【レポート】2024年「戦争体験証言を用いた教材開発ワークショップ」
用いた証言:内間新三さん(知念・久高島、昭和2年生)
内間さんの体験内容:
・普段は漁師。防衛隊として招集される。目の前で壕が爆破されたり、人が死んだりといった体験の中で生き延びる。
・同じ久高島の仲間が数人おり、その仲間と逃げて捕虜になる
証言で印象に残った点
・捕虜になったあと、久高島に帰ると決めたこと
・捕虜になって命は助かったはずなのに、なぜ危険を冒してまで久高に戻ろうと思ったのか。
・そのまま捕虜として残れば、無事に過ごせる可能性がある。
・久高に戻るとなると、撃たれる可能性もある。
立てた問いとそのねらい
タイトル | 「泳いで生き延びよう」と決意した内間新三さんと、その仲間の想いに触れよう! |
問1 | 捕虜になって命が助かったのに、なぜ危険を冒してまで、久高に戻ろうと思ったのか。 |
問2 | あなたが、この3人のうちの1人だったら、「久高に戻ろう」と誘われたとき、どうするか。 [補注:久高島に戻る際、内間さんのほかにあと2人の仲間がいた] ①久高に帰る ②そのまま残る →その理由は? |
ねらいについて
Q.内間さんの証言には戦場体験がいっぱいあるが、あえて戦場後に着目しているのがおもしろい。戦場の体験を使わず、この場面を選んだ理由、ねらいは?(山口氏)
A.講師の山城氏から「防衛隊は戦場で日本軍がいなければ、すぐ逃げる性質があった」と聞いた。それを聞き、沖縄の人と本土の人では、戦争に対する気持ちが若干違うと感じた。「自分の生まれた土地で死にたい」という思いもありつつ、「生き残りたい」という気持ちもあったと思う。
内間さんは捕虜になる直前まで(最初の赤線部分)、生き残るために摩文仁から泳いで、あちこち逃げて、その中で仲間のうちの一人が首を撃たれてしまう。このときの気持ちは「とにかく逃げよう」と思っていた。だが、捕虜になったあと久高に戻ろうとする。戦争を体験して、「生き残りたい」という気持ちから「捕虜になって安心した」のではなく、なぜ殺されるかもしれない危険を冒してまで久高に戻ろうとしたのか。その部分が気になったのでそこをポイントにした。(発表者)
用いた証言
内間新三(昭和2年生まれ)
〈防衛隊〉
「泳いで生き延びよう」と決める
私は並里センジさん、内間末七さんと一緒に、艦砲を避けながら岩陰を走って、摩文仁(現 糸満市)の近くにあるウルバマという平坦地まで行った。3人とも、靴下にいっぱいに詰めたお米と飯盒を持っていたので、「(ここにいたら)どうせ最後には追い詰められて殺されるから、夕飯を食べて、泳いで生き延びよう」と決めた。それまでは逃げ隠れするので精一杯だったが、このときには「泳いで助かろう」と決意した。
しかし、ご飯を炊くために必要なマッチがなかった。それで避難民を探し、お米との物々交換でマッチ1個と換えてもらえないか頼むと、避難民は「助かった、助かった」と大喜びしていた。そうしてマッチをもらい、艦砲が落ちたところにできた穴に溜まった水でお米をとぎ、大きな松林の下で、煙がたたないように枯葉を選んで火を点け、飯盒いっぱいにご飯を炊いた。そして日が暮れるのを待ち、日が暮れると同時に海岸に下りて、岩陰でご飯を食べた。
その後、私たちは夜の7,8時ごろから泳ぎ始めた。センジさんは非常用の海軍の乾パンを持っていた。私は「これ早く食べよう」と言ったが、彼は「島に帰ったら食べるものが無いよ」と言って、乾パンを頭に載せて縛って泳いだ。
私たちが港川(現 八重瀬町)の漁港の方まで泳いできたとき、潮が干上がっていた。それでリーフの上に立ち、今度は漁港の入口の方を泳ごうとしたら、真っ黒な不気味な物体がいくつか見えた。私は与座・仲座の海岸の岩陰にいたときに、アメリカ軍の水陸両用戦車が沖から入って来るのを見ていた〈中略〉
志喜屋の収容所で証明をもらう
末七さんと私は新原の浜に上がり、その晩に久高に戻るつもりで、知念や久手堅の海岸沿いを片っ端からクリ舟がないか探した。しかし全然見つからず、島に渡ることができなかった。それで、志喜屋の向かいにある無人島のアドチ島(現 南城市)まで泳いで渡り、そこの岩陰の砂を掘って一晩寝た。
夜が明けると、砂浜の周辺にはアメリカ軍の艦船から捨てられたリンゴやオレンジなどがたくさん流れ着いていたので、それを拾って腹いっぱい食べた。その後、末七さんが「潮が引いたら志喜屋に知り合いがいるからそこに行こう。向こうでお芋を食べよう」と言ったので、志喜屋に渡った。
志喜屋集落へ芋を食べに行こうとしたら、知念の浜から銃を肩にかけたアメリカ兵が3人、こっちに向かって歩いてくるのが見えた。そのため私たちは、志喜屋の海岸のアダン林の中に入り、日が暮れるまで潜り込んでいた。
夕方になると、そこに志喜屋の青年が夕涼みに来た。彼に「こっちにはアメリカ軍がいるのか?」と聞くと、「もうここは収容所になっている。(捕虜であるという)証明をもらわないと自由に出歩けないよ」と言われた。それで証明をもらおうということになった。しかし、私たちは帽子をかぶっていた頭の部分以外は日焼けをしていたので、大変だということになった(軍にいた防衛隊ということがばれると思ったからである)。だが幸い、久高の同級生で母方の親戚でもある福地家の人が捕虜になっていて志喜屋にいた。彼は私立開南中学に通っていたので、私は彼の制服を借りて帽子もかぶり、「学生だった」と言っただけで、ササッと証明をもらうことができた。末七さんは、「遠洋漁業に出て戻ってくると久高島が全島立ち退きになっていて誰もいなかったので、ここに避難していた」と話した。すると、通訳をしていた大久保という日系2世の米兵が「そうか」といって簡単に証明をくれ、「こっちに網がたくさんあるから魚を捕ってこい」と冗談も言っていた。〈中略〉
私たち3人は、「クリ舟があるはずだから今晩、島(久高)に行こう」と話した。それで久手堅の下のアダン林の中で、壊れた小さなクリ舟を見つけた。先の方が割れていたので縄で縛り、水はけのための空き缶も用意して、3人とも後ろの方に乗って漕ぎ出した。割れていた先の部分は水につけないように上げて漕ぎ、ひとまずコマカ島(現 南城市)に到着した。
(2018年 井口学と事務局による聞き取り)