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冨祖崎の交流

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冨祖崎の交流
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琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科 岸本未咲

1.はじめに

 今回、南城市の冨祖崎でインタビュー調査を行った。テーマは「冨祖崎の交流」についてである。
 最初私は、冨祖崎の「境界」に興味を持った。冨祖崎でのフィールドワークを通して、冨祖崎集落の周囲には御嶽や馬場など重要な場所があることや、時代の変化により、地域の境界が変化したという話を聞くことができた。さらに地域の方からお話を聞いていく中で、他地域との交流がそれほどなかったということを聞いた。冨祖崎では、他の地域に対して対抗意識などもなく、他の地域から移住してくる人を好意的に受け入れているともいう。それなのに、なぜ他の地域との交流が少ないと感じているのか疑問に思った。冨祖崎の境界を考える上で、「交流」という視点から調べることが重要だと考えた。そのため、ここでは、冨祖崎の交流について考えたい。

インタビュー概要
〈調査対象者〉玉寄勉さん
〈生年月日〉昭和22年(1947年)8月12日 76歳
〈調査日〉6月19日、7月1日、7月15日、7月17日

<選んだ写真>

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字誌を作るにあたって玉寄さんが業者にお願いし、ドローンで撮影した。冨祖崎の塩田跡地を撮影したものである。現在、冨祖崎公園の陸上競技場があるあたりは元々塩田だった。その場所を、昭和 50 年(1975)頃に埋め立てし、公園ができた。

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守礼カントリークラブというゴルフ場が写っていた。そこの芝生がまだ完全に伸びていないことから、工事後すぐ(1980年代)の写真ではないか。また、現冨祖崎公園の陸上競技場のあたりが埋め立てされる前に撮られたものである。

2.冨祖崎の概要

 冨祖崎は、東は外間区、西は海を隔てて字津波古、南は字佐敷、北は字仲伊保に隣接している。総面積は、426.934平方メートルである。
 冨祖崎は海に面しており、海岸地形は、冨祖崎公園から南西側海岸に沿って300~350メートル程遠浅が続いている。また、字冨祖崎は海抜1メートルほどの低地に位置している。さらに、浜崎川、冨祖崎川、苗代川の三本の河川が冨祖崎の海岸に流入しているため、台風、津波、大雨時には水害対策が必要とされる。

 玉寄さんによると、冨祖崎がかつて(1960年代)(1)栄えていた時の人口は、600人余りいた。しかし、徐々に人口は減少していった。現在、冨祖崎の人口は446人、187戸になっており、近年増加傾向にある(2023年6月現在)。そのうち、成人会に所属している30~64歳が人口の41パーセントを占めており、最も多い。また、0~14歳の若い世代も14パーセントで、少なくないため、これからの冨祖崎の未来に期待できると話していた。
 冨祖崎は、細かく三つのハルナー(原名)(2)でわけられている。その三つは、浜崎原、冨祖崎原、兼久原である。また、玉寄さんによると、地質調査によって兼久原の場所から貝などが出てきた。このことから、大昔はここまで海だったということがわかったと話していた。

(1):冨祖崎区字誌編集委員会 2013:105を参照
(2):原(ハル)は主として畑をさすが,広義には農村の小字を構成し、字(大字)の基礎単位となる。[沖縄大百科事典刊行事務局 1983:260-261]

図1(左):南城市の地図、(右):玉寄さんから見せていただいた冨祖崎の地図

2. 地域外との交流

 戦前の冨祖崎は、久原・海野を結ぶ幹線道路があり、とても賑わっていた。特に、戦前は山原船(3) を所有し、国頭から木材、薪、竹材等を運搬し、冨祖崎に荷揚げしていた。また、当時は知念や志喜屋からも買い付けに来る状態で、各地から多くの人が冨祖崎に訪れていた。
 また、戦前から戦後の一時期まであった商店「マチヤ屋比久グワー」には、仲伊保、外間、屋比久、知念村久原、海野方面からも買い物に訪れていた。冨祖崎の中心的存在でとても繁盛していた。

 玉寄さんによると、戦前は、交番所やお店、銭湯などがあり栄えていた。現在よりも竜宮の神がある河川はもっと深く、上流まで300mくらい船で行けるほど大きかった。その河川を利用して、山原との交易もあった。また、馬天港(津波古)との交流もあった。
 玉寄さんが先輩方やお父さんと話している時に「あそこの人は魚取るのが上手い」など隣の自治会の話が出てきた。そのため、終戦直後は今よりも交流があったと思うと玉寄さんは話していた。
 最近の交流では、仲伊保と協働で行った防災訓練などがある。冨祖崎の防災委員成立後すぐに、仲伊保も防災委員会を設立した。冨祖崎と仲伊保は海抜が1mという共通点があり、11年ほど前(2012年頃)に防災訓練を2回協働で行った。避難訓練の内容は、避難経路の確認、避難場所の確認だった。冨祖崎は屋比久児童公園海抜19メートルのところで、仲伊保は32メートルのところが避難場所になっていた。お互いに、訓練開始のサイレンを鳴らし訓練を行うことで、サイレンに対する意識も強まり、より訓練の大切さも身に染みてわかるだろうと思い計画した。両地域の区の事業が増えてきたことや防災訓練の開催時期のズレにより、現在は行われていない。しかし、実際に協働で防災訓練を行い、これからも連携する必要があると感じたので、調整し、今後も開催できるようにしていきたいと玉寄さんは話していた。


(3):戦前まで那覇や与那原,平安座,読谷村比謝橋などの中南部と,今帰仁村運天や国頭村奥などの北部,いわゆる山原地方とを往来した交易船のこと。[沖縄大百科事典刊行事務局 1983:765]

3. 地域内の交流

 冨祖崎地域内での人々の交流に関して、字誌の年表を参考にまとめた。

出典:冨祖崎区字誌編集委員会(2023)『字誌 冨祖崎』p.438-452を一部修正

 玉寄さんによると、地域内の交流は老人会・成人会・PTAを中心に様々な活動が行われている。区民の健康づくりスポーツ大会や高齢者のための敬老会、成人会によるイルミネーション、夏休みに公民館で行われる子供達の音読、3世代交流などがある。
 玉寄さんが印象に残っているイベントは、防災訓練である。「津波を想定した避難訓練は南城市の中でも初のことで、沖縄でも先進的な取り組みだったと思う。また、冨祖崎の区長を務めていたこともあり、とても印象に残っている。今の区長さんの代でも頑張って行ってほしい」と話していた。
 また、地域内の交流について話を伺った。「地域の交流は、地域愛や地域を盛り上げる力を育むためにとても重要だと感じている。特に、子供達の地域愛を育むことがこれからの冨祖崎の未来のためにも重要だと考え取り組んでいる。その取り組みとして、尚巴志育英会事業がある。子供達の活躍のために地域で支援することで子供達の地域愛も育まれていると思う。このような取り組みや自治会長をすることで、自分がこれまで地域で育ててもらったことの恩返しができたらなと思って行っている。また、不思議と地域のために活動することでより地域愛が大きくなっていっている気がする。」と話していた。

考察

 他地域と協力して行われた防災訓練の話は、冨祖崎で初めて聞いた。「増田レポート」によると「出産適齢女性の減少により、日本全国の自治体の半数ほどが『消滅可能性都市』(少子化の進行に伴う人口減少によって存続が困難になると予測されている自治体のこと)(増田2014)とも言われた」(熊谷文枝2018)。他地域との防災訓練は、人口減少という課題解決の一つだろう。玉寄さんは、他地域と協力することで、より、防災に関する意識が上がったと述べていた。すなわち、小さなコミュニティが結束することで、防災訓練の質の向上や「地域の自治力 」(4)の向上になる。他地域との協力は、人口減少による地域の自治力の衰退という社会問題にも対抗できる。このような冨祖崎で行われている、他地域との連携は、小さいコミュニティを強く、住み続けられる街をつくっていく取り組みである。
 協働での防災訓練が無くなってしまった理由として、地域内での行事が増えたからということがあった。「冨祖崎内での交流の歴史」でまとめた表でも、2000年代になり、地域内交流の行事が増えてきていることがわかる。このことから、行事などでの交流においては、地域内の交流が増えたことにより、地域外との交流が割合的に少なくなっていったと考えられる。地域内での日常的な交流に関しては次回の課題としたい。

(4):地域の自治力とは、地域課題の解決を住民が共通認識し、それを住民主体で解決するという意識と行動である。[宮西1986参照]

おわりに

 今回、インタビューをするにあたって難しかったことは、会話をすることだ。インタビューをするために事前にいくつか質問を用意して話を聞いていた。しかし、その質問の返答を聞いて終わりになっていた。返答を聞いて、さらにその中に疑問点を探そうという努力が足りず、受け取るだけになっていた。そのため、次回からはインタビューというより会話をしに行こうという意識ですると前よりもうまく話を聞きだすことができ、調査者の方も楽しそうに話をしてくれた。インタビューという言葉に捕らわれて、聞くことだけに焦点をあてすぎず、会話することを意識するというのはこれからのインタビューにも活かしていきたい。
 冨祖崎でインタビューしての感想として、とても活発な地域だと感じた。地域の人口は最盛期に比べると減少しているにもかかわらず、地域の活動はいまだ活発だということが驚きだった。インタビューをするために、公民館に伺ったときも、公民館に住民の方が来て、活動のための準備をしていた。このような、活発な地域の交流には、老人会や成人会、PTAなどの支援があり、さらに、その支えている人達には「地域に恩返しがしたい」という想いがあるということが見て取れた。このような、有意義なインタビューができとてもいい経験になった。

参考文献

沖縄大百科事典刊行事務局 1983
 『沖縄大百科事典下巻』沖縄タイムス社.
熊谷文枝 2018
 『「地域力」で立ち向かう人口減少社会―小さな自治体の地域再生策』ミネルヴァ書房.
小林文人・島袋正敏編 2002
 『おきなわの社会教育-自治・文化・地域おこし』エイデル研究所.
冨祖崎区字誌編集委員会 2013
 『字誌 冨祖崎』冨祖崎区.
宮西悠司 1986
 「地域力を高めることがまちづくり―住民の力と市街地整備」『都市計画』(143):25-31.