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地域探訪:①親慶原編

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地域探訪:①親慶原編
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1.はじめに

 4町村(佐敷町、知念村、玉城村、大里村)が合併し、2006年に誕生した南城市には、明治時代以前に起源をもつ古い集落から、復帰後に建てられた団地まで、70を超える行政区が存在します。「なんじょうデジタルアーカイブ」では、利用者のみなさまに南城市のことをより深く知っていただくため、各区の歴史や文化を紹介する連載をスタートすることになりました。先は長いですが、すべての区や自治会を紹介するのが、この連載の最終目標です。抽選で選ばれた、記念すべき第1回目の区は親慶原です。

2.戦中までの親慶原

 旧玉城村の親慶原は、南城市域の中央に位置し、区の南側には広大な「琉球ゴルフ倶楽部」の敷地が広がっています。県営団地を含めた2022年4月末の人口は1236人、世帯数は532世帯です。区の中心地であるコミュニティーセンターから北に向かって歩くと、グラウンド近くの民家の横に“親慶原発祥の地”とよばれる拝所「3班のお宮」があります。親慶原は、首里から移住していきた士族によって建てられた屋取(ヤードゥイ)村です。もともとは垣花区に属していましたが、人口増加にともない、大正9(1920)年に垣花二区として、分離・独立を果たしました。
 昭和初期まで、親慶原では野菜出荷組合がトマトやキャベツ、インゲンなどの野菜を栽培し、本土へと盛んに出荷しました。しかしながら、土地が痩せていたため生産性は低く、干ばつの被害を受けることも多かったようです。

 沖縄へ戦争の足音が近づきつつあった1944年、垣花二区にも日本軍の部隊が駐留を開始しました。住民(おもに女性たち)は、陣地構築などの軍作業に駆り出され、過酷な労働に従事しました。日本軍と米軍との戦闘がはじまると、住民たちは周辺の壕や墓に身を隠し、劣悪な環境下で生活を営みました。戦争により、垣花二区では総人口(463人)の約26%にあたる、119人が犠牲となりました。なお、下親慶原と喜良原の境界付近には、1944年に人工壕が掘られ、戦時中の役場として利用されました。

親慶原のコミュニティーセンター。2003年落成。
3班のお宮。親慶原で最初に建てられた屋敷の跡といわれる。
役場壕。現在、立ち入ることはできない。

3.戦後の発展

 百名や志喜屋、屋比久といった、知念半島各地の収容所に収容された住民たちは、次第に垣花二区へ戻りました。ところが、1945年6月中旬、軍事施設の建設を進める米軍は、垣花二区を含めた一帯の住民に対して、沖縄本島北部への強制移住を命じます。移住先の久志村では食糧難やマラリアに苦しみ、亡くなる者が続出しました。12月に入ると、住民たちは地元に戻ることが認められました。しかしながら、垣花二区には米軍の施設が置かれていたため、住民たちは冨里や當山の民家を間借りする生活を営むことになります。1946(昭和21)年に入ると軍施設の一部は解放され、6月中旬までに多くの住民が垣花二区に戻りました。この際、垣花二区は軍施設が置かれたままの仲村渠二区と合併し、あらたに親慶原区が誕生しました。

 1946年には、琉球列島米国軍政府が親慶原に、沖縄民政府が新里の高台(現在ユインチホテル南城がある場所)へと移転します。これにともない、親慶原には多数の政府関係職員や労働者が移り住んだほか、簡易裁判所や銀行、警察署なども設置され、にぎわいをみせるようになります。
 1949年7月23日、大型のグロリア台風が沖縄を襲い、高台に位置する民政府の建物は大きな被害を受けました。これを契機として民政府と軍政府、そして関係機関の那覇への移転が進められました。軍政府の移転後も、広大な米軍施設はそのまま親慶原に残されました。同施設は、地元の人びとにとって大きな働き口のひとつであり、多数の労働者が軍作業に従事しました。この施設は、沖縄占領と同時に海軍司令部として使用されましたが、後に陸軍、CIAと管理主体が変わりました。極東戦略の特殊部隊の使用基地としてCSGの名称で長く使用され、1972年からは知念補給地区という名称で運用されました。その敷地は、沖縄が日本へ復帰した2年後の1974年に完全返還され、跡地にはゴルフ場が建設されました。以上のように、復興と米国統治の動きに翻弄されるなかで、親慶原の住民たちは大きな社会変化を経験してきたのです。

軍作業時代の仲間たち。親慶原にて。

4.親慶原の文化財

①お宮

 お宮は、コミュニティーセンターの後方にある、区の中心的な拝所です。この拝所は1951年に、戦後6代目の区長であった徳元八一氏の発案によって建てられました。高さ1.8mほどの祠の上部には十字架の切り抜きがあり、内部には「郷土の開祖(産土神)」「水の神(生命の神)」「火の神(文化の神)」が祀られています。
 祠がつくられた当初、後部の壁面には「この目標を通して天地の造主である、唯一の神を拝すべし」との文言が、日本語と英語で書かれていました。かつては、米兵がやって来て、ここで礼拝をおこなう様子もみられたそうです。お宮の敷地には、祠と同時に戦没者慰霊碑も建立されました。この拝所では1月2日の初起しや、5月のアブシバレーといった行事で祈願がおこなわれます。

親慶原の中心的な拝所である”お宮”。

②大川

 大川(ウッカー)は、県営団地の向かい側にある井泉です。ここは、もともと集落における主要な水源のひとつで、水道が整備されるまで生活用水の供給や、洗濯場として利用されてきました。また、知念高校が親慶原にあった時代には、生徒たちがここから生活用水を運搬したそうです。現在の大川は、平成5年に整備されたものです。

簡易水道の水源だった大川。

5.おわりに

 いかがだったでしょうか。今回の記事では、親慶原の歴史と文化財をご紹介しました。今後、「なんじょうデジタルアーカイブ」では、HPで公開している資料を活用しながら、市内の区や自治会を紹介する記事を不定期に連載していきます。どうぞお楽しみに。

参考文献

親慶原コミュニティーセンター建設委員会記念誌編集部(編)
 2003 『親慶原コミュニティーセンター落成記念誌』親慶原コミュニティーセンター建設委員会.

喜舎場功・喜舎場米子
 2002 『徳元八一遺稿集』私家版.

金城繁正(編)
 1977 『玉城村誌』玉城村役場.

玉城村役場企画財政室(編)
 2000(1997) 『グスクとカー(湧水・泉) 水の郷』玉城村役場.

南城市教育委員会(編)    
  2018『南城市の御嶽』南城市教育委員会.