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佐敷エリア(グループ2)『佐敷の沖縄戦』

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佐敷エリア(グループ2)『佐敷の沖縄戦』
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【レポート】2024年「戦争体験証言を用いた教材開発ワークショップ」

用いた証言:知念芳子さん(佐敷・新里、当時20歳)

知念さんの体験内容:
・基本的に佐敷の壕に避難していて、村外へ逃げなかった。
・戦争前より戦争中の方が、食糧が豊富で、ご馳走を食べられた。芋ではなく毎日夜に米を炊いて食べていた。
・捕虜になり、収容所へ移った後の方が苦労した。

【証言を読んでの印象】
・「食べ物に困らなかった」など、今まで学んできた沖縄戦体験のイメージとギャップのある証言のため、どのようにワークシートにしていくか悩んだ。

立てた問いとそのねらい

導入これまでの沖縄戦のイメージをひきだす
・日本兵から きびしいしうち
・食べものない!
・にげる
・家ぞくがなくなる
問いあなたが知念さんだったら、どうする? 逃げるor逃げない
ねらい ・中学生を対象と想定した。
・いわゆる「沖縄戦の体験」のイメージと少し異なる。
・導入で、これまでの沖縄戦イメージをひきだす
・証言を途中まで読み、生徒に証言の中にある根拠になりそうな部分を見つけてもらい、「逃げる」、「逃げない」の選択を決めてもらう。
(想定される根拠)
・逃げる場合:「日本兵がいたところは、早く島尻に避難するように言われていたようだ。」、「弾は私たちの頭の上をヒューヒューと飛んでいた」
・逃げない場合:「水も食糧も豊富な壕生活」、「日本軍の特攻隊が飛んできて、アメリカ軍の軍艦めがけて特攻攻撃をしていた。」

・証言の続きを読んだあと意見交換
【問】生き残ることができたターニングポイントや印象に残ったことを生徒にあげてもらう。

補足(山城氏)

・佐敷地域の体験者は、知念さんのような体験をした人が多い。佐敷と知念の山間の方に隠れていて、糸満まで逃げる例は多くなかった。
・佐敷に多くの収容所ができていくが、その際、アメリカ軍はテントではなく民家をそのまま使って収容した。そのため「家に帰って生活していたら収容所になっていた」という証言もある。

グループ2が作成したワークシート

用いた証言

知念芳子(大正14年生まれ)

〈村内避難〉

女子青年として毎日竹ヤリ訓練
 私は佐敷村字新里(現 南城市)の〈東佐久間前(アガリサクマヌメー)〉 の長女として生まれた。戦争当時は20歳だった。
 戦が来る前は、壕堀りや竹ヤリ訓練を相当させられた。訓練は新里の製糖工場 のところで、男も女も一緒になって毎日行われた。1,2,3の号令で「ヤー ヤー」とワラ人形を(竹ヤリで)突いていた。今考えると、ままごとのようだと思う。青年会として(この訓練を)やっていたが、男は出征していたので、参加者のほとんどは女子青年だった。〈中略〉

板で米俵を担ぐ
 日本兵は、新里や旧稲福では人数が少なかった。壕は掘っていたが、兵隊の姿はあまり見かけなかった。
壕掘りが終わると、次は佐敷の学校から坂を2枚担いで運ばされた。小谷集落(現 南城市)の上の坂を通って、旧稲福のザンクビリに上がり、集落の西側にあった製糖工場近くの野戦病院壕(場所不明)まで運んだ。この作業は1日に2回だった。
 野戦病院の壕では多くのけが人がいた。このけが人は木の枝で作った床に寝かされ、「水をくれー」と呻いていた。私はその様子をかわいそうと思いながら見ていた。その壕は、前が埋まっているので、今もそのまま残っていると思う(現存しているか未確認)。
 また、米俵も4人がかりで運んだ。米俵は棒で担いで、(板を運ぶときと)同じような道を通って、稲福の殿(トゥン)に運んだ。米を担いで坂を上るのはつらかったが、当時は若かったので難儀とは思わなかった。男がいなかったので女の人たちが力仕事をしていた。戦争当時は色々あったが、いい勉強になった。
 戦争が始まったとき、日本兵は5,6人しかいなかった。「兵隊はドロボーだ。鶏も盗んでいた」という話を聞いたこともあったが、自分には関係ないと思っていた。

新里集落上の壕で避難生活
 昭和20年(1945)の3月(何日かは不明)、自分たちで掘ってあった壕(名称なし)に避難した。父(助造(すけぞう))は義勇兵(ぎゆうへい)として出征(しゅっせい)していたので、私は祖父母(蒲、ツル)、母(カメ)、2歳下の妹(シゲ)、親戚の佐久間(本家)のおじいさん(名前不明)と、その人の孫で6歳くらいの男の子(セイケン)の7名で避難した。
 壕は現在のユインチホテルの北側の崖下あたりに掘っていた。側には泉(新里坂(ビラ)を上がった右側にあった)があった。私たちはその壕に避難してから、どこにも移動しなかった。

壕から眺めていた日本軍の特攻攻撃
 壕のあるところは、ちょうど新里(集落)の後背地になっていた。そのため、壕からは海がよく見えていた。勝連(かつれん)半島(現 うるま市の東南部に位置する半島)の海にアメリカ軍の軍艦が、いっぱい停留しているのが見えた。
 日本軍の特攻隊が飛んできて、アメリカ軍の軍艦めがけて特攻攻撃をしていた。しかし、(特攻隊の飛行機は)突撃する前にほとんど落とされて、一機だけ突撃に成功していた。私たちは毎日、そのような状況を見ていた。

水も食糧も豊富な壕生活
 旧稲福にいた日本軍が島尻(しまじり)(沖縄本島南部)に移動すると、その後は日本兵に一人も会わなかった。戦争が激しくなっていた時期だったが、私は夕方になると腰に木の枝を差して芋掘りに行っていた。また、殿(トゥン)には米が山盛りに残してあった。以前そこに米を担いで運んで行ったことがあるから、殿から(避難している壕まで)米を担いできた。私たちが捕虜になったあと、殿の米は、住民が取り合っていた。
 旧稲福にある慰霊塔の西側にあるカゾーラーヤマ壕(場所不明)にも、タオルや鰹節(かつおぶし)などの日本軍の物資が相当あった。私はそこの壕にも物資を取りに行った。
 ある日、カゾーラーヤマ壕から現在の稲福の北はずれにあるイランダ(玉城盛明さんの家のあたり)で、アメリカ軍がテントを張っているのが見え、大変だと思って逃げ帰ったことがあった。
 旧稲福のザンクビリというところに、〈上玉城(イータマグスク)〉の畑があり、その畑の下にガマがあった。そのガマには米や乾燥ジャガイモ、ワカメなどの食糧品や、毛布などがいっぱいあった。私たちはそのガマからも米を取っていた。私はそのとき、カリガマーというところで一軒だけ明かりが付いているのを見た。稲福の人たちが、ほとんど島尻に避難している時期だった。
 日本兵がいたところは、早く島尻に避難するように言われていたようだ。また、百名(ひゃくな)や喜良原(きらばる)(どちらも現 南城市)あたりの人たちも島尻に避難していたようだ。私の親戚も喜良原に避難していたようだ。〈中略〉
 弾は私たちの頭の上をヒューヒューと飛んでいたが、私たちのところには落ちなかった。新里を超えて日本軍のいる島尻に飛んでいた。

 私たちが避難していた壕の近くには水が湧くところがあった。その水でご飯を炊いたり、風呂に使ったりしていた。そのため何の不自由もなかった。夜はシンメーナービ(大鍋)で米を炊き、ヤギや豚を潰(つぶ)して夕飯を食べ、壕の中で寝た。翌朝はアメリカ兵が壕に来たら大変だということで、朝食をすましたあと、昼ご飯用に肉を詰めたおにぎりを作って山に隠れていた。
 私は山の中に隠れているとき、捕虜になった住民を載せたトラックが、新里ビラ(坂)を通っていくのを見たことがある。
 当時は芋の時代だったが、(戦争中は)戦争前よりご馳走を食べられた。(そういった面では)喜びながら過ごしていた。その代わりシラミが大変だった。シラミは潰してもずっと湧き出てきて、とても気持ち悪かった。あの体験は思い出として(記憶に)残っている。今でも、(避難していた)あたりを通ると「おかげでご馳走になりました」と、礼をして通る。

情報が少なかったのが幸いだった
 避難中、誰からも連絡はなかった。以前に山からカズラ(芋の葉)を摘むために歩いていると、刀を差した日本軍の将校らしき人たちとばったり会って、びっくりした。その日本兵たちは「心配するな。向こうにはアメリカ軍の軍艦がいっぱいいるから、危ないときには豊見城(とみぐすく)の軍の壕を探して行きなさい」と言っていた。(この日本兵たちは)きっと偵察のために歩いていたのだと思う。〈後略〉

(知念昌徳による聞き取り 2016 構成:事務局)