なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

『字誌 冨祖崎 ハマジンチョウの里』編纂事業と編集委員・玉寄勉さんのライフヒストリー

更新:

シェアする

『字誌 冨祖崎 ハマジンチョウの里』編纂事業と編集委員・玉寄勉さんのライフヒストリー
クリックで画像を拡大できます

人文社会科学部琉球アジア文化学科 嘉手納芽衣

はじめに

 本レポートでは、長年区長を務め字誌の編集にも力を注いできた玉寄勉さんのライフヒストリーをまとめる。そして聞き取ったことをまとめたうえで、今年完成した字誌の社会教育的意義や効果について考察していきたい。

字誌編纂事業(新聞・文献調査から)

 今回調査を行っている南城市佐敷冨祖崎区では今年『字誌 冨祖崎 ハマジンチョウの里』が16年もの歳月をかけて完成した。2008年区誕生100年となったことを記念して、その歩みを記録するため、字誌編纂事業が始まったという(1)。 お話を伺った玉寄さんによると、字誌を完成させるのには、長い年月と多くの苦労があったという。地域住民の手で一から地域の歴史や文化について紡ぎ出した一冊の字誌はどのような役割があるのだろうか。
 そもそも「字誌」とはなにか。末本(2013)によれば、「字誌は字ないしは区が独自に編集、刊行する地域誌を指す」という。またその活動の特徴であり、社会教育の観点から注目されることとして、「企画から資料の収集、刊行に至る過程のすべてが、基本的に素人と呼ぶべき一般住民の手による」(p180)ことや、「小地名や方言、神事、通過儀礼、移民、出稼ぎ、戦争体験などの身近な項目が、編集委員による古老や経験者への聞取り調査に基づいて、記述されることが多い」(p180)ことが挙げられている。つまり、「字誌」を編むことは、地域の人々が当事者意識を持って地域のために活動をしているということができる。その社会教育的意義として、中村(2000)は、個人にとっては生きがいを持って地域を再発見し学習し伝達する仕事である」(2) と述べている。また多くの字誌には「次の世代のためにも自分たちの時代と地域の記録をきちんと残したい」(3) という願いが込められているという。字誌の編纂事業には、地域への還元や将来の地域の活性化の他、作り手自身にも意義があるということができるだろう。
 そこで本レポートでは、16年もの歳月をかけて完成させた冨祖崎の字誌に着目し、その社会教育的な意義を実際に聞き取ったことをもとに考察する。


聞き取り調査
調査対象者:玉寄勉さん 昭和22年(1947 年)8月12日 76歳
調査日:6月19日(月)・7月1日(土)・7月15日(土)・7月17日(月)
場所:冨祖崎公民館

ここでは、はじめに調査のご協力を頂いた玉寄勉さんのライフヒストリーを記述し、字誌編纂事業について聞き取りしたことをまとめる。


(1) 琉球新報2023年8月1日(火)朝刊「冨祖崎字誌 16年かけ完成/南城市佐敷/全15章、100年の歴史まとめる」
(2) 中村誠司(2000)「沖縄の字誌づくり」『都市・農村関係の地域社会論―再生産論・生 活文化論・自治体論―』創風社
(3) 名護市史編さん室編(1994)『字誌づくり入門』名護市教育委員会、p4

【玉寄勉さんのライフヒストリー】

 1947年、玉寄勉さんは冨祖崎で生まれた。小学校は佐敷小学校、中学校は佐敷中学校に通っていた。小学生時代について、玉寄さんが小学1年生当時佐敷小学校はかやぶきであり、2年生の時トタン、その後コンクリートの建物ができたと語っていた。また現在サトウキビ畑が多い冨祖崎に、小学6年生のときは田んぼがあったとも語る(4)

 次の写真は玉寄さんの母を含む生活改善グループの集合写真である。玉寄さんによると、1953年ごろの撮影だという。この写真を見ながら、玉寄さんは「自分(玉寄さん、当時8歳?)が 小学校に行っているとき母は踊っていた」ということを思い出していた。前列左下に写る男性は景典さんという方で、三線などの楽器を弾けたという。中列左端は玉寄さんの母である。集合写真の撮られた場所は、後ろの建物から推測し、戦後はじめの冨祖崎の公民館の広場ではないかとおっしゃった。どのような歌を歌っていたのかは覚えていないが、豊年満作を願う歌であったと思う、と語っていた。

写真1 生活改善グループ[C000006759]

 高校は南部農林高等学校に通っていた。通学は、近所のワゴン車で与那原まで行き、バスに乗って行ったという。1967年当時20歳で結婚、翌年には佐敷村役場に勤めた。長年勤務し、玉寄さんが56から58歳の時には佐敷村で三役(=収入役)まで務めている。その後、佐敷村を含め市町村合併があったために役場を退職(合併退職)した。退職後は民間の営業職に勤めたが、2011年63歳の年からは冨祖崎区長へ就任し、今年2023年に至る約12年(11年9か月)もの間、6期区長・自治会長をつとめあげた。

図 2ポインセチアまつり

 1985年に行われた「ポインセチアまつり」は、玉寄さんが成人会の副会長の時、提案し2,3年続いた祭りである。2代目の公民館で行われた。

 現在、玉寄さんは老人クラブの会長を務めており、三線教室や自治会の活動に関わっている。字誌の編纂は平成19年(2007年)に始まり、玉寄さんは区長に就任する前から関わってきた。このことが16年間「課題だった」と語っていた。

(4) キューバ危機(1962)があり砂糖の値段上昇したため田んぼを埋め立ててサトウキビ畑に替わった。

【字誌の編纂事業について】

 字誌は区誕生100年を記念して冨祖崎の100年の歩みを後世に伝えて更なる飛躍を目指してほしいという思いではじめたと玉寄さんは語った。
 2007年の有志会でメンバーが承認された。章立てを作るのにも2年ほどかかったという。その後の編集委員会では、各章ごとに担当の部会を作り、4,5年かけ資料の収集を行った。編集会議(9名)へ移行してからは、議論や検討、点検作業などの細かい作業などを毎週行った。完成に至るまで141回もの会議を行ったという。
 玉寄さんは字誌について、「後世や今いる若者に読んでほしい。」「これからの冨祖崎が活性化するように望んでいる」と、これまで幾度の聞き取り調査の中で繰り返しお話されていた。

野外調査を通して考えたこと、分かったこと

 私は字誌の編纂事業・字誌そのものにどのような意義があるのか疑問を持った。それについて、今回調べたことと聞き取った玉寄さん自身のライフヒストリーと字誌への思いから、字誌の意義は様々あることが分かった。例えば、編纂に関わった個人の生きがいだけではなく、地域の文化の継承や記憶を残すことのほか、玉寄さんが語るように将来、地域が活性化することを望むためなどである。さらに、私は、新しく入ってくる住民にとっても良い影響があるのではないかと思う。移住してきた住民が字誌を手に取り、その中の多くの写真を見て「公民館で楽しそうなことをしている」「子どもたちへの教育支援があって安心できる」といった印象を受けるのではないかと思う。これらの印象は移住したいという気持ちを後押しでき、その理由でも字誌を発刊することには意義があると思った。また、字誌はいわゆる研究者がつくった歴史書とは異なり、地域住民がつくっている。このため、大きな出来事ではない具体的な地域の記録も記述し、残すことができる。このことからも、地域住民同士で聞き取りを行い字出身者が記憶をたどりながら、長い年月の中で字誌を作り上げることには多くの意義が見出すことができる。
 玉寄さんは生まれ育った冨祖崎において、長年区長や字誌の編纂に関わっておりその苦労があったことが聞き取りでわかった。そして調査の中で、字誌についてなどから冨祖崎へ誇りを持っていることや今後の発展を願っている気持ちを知ることができた。

おわりに

 これまで玉寄さんには対面や文面・電話での聞き取りを行った。多くのお時間を頂き、感謝の気持ちでいっぱいであるが、それとともに質問内容をまとめることや事前準備を行うなどし、短い時間で聞き取りを行う工夫ができたのではないかと反省をしている。ここで学んだことは、今後も活かしていきたいと考えている。聞き取り調査では文献では知り得ない情報、ライフヒストリーなどやその時々の気持ちなどを知ることができた。こうして人と実際に話すという経験は多くなくご協力があってこその貴重な時間であることを実感した。聞き取り調査において注意をしたいと思ったことは、聞き取りしたこと=語り手の言葉を、聞き手(調査者)が改変してしまわないようにするということである。ニュアンスが変わってしまったり、伝えたかったことを逃してしまう恐れがあるからである。聞き手(調査者)は正確に聞き取ることが大切であり、これからの調査でも特に意識したいと考える。

参考資料

冨祖崎区字誌編集委員会(2023)
 『ハマジンチョウの里 字誌 冨祖崎』冨祖崎区
末本誠(2013)
 『沖縄のシマ社会への社会教育的アプローチー暮らしと学び空間のナラティヴー』福村出版
名護市史編さん室編(1994)
 『字誌づくり入門』名護市教育委員会
中村誠司(2000)
 「沖縄の字誌づくり」『都市・農村関係の地域社会論―再生産論・生 活文化論・自治体論―』創風社
琉球新報2023年8月1日(火)朝刊
 「冨祖崎字誌 16年かけ完成/南城市佐敷/全15章、100年の歴史まとめる」