダム、糸満市の米須地下ダム、八重瀬町の慶座地下ダム、うるま市の与勝地下ダムなどがあります[野間2007:17、30]。

3.工業試験場時代

 湧上さんが所属していた琉球政府通商産業局琉球工業研究指導所は1972年の本土復帰時に沖縄県庁へ引継がれ、労働商工部の出先機関となり、「沖縄県工業試験場」と改称されました。組織は、場長、内部組織5課(庶務課、化学課、鉱物資源課、染織課、木工試験課)で構成されました[沖縄県工業試験場(以下、沖工と表記)1974:1]。湧上さんは、その時化学課の課長に就任しました。そして、1976年4月に農林水産部農業試験場化学室長になるまで、工業試験場で勤務しました。
 同試験場のみならず、都道府県における公設試験研究機関には、次の通り、2つの重要な使命があります[沖工1974:発刊のことば]。

・大学或は国の研究機関等との密接な連携の下、地場中小企業の技術振興のための尖兵となること。
・工場から産業公害を取り除くための研究と成果の普及指導。

 そして、工場試験場化学課は、それらの使命をまっとうするために、次のような業務を行っていました[沖工1974:2]。

・食品工業醸造の試験研究及び技術指導に関すること
・化学工業の試験研究及び技術指導に関すること
・工業原料及び製品の化学分析及び鑑定に関すること
・有機微生物の試験研究及び技術指導に関すること
・産業用廃水の処理技術及び公害防止技術に関すること
・その他化学に関する技術指導に関すること

 本稿では、主に『昭和48年度業務報告』(沖縄県工業試験場、1974年)で報告されている内容を中心に、湧上さんが携わった業務を取り上げます。具体的には、「食品工業醸造の試験研究及び技術指導に関すること」と「産業用廃水の処理技術及び公害防止技術に関すること」に関する報告に注目します。前者については泡盛製造業、後者についてはパイン缶詰製造業や製紙(再生紙)業、製糖業、清涼飲料製造業、砕石業を調査事例として扱います。以下、泡盛製造、公害問題の順で詳しく説明します。また、その後に、湧上さんの回想(インタビュウ形式)を記します。

(1)泡盛製造
 「食品工業醸造の試験研究及び技術指導に関すること」は化学課の業務の1つだったので、化学課は、食品工業醸造の試験研究を行い、その結果をまとめた調査レポートを『昭和48年度業務報告』に発表しました(題:「沖縄県各地域の泡盛市販酒の成分について」。執筆者:照屋比呂子、玉城武、宮城周子、湧上洋)。このレポートでは、1972年9月から1973年9月までの間に、本島南部地区の15酒造場、中北部地区の17酒造場、八重山地区の10酒造場、宮古地区の9酒造場、合計51酒造場で調査された泡盛製造状況(製造方法や各泡盛の成分)がまとめられています[沖工1974:35]。
 湧上さんは当時の状況について次のように述べています。「当時を振り返ってみますと、工業試験場では、食品工業醸造に関する試験研究業務が始まって間もない時であったので、泡盛に関する試験研究データの蓄積は殆どありませんでした。工業試験場は、泡盛の成分分析の結果をみて、酒造工場に対して成分に関する指導助言をしましたが、十分な技術指導は出来ませんでした。当時、50~60の泡盛酒造工場があったと思いますが、それらの多くは小規模零細の酒造工場でした。泡盛業界全体の技術水準を底上げするために、工業試験場は試験研究と技術指導の両方を行う必要があったのですが、十分な技術指導に関するノウハウは持っていませんでした」
 そのように、工業試験場は、技術指導は十分できなかったにせよ、試験研究とそれに基づく指導助言により、泡盛業界の活性化のために貢献しました。なお、同業界の活性化のための活動を行っていたのは工業試験場だけではありませんでした。沖縄国税事務所もまたその活動を行っていました。その1つは、泡盛鑑評会の開催です。泡盛鑑評会は、県内のどの泡盛工場がすぐれた泡盛をつくっているのかを競う利き酒の大会です。湧上さんが化学課長の時代、1972年11月27日、28日に、その第1回目の会が開催され、湧上さんは審査員の1人として参加しました。湧上さんはこの会について次のように語っています。「私を含めて審査員は7名ほどいたように記憶しています。一般人の審査員はいなかったです。琉球大学農学部の研究者の方とか、この業界と関係の深い人が審査員になっていました。味や香り、のどごしなどで、良し悪しを判断しました。化学分析はおこないませんでした。消費者の立場で良い酒を選びました」
 泡盛鑑評会は、沖縄国税事務所の主催で、現在も開催されています。国税庁のウェブサイト(2022年12月20日閲覧)では、同会の目的について「沖縄県の伝統的名酒『泡盛』について、品質評価を通じて酒造技術基盤強化・酒造技術の発展を促し、品質の向上を図るとともに消費者の利便に供し、併せて沖縄県の重要な地場産業である泡盛製造業の発達に資することを目的とする」と記されています。つまり、この会の目的は、一言で言えば技術向上です。ちなみに、2022年度の会は50回目となり、9月26日~30日に開催されました。湧上さんが参加して以来50年が経過したというわけです。
 これまで見てきた通り、泡盛業界では、本土復帰後、製造技術の向上が図られましたが、湧上さんはそのスタート地点で、それに関わったことになります。

(2)公害問題

 本節では、まず、当時の本土や沖縄の公害の状況を振り返り、その後、工業試験場により実施された工場調査及び技術指導を、湧上さんの証言を交えて紹介します。そして、最後にインタビュウ形式で湧上さんの回想を記します。
 工業試験場の成果の紹介では、主に、『昭和48年度業務報告』を参照します。

①本土の公害
 湧上さんは本土復帰前後の公害の状況を振り返って、こう述べています。「復帰前後は公害問題が全国的に大きな関心事になってきていました。沖縄では、復帰するまで、公害問題はほとんど放置されてきました。米国統治時代に、米国から公害対策に関する指示・指導・教育はありませんでした。復帰後、本土中央からの技術指導がありました」
 「本土中央からの技術指導」があったということは、本土ではすでに公害問題への対策が講じられるようになっていたということを意味します。では、本土での公害の状況はどのようなものであったのでしょうか。藤原彰氏は次のように述べています。

経済成長とともに、公害はますます拡大していった。その第一は、大気汚染である。工場の煤煙、自動車の排気ガス等が原因となり、降下煤塵が増加し、大気中の一酸化炭素や窒素化合物の濃度もたかまってくる。このため川崎、京葉、名古屋、四日市をはじめとする大コンビナート周辺で呼吸器病が増えていった。海洋の汚染も進み、ヘドロが問題となった。工場廃水が原因でカドミウム汚染がすすみ、水俣病、イタイイタイ病などの患者が増加した。そのほかにも、騒音公害や農薬におる汚染などがひろがった。

藤原1990:135-136

 高度成長期、四大公害病(「四日市ぜん息」「水俣病」「新潟水俣病」「イタイイタイ病」)を中心に公害が大きな社会問題となりました。公害対策基本法が1967年に制定されましたが、それだけでは不十分であり、佐藤内閣は1970年7月に首相を本部長とする中央公害対策本部を設置しました。そして同本部は、14の公害関連法案を、11月からの公害国会に提出し、そのすべてを成立させました[藤原1990:137]。その第一は、公害対策基本法の改正でした。改正の概要は、次の通りです。

旧法の第一条第二項に「生活環境の保全については経済発展との調和を図る」とあり、この条項が企業の立場に片寄って公害対策の徹底を妨げるという批判が強くなった。そこでこの条項を削除した。そして(中略)公害の対象をひろげ、事業者の責任を明らかにするなど、全面的に改正した。

藤原1990:137

 このように、本土では、企業に対する批判の目が厳しくなり、公害対策が強く求められるようになりました。この公害意識の転換期に、沖縄は本土に復帰することになりました。

②沖縄の公害
 湧上さんは、本土復帰前を振り返って「沖縄で公害調査や対策はほとんどやってきませんでした。工業試験場では、工場廃水の水質調査試験を、復帰前後から始めるようになりました」と述べています。沖縄では1960年頃から公害問題が起きていたので、調査の開始は遅かったと言えます。当時の沖縄の公害状況について、湧上さんの大学時代の恩師である兼島清教授は、次のように述べています。

戦後沖縄はその施政権が本土と分離していたことによって、国の高度成長政策の洗礼を受けなかった関係で、本土の他県に比較して、大きな産業公害を免れてきた。しかしそれでも大気汚染や水質汚濁、廃油汚染などの産業公害が一九六〇年ごろから少しずつ発生してきた。大気汚染関係では製糖工場のばい煙やセメント工場の粉じんによる汚染があり、最近は製鉄工場のばいじんなどがそのおもなものである。水質汚濁では北部の採石場から排出される赤土による海域の汚染や那覇近郊の漫湖周辺の工場からの農薬流出や汚水などによる汚染で、多量の死魚を出した被害、また東海岸一帯に立地した石油工場からの石油の流出事故などで、近海が汚染されたことなどがあげられる。

兼島1974:102

 このような公害問題に対して、住民から苦情が出るようになりましたが、琉球政府は何も手を打ちませんでした。本土復帰直後も、対策は立ち遅れました。当時の状況について、兼島氏は次のように説明しています。

県内の公害に対する苦情や陳情(昭和四十年~昭和四十七年四月)は五八件にもおよんでいる。県でもこのようにつぎつぎと引き起こされる産業公害に対し、県庁内に公害対策機関として、環境保全室、公害衛生研究所などを設けて対処しているものの、県の公害防止条例が一九七二年五月一五日に公布されただけで、規制の制定もまだなされず、測定体制もじゅうぶんではなく、そのため、いまだに究明できない事例も多く、その防止対策は立ち遅れているのが実情である。

兼島1974:111-112

 なお、工業試験場が調査の対象とした「工場廃水による公害」に関しても、当時は、次の通り、ほぼ無策の状況にありました。

本土復帰とともに、本県においても県の公害防止条例が施行され、工場廃水については、公共用水域に排出する量が日間平均50㎥である工場又は事業場が規制の対象となった。しかし県内の企業に対して、今までにこの種の規制が十分に実施されていなかった関係上、廃水処理施設もほとんどの企業が施してなく、又公害に対する認識もとぼしい現状である。

沖工1974:23

 この通り、対策が不十分な状況の中で、湧上さんは、工業試験場職員として、公害問題に取り組むことになりました。先に述べたように「工場から産業公害を取り除くための研究と成果の普及指導」は、工業試験場の使命の2本柱の1つです。工業試験場では、水質調査とその結果をふまえた技術指導を行っていくことになりました。

③工場調査及び技術指導
 『昭和48年度業務報告』によると、復帰後の1972年から1973年にかけて、沖縄本島の北・中・南部と八重山で、工場調査と技術指導が行われました。その詳細は、以下の表1の通りです[沖工1974:14]。

国補/県単指導対象業種地域期間企業数指導事項指導職員
1国補砕石業、パイン缶詰製造業、
嗜好飲料製造業
北部1973年2月15日~2月17日7廃水処理技術湧上、比嘉、兼島清(講師)
2国補紙製造業北部、中部1973年10月22日~10月25日8廃水処理技術朝武士、湧上、比嘉、垣山仁夫(講師)
3県単パイン缶詰製造業北部1972年9月7日~9月9日5廃水処理技術湧上、比嘉
4県単砕石業北部1973年1月10日~1月11日5廃水処理技術湧上、比嘉
5県単清涼飲料水製造業中部1973年5月23日3廃水処理技術湧上、比嘉、宮城
6県単製パン業中部1973年5月24日2廃水処理技術湧上、比嘉、宮城
7県単製紙業(チリ紙再生)中部1973年10月11日1廃水処理技術朝武士、湧上
8県単製紙業(チリ紙再生)中部1973年12月8日1廃水処理技術湧上
9県単泡盛製造業中部、南部1973年10月3日~10月6日14酒造技術一般湧上、照屋、玉城
10県単泡盛製造業八重山1973年3月5日~3月7日6酒造技術一般湧上、照屋
11県単泡盛製造業北部1973年5月28日~5月31日15酒造技術一般湧上、照屋
表1 工業試験場化学課による工場調査及び技術指導実績(1972年~1973年)

 表1の「指導職員」を見ると、湧上さんが指導職員として多くの調査と指導に参加していたことがわかります。調査とは、産業廃水の実態を把握することです。具体的には、工業試験場は、比較的多量の排出水を出すパイン缶詰製造業ほか4業種の廃水の水質調査と、製造工程からの流出源及び廃水の排出状況などの調査を行いました[沖工1974:23]。
 調査の対象となった工場の業種は、パイン缶詰製造業、製紙(再生紙)業、製糖業、清涼飲料製造業、砕石業です。以下、それぞれの状況について説明します。

<パイン缶詰製造業>
 当時、パイン缶詰製造業は、製糖業に次ぐ産業で、県内(本島)には3企業10工場があり、先島(八重山)にも同数程度の工場がありました。製品のほとんどが本土に移出されていて、その移出量は、県の総移出量に対して約2割も占めていました[沖工1974:23]。調査の結果は、次の通りでした。

パイン廃水中には、パイン果皮、細片その他雑物などが混入していて外観は濃黄濁色を呈している。現在のところ、ほとんどの工場が未処理のまま工場附近の河川、海域等に排出しており、そのためパイン果皮、くずなどが放流先の河床、海浜などに堆積して腐敗し、悪臭を放っており、環境上好ましくない状況である。

沖工1974:23

 湧上さんは、当時を振り返ってこう言っています。「沖縄でも公害問題への意識が高まってきていて、パイン工場は、マスコミから叩かれていました。パイン缶詰製造業の関係者は、対策を講じる必要性を感じ始めていました。工業試験場は、工場から技術面での相談を受けるようになりました。我々は、他県での対処事例を紹介しました」
 「他県での対処事例」とありますが、その頃、すでに廃水の汚染対策については、他県がリードしていました。工業試験場は、復帰直後から他県(主に九州)で開催される会議や会合に積極的に参加することにより、本土の技術を学ぶようになりました。そうすることにより、「他県での対処事例」を沖縄の工場に紹介できるようになったのです。
 湧上さんも技術を学ぶために幾度も九州に出張しました。以下の表2は、1972年から1973年の間に湧上さんが参加した会議・会合をまとめたものです[沖工1974:19-20]。

名称主催期日場所
1第6回廃水分析研究会九州工業技術試験所1972年8月1日佐賀県
2昭和47年度工業技術連絡会議九州地方産業公害部会佐賀県工業試験場1972年8月2日~8月3日佐賀県
3第1回泡盛鑑評会沖縄国税事務所1972年11月27日~11月28日那覇市
4第8回廃水分析研究会九州工業技術試験所1973年8月1日福岡県
5昭和47年度工業技術連絡会議九州地方産業公害部会福岡県金属工業試験場1973年8月2日~8月3日福岡県
6昭和47年度工業技術連絡会議中国・四国・九州地方合同化学専門部会宮崎県工業試験場1973年10月30日~10月31日宮崎県
表2 湧上さんが参加した会議・会合

<製紙(再生紙)業>
 県内には古紙を原料としてちり紙を再生している製紙工場が4工場ありました。いずれも生産規模の小さい工場で、製品のほとんどが県内需要向けでした[沖工1974:25]。
 製紙工場廃水で特に問題となるのは懸濁固形物(水を濁らせる物質)でした。調査の結果、次のことが明らかになりました。

懸濁固形物のうち7~9割は沈降性のものであり、そのまま放流すると堆積して、いわゆるヘドロ公害の元となる。調査時には各工場とも未処理のまま排出していたので、廃水はコロイド状白濁を呈していて、放流先の河川、海浜などには紙くず、薬品その他の懸濁固形物が堆積していた。

沖工1974:25

<製糖業>
 製糖業は当時も重要産業の1つで、県内の製糖産業(原料粗糖)の移出額は全移出額の約6割を占めていました[沖工1974:26]。
 原料粗糖工場と精製糖工場の廃水の排出状況を調査した結果、①原料粗糖工場では、機械類に使用されている潤滑油の大部分が、床洗浄水に混じって廃水中に入りこんでいる、②精製糖工場でも、機械類に使用されている潤滑油が廃水中に混入している、ということが明らかになりました[沖工1974:26]。
 湧上さんは、次のように回想しています。「製糖工場で冷却用として使用される水は河川水や海水です。この水が河川や海を汚染するということはありません。単純化して言えば、製糖工場では、キビの搾汁が行われているだけで、公害を生み出す工程は基本的にありません。キビ汁が絞り出された後に残るカスは堆肥になります。畑に還元されます。これは汚染ではありません。報告書でも記されている通り、機械用の潤滑油の流出だけが懸念されます」

<清涼飲料製造業>
 当時、県内には、比較的大きな清涼飲料工場が4工場ありました。主にビン詰の清涼飲料水が製造されていました。製品は県内需要向けでした[沖工1974:31]。
 調査の結果、廃水は、汚水処理をしないまま工場付近の河川や海域へ排出されていることがわかりました。なお、洗ビン工程で出た洗浄廃液が廃水の大部分を占めていました[沖工1974:31]。
 湧上さんは、「工場では、ビンを回収し、それを洗浄して再利用します。洗浄の時に使う洗剤が水といっしょに外に出て、公害の元になっていたのです」と補足の説明をしています。

<砕石業>
 当時、県内の採石業の工場はほとんどが本島北部地区に集中していました。そして、工場は、原料に古期石灰岩を用い、建築用バラス(砕石)を生産していました[沖工1974:30]。
 工場は、岩石をクラッシュした後、その砕石を洗浄していましたが、洗浄の際、砕石から粘土質、石粉その他雑物を除去するために、海水を用いていました。この洗浄に用いられた廃水は赤土などの懸濁物を大量に含有し黄褐色を呈していました。この廃水が直接海に排出されていて、砕石工場付近の海水が広範囲にわたって赤土で汚染されていました[沖工1974:30]。
 しかし、一部の工場は、海岸を石積で堰き止めて沈殿池をつくり、そこに廃水を放流していました(直接海に放流しなかった)。この自然沈降方法により、大部分の赤土などが除去されていることが確認されました[沖工1974:31]。湧上さんは、この自然沈降方法について、次のように説明しています。「沈殿池に放流された廃水は地下に浸透し、最終的に地下水として海に流れていきます。この場合、廃水は地中を流れる間に濾過されるので、最終的に海に流れ出る水は、汚濁物が取り除かれた状態になっています。赤土を除去するためにどのような方法がよいのかについては、各工場の現場で、工場の技術者と検討しました。学生時代の恩師の兼島清先生にも加わっていただいたことがあります。当時は、海洋博(1975年開催)を目の前にしていて、短期間に大量のバラスをつくる必要があったので、手っ取り早く経済的に洗浄する方法が求められていました。検討の結果、この自然沈降方法が優れているという結論に達しました」
 兼島清教授は、当時の状況について、自著で次のように記しています。

水質汚濁による公害は沖縄北部の採石場から排出される赤土を含んだ廃水による海水の汚濁がもっとも大きい。国際海洋博覧会の予定されている本部半島には、良質な石灰岩が多量にあり、一八か所の採石場が並んでいる。ここでは石灰岩を採掘し、粉石して、建築、道路工事用のバラスを生産しているが、その際バラスに付着した赤土を落とすため、海水でそれを洗浄し、その廃水は未処理のまま海にたれ流している。そのため付近沿岸一帯はこの赤土で真っ赤に染まり、サンゴはもちろん魚も住まなくなり、海は砂漠と化してしまった。
 県の工業試験場の分析結果によると、一九七三年一月十日採集試料について、未処理のまま海に流している廃水の浮遊物(SS)の値は一リットル当たり八八六~一六五〇ミリグラムで、その許容限度日間平均一リットル当たり一五〇ミリグラムをはるかにオーバーしており、県もこれに対し厳重に規制をすべく、注意を喚起した。その後一九七三年十一月に調べた結果、ほとんどの採石場が沈でん池を設置して、廃水の処理をしだしたために、この赤土による汚濁もかなりおさまったが(中略)切り崩された真っ赤なハゲ山からは雨のたびに赤土が流れ出し、そのたびにこの地域一帯の海岸は真っ赤に汚濁し、美しかった青い海も死の海と化し、山を荒らせば海枯れるのことわざそのまま示している状態である。

兼島1974:104-105

赤土汚染は(中略)漁獲にも大きな影響を及ぼした。本部漁協や国頭漁協、羽地漁協ではこの赤土汚染で海が汚れ、小魚が寄りつかなくなり、エサ場を失い漁獲は減る一方でぬきさしならぬ状態におかれていると漁協関係者は嘆いている。

兼島1974:115

 この記述の要点をまとめると、次のようになります。①バラスは建築用や道路工事用として利用されていた、②赤土はサンゴと魚が生息できなくなるほどの悪影響を与えていた、③沈殿池は汚濁を防ぐ効果を有することがわかった、④県工業試験場(化学課)の分析で、廃水の浮遊物(SS)の値が許容値をはるかに超えていることが明らかになった。県はその結果をふまえて、各工場を指導し、沈殿池を採用させた。つまり、県の調査と指導は、環境汚染防止に貢献することができた。⑤開発で切り崩されたハゲ山からの赤土の海洋流出は止めることができない(沈殿池だけでは抜本的な解決は不可能。乱開発による汚染は防ぎきれない)。
 なお、「一九七三年一月十日採集試料」とありますが、この時、湧上さんは技術指導を行っています(表1参考)。

④湧上さんの回想(インタビュウ)
――復帰以降、九州各県との交流が増えたように思います。湧上さんも何度も九州に出張なさっていますね。

 復帰後、九州・沖縄ブロックが形成され、九州内で開催されていた会合に沖縄も参加するようになりました。復帰直後、沖縄の排水処理技術は乏しかったので、技術に関係する会合には積極的に参加して、本土の技術を勉強しました。他の担当者も様々な会合に参加しました。

――そのような技術交流の場において、沖縄から報告することはありましたか。

 私に限って言えば、なかったです。当時、沖縄が発表できるような技術や成功事例などはなかったのです。

――琉球政府時代米国からの技術指導はなく、本土復帰後九州と交流するようになったとのことですが、復帰するまで、他府県との交流はまったくなかったのですか。

 なかったです。あったのは、国の通産省地質調査所とのつながりだけです。国の技官を派遣してもらって、指導をしてもらっていました。ダム建設に関する水資源開発調査と、天然ガス調査が例として挙げられます。国の出先機関である南方連絡事務所(総理府の附属機関。総合事務局の前身)を通じて、中央とのやりとりは行なわれていました。

――九州で得た技術を沖縄でどのように展開していたのですか。

 まず、内部では、工業課へ報告していました。次に外部への展開についてですが、県内の工場の技術者に、工業試験場が実施した調査(水質分析)の結果を伝え、それをもとに九州で学んだ技術や事例を紹介しました。また、どのような企業が専門的に廃水処理技術を持っているかも教えました。工業試験場でやれることはそこまでです。

――当時、廃水処理の技術を有する企業は、本土にあったのですか。

 そうです。公害対策では、本土が先行していましたので。

――廃水処理をするには、莫大な経費がかかると想像できます。『昭和48年度業務報告』にも「業種の中には廃水処理装置の設置について適当な敷地の確保と資金面にかなり難色を示しているところもあった」[沖工1974:34]と書かれています。中小規模の工場では、導入したくてもできなかったのではないでしょうか。

 たしかに、経済的余裕のある工場は限られていました。そのため、国は、助成金を出すことで、廃水処理の装置や施設の導入を推進していました。県内の工場は、県を通して国に申請していました。

――県の調査を拒絶する企業はなかったですか。

 いいえ。調査を断る工場はなかったです。当時、住民の環境意識は高まってきていて、マスコミも公害問題をしばしば報道するようになっていました。工場側も、工業の問題点を正確に知り、改善すべき点は改善したいと考え始めていたのです。ですから、ぜひ調査してほしいという態度でわれわれを迎えました。

――工場も、世間の目を意識するようになっていたのですね。

世間の目は、重要な役割を果たすと思います。たとえば、パイン缶詰工場の場合、たとえ工場周辺で環境汚染の問題が存在していたとしても、工場にパインを買ってもらっている農家は、工場に苦情を言うことができません。顧客には文句が言いにくいのです。しかし、社会全体で環境保全への意識が向上してくると、工場も世間の目を気にせざるを得なくなります。対策を講じなければいけないと考えるようになるのです。

――ということは、メディアの役割も大きいと言えますね。

 そうだと思います。

4.さいごに

 本稿では、主に次のことが明らかになりました。
・化学技術は、応用範囲が広い(糖度検査や天然ガス調査、川の水質の分析、工場廃水の分析など)。
・湧上さんは、ダム建設事業に必要な水資源開発調査(水質分析)に参加した。
・湧上さんが関わった天然ガス開発が成功し、現在、ユインチホテル南城で、天然ガスがコジェネレーション・システムの形で利用されている。
・日本政府の技官は、本土復帰前から沖縄に技術指導を行っていた(例:天然ガス調査、水資源調査)。
・本土復帰後は、他都道府県(特に九州)との技術交流がさかんになった。
・本土復帰前から、沖縄で公害問題は発生していたが、復帰前にはほとんど対策は取られていなかった。復帰後、湧上さんは工業試験場に勤務し、公害問題に取り組むことになった。
・海洋博(本土復帰3大事業の1つ)のために、北部の山が大規模に切り崩された。湧上さんは、その現場で、兼島清教授(大学時代の恩師)や砕石工場の技術者とともに、赤土による海洋汚染を食いとめるために対策を講じた。
 こうしてみると、湧上さんが時代の大きな変わり目で、重要な役割を果たしてきたことがわかります。

(文責:堀川輝之)

【参考文献】

沖縄県工業試験場1974『昭和48年度業務報告』沖縄県工業試験場
兼島清1974『沖縄―開発の光と影―』大日本図書
野間泰二2007『琉球諸島における諸島の地下水』沖縄県環境科学センター
藤原彰1990「佐藤長期政権と安保・沖縄」歴史学研究会編『日本同時代史4 高度成長の時代』青木書店pp.115-143

【資料】

琉球工業研究指導所沿革

1959年5月 設立。もと経済局蚕糸検定所に設置。指導調査課、化学課、工芸課の三課で発足。職員は所長以下3名であった。
1962年2月 現在地(那覇市字寄宮314番地)に米国政府援助により、834.9㎡の建物が竣工した。
1962年7月 建物各室の機械器具、図書等を設置、職員9人で業務を開始した。
1963年2月 組織の改正により、所長1、総務課3、技術指導室7、生産指導室2、計13人となる。
1964年6月 経済局訓令第3号により、技術指導室に2人、生産指導室に1人の専門官が配置された。材料試験室が新設され、建築用原材料の各種試験を実施、職員14人が増員され計29人となる。
1965年7月 通商産業局組織規則が制定され、材料試験室は、職員を含めて建設局へ移管される。所員は15人となる。
1965年12月 職員定数規程の一部改正により、所長1、総務課3、技術指導室8、生産指導室4、工業研究官3、計19人となる。
1966年9月 第3次沖縄の天然ガス調査研究開始(通商産業局工業課、通商産業省地質調査所と共同研究)。
1967年2月 職員定数規程の一部改正により、技術指導室8が5となり、生産指導室が工業課へ吸収、あらたに産業工芸室が設置され、工業研究官3は2となり、計14人。
1967年9月 第4次天然ガス調査研究開始(通商産業省地質調査所と共同研究)。職員定数規程の改廃により、産業工芸室に2人増員され、染織関係と木工関係業務開始。
1968年10月 第5次天然ガス調査研究開始(通商産業省地質調査所と共同研究)。
1969年1月 組織規則の一部改正により、主任工業研究官が新設された。
1969年4月 規則改正により、所長1、総務課3、技術指導室5、産業工芸室4、主任研究官1、工業研究官2、計16人となる。
1970年2月1日 技術指導室に1人増員され、17人となる。
1972年5月14日 琉球政府は復帰のため終了。復帰時まで「琉球工業研究指導所」と称した。
1972年5月15日 沖縄県発足、琉球工業研究指導所は、沖縄県庁へ引継がれ労働商工部の出先機関として、「沖縄県工業試験場」と名称を改め、場長、内部組織5課(庶務課、化学課、鉱物資源課、染織課、木工試験課)で発足した。