【レポート】2024年「戦争体験証言を用いた教材開発ワークショップ」
用いた証言:宮城艶子さん(大里・稲福、当時17歳)
宮城さんの体験内容:
・家族で大里村稲福に住む。当時17歳。姉と小さな弟・妹がいる。
・母と弟・妹が疎開を予定していた。しかし小さな子たちを母1人で見ることが難しいこと、姉と艶子さんは沖縄で国のために働かなければならないと考えていたため、どちらかが一緒に付いていくこともできないという理由から疎開を断念。
・「良い兵隊」は「やんばるか知念・玉城への避難」を呼びかけていた。稲福にいた兵隊は「糸満までは必ず行くこと。捕虜にはならず、いざとなったら自決すること」と言っていた。
・その後、糸満へ避難。糸満に行く途中で多くの人々の死を目撃している。
・糸満まで行った後、「死ぬなら稲福で」と考え稲福に戻る。戻る道中で捕虜になる。
立てた問いとそのねらい
タイトル | あなたならどうする? |
問い | もしあなたが”宮城さん”なら、「稲福にもどる」か「糸満にとどまる」か、どちらを選びますか? ①稲福に戻る ②糸満にとどまる ③その他 →【理由】 |
ねらい | ・糸満に行く途中で多くの人々の死を目撃しているが、稲福まで戻る選択をする。その事実を踏まえての問い。 ・小学校高学年を対象と想定した。 |
用いた証言
宮城艶子(旧姓知念 昭和3年生まれ)
〈陣地構築 十・十空襲 救護班 南部避難 収容所〉
〈前略〉
南部へ避難
おじさんの壕に越してからしばらくして、馬の肉を買って夜は壕で炊いて食べた。その翌朝に雨が降った。春子姉さんとヨシコ姉さんが二人でみんなに食べさせようと肉汁を温めていると、上から水が流れてきた。おじさんが鋤でほじくっていたら、泉だったのか急にどっと水が流れてきて鍋も水に浮いた。急いで全員外に出て、包丁もまな板も取れなかった。しばらくして浮いている鍋を引き出してきて、みんなに肉汁を食べさせた。私たちはそこにいれないので、この壕を出ることにした。
私たちは玉城村富里の上の山の小さな岩穴に一週間避難した。その後、前川の近くのハサマ屋取で弟の善栄といとこが小銃の弾に当たり亡くなった。彼らを簡単に葬ってから具志頭村(現 八重瀬町)新城に行った。新城の馬場で、真境名の知人の奥さんが、昨日お産をしたと言って赤ちゃんを抱いて真境名の方々と十人くらいで立っていた。「皆さんはどこに行くの」と聞かれたので、「私たちは島尻に行こうと思うよ」と答えた。真境名の人たちは、「私たちはどうなってもいいから知念・玉城に行こうと思っている」と言っておられた。良い兵隊たちは「やんばるか知念・玉城に避難するように」と言っていた。稲福にいた兵隊たちは「必ず糸満までは行くように。決して捕虜にならず、いざとなったら自分で死ぬように」と言っていた。〈中略〉
伊敷で稲福の人が大勢亡くなる
私たちは伊敷(現 糸満市)のある民家に入った。門の近くに薪小屋があり、母屋は奥にあった。稲福の人がたくさん通って行った。その家から出てきた兵隊が「あんた達は飛行機が飛ぶのが見えないのか、刺し殺されるよ」と怒鳴ってきた。私たちは「兵隊さん、ここに隠れさせてください」と薪小屋に隠れた。一緒にいた稲福の人たちは「壕を探し稲福て入るから」と、集落の中に入っていった。
この家の石造りの豚小屋のうしろに少し広間があり、二本の大きなガジュマルが生えていた。その広間におじさん家族と私たち家族はいた。そこには破片一個も落ちなかった。壕を探しに集落内に行った人たちは、探して入った警察の壕に爆弾が落ちて多くの家族が全滅した。
私たちはガジュマルの下で夕飯を済ませると、姉と二人で近くの家に泊まりに行った。夕飯の時に母が「ここで眠りなさいよ。後ろの道で猫が嫌な鳴き声をしていたから。あなた達はあの家に行くようだけど今日は行かないように」と言っていたが、私たちは無視した。その家には避難民がいっぱいいた。私は戸棚に入り、姉に「ここに入って、ここなら破片も当たらないよ」と言ったが、姉は「馬鹿じゃないか、よその戸棚に入って。出なさい」と言った。
その晩、その家の台所の後ろにカンポウが落ち、台所にいた人が全員亡くなった。「アキサミヨーヤー」と叫んでいた。たくさんの人がけがをして、姉も「私の耳が切られているよ」と泣いて家族のところに走っていった。私は「大変なことになってしまった」と姉を追っていき、母に叱られた。「言うことを聞かないからこうなるんだよ。アンダマース(油と塩を混ぜたもの)を付けておこう」と言って母が姉の耳に塗ると、翌朝耳は赤くなっているだけでけがはなかった。石粉が当たっただけで切れていると勘違いしていたが、でもそれだけ痛かったのだろう。そんなこともあり、この伊敷では大勢の稲福の人が亡くなった。私たちにお椀一杯のナーバレー(ザラザラした砂糖)を持ってきてくれた稲福の青年は帰る途中に弾に当たって亡くなってしまった。朝になって、うちの父が稲福の別の家のお母さんに「うちは夕方にここを出るから一緒に伊敷から出よう。昼通る人がやられるから夕方まで待った方が良いよ」と言ったが、そのお母さんは「うちはお父さんがやられているからここにはいられない」と言って朝に伊敷を出た。彼女の一家は、真壁の学校前で六人が亡くなった。〈中略〉
稲福へ帰る途中で捕虜に
「どうせ死ぬなら稲福の壕で死にたい」と考え、仲前大屋(屋号)のおじいさんの道案内で崖から海に出ることになった。この崖は十メートルぐらいの絶壁だった。夜、木の根をつかんで慎重に下りた。崖を下りてから、小さな弟たちも裸足ではぐれないように必死についてきた。低木のしげっているところを一キロメートルぐらい歩いて海に出た。そこではたくさんの兵隊が死んでいて、どの死体も真っ黒くなり大きくふくらんでいた。満ち潮だったので、しばらく岩の上に登って待った。潮が引き始めたので岩から下りて歩き始めた。善吉と善考はムシロを担ぎ、私はみんなの服をカマスいっぱい入れて頭に乗せ、父は鍋や食料などを担いでいた。母や姉は静子と善勇をおぶっていた。他の弟たちは深みで溺れそうになりながらも必死に海岸近くを歩いた。私も何度も滑りそうになりながら歩いた。どんどん歩いて行くと綺麗な水が岩から流れているところにきて、仲前大屋のおじいさんが「二、三日水を飲んでないだろう。きれいな水だから、腹いっぱい飲むように」とバケツに水を汲んでくれた。全員が腹いっぱい飲んでから歩き出した。
海岸から陸に、兵隊たちが新しく造った道があった。海岸近くの小さな壕には兵隊たちが隠れていて明かりも点いていた。そこから登って、雨も降っていた中で少し休んだ。仲前大屋のおじいさんが「とう、少し休んで」「とう、今は少し歩こう」と指揮を取った。歩いていたらソテツの茂みから日本軍が手榴弾を前の方に投げた。「アキサミヨー」と叫ぶ声もした。一番目に仲前大屋の家族、二番目におじさんの家族、三番目にうちの家族の順で歩いていたが、びっくりして戻ろうとすると、今度は私たちの後ろの方に手榴〈後略〉
(『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』106~120ページ)