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【レポート】親子向け歴史講座「南城市の戦争遺跡」

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戦後80年の節目にあたり、親子向け歴史講座「南城市の戦争遺跡」を開催しました。
講師に沖縄県平和祈念資料館学芸員の仲程勝哉さんをお迎えし、前半は座学、後半は市内2カ所の戦争遺跡を巡るフィールドワークを行ないました。

記事の最後に、当日の様子を記録した動画も掲載しています。ぜひ併せてご覧ください。

第1部 座学

1.南城市の特徴と「地域の沖縄戦」(文化課)

 はじめに、文化課職員が「南城市の特徴と地域の沖縄戦」について解説しました。
 南城市は2006年に、佐敷町・玉城村・知念村・大里村が合併して誕生しました。しかし沖縄戦当時は、現在の南城市にあたる地域は4つの「村」に分かれていました。そのため、「南城市の沖縄戦」と一言でまとめるのではなく、4地域それぞれに異なる体験や状況があったことを前提に考えることが大切だと説明しました。

2.沖縄戦の基本確認

 次に、クイズを交えながら沖縄戦の大まかな流れを確認しました。大まかな時系列は以下のようになります。

講座スライド

沖縄戦の大きな特徴として、兵士だけではなく住民も弾運びや食料運搬などに動員され、戦争に巻き込まれた(根こそぎ戦場動員)点が挙げられました。沖縄では年齢や男女の区別を超えて動員が広がり、子どもや高齢者までが作業にかり出されました。

3.南城市の沖縄戦

(1)戦前:軍の施設と住民動員

続けて、南城市の沖縄戦について、戦前から戦後までどのような状況だったのかを解説しました。

南城市周辺には戦前から日本軍の施設が建設されていました。1895年には佐敷の津波古に中城湾需品支庫(海軍)が整備され、軍艦へ水や食料などを補給する拠点となりました。石炭庫や貯水池が造られ、水道も整備されたといいます。1941年には中城湾臨時要塞(陸軍)が置かれ、兵舎や武器庫など多くの施設が建設されました。中城湾臨時要塞に所属していた部隊の1つである重砲兵連隊第2中隊は、知念半島で陣地づくりや演習を行っていました。

戦争が近づくにつれて、学校や公民館、大きな瓦屋根の家などが日本軍に利用されるようになりました。1945年に入ると兵員不足を補うため、住民が召集され、防衛隊の編成や学徒動員が行われました。

文化課職員による座学の様子

(2)戦中:当時の避難状況と戦況/戦後:市内に造られた収容所と強制立ち退き

1945年3月から4月にかけてアメリカ軍による攻撃が激しくなり、住民は自宅近くの防空壕のほか、ヤンバル方面へ避難する人々もいました。5月下旬にはアメリカ軍が大里村へ進攻し、雨乞森(アマゴイムイ。現在の与那原町)や大里グスクで激しい戦闘が起こった後、知念半島が制圧されました。また、「戦没地別グラフ」を基に、各村の特徴について解説しました。

村名    特徴                理由
玉城村・船越、愛地、前川の住民が多くなっている。
・戦没地は玉城村内、本島南部が多い。
・船越、愛地、前川の住民が避難していた近くの道を、日本軍や避難民が移動していたとされる。
・アメリカ軍が近づいていることを知った住民が本島南部へ避難したとされる。
・前川は摩文仁方面へ避難する通過点。そこに日本兵や避難民が殺到し、アメリカ軍の攻撃を受けてしまった。
大里村・戦没地は大里村内、本島南部が多い。那覇や本島中部から逃げて来た避難民、日本軍の後を追って本島南部へ逃れた住民が多いとみられる。
佐敷村・戦没地は佐敷村内、現在の名護市が多い。・村内の避難壕に留まっている住民が多かった。また、3,4月頃のアメリカ軍の艦砲射撃の被害にあう住民が多かった。
・戦場で捕虜になった佐敷住民は市内の収容所にいたが、アメリカ軍の基地建設のためにヤンバル(本島北部)へ強制的に立ち退かされた。そこで食糧不足、マラリアなどの病気で多くの人が亡くなった。
知念村・戦没地は知念村内が多い。・村内の避難壕に留まっている住民が多かった。また、3,4月頃のアメリカ軍の艦砲射撃の被害にあう住民が多かった。
・一部の住民はアメリカ軍の基地建設のためにヤンバル(本島北部)へ強制的に立ち退かされた。そこで食糧不足、マラリアなどの病気で多くの人が亡くなった。
村別戦没地の特徴(戦没地グラフより作成)

6月上旬から中旬にかけて、アメリカ軍は知念半島各地に収容所を設置しました。アメリカ軍の記録によると、6月5日から30日までの間に4万人以上が捕虜として収容所に入ったとされています。百名の収容所には病院や孤児院、警察などが置かれ、現在の百名小学校は収容所の「青空教室」から始まりました。

さらに7月中旬から8月上旬にかけて、佐敷村・玉城村・知念村の一部の人々が、現在の名護市周辺(久志村)の収容所へ強制的に立ち退かされました。ヤンバル(本島北部)では食料不足に加え不衛生な環境もあり、栄養失調やマラリア、赤痢などで多くの人が亡くなりました。

講座スライド
講座スライド

(3)南城市の沖縄戦 – まとめ –

最後に、南城市の沖縄戦の特徴についてまとめました。

講座スライド

第2部 フィールドワーク

市役所からマイクロバスに乗り、最初のフィールドワーク先である斎場御嶽(セーファウタキ)へ向かいました。

1.講師による座学(車内)

(1)戦争遺跡の種類について

車内では、講師の仲程さんより「南城市の戦争遺跡」の概要を解説していただきました。

はじめに、戦争遺跡とは、戦争に関係して造られたものや、戦争で傷ついたあとが残る場所のことで、大きく4種類に分けることができます。

軍に関する遺跡
 司令部壕、陣地、飛行場、砲台、監視施設、補給施設など
住民や行政に関する遺跡
 住民避難(防空)壕、自然洞穴(ガマ)、役場壕、民間防空壕など
戦争に関連した記念碑・施設
 忠魂碑など、当時の社会状況や価値観を示す石碑・施設
被災痕跡
 壁の銃弾の跡、地面の爆弾・砲弾の跡など、攻撃を受けた証拠となるもの

(2)沖縄戦以前の戦争遺跡

南城市に残る戦争遺跡の中には、沖縄戦以前に造られたものもあります。

①海軍給水タンク(水溜)跡(佐敷・新里)
日清戦争後の1895年(明治28)頃に建造されたもので、市内で最も古い戦争遺跡とされています。
海軍が船などに水を補給するために建造した施設だと考えられています。素材にはレンガとモルタルが用いられ、レンガは「イギリス積み」と呼ばれる積み方がされています。講師は、戦争は戦闘だけでなく、水や物資の補給体制によって支えられていた点が重要だと述べました。

海軍給水タンク(水溜)跡(2018年撮影)

②忠魂碑(佐敷、大里)
忠魂碑は国のために戦って亡くなった兵士を祀る目的で建てられた記念碑であり、現在の慰霊碑とは意味合いが異なります。
市内には、「旧佐敷村忠魂碑」(佐敷・佐敷/旧佐敷村役場敷地内)と「旧大里村忠魂碑」(大里・古堅/古堅の宮近く)の2基が残っています。そのうち「旧大里村忠魂碑」は碑を裏返し、現在「慰霊碑」として再利用されたとされ、戦後の価値観の変化を読み取ることができます。

旧佐敷村忠魂碑(2018年撮影)
旧大里村忠魂碑(どちらも2018年撮影)。左が現在の慰霊碑、右が慰霊碑の裏側。「忠魂」の文字が見える。

③中城湾臨時要塞と砲台跡(ウローカー砲台跡など)
中城湾防衛のため、1941年(昭和16)に設置された中城湾臨時要塞では、知念半島側にも部隊が移動し、砲台などが構築されました。
ウローカー砲台跡(知念・久手堅)には、砲台2基のほか通路状・部屋状の遺構が残っています。また、アメリカ軍の攻撃を受けて破損したとみられる部分も見ることができます。講師は、こうした遺跡から当時の防衛の考え方や、戦争準備が地域に及んでいた事実を具体的に理解できると解説しました。

2.ウローカー砲台跡(知念・久手堅/斎場御嶽内)

「ウローカー砲台跡」の「ウローカー」とは、斎場御嶽に参拝する前に身を清める泉のことです。この「ウローカー」近辺に砲台跡が残っています。

ウローカー砲台跡の前で解説する講師。
木の下で雨宿りをしながら、写真を用いて解説。

3.ウフグスク陣地壕(知念・久手堅/南城市地域物産館近く)

次に向かったのは「ウフグスク陣地壕」は、「南城市地域物産館」に隣接する「ウフグスク」というグスクに構築された陣地壕です。
構築したのはウローカー砲台跡を構築した、中城湾臨時要塞部隊第2中隊(通称:吉岡隊)だとされています。内部には銃座(じゅうざ)のような部屋が掘り込まれています。
当日は車内からの見学となりましたが、ぽっかりと開いた壕口を確認することができました。

ウフグスク陣地壕の壕口
ウフグスク陣地壕内の概略図を用いて解説。

4.前川民間防空壕群(玉城・前川)

最後に向かった場所は「前川民間防空壕群」です。1944年(昭和19)10月10日におきた「十・十空襲(じゅう・じゅう くうしゅう)」後に、玉城村前川の住民が協力して造った防空壕です。

前川民間防空壕群には複数の入口があり、内部がつながっている壕やお墓を拡張して造られた壕もあります。2014年に沖縄県が実施した調査では、埋没した箇所も含めて59カ所の壕口が確認されました。また、一部の壕では「集団自決」による犠牲者も出ています。

前川民間防空壕群の一部の壕口。※別日撮影
壕口の前にて解説。
戦後の食糧難で食用としてアフリカマイマイが各地で養殖された。一部の壕にはその残骸が大量に残されている。※別日撮影
説明版にある見取図を用いて解説。

前川民間防空壕群のような複数の壕口がある防空壕も紹介されました。

①安座真民間防空壕跡(知念・安座真)
崖沿いに点在し、入口が複数で内部がつながる構造。高さが低く大人が立って歩けない箇所もあります。

②メーミヤ壕(大里・西原)
集落地下の鍾乳洞で、住民の避難場所に加え、役場壕や軍の陣地としても使用されました。1つの壕が複数の目的で使われた点が特徴です。

③旧佐敷村役場壕跡(佐敷・佐敷)
佐敷城跡の南側崖沿いにある壕群で、比較的大規模。行政機能が壕の中に置かれました。

④糸数アブチラガマ(玉城・糸数)
全長270m以上の自然洞穴で、軍と住民が同じ壕で過ごす「軍民雑居」の壕でした。日本軍の陣地、住民約200人の避難場所、さらに陸軍病院分室として利用されました。

戦争遺跡を学ぶこと-講師の言葉から-

戦争遺跡を学ぶということは、戦争の実相や悲惨さ、傷跡を後世に継承するために重要なものだと思います。

戦争の歴史というのは、見聞きしてもあまり楽しい歴史ではありません。悲惨だったり、どこか血なまぐさかったり、嫌な話が色々なところから出てきます。

そういったものをただ、「嫌だな」「気持ち悪いな」というふうにどんどん離れていってしまうと、この戦争の悲惨な記憶や実相が後の時代に伝えられなくなってしまいます。すると、戦争の悲惨さを忘れた人々が、再び戦争を起こすかもしれません。

現在、沖縄戦はいろんな人が記憶している時代から、記録から読み解く時代に移り変わっていく過渡期にあります。先人が残した沖縄戦の証言や記録、戦争遺跡を後世に伝えていくことが、ますます重要になってくると思います。

当日の記録動画