【レポート】2024年「戦争体験証言を用いた教材開発ワークショップ」
用いた証言:湧上洋さん(玉城・船越、当時10歳)
湧上さんの体験内容:
・避難先として宜野座村に疎開するが、疎開先に食糧がなく、家族の男性陣(祖父、証言者本人、弟)は船越に戻る。父は兵隊として出兵しているので不在。
証言で印象に残った点
・判断を迫られるところがいくつか出てくる。→タイトルを「別れ道」とした。
・その時々の判断次第では命を落としていたかもしれない。
・湧上家のリードは祖父。緊張したり、怖い思いをしたりと身の危険を感じる状況の中で、家族を守るための判断をしていく。
・近くの壕にいる家族が、南下して避難先を変えていく場面がある。日本兵も一緒という安心感から付いていく避難民は多かった。
・湧上さんの祖父は壕に残ると判断。これは湧上さんの父が出兵前に「壕に残ることが安全」というのを聞き、それを信じていたから。湧上さんは祖父に移動して避難することを訴えるが、祖父は動かなかった。
・その後、家族の様子を見に湧上さんの父が壕を訪れる。再び戦地に戻ろうとするが、祖父が「この戦争には勝てない。残るべきだ」とはっきり言い、壕に残るよう説得する。父と祖父で言い争いをしたが、最後は父が折れて壕に残ることとなり、結果捕虜となる。
立てた問いとそのねらい
問1 | 湧上家が全員生き残れたポイントをあげてみよう!(いくつでもOK) |
ねらい | ・中学生を対象に想定した(中学校の先生のみのグループ) ・湧上さんの家族が「こうやったから生き残れたのではないか」というところを探し、全体的な内容を読み取らせたい。 |
問2 | 湧上家が周りの状況に流されず、なぜそのような判断ができたのか考えよう! |
ねらい | ・当時、色々な教えがあるなかで、湧上さんの祖父は家族と命を守る判断をして人生を変えた。子ども達にも、自分が「良い判断」をするためにどうしたらいいかを考えてもらう。 ・正解がない問いを立てたいと考え設けた。教員では思いつかない答えが生徒から出てくるのではないかと想定した。 |
用いた証言
自分たちの壕で捕虜に
字船越一区(現 船越)湧上洋(当時10歳)
昭和20年6月4日、私が捕虜になった日である。
昭和20年初頭当時の私の家族は、祖父母、父母、8歳の弟、5歳と2歳の妹、3歳の叔父および私の3人であった。しかし3月になると、父は防衛隊に召集されて玉城村に駐屯していた美田連隊の西村大隊に防衛隊隊長として配属され、前川区大道(ウフドー)の民家にいたので、家にいる家族は8人であった。
アメリカ軍が最初に港川沖から艦砲)射撃を開始した3月24日の夕刻、私たち家族は父の手配で軍のトラックに途中の胡屋(現 沖縄市)まで乗せてもらい、村民の疎開先の金武村(現 宜野座村)漢那へ避難した。しかし避難先に食糧の備蓄が少ないことを知り、祖父と正志と私の3人は富名腰(現 船越)へ戻ってきた。
富名腰に戻った私たち3人は、家から300メートル前方の山の8合目にある壕(現在の街クリーン株式会社の建物左上の高台)での生活が始まった。
最初の頃、富名腰への艦砲弾の飛来や空襲は殆どなかった。しかし、父の所属する部隊が前線へ移動した4月下旬になると、前線近くの中城、西原方面の住民や首里、那覇の住民が富名腰に避難してくるようになり、それに伴ってトンボの形をしたアメリカ軍の偵察機が上空を飛び、周辺にも艦砲弾が飛来し、空襲も行われるようになった。5月初旬頃になると、富名腰に逃げてくる避難民の数が急激に増加し、トンボ偵察機が頻繁に上空を飛ぶようになっていった。トンボ偵察機が上空を旋回して飛ぶと、決まって艦砲弾の飛来や空襲が行われたものである。
5月初旬のある日のこと、その日は連日の雨があがり、朝から太陽が照りつけていた。滅多に私たちの壕の上空を飛ぶことのなかったトンボ偵察機が、その日に限って上空を何回となく旋回して飛んでいた。しばらくしてトンボ偵察機は飛び去っていたが、瞬く間に14,5発の艦砲弾が飛来し、壕の周辺に落下して炸裂した。壕の中は、艦砲弾の炸裂するたびに地響きが起こり、今にも壕が破壊されるのではと、体が震え、生きた心地のしない恐怖を味わったものである。艦砲射撃が止んだ後に外の様子を見てきた祖父は、隣の軍壕(前線へ出動して空いていた)に入っていた避難民が、広場に連日の雨で濡れた布団や着物を干したのが艦砲射撃を受ける原因となったと言っていた。
富名腰区の家が破壊され、炎上したのは5月の中旬頃であった。トンボ偵察機と入れ替わりに爆撃機2機が富名腰二区(現 愛地区)の北側方向から飛来し、集落の西側に爆弾と焼夷弾を投下したのである。爆撃機が急降下するたびに落下した爆弾が轟音を発して炸裂し、建物の屋根や樹木の枝等が空高く舞い上がっていた。そして焼夷弾にあたった茅葺の家々が次々燃え上がり、一帯は瞬く間に火の海となっていき、夜遅くまで火災は続いた。その様子は私たちの壕から手に取るようによく見えたものである。夕方被害状況を見てきた祖父の話では、集落の西側一帯の大半の家が焼失し、民家に隠れていた避難民の中から死傷者が出たという。
またその頃から、首里・那覇や運玉森一帯で激戦が続いているらしく、高台にあった私たちの壕から連日連夜砲弾の飛び交う様子が遠望できた。そして200メートルほど離れた下方の村道を通って島尻南部へ移動して行く避難民の姿が見られるようになった。移動する避難民の上空には時々トンボ偵察機が飛んでいたが、最初の頃は何事も起こらなかった。
ところが5月下旬頃になると、移動して行く避難民の数も多くなり、避難民の中に前線から撤退する兵隊も加わるようになった。すると、トンボ偵察機が絶えず飛び、アメリカ軍の戦闘機が機銃掃射をするようになった。
ある日の昼下がり、祖父が芋掘りに出掛けていたので、私と正志は壕から出て遊んでいた。下の村道では、大勢の避難民が島尻南部へ移動していたが、時折集団で撤退する兵隊の姿も見られた。突如、大城集落の方から2機編隊の米軍戦闘機が超低空であらわれ、移動中の人々に対して機銃掃射を浴びせた。それはまるで戦争映画のシーンを見ているようなものであった。操縦しながら機銃掃射を浴びせるアメリカ兵の横顔がはっきり見え、眼下の道では銃弾で倒れていく人や逃げ惑う避難民と兵隊の様子が手に取るように見えたものである。戦闘機は機銃掃射を4回ほど繰り返した後に立ち去ったが、至る所に多数の死傷者が倒れていた。
無事であった家族は荷物を拾って移動していったが、死傷者を出した家族では、倒れている者のところに集まって死傷者の体を揺すって生死を確認していた。負傷者を負ぶったり、支えたりして立ち去る家族が十所帯ほどもあれば、死者を囲んで悲嘆にくれている家族が5、6所帯もあり、その光景は実に悲惨で哀れなものであった。撤退中の兵隊からも死傷者が出た。死亡した兵隊は仲間の兵隊によって側の畑に片付けられ、負傷した兵隊は応急処置をうけていた。しかし、仲間の兵隊達は負傷兵を残して立ち去っていった。しばらくその様子を見ていたところ、負傷兵の一人が尻を地面につけた状態で両手を動かしてゆっくり前進した。ところが自らの死を悟ったのか、150メートルほど行ったところで手榴弾を爆発させて自決した。
私たちが捕虜になる一週間ほど前になると、大里城址一帯で激しい攻防戦が展開されているらしく、私たちの壕からは、砲弾の飛び交うのが見られ、砲弾の炸裂音が聞こえた。しかし、攻防戦は4日ほどで終わったらしく、その後は小銃や機関銃の発射音が散発的に聞こえるだけになり、その音も大里城址一帯から稲福集落方面へ徐々に移動して聞こえてきた。その頃になると、島尻南部に移動していく避難民の数もさらに増加し、隣村の稲福区や大城区の祖父の知人家族もいたと、避難民からの情報を得るために時々道に下りていた祖父が話していた。
捕虜にされる2日前になると、移動する避難民の中に富名腰区民も多数いて、祖父は一緒に避難するよう誘われたという。しかし、祖父は移動していく区民に対して、「間もなくアメリカ軍の総攻撃が行われようとしている島尻南部へ行くより、自分たちの壕が安全だよ。」といって壕に留まることを勧めたと話していた。また、祖父の忠告を守って隣の軍の陣地壕に留まっていた避難民達も、下の村道を移動して行く避難民に刺激されて壕から出ていってしまった。
捕虜にされる前日、朝から機関銃と小銃の発射音が糸数上原(イーバル)一帯から聞こえるようになり、下の村道は逃げていく避難民であふれていた。しかし、上空を飛ぶトンボ偵察機は見られたが、艦砲弾の飛来もなく、戦闘機の機銃掃射もなかった。移動していく避難民は正午頃から少なくなり、3時頃になると殆ど見られなくなった。私たち家族だけが取り残されてしまったのである。
壕から出ていく事を祖父が頑なに拒んだのには、それなりの理由があった。父が前線へ出動することを告げに来たとき、「この戦争に勝ち目はないので、近くまでアメリカ兵が攻めてきても絶対に壕から逃げないこと。たとえ捕えられても、決してアメリカ兵は殺すことをしないから。」といって立ち去ったからである。祖父は、そのことを堅く信じ、富名腰までアメリカ兵が攻めてくれば戦争は負けだと分かっていたのである。それでも私は不安になってしょうがないので、幾度となく島尻南部に逃げていくことを祖父に訴えた。しかし、祖父は、「心配するな」とだけ言って、私のいうことを無視した。私たち家族だけ取り残された淋しさと不安で、とうとう私はすっかり打ち沈んでしまい、壕の中で縮こまってしまった。
6時頃になって壕の外にいた祖父に呼ばれ、私と正志が壕の外に出てみると、祖父は「アメリカ軍の斥候兵がウフモーまで来ているよ。」といって集落の西の方を指差した。よく見ると、5、6人のアメリカ兵が一粁(キロ)先のウフモー製糖場周辺をゆっくり歩いていた。その様子を見た私はますます不安になり、頑に壕から逃げるのを拒んでいる祖父が恨めしく思えてならなかった。
その日の夕食は明るいうちにとった。すると、食事の途中、いきなり軍服姿の人が壕の入り口に現れたのである。よく見ると軍服姿の人は紛まぎれもなく父であった。私は父の顔を見るなり、不安な気持ちは一度に消えてしまったのである。
父の話では、部隊は真和志村安里の戦線に投入させられ、度重なる白兵戦で配下の防衛隊員からも多くの死傷者が出たという。そして6月2日に具志頭村安里へ撤退し、3日の今日、糧秣運搬を命じられて隊員7人と一緒に艦砲弾の飛来するなかをメーヌモーへ来たという。糧秣運搬を命じられた時、上官より無理しては戻るなと言われたこともあり、父は覚悟を決めて隊員を解散させて家族の元に帰し、自らも家族を一目見てから帰隊しようとして、私たちの壕に立ち寄ったとのことであった。
ところが、しばらくして父が壕を出ていこうとすると、祖父が父の手を掴んで出て行くのを遮り、手榴弾まで奪ってしまった。父が、「防衛隊の責任者である自分は部隊に戻らなければならない。」というのに対し、祖父は、「勝ち目のない戦争で、部隊に戻る必要はない。」と言い返し、「どうしても戻るとあれば、手榴弾で自分たちを殺してから出て行け。」とまで言って壕から出ていこうとする父を必死になって止めていた。20分ほど言い合った後、父は祖父の気迫に負けてしまい、部隊に戻るのを断念して靴を脱いで壕の中に上がった。
父は軍服を祖父の着物に着替え、軍服、巻脚絆、軍靴、軍帽および手榴弾等、軍に関係するものを壕の奥の床下に隠し、一緒に夕食をとったのである。その日の晩は、いつも蚤やしらみの痒みで絶えず目を覚ますのに、側に寝ている父に安心して朝までぐっすり寝ることが出来た。
翌6月4日の朝、父と祖父の話し声で目が覚めた。下の村道は銃を持ったアメリカ兵で一杯し、山に向かって前進中という。ところが、到着予定時間過ぎても現れないので、祖父が外の様子を見に壕を出た。数分後あわてて戻ってきた祖父は、「アメリカ兵は壕の上の山まで登っていた。」という。しばらくして、祖父に気づいたアメリカ兵達が壕の前に現れ、私たちに声をかけたので、私たち家族は祖父を先頭に手を上げて壕から出た。壕入口の両側には迷彩色の軍服を着た4人のアメリカ兵が私達に銃を向けて立っていた。最後に父が出ると広場にいた他の7、8人の兵隊までも駆け寄って、今にも銃を発射しようとした。その間私は、顔は恐怖で引きつり、体は震えていた。父は何かを言って頻りにアメリカ兵達に訴えていたが、父の言っていることが分かったらしく、囲みを緩ゆるめた。後に父の話では「自分は学校の先生であり、兵隊ではない。」と片言の英語で訴えたという。
この様にして私たち家族は捕虜となり、知念村知念に収容された。ちなみに、ヤンバルに疎開していた家族も皆無事に捕虜となり、金武村(現 宜野座村)惣慶に収容されていた。
(『玉城村史 第6巻 戦時記録編』772~776ページ 事務局が一部編集)