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湧上洋さんのオーラルヒストリー(5)「尖閣諸島調査」

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湧上洋さんのオーラルヒストリー(5)「尖閣諸島調査」
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1.はじめに

 湧上洋さんは1969年1月に琉球政府通商産業局琉球工業研究指導所の技術指導室長となりました。その年から1971年にかけて3次にわたり 、石油開発公団の主導により、尖閣諸島とその北方海域で海底石油資源開発の海洋基礎調査(海洋地質調査および一般海洋観測等)が実施されました。石油開発公団は日本政府が設立した公団で、油田の存在を明らかにすることを主な目的としていました。この調査は、石油開発公団と通産省、東海大学、琉球大学、琉球政府による合同調査でした。琉球大学からは4名が参加しましたが、その中には兼島清博士(湧上さんの大学時代の恩師)もいました。湧上さんは、琉球政府のメンバーとして1969年と1970年の調査に参加しました。
 この調査は大がかりで、1969年の調査を例にとると、調査船・東海大学Ⅱ世には、東海大10人、学生22人、通産省2人、石油公団5人、琉球政府・琉大で5人の計44人が乗船していました。なお、東海大学Ⅱ世による調査期間は、次の通り長期にわたりました。6月17日那覇入港、19日那覇出港、尖閣列島調査へ、25日石垣入港、補給と休養、27日石垣出港、調査へ、7月2日石垣入港、補給と休養、3日調査、8日那覇入港、10日那覇出港清水へ帰港。
 本稿では、尖閣諸島の概要と、湧上さんが参加した海底資源調査の内容を、当時の新聞記事などを用いて説明します。この調査については秘匿にすべきことが多いとのことで、湧上さんから詳しい話を聞くことはできませんでしたが、今回、あえてこのテーマに光を当てて、当時の状況を振り返ってみることにします。そうする理由は2つあります。1つは、沖縄の近現代史の中で尖閣諸島の問題は重要な位置を占めているということ、もう1つは、この調査は、湧上さんの職業人生の中で重要な位置を占めているということです。筆者が初めて湧上さんに電話をして戦後史の調査協力を依頼した際、湧上さんは「琉球政府勤務時代、業務で尖閣諸島へ行きました。これは誰にでもできることではありません。貴重な経験ができました」と思い出深く話していました。よって、湧上さんのヒストリーを理解するためには、湧上さんが調査に参加した時代の尖閣諸島に関する事柄を知っておく必要があると、筆者は考えました。
 尖閣諸島については、埋蔵資源や外交、安全保障、漁業など、様々な点から論じられていますが、本稿では、海底資源調査の趣旨に合わせて、主に領有権と埋蔵資源について説明します。

2.尖閣諸島とは

ここでは、尖閣諸島の概要を説明します。朝日新聞社のウェブサイトでは、次のように記されています。

・魚釣島など5島と岩礁群からなる無人島で、沖縄県石垣島の北約170キロに位置している。
・日本政府は、2002年度から3島の賃借契約を地権者と結び年間2,450万円を支払ってきたが、野田佳彦政権が2012年9月に20億5千万円で購入し、所有権を同地権者から国へ移した。
・日本政府は1895年に閣議決定により尖閣諸島を領土に編入し、沖縄県の一部とした。
・国連アジア極東経済委員会(UN Economic Commission for Asia and Pacific)が石油資源の可能性を指摘する報告書を出した後の1970年代、台湾や中国が大陸棚に対する主権や尖閣諸島の領有権を主張し始めた。しかし、実効支配する日本政府は「領土問題は存在しない」との立場を取っている。
・1990年代以降は日本の右翼団体が灯台を設置したり、中国の活動家が上陸して日本の警察に逮捕されたりした。

3.領有権

 日本の外務省は、ウェブサイト「尖閣諸島情勢の概要」で、次のように日本が尖閣列島の領有権を持つ根拠を示しています。

日本政府は、1985年1月、他の国の支配が及ぶ痕跡がないことを慎重に検討した上で、国際法上正当な手段で尖閣諸島を日本の領土に編入しました。

第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は日本の領土として扱われた上で、沖縄の一部として米国の施政下におかれました。また、1972年の沖縄返還協定によって、日本に施政権を返還する対象地域にも含まれているなど、尖閣諸島は戦後秩序と国際法の体系の中で一貫して日本領土として扱われてきました。

中国政府は、1895年の尖閣諸島の日本領への編入から、東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘され、尖閣諸島に注目が集まった1970年代に至るまで、実に75年もの間、日本による尖閣諸島に対する有効な支配に対し、一切の異議を唱えませんでした。サンフランシスコ平和条約で尖閣諸島が日本の領土として確認されて米国の施政下に置かれ、その一部を米国が射爆撃場として使用しても、この間、尖閣諸島は、中国共産党の機関紙や中国の地図の中で、日本の領土として扱われてきました。

外務省ウェブサイト「尖閣諸島情勢の概要」

 「1895年1月、他の国の支配が及ぶ痕跡がないことを慎重に検討した」とありますが、日本政府は、尖閣諸島を国際法でいう「無主の地」とみなし、尖閣諸島を日本の領土としました。その詳細については、2010年10月5日付の『赤旗』で次のように説明されています。

 尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られていた。しかし、中国の文献にも、中国の住民が歴史的に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録はない。

 近代にいたるまで尖閣諸島はいずれの国の支配も及んでいない、国際法にいう“無主の地”であった。“無主の地”に1884年探検したのは古賀辰四郎だった。古賀氏は翌85年に同島の貸与願いを申請した。日本政府はその後、沖縄県などを通じてたびたび現地調査を行った上で、1895年閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的にはこの措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為である。これは、“無主の地”を領有する“先占”にあたる。

『赤旗』(2010年10月5日付)

 現在、中国にとって尖閣諸島が重要である理由は、海底資源が眠っているということです。最近も中国による調査がありました。中国の海洋調査船「東方紅3」が、沖縄県・石垣島北方の排他的経済水域(EEZ)で日本政府の同意なく科学的調査を実施した可能性があり、それに対して日本政府は中国に抗議をした、と2022年6月4日、共同通信により報道されています
 一方、台湾も石油資源に目を付け、1970年以降領有権を主張し始めますが、それについて、1970年9月11日付の『沖縄タイムス』の記事(「琉球政府尖閣領有権をアピール “琉球の主権明白”大陸ダナ開発権も留保」)で次のように報じられています。

国府は大陸ダナ条約をタテに尖閣列島一帯の大陸ダナ資源の開発権を主張、さらにさいきんでは尖閣列島の領有権まで主張して魚釣島に青天白日旗を掲揚するなど尖閣の海底油田の開発は国際問題に発展しそうな気配である。

『沖縄タイムス』(1970年9月11日付)

 台湾(国府)が領有権を主張する根拠について、1970年9月6日付の『琉球新報』の記事(「今週中にも交渉開始 外務省「尖閣」の領有権は明白」)は次の通り報じています。

台湾が尖閣列島の領有権を主張する根拠の一つとして明治時代に台湾総督府が地元漁民に同列島海域の出漁許可を与えたことをあげているといわれるが、総理府では「出漁許可で領有権を主張する根拠にはならない」と問題にしていない。

『琉球新報』(1970年9月6日付)

 領有権や開発権を主張する台湾(国府)の動きに対して、琉球政府は、既出の1970年9月11日付の『沖縄タイムス』の記事によると、次のような動きを見せました。

こうした国府の動きに対し、行政府は尖閣列島の領有権、鉱区権について琉球大学の国際法関係者の意見をきくなど対処策を検討してきた。
その結果、①尖閣列島は1884年に古賀辰四郎氏によって発見された②1895年には日本領に編入された③戦後平和条約によって沖縄が日本から分離された後も米民政府布告二七号(琉球列島の地理的境界)によって沖縄に属することが明確にされている――などの理由から、日本の領有権は動かすことのできない事実である。また、大陸ナダ条約の精神からも、国府が領海線をこえて鉱区権を主張することはできないとする統一見解をまとめた。

『沖縄タイムス』(1970年9月11日付)

 しかし、この統一見解や先の外務省の説明で、中国や台湾は納得していません。それについて、孫崎享氏は、『日本の国境問題』の中で次のように説明します。

中国側は一貫して、尖閣諸島(釣魚島)は台湾に属しているとの立場をとっている。1951年署名のサンフランシスコ平和条約では「日本は台湾に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する」と規定している。

孫崎享2011『日本の国境問題』筑摩書房pp.71-72

 では、尖閣諸島は、戦前、台湾に帰属する島々とみなされていたのでしょうか。それについて、同書で1つの情報が紹介されています。

東京裁判所は、1944年釣魚群島は「台湾州」の管轄とした。日本支配下の台湾警備府長官だった福田良三も釣魚群島が彼の管轄区内であることを認めた。

孫崎享2011『日本の国境問題』筑摩書房p.70

 この線に沿って考えると、日本は、サンフランシスコ平和条約に従って、台湾州の管轄下にあった尖閣諸島を放棄しなければならなくなります。
 しかし、日本側からすれば、尖閣諸島は1895年には日本領に編入されたので、その時点ですでに日本の領土であると主張することもできます(どこの国家の領有にも属さない“無主の地”は、発見した国家が、「領有の意思と、実際的な支配」によって、そういった無主の地域を領有することができるという無主物先占の法理に基づく)。また、外務省の説明の通り、「サンフランシスコ平和条約で尖閣諸島が日本の領土として確認されて米国の施政下に置かれ」た、そして「(尖閣諸島は)1972年の沖縄返還協定によって、日本に施政権を返還する対象地域にも含まれている」とも言えます。
 以上のように、領有権については、それぞれの国にさまざまな言い分があります。本稿で紹介した論点以外にも、多くの論点があります。ここでそれらすべてを紹介して1つの正しい見解を導き出すということはできません。ただ、石油資源が存在する可能性があること公表されたことが、日本・中国・台湾の間で、新たな緊張を生み出したということは明らかでしょう。この緊張は今も続いており、平和的な解決が望まれます。

4.海底資源調査の背景

 本章では、尖閣諸島付近の海底資源の調査が行われるようになった背景について簡単な説明をします。まず、湧上さんが調査していた時代の1969年3月2日付の『沖縄タイムス』の記事(題:「尖閣列島(5)」)を紹介します。この記事には、海底資源に注目した当時の日本の状況がまとめられています。

新野弘東海大教授は、その著書「無限の宝を秘める日本の海底資源」のなかで、次のように述べている。日本の油田は、(中略)島根半島から、朝鮮海峡島南部を通り、男女群島から東支那海大陸だな末端にそって西へ、尖閣列島から台湾西部の新竹油田に達する一大褶曲地帯が考えられる。(中略)石油は海生物といわれ、海床の盆地が大陸だなになっているとするのが定説である。(中略)本土政府は石油開発を推進するために昭和42年10月、石油開発公団を設立、同年度分に40億円の産投出資を行なっている。(中略)日本のエネルギー需要は昭和60年において現在の3.8倍の5億5千キロリットルに達し、その供給の海外依存度は90パーセントになるとの見方だ。このような状況に対処して低廉かつ、安定的なエネルギーの確保をはかるには長期的な総合エネルギー政策の樹立が必要とされる。

『沖縄タイムス』(1969年3月2日付)

 この記事の主旨は、高まる国内の石油需要を満たすためには、尖閣諸島近海での油田開発を進めなくてはいけない、ということです。
 開発の前には調査が必要です。次に、湧上さんが参加した調査の前に実施された調査の状況を説明します。1969年1月12日付の『沖縄タイムス』の記事(題:「ねむれる宝庫尖閣列島にメス」)では次のように記されています。

尖閣列島の調査は過去にも本土の権威ある学者が2、3回にわたって調査、または沖縄問題等懇談会専門委員の高岡大輔氏も昨年7月、20日間にわたって調査している。
このほか、アメリカの地下資源開発の関係者も調査を行なっている。その結果、尖閣列島一帯には多くの天然ガス、石油卯が埋蔵され、それが有望な漁場にもなりうると指摘され、注目されている。高岡氏は尖閣列島の調査から帰ってさっそく沖縄問題等懇談会に報告書を提出、尖閣列島一帯の総合学術調査の必要性を訴えた。これを田中前総務長官も了解、こんど日の目を見ることになった。

『沖縄タイムス』(1969年1月12日付)

 この記事では、過去のスケールを超える「尖閣列島一帯の総合学術調査」を行うことの重要性が述べられています。なお、「こんど日の目を見ることになった」調査とは、湧上さんも参加した調査です。この計画が進んでいく状況は、1969年2月28日付の『沖縄タイムス』の記事(題:「尖閣列島(3)」)で次のように記されています。

石油開発公団は2月17日、琉球政府に対し、鉱業権の申請を行なった。(中略)総理府は44年度対沖縄関係費のなかに、尖閣列島油田開発計画の調査費、943万5千円を組んでいるが、効果的な船上調査を海上のいい状態を選んで早い時期に行なう計画で、これには東海大学の船舶を供給する考えである。

『沖縄タイムス』(1969年2月28日付)

この通り、「44年度(1969年度)」から、尖閣列島油田開発計画の調査が進められるようになりました。

5.調査の結果

 1969年から1971年にかけて実施された、尖閣諸島とその北方海域での海底地質調査の結果は、亀田晃尚氏によると、次の通りです。

調査海域の尖閣諸島の北方海域に亘って厚さが2,000mを超える堆積層と石油探鉱の実施に価すべき背斜構造を確認した。(中略)石油開発公団の元理事によれば,3,000m よりも深い堆積物は石油根源岩となり得るとされることから、3,000mまでの堆積物の調査では石油資源のデータ把握という点で不十分であったといえる(p.138)。

亀田晃尚2018「尖閣諸島の石油資源と21世紀初頭の中国の行動に関する一考察」『公共政策志林 』6:133-146.

 一方、湧上さんは、1969年と1970年の2次にわたって、石油開発公団の主導する調査団の一員として、調査船・東海大学Ⅱ世に乗船し、船上での調査(海底地形測量やドレッヂ等)に参加しました。1970年の調査では、魚釣島に上陸し、地質調査と水質調査に参加しました。魚釣島で採水した滝水の水質は、西表島の仲間川・浦内川の両河川の水質に近く、良質の水でした。

尖閣諸島調査を行った調査船・東海大学Ⅱ世。
尖閣諸島魚釣島。調査時に撮影。
尖閣諸島魚釣島。調査時に撮影。
尖閣列島赤雄礁。調査時に撮影。
尖閣諸島調査時の様子。海水採取器及び水温器を使って調査中。
尖閣諸島調査時の様子。ドレッジ(海底資質調査)。

6.さいごに

 現在、日本は尖閣諸島を実効支配していますが、中国や台湾は日本が領有権をもっていることを認めていません。1970年代尖閣諸島近海に石油資源が埋蔵されている可能性が国連アジア極東経済委員会により指摘されて以降、3国間の緊張は高くなりました。
ところが、この海底資源をめぐる問題は、これら3国だけの問題ではなさそうです。先に紹介した亀田晃尚氏の論考を読めば、米国もこの石油資源を狙っていることがわかります。「1970年から1971年にかけて米国のガルフ社は、台湾の国営企業の中国石油公司との契約に基づき、尖閣諸島周辺で当時最新鋭の調査船ガルフレックス号により石油資源調査を行った」(p.134)「ガルフ社は尖閣諸島周辺の海底下6,000mまでの堆積層のデータは保有していると考えられる」(p.134)「米国防総省は,2008年の年次報告書の「中国の領土紛争(China’s Territorial Disputes)」と題するコラムの中で「東シナ海は最大1000億バレルの石油を埋蔵している」と初めて記述した」(p.135)と記されています。よって、この海底資源をめぐる争いは、4つ巴の争いとみたほうがよいでしょう。
 各国が狙っているのは石油です。湧上さんが参加した海洋基礎調査も海底石油資源開発のための調査でした。同調査では「石油探鉱の実施に価すべき背斜構造」が確認されました。湧上さんは国家主導の重要な調査に参加したと言えるでしょう。

文責:堀川輝之