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ライフヒストリーからみる冨祖崎の地域史

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ライフヒストリーからみる冨祖崎の地域史
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琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科 前田慈温

1. はじめに

インタビュー協力者:知念進さん
インタビュー日:6/19、6/24、7/7(自分がインタビューを行ったのは19日と7日)

知念さんについて
 知念さんは1938年に愛知県で生まれた。その後、幼少期を大阪で過ごす。大阪で戦争を経験し、終戦後、小学校低学年ごろに両親の出身である冨祖崎に引き揚げてきた。それ以降、知念さんは冨祖崎で現在まで暮らしている。
 冨祖崎の歴史を辿るために、知念さんのライフヒストリーを中心にまとめていく。

国体軟式野球チームの民泊受け入れた(1987年)

〈写真の背景〉
 1987年、第42回国民体育大会(秋)の参加選手の受け入れを冨祖崎で行った。空港で歓迎セレモニーを行いその時に撮った写真だという。知念さんの家でも選手とコーチを受け入れた。その時のコーチや選手とは今でもお歳暮を送り合う仲だといい、沖縄ではほとんど入手できない宮城県のお米らしく、「これがサイコーにうまいんだよ」と嬉しそうに教えていただいた。

2. ライフヒストリーから見る 冨祖崎の地域史

大阪からの引き揚げから、青年時代

 知念さんは大阪で戦争を経験した際にみんなが避難した大きな防空壕ではなく、裏手の小さな防空壕に逃げたため生き延びることができた。その後沖縄に移ってからは育ちの違う環境で慣れるまで大変だったという。
 第一に、言葉であった。言葉の違いを揶揄われたり、通じないこともあり、戸惑うことが多かった。しかし、言葉の戸惑いについては子どもの吸収力ですぐに解決したという。
 第二に食生活であった。沖縄に戻ってからの暮らしの中で、イモ中心の生活が印象深いという。イモは蒸したり、芋羊羹にして食べた。当時佐敷にあった沖縄民政府勤務の子ども達は米中心の生活でイモに憧れていたため、米を食べたかった村の子ども達と弁当交換をしたという。知念さんも、よく米を食べていたという。その後、冨祖崎でも米は徐々に作られるようになった。収穫した米は、イモと一緒に少量蒸し、仕事に出る男性や子どもたちに持たせたという。
引き揚げてきた人は、村にも食糧は少ししかなかったが、地域の人々に分けてもらいながら生活したという。知念さんは戦後の食糧難の記憶として、ソテツを毒抜き、デンプンを練って天ぷらにしたり、イモデンプンと混ぜてそうめんにして食べていたことを語ってくれた。また、天ぷらは油が入手困難だったため機械の潤滑油を使ったという。しかしイモのみ消化され、油は消化されずそのまま出てきてしまうため大変苦労したという。その後は豚を育てたり、各家で鶏を育てたりして徐々に食糧難から抜け出してきた。
 第三に、衣服であった。特に困惑したことは、「靴」だった。大阪では当たり前に靴を履いていたが、引き揚げ後の冨祖崎の子どもの中で、靴を履いているのは自分だけだった。しかし、それもすぐに慣れ、知念さんも裸足で遊びまわっていたという。
 苦しい生活の中での楽しみは、勉強や友達との遊びだったという。戦争が終わって間もなかったため、学校は壁もない頼りない建物だった。各家から持ってきた「そうめん箱」を机にして勉強したと、知念さんは振り返る。学校が終わってからは、公民館で先輩たちに勉強を教えてもらった。夜には学校に集まっていると、給料が支払われるわけでもないのに、先生が来てくれて勉強を教えてくれた。子ども頃は、男女別々に遊ぶことがほとんどだった。しかし、橋から川へ飛び込む遊びはみんなでやったという。男子は主に戦争ごっこや、潮が引いた海で向こう岸まで走ったりした。
 1958年に知念さんは、基地内で給料をもらいながら運転免許を取得した。ドラム缶を置いて大型トラックの練習をしたという。この免許は、自動的に民政府発行のものとなったと記憶している。

戦後復興から現在に至るまで

 冨祖崎の戦後復興には長年続く体育大会が大きく関わってきた。特にこの地域では陸上競技が盛んだった。知念さんは、応援や写真係として毎年大会を盛り上げたという。1万メートル走や短距離走が強い他、高跳びや野球なども行っていたという。野球のグローブがなかったため、テント布で作っていた時もあったという。現在、地区で行う行事では、船の代わりに軽トラで行うハーリーなど、冨祖崎独自の競技もある。
 現在、知念さんは生活改善グループの活動や老人クラブ、放課後デイサービスの活動で忙しい日々を送っている。知念さんは佐敷支部の支部長や南城市市老連副会長をしていて忙しそうだが、現在の日々の活動をニコニコとお話しくださり、とても楽しみにしている様子が伝わってきた。
 日々の活動は、健康体操、グランドゴルフ、ペタンクやカラオケなど多岐にわたる。毎月の定例会では決め事を「さっさと」終わらせて、カラオケをするのが楽しみになっているという。
 冨祖崎では消防署のアドバイスを受けて、救命蘇生や消火の方法を教わる防災訓練や避難訓練を毎年行うなど、地域を守る活動が頻繁に行われている。

知念さんの冨祖崎への想い

 冨祖崎地区は、知念さんのように、終戦後に引き揚げてきた人など、多様な暮らしの背景のある人と共に発展してきたからこそ、現在でも移住者に対しても「外の人」という区別をせず、排他的な地域にならない、とおっしゃる。また、そのような地域だからこそ自治体加入率が高い。さらに、進学や就活で冨祖崎を出た人もこの地域に想いれが強く残るという。字旗のデザインを公募で決めたのも、この地域に思い入れのある人たちが他のところにもたくさんいるからだ、とおっしゃっていた。毎年の運動会や日常での団結力、地域への想いの強さは冨祖崎の強みと知念さんは考えている。

3. 終わりに

 知念さんからは大阪での戦争経験と沖縄での復興の様子を伺い、貴重な話を聞くことができた。自分の想像のつかない話が多い中、資料では伝わらない生の声は当時のことがリアリティを持って伝わってきた。今回聞いた話をただ聞いた話にするのではなく、きちんとまとめ直し自分の今後に活かしていく必要があると考えた。自分は沖縄の戦前から戦後にかけての娯楽について興味がある。その中で今回の知念さんの話は重要な話ばかりだった。
 まず、フィールドワークやインタビューというものがどのようなものなのか、どのような意味を持つのかというのを今回の野外調査では知ることができた。初めての自主的なインタビューで質問の仕方を考えたり、より深掘りして聞くところや聞く姿勢など調査をしていく中で意識しなければならないことを知ることができた。自分が経験したことのない情報がほとんどだったからこそ色々な視点で聞いたり考察したりする必要があり、毎回の情報整理がいかに重要か学んだ。初めてのインタビューで不備がたくさんあり、事前調査の重要性や連絡手段の確保など今後様々な調査を行う中で気をつけなければならないことがたくさん見つかった。今回伺った話をこの先の自己学習にどのように活かしていくか、また調査に協力してくださった方にどのように還元していくかを考えていくことが課題として残った。今回学んだことをこれからの調査に活かしていきたい。

参考

JSOP、国民体育大会、過去大会の概要、「第42回大会(昭和62年・1987年開催)」(2023/08/07/9:32閲覧)