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水とくらし(玉城エリア編)

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水とくらし(玉城エリア編)
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水に恵まれた南城市

知念半島の一帯にひろがる南城市内には、実に204か所もの湧水があり[南城市教育委員会 2010: 18]、それらは古くから飲用水や生活用水、農業用水などとして地域の人びとに利用されてきました。知念半島の台地は、南から南西にかけて緩やかに傾斜しており、とくに知念から玉城にかけてのエリアには、数多くの湧水がみられます。今回は、玉城エリアにおける人と水とのかかわりにスポットをあて、なんデジに登録されているいくつかの資料を紹介します。

1.神話とのかかわりをもつ湧水―受水・走水と浜川御嶽(百名)

受水・走水でおこなわれる親田御願(クリックして再生)

17世紀に編まれた歴史書『中山世鑑』によると、琉球の開びゃく神とされる阿摩美久(あまみく)は、五穀の種子を天に乞い、麦・粟・豆・黍を久高島に播き、稲を「知念大川」と「玉城ヲケミゾ」に植えたといわれます[首里王府(編)・諸見里 2011]。この「玉城ヲケミゾ」には、受水(うきんじゅ)・走水(はいんじゅ)という2つの湧水があり、前者は御穂田(みふーだ)、後者は親田(うぇーだ)とよばれる小さな田に注いでいます。琉球における稲作発祥の地ともいわれる受水・走水では、毎年旧暦1月の最初の丑の日に、仲村渠区の住民が稲を植え、豊作を祈願する親田御願(うぇーだうがん)が行われています。

浜川御嶽(クリックして資料ページに移動)

受水・走水のほど近くに立地する浜川御嶽にも湧水があり、こちらはヤハラヅカサに上陸した阿摩美久が、その清らかな水で長旅の疲れを癒した場所といわれます。受水・走水や浜川御嶽は、琉球王国にかかわりの深い聖地を巡礼する「東御廻り(あがりうまーい)」における主要な拝所とされ、毎年多くの人びとが祈願にやって来ます。ただし、周辺地区における開発の影響などもあり、浜川御嶽に湧き出る水の量は減少傾向にあるようです[南城市教育委員会 2018: 182]。このように、湧水のなかには創世や農耕起源といった神話的な語りと結び付けられ、地域の人びとの間で儀礼や祈願の場とされているものも存在します。

2.国指定の文化財―仲村渠樋川(仲村渠)

 

仲村渠樋川(クリックして資料ページに移動)

仲村渠区にある仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー)は、地元で「ウフガー」ともよばれます。古くから集落で利用されてきた共同の水場で、沖縄の伝統的な石造井泉を代表するものとして、平成7年に国の重要文化財(建造物)に指定されました。湧水がいつごろから用いられてきたのかは定かではありませんが、現在みられる施設の一部や石畳は、大正元年に津堅島の石工に依頼して建造されたもので、その石材には港川で切り出された石灰岩が用いられました[財団法人文化財建造物保存技術協会 2004]。湧き出る水は、飲用や洗濯、野菜洗い、水浴びなど、さまざまな用途に利用され、地域住民のくらしを支えてきました。

仲村渠樋川(クリックして再生)

仲村渠樋川の特徴のひとつが、五右衛門風呂が併設されているという点です。共同風呂は大正時代から存在していましたが、昭和初期にはペルーでの出稼ぎから戻ってきた住民の寄付により、風呂釜が新調されました。しかしながら、それらは沖縄戦により破壊され、戦後に共同風呂は埋め立てられてしまいました。平成に入ってから実施された大規模な保存修理工事では、大正初期の施設の復元を目指し、共同風呂を含めた敷地内の環境整備がおこなわれました[財団法人文化財建造物保存技術協会 2004]。戦後には、米軍の駐留にともなう水質悪化や、上水道の整備が進んだことにより、飲用水や生活用水として用いられる機会は減っていったそうです。

3.集落共同の溜め池―クムイ(富里・前川)

富里にあったクムイ(クリックして資料ページに移動)

この写真は富里の集落内で撮られたものです。少々見にくいですが、右側手前に生えている芭蕉のすぐ後ろには池があります。玉城エリアの各地には、このように生活用水を溜めるためクムイ(あるいは村クムイ)とよばれる池が存在し、地元住民が共同で利用していました。『玉城村富里誌』(1992年)によると、集落には5か所のクムイがあり、その水は牛馬の水浴びや芋洗いのほか、農業用水や防火用水としても利用されました。そのうちのナゴーンダグムイとよばれる大きな池では、鯉が養われていたこともあったそうです。

このような、クムイを利用した養魚はほかの集落でもおこなわれていたようです。『玉城村前川誌』(1986年)によると、前川では、明治から大正時代に掘られたクムイで、鮒や鯉が養われ、それらは病人向けに供されました。集落外からの需要も高く、区長の許可のもとで魚を安く売り、その収益は字の基金に回されました。戦後、一部のクムイは青年会によって管理され、鯉の養殖によって会の活動資金を得ていたそうです。

玉城エリアの各地には、ほかにも多数のクムイが点在していましたが、それらのほとんどは戦後、道路工事や土地開発により埋め立てられてしまいました。

水とのかかわりからさぐる地域の歴史と文化

上水道の整備が進んだことにより、我々が湧水や天水を直接利用する機会はほとんどなくなりました。いっぽう、それぞれの湧水や井戸には、その由来にかんする伝承や、かつての生活を知るうえで貴重なエピソードが隠されています。地域の歴史や文化をさぐるきっかけとして、水にかかわる各地の文化財を訪れてみてはいかがでしょうか。「なんデジ」のトップページにある「文化財マップ」では、文化財に指定された井戸や湧水の位置を確認することができます。ぜひとも活用してみてください。

参考文献

財団法人文化財建造物保存技術協会 2004. 『重要文化財仲村渠樋川修理工事報告書』玉城村.

首里王府(編)・諸見 友重 (翻訳) 2011. 『訳注 中山世鑑』榕樹書林.

玉城村前川誌編集委員会(編) 1986. 『玉城村字前川誌』玉城村前川誌編集委員会.

中山俊彦 1992. 『玉城村富里誌』私家版.

南城市教育委員会 2010. 『南城市史総合版(通史)』南城市教育委員会.

南城市教育委員会 2018. 『南城市の御嶽』南城市教育委員会.