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湧上洋さんのオーラルヒストリー(3)「ミントゥンの会」

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湧上洋さんのオーラルヒストリー(3)「ミントゥンの会」
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1.はじめに

 湧上洋さんオーラルヒストリープロジェクトの第3弾のテーマは、湧上さんのミントゥンの会を通じた地域への貢献です。ミントゥンの会とは、旧玉城村内の小中学校の学習を支援するボランティア団体です。学習とは、教科の学習だけでなく、総合学習で学ぶ社会教育的内容の学習も含まれます。湧上さんは、後者の学習に関してこれまで長く貢献してきました。
 本稿では、まず、ミントゥンの会の目的や組織体制、活動内容・実績、沿革などについて説明し、次に湧上さんの同会を通じた活動について詳述します。その後、湧上さんへのインタビュウを掲載します。インタビュウでは、ウチナーグチや郷土愛などについて湧上さんに語っていただきました。最後は、全体を俯瞰して要点をまとめ、筆者の感想を述べます。

2.ミントゥンの会とは?

 本章では、主に『学校支援ボランティア「ミントゥンの会」設立10年の歩み』(2017年)を参考にして、ミントゥンの会について説明していきます。情報源を記していない記述は、すべて同書からの情報に基づいています。

『学校支援ボランティア「ミントゥンの会」設立10年の歩み』の表紙

(1)目的
 学習支援ボランティア「ミントゥンの会」会則の第3条には、次の2つの目的が記されています。1つは「玉城地域内の学校教育を支援する(例:学習支援ボランティア、学習環境整備等への協力)」、もう1つは「会員の研修と会員相互の親睦を図る」です。本章では、本稿の趣旨に準じて、前者に関する内容を中心に説明します。

(2)ボランティアのメンバー
 ボランティアのメンバーとは、同会の「会員」のことです。同会則の第4条には、会員の資格について、「この会は、玉城地域出身者及び玉城地域在住者又は、この会の趣旨に賛同する者をもって組織する」と記されています。つまり、玉城地域にゆかりのない者でも、玉城地域外に在住する者であっても、同会の趣旨に賛同すれば会員になれるということです。本土からの移住者でも会員になれます。『学校支援ボランティア「ミントゥンの会」設立10年の歩み』には、千葉から移住した佐藤洋一さんや神奈川から移住した櫻井晶敏さんの寄稿文が掲載されています。佐藤さんは、大学で数学教育に関わっていたという数学のエキスパートです。一方、櫻井さんは地域への貢献に前向きな人で、寄稿文で「移住後、何か地元でお手伝いできることがないかいろいろな方面の方々に、お聞きしていたところ、南城市の職員の方からミントゥンの会を紹介していただき、2010年より参加させていただいております」と記しています。
 同会の会員数は、設立当時(2015年)38名(退職教員中心)でした。『学習支援ボランティア「ミントゥンの会」広報第9号』(2022年)で「現在登録している会員は112名」とある通り、現在では設立当初の3倍近くまで会員数は増加しました。しかし、この人数でも活動を十分に行うにはまだ足りません。同広報では「高齢化や、忙しく対応できない方も多く、学校のすべての要望に応えられていません」と書かれています。
 なお、112名は確かに会の設立当初と比べると多い人数ではありますが、現在、会員数は減少傾向にあります。2006年から2016年までの会員数の推移を見ると、2006年38名、2007年45名、2008年55名、2009年67名、2010年116名、2011年135名、2012年158名、2013年165名、2014年172名、2015年168名、2016年170名となっています。150名を超す年が5年間も続いていたことを考えると、2022年現在での112名は少ないと言えます。会員数の減少となった原因の1つは、高齢化と考えられます。メンバーの中心は60代から70代であるからです(2015年時点)。

(3)組織体制と事務内容
 ミントゥンの会は、会長1名、副会長2名、監事2名、事務局長1名、書記1名、会計1名で運営されています。
 同会の役員は、会長、副会長、事務局長、監事で構成されています。なお、役員は、4校(玉城中学校、玉城小学校、船越小学校、百名小学校)の校長とともに評議員会を構成しています。評議員会は同会および学校側の両意見を調整します。石嶺眞吉氏会長(当時)は、2011年11月5日、琉球大学文系総合研究棟603で開催された実践事例発表会において、評議員会について次のように話しています。「学校での効果的な学習支援のあり方については、評議員会で話し合います。評議員会には校長先生も入っておりますので、その中でどういう支援のあり方がより効果的なのか、よりふさわしいのか、学校から課題を出してもらったり、また、私たちからも課題を出し合って、新学期と二学期始めの9月に、意見交換・情報交換をしながら、より効果的な支援を目指して、話し合いを続けています」「誰かが『こういうのはおかしいよ』とか『こんなふうに指導したほうがいいですよ』と出てきた時に、そのような意見は学校にぶつけるのではなく、校長先生と私たちの話し合いをする場、評議員会等で、学校と我々との意見調整をしていくようにしています」
 なお、事務局は南城市立玉城小学校内にあり、ここで、事務が行われています。各学校は、学校・学年等の年間計画に基づいてミントゥンの会事務局へボランティアの派遣を依頼します。その後、事務局は、会員に参加の要請を行います。各件に関する調整は、事務局と各学校の教頭の間で行なわれます。

(4)名称
 「ミントゥン」とは玉城の字仲村渠にある、沖縄発祥の地と伝えられているグスクの名称です。往古の沖縄人がミントゥングスクから沖縄各地へ活動を広げていったように、学習支援活動が県内各地に広がるようにとの願いが込められて、「ミントゥン」が会の名称となりました。

(5)活動内容
 ミントゥンの会の学校への支援活動は、大きく①教科学習支援、②総合学習・地域学習・平和学習支援、③部活動・クラブ活動支援、④読み聞かせ、⑤その他に分類できます。以下、それぞれについて説明します。

1 教科学習支援
 教科学習への支援は、次の4つから構成されています(2017年時点)。

・少人数指導
 数人単位でグループ分けされた生徒に対し行われる指導。学校が準備したドリルに従う。授業についていけないような子どもたちをマンツーマンもしくは2、3人の子どもたちを目安にして、顔を突き合わせながら指導していく。

・TT指導
 通常の授業の中に教員経験のある会員が入り、補助員として生徒を指導。

・基礎基本タイム
 学年単位で習熟度別にグループ分けされた生徒に対して指導。学校が準備したドリルに従う。全学年の希望者が対象。南城市立玉城中学校教頭・與那嶺律子氏は、次のように説明する。「基礎・基本タイムは、生徒の主体的な学習態度の育成と基礎・基本的な学力の定着を目標に6月から3月まで取り組んでいます。毎週金曜日の放課後の約50分間を1年生が英語と数学、2・3年生が数学を教科担任が作成した課題に取り組み、分からないところをミントゥンの会の先生方に教えてもらっています」

・サマースクール
 夏休み期間中の5日間、3学年全員に指導。学校が準備したドリルに従う。5教科。指導時間は1日3時間。

2 総合学習・地域学習・平和学習支援
 総合学習支援は、社会教育支援的な要素があります。生徒は、地域めぐり(グスク、自然、伝統行事等)により、地域の歴史・文化・自然について学びます。また、沖縄戦時に地域で起きたことに関する学習は平和学習の中で行なわれます。これらのことに詳しい会員が対応します。例えば、ハーリー行事の場合、その目的や行事への思い、その土地の小中高校生の関わり方、ハーリー当日までの準備などについて、会員が説明します。なお、湧上洋さんは、歴史・文化・自然に関する学習において講師として参加してきました。

3 部活動・クラブ活動支援
 ミントゥンの会は、部活動(テニスなど)、クラブ活動(お茶、お花、和琴、ウチナーグチ、三線など)にも講師(専門的技能を備えた講師含む)を学校に派遣しています。湧上洋さんは、ウチナーグチと三線の講師として参加してきました。

4 読み聞かせ
 朝の読み聞かせタイムが各小学校で週1回あります。これにも会員のボランティアが派遣されています。

5 その他
 直接学習に関係しない支援です。例えば、朝の交通安全立哨による児童生徒の安全確保や、山羊の世話、ウサギの世話、校庭の草刈り、日本庭園の整備などです。ミントゥンの会は、様々な形で学校に貢献していると言えるでしょう。

(6)活動実績
 ミントゥンの会は、学習支援の功績が高く評価され、平成27年度「優れた地域による学校支援活動推進」にかかる文部科学大臣表彰を受けることになりました。この受賞については、『沖縄タイムス』(2015年11月26日付)により「読み聞かせ・平和教育10年 学校ボランティア支援ミントゥンの会 文科大臣表彰祝う」の題で次のように報じられました。

学校支援ボランティア「ミントゥンの会」の設立10周年を祝う会合が20日、事務局を置く玉城小学校で催され、約60人の会員が節目を喜んだ。学校支援活動の文部科学大臣表彰の吉報を報告した石嶺眞吉会長(82)は「活動が評価されてよかった。受賞が、会員の意欲向上につながったらうれしい」と、二つの喜びに笑顔だった。

 なお、学習支援の具体的な成果については、『琉球新報』(2016年2月10日付)により、「初の『教育の日』、児童ら表彰」の題で、次のように報じられました。

学習支援ボランティアミントンの会との連携で夏休み期間中、1年生全員を対象に基礎・基本補習を行い、成果として国語A、算数Aとも全国学力・学習状況調査で県平均を上回り、全国平均との差が縮まっていると発表した。 

 このような成果が出ていることは不思議ではありません。なぜなら、同会の活動は年々活発になっていったからです。『学校支援ボランティア「ミントゥンの会」設立10年の歩み』(2017年)に掲載されている活動実績の表を見ればそれは明らかです。この表では、会員の参加延べ人数が表にしてまとめられています。参加延べ人数は、「学習支援」と「クラブ活動その他」「読み聞かせ」に分類されています。また、それらの「合計延べ人数」の項目もあります。
 「合計延べ人数」を見ると、平成28(2016)年度の合計延べ人数は、平成18(2006)年度のそれと比べると、約10倍となっています。しかも、平成25(2013)年度の時点ですでに、活動のボリュームが10倍になっています。これにより、ミントゥンの会がいかに熱心に活動に取り組んできたかがわかります。
 その表に会員数の項目を加えたものは以下の通りです。


「ミントゥンの会」学校支援ボランティア活動実績

(7)会の方針と基本姿勢
 ミントゥンの会の活動は円滑に進みました。ボランティアの数が増え、活動の延べ人数も増えていったことは、前項で明らかになりました。では、その秘訣は何だったのでしょうか。筆者は様々な秘訣があったと思いますが、特に、会の方針や基本姿勢が会員に浸透していたことが大きな秘訣であったと考えています。
 元副会長の糸数榮輝氏は、会の方針について、『学校支援ボランティア「ミントゥンの会」設立10年の歩み』への寄稿文(題名:「子ども達の気付きに無頼の喜びを感じる」)で、次のように記しています。

会の方針としては、
1.学校における教育活動は、教師が行うものであるが、教師が行う学習指導を、学校からの要請に応じ、児童生徒の一人ひとりに十分な理解が得られるよう手助けに努める。

2.教師が指導した単元のまとめから作成されたプリントを使って子どもが十分に理解できなかった点や小さなミスに対するきづきを大切にしながら丁寧に指導する。

 この2つの「会の方針」を読むと、「あくまでも主役は現役の教師であり、ミントゥンの会は現役教師の手伝いをするに過ぎない」という姿勢が見えてきます。実際、2011年11月5日琉球大学文系総合研究棟603で開催された実践事例発表会で、石嶺眞吉氏(当時会長)は、「私たちの基本姿勢というのは、あくまでも学校からの要請に従って活動する、学校に押し付けない、学校に負担をかけないように支援していこう、ということです」と発言しています。
 このような基本姿勢があるがゆえに、同会は学校から信頼され続けてきたのでしょう。

(8)助成金
 ミントゥンの会では、会費は徴収されていません。同会の運営は、沖縄県地域振興協会(旧沖縄県対米請求権事業協会)からの助成金によって成り立っています。石嶺眞吉氏(当時会長)は、沖縄県対米請求権事業協会(当時)が学校支援に予算を出していることを新聞で知り、2008年12月1日に同協会へ助成金申請書を提出しました。そして、2009年5月15日、同協会より助成金が認可されました。
 この助成金はいったん南城市の予算に組み込まれるので、ミントゥンの会は市に請求することになっています。

(9)沿革
 元会長の石嶺眞吉氏は、寄稿文(題名:学校支援ボランティア「ミントゥンの会」の誕生)で、ミントゥンの会が立ち上がるまでの沿革について次のように説明しています。

 平成12年、生涯学習が唱えられた頃、社会教育と学校教育が大きく変化し、特に、学校教育においては「総合学習の時間」の導入により、地域の人材を活用しての教育の充実が求められた。旧玉城村の「玉水会」(玉城村出身教職員の会)では、玉城教育委員会からの強い要望を受けて「玉水会人材派遣ボランティアバンク」(学校支援活動に対応可能な人材の登録集団)を設置した。それは地域の人材を学校支援活動に役立てて欲しいとの思いから、「人材バンク」の名簿は、村内の各学校に配布され、バンクの運用は玉城村教育委員会に委託された。
 当時、「地域に開かれた学校」等の取り組みが提唱され始めてはいたが、学校からの支援要請は学習支援よりクラブ活動や地域学習等に関するものが多く、限定的で、それほど活発ではなかった。
 一方、「玉水会人材派遣ボランティアバンク」の運用は村教育委員会に委託されたものの、「人材バンク」自体の活動推進本部(事務局)がなく、学校としても直接的な連携が取りにくいと言うこと、「玉水会」会員の大半が現職教員で、時間的な制約があり充分な対応が出来ない事もあって、会活動も十分に機能できない状態であった。このような状況の中、もっと学校が活用しやすく、機能的な組織と、幅広い会員の拡充が課題とされた。(中略)「地域人材バンク」の反省のもと「ミントゥンの会」が誕生したのは、旧玉城村が南城市に合併する前年、平成17年(2005年)10月のことである。

 これを見ると、ミントゥンの会は時代の要請を受けて誕生したということがわかります。平成12(2000)年より生涯学習が唱えられるようになり、総合学習が導入され、地域の人材の協力が必要になったと述べられています。
 一方、教科学習における地域の人材の活用についても、時代の要請がありました。その点について、ミントゥンの会初代事務局長・高嶺朝勇氏は、寄稿文(題名:「創立10周年おめでとうございます」)で、次のように説明しています。

 平成17年玉城村教育委員会議の中で、学校支援ボランティア団体の必要性が話題となり、「ミントゥンの会」を結成する運びとなった。当時、玉城村は県の学力向上推進地域の指定を受けていたため、安次富清暎教育長は、ミントゥンの会に大きな期待を寄せて、本人も会員になり、平田勝典指導主事を通じて各学校に活用を要請した。会長には石嶺眞吉・教育委員長が就任した。

 この通り、地域の力を活用した学力向上が社会的に求められるようになりました。それに応えるために、「ミントゥンの会」が誕生することになりましたが、その船出は芳しいものではありませんでした。その点について、高嶺氏は、同寄稿文でこう述べています。

 教育委員会の旗振りにもかかわらず、学校からのボランティア派遣依頼はなかなか来なかった。<中略>当時の学校教育は自己完結主義的な考え方が強く、外部の者が、学校に入ることを回避するような雰囲気があった。
 私は各学校の校長先生・教頭先生を訪問し、「ミントゥンの会」の目的や性格を説明してボランティア活用のメリットについて〔営業活動〕を行ったが、はかばかしい進展はなかった。

 ミントゥンの会はこのような苦労を乗り越えて、活動を拡大できるようになりました。その活動の足跡(2005~2017年)を、以下、時系列にまとめました。

【ミントゥンの会沿革】

2005年10月31日
「ミントゥンの会」設立総会(会員38人)開催。会則、役員決定

2005年11月28日
ハワイ在住玉城村出身者より100,000円の寄付

2008年9月10日
沖縄県対米請求権事業協会事務局訪問(助成金の件で情報収集)

2008年12月1日
沖縄県対米請求権事業協会へ助成金申請書提出

2008年12月4日
旧玉城村郷友会(那覇市内・外在住者)より100,000円の寄付

2009年5月15日
沖縄県対米請求権事業協会より助成金が認可

2009年9月14日
島尻区地域連携担当教員等研修会において「ミントゥンの会」実践事例発表(県立糸満青年の家にて)

2010年12月
『ミントゥンの会』会報第1号発刊

2011年2月
第4回会員研修(史跡巡り:玉城垣花、仲村渠、百名、新原地区)

2011年9月20日
島尻区地域連携担当教員等研修会において「ミントゥンの会」実践事例発表(県立糸満青年の家にて)

2011年11月5日
「地域にとって学校とは・学校にとって地域とか?」「ミントゥンの会」と地元学校との連携について実践事例発表(琉球大学文系総合研究棟にて)

2012年2月16日
第5回会員研修(史跡巡り:玉城奥武、船越地区)

2012年2月19日
玉城小学校130周年記念式典にて、学校支援活動に対して感謝状を受賞(玉城小学校体育館にて)

2012年6月5日
『ミントゥンの会』会報第2号発刊

2012年6月23日
『ミントゥンの会』会報号外発刊

2013年2月16日
第6回会員研修(東御廻:佐敷・知念・玉城地区)

2014年2月1日
『ミントゥンの会』会報第3号発刊

2014年2月11日
第7回会員研修(講演会:南城市教育長高嶺朝勇「南城市の学校教育について」)

2015年2月1日
『ミントゥンの会』会報第4号発刊

2015年11月20日
「ミントゥンの会」10周年ふりかえり懇談会

2015年12月3日
優れた「地域による学校支援」活動推進にかかる文部科学大臣表彰受賞

2016年2月25日
南城市学校支援ボランティア交流会にて「ミントゥンの会」の実践発表

2016年4月28日
南城市立玉城小学校及び同校PTA連名により「ミントゥンの会」への感謝状が贈られる

2016年11月11日
第46回九州ブロック社会教育研究大会第1分科会「学校支援ボランティア活動と地域連携」において「ミントゥンの会」実践発表(福岡県にて)

2017年1月27日
沖縄県社会教育研究大会にて「ミントゥンの会」の実践発表(嘉手納町にて)

2017年2月11日
島尻地区学力向上推進実践発表大会にて「ミントゥンの会」の実践発表(南城市シュガーホールにて)

(10)コロナ時代の活動
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が2020年以降、世界中で猛威を振るうようになり、ミントゥンの会の活動は制限されるようになりました。その状況について、現会長・知念かねみ氏は、『学習支援ボランティア「ミントゥンの会」広報第9号』(2022年2月15日発刊)への寄稿文(題名:「《コロナ禍の中学校支援》ご協力に感謝!」)で、次のように説明しています。

 船越小学校、玉城小学校、百名小学校での放課後の補習指導の他、船越小学校では6年、玉城小学校では3年生の授業補助やミシン指導、帰国子女の国語の指導等、百名小学校では書初め指導にも入っています。例年どおり、平和学習や地域学習も実施できました。
 ただ、地域学習においては、例年訪問している会社がコロナ禍で受け入れてもらえず、地域のことを十分には学ぶことはできなかったと思いますが、字愛地の長嶺修さんの野菜畑、字志喜屋の親川孝雄さんのクレソン畑訪問の際には、丁寧に説明してくださいました。<中略>本年度は、特に環境整備にも力を入れてきました。3小学校での夏休みの小動物の世話、花壇の水かえ、校庭の草刈りや玉城小学校創立140周年記念式典に向けて、記念庭園の樹木の剪定等、多数の会員が積極的に参加してくださいました。安次富清暎氏は、冬休み期間中、玉城小学校の山羊を預かり世話をしてくださいました。また、高嶺朝勇氏は、同級生・知人たちに呼びかけ船小での草刈りボランティアを確保、港川猛さんは樹木剪定が上手な友人たちに声かけ、玉小(筆者注:玉城小学校のこと)の日本庭園が見事によみがえりました。読み聞かせも各小学校で行っています。事務局の高嶺さんと港川さんは運動会用のゼッケン(140枚)作製にも関わりました。<中略>学校支援も軌道に乗りつつある昨今でしたが、再度コロナ感染の広がりがあり、三学期になって中止せざるを得なくなったのは残念です。

 これを読むと、制限のある中でもできることは懸命に行うという姿勢が感じられます。これは、学校と地域の強い絆があるからでしょう。そして、これからも、この絆はさらに強くなっていくことが求められています。その点について、南城市立玉城中学校校長・兼屋辰朗氏が、寄稿文(題名:「創立10周年に寄せて」)でこう述べています。

 平成30年度から先行実施される次期学習指導要領では、「よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を共有し、社会と連携・協働しながら、未来の創り手となるために必要な資質・能力を育む『社会に開かれた教育課程』の実現」が求められております。これから社会を創出していく子供たちが、社会や世界に向き合い関わり合い、自らの人生を切り拓いていくためには、地域の人的・物的資源を活用したり、放課後や土曜日等を活用した社会教育との連携を図ったりすることが重要だといわれています。
 これから社会を創り出し、未来の人生を切り拓いていく子供たちのために、ミントゥンの会との連携・協働がますます肝要になります。

 ミントゥンの会の役割はますます重要になっていくでしょう。これまで以上に様々な形で、学校と連携が行われていくに違いありません。

3.湧上さんの地域への貢献

 湧上さんは、多方面にわたりミントゥンの会の活動に参加してきました。湧上さんは、船越の字誌編纂で中心的な役割を果たしてきたので、船越の歴史・文化・自然に知悉しています。船越住民である彼自身の経験的知識に加え、文献調査や聞き取り調査で得た知識も湧上さんは豊富に持っています。湧上さんは、それらの知識を活かして、平和学習や自然学習、民俗学習などの講師として小学生を指導してきました。また、湧上さんは、沖縄の歌三線の師範でもあり、三線の指導も行ってきました。さらに、ウチナーグチで話すこともできるので、ウチナーグチの指導も任されてきました。
 本章では、湧上さんのミントゥンの会を通じた地域貢献の全貌をみていきます。はじめにその活動の概要を説明します。次に、目立った成果が出た事例(ウチナーグチ指導)を1つ紹介します。

(1)地域貢献の概要
 湧上さんは、『学校支援ボランティア「ミントゥンの会」設立10年の歩み』(2017年)に寄稿文(題名:「ミントゥンの会に参加して」。本稿の末に全文掲載)を書いていますが、ここでは、主にそれを参考にしながら、湧上さんの活動を紹介します。
 湧上さんが学校教育支援をするきっかけになったのは、船越小学校の50周年記念祝賀会(1995年11月)に出演する生徒への三線指導です。それ以来、学校からの依頼で平和学習(戦争体験講話)や三線指導、地域湧水の話、地域の史跡案内等を行ってきました。
 実は、湧上さんはミントゥンの会に入会する前から、そのような形で学校教育を支援してきました。正式に入会したのは2009年です。
 回数の多い支援は、三線クラブやウチナーグチクラブでの指導です。クラブ活動以外への支援としては、平和学習、地域の地層案内、昔の子どもの遊びの話、沖縄の祭りの話、民具の見学案内、地域の史跡案内などがあります。これら多岐にわたった指導を1人で行なうことができるのは湧上さんならではです。
 子どもに物事を正確に理解させるのは簡単ではありませんが、湧上さんは、子どもの理解を助けるために、様々な工夫をしてきました。例えば、写真を多く使うようにしてきました。平和学習では、第三外科壕(ひめゆり平和祈念資料館の敷地内)の入り口付近がどのように変わったかを説明する際、「現在の写真」と「戦後まもない時期の写真」を見せました。また、昔の子どもの遊びの説明では、小学2年生にチチシ(差し石)を持たせるようにしました。もちろん、かつて青年達が用いていた石は重いので、小学2年生にはとても持ち上げることはできません。そのため、湧上さんは、地域学習用に、低学年の生徒でも持ち上げることができる軽くて小さい石を用意しました。湧上さんは「できるだけ体験を通じて学ばせたい」と言っています。
 なお、湧上さんは、単に分かりやすさだけを追求するのではなく、知的好奇心を持たせる努力もしてきました。例えば、同寄稿文では「地域の地層案内の折には、単に地層(琉球石灰岩、泥灰岩層等)の説明だけでなく、地層群に賦存する有用資源(ユインチホテルの水溶性ガス・温泉水等)の説明もやり、南城市内にも有用資源があるということを子ども達に認識させました」と記しています。

【チチシ(差し石)】
 力石または突石ともいう。島石(琉球石灰岩)で造られたもので、上下がやや平たくなった球形の石で、船越には50斤ほどの軽いものから120斤以上もある重いものまで6つ残っている。
 船越では、昔から村屋(公民館)前の広場にチチシが置かれ、ムラの若者たちが農作業後に集まり、はじめは軽いチチシから挑戦し、次第に重いチチシを持ち上げて競争しあって体を鍛えていたという。

湧上洋 2018 「船越集落概況」
チチシ。かつて船越の青年たちがこれらの力石で力比べをした。
チチシ体験をする船越小学校の生徒。このチチシは、体験用に湧上さんがつくったもの。

(2)ウチナーグチ指導
 湧上さんは、同寄稿文でウチナーグチ指導について、こう述べています。

 学校支援活動をして私が最も嬉しかったことは、船越小学校のウチナーグチクラブでお手伝いした生徒(当時4年生の金城利和君)が、南城市しまくとぅばお話大会で見事最優秀賞に選ばれ、県のしまくとぅば語やびら大会に派遣されたことであります。

 「南城市しまくとぅばお話大会」とは、ウチナーグチの力を競う大会です。金城利和君が参加した大会は、第7回目の大会で、2015年7月18日、南城市文化センター・シュガーホールで開催されました。大会の目的は、「しまくとぅば」への関心を高め、これを次世代へ継承することです。主催は、南城市青少年育成市民会議(共催:南城市教育委員会)。参加者は、シュガーホールの舞台で、出来事や昔話などをウチナーグチで話します。複数名での発表や衣装・小道具による演出も認められています。持ち時間は5分です。
 第7回目の大会のパンフレットを見ると、参加者は次のように書かれています。玉城幼稚園、大里南幼稚園、佐敷幼稚園、知念幼稚園、佐敷小学校、船越小学校、知念小学校、馬天小学校、玉城小学校、大里南小学校、大里北小学校、一般(知念字知念)、一般(大里字大城)。南城市内の幼稚園と小学校の参加がメインであることがわかります。

第7回南城市しまくとぅばお話大会のパンフレット(表)
第7回南城市しまくとぅばお話大会のパンフレット(裏)

 湧上さんから指導を受けた船越小学校4年生金城利和君は「ウニムーチーヌ ウハナシ」を語りました。「ウニムーチーヌ ウハナシ」とは、いわゆる鬼餅の話です。鬼になって人を食べる兄を妹が退治するという物語を、金城君は身ぶり手ぶりを交えて話しました。
 最優秀賞に選ばれた金城利和君(当時10才)と大里大城の会社員久手堅豊さん(当時59才)は、第21回しまくとぅば語やびら大会(県文化協会主催)に参加しました。浦添市のてだこホールで開かれた同大会には、県内各地から27組36人が出場しました。

県大会「しまくとぅば語やびら大会」パンフレットの表紙。

 南城市しまくとぅばお話大会に向けては、短期集中で密な訓練がなされました。湧上さんは、「台本が完成してから大会当日まで、1ヶ月半しかありませんでした。週に1日指導に行きましたが、最後のほうでは、毎日のように指導に行ったような記憶があります」と語っています。「台本」とは鬼餅の話の台本のことですが、湧上さん自身がこの台本を書きました。以下の写真の通り、カタカナ表記のウチナーグチと、漢字・仮名表記の標準語が併記されています。

湧上さんが作成した「鬼餅のお話」の台本1
湧上さんが作成した「鬼餅のお話」 の台本2
湧上さんが作成した「鬼餅のお話」 の台本3
湧上さんが作成した「鬼餅のお話」 の台本4

それにしても、なぜ旧玉城村出身の湧上さんが大里の代表的な民話「鬼餅の話」を題材として選んだのでしょうか。この点について筆者が聞くと、「深い理由があって、大里の話を選んだわけではありません。自然とこれがいいなと思ったのです。スリリングな展開もあり、見せ場も多い。この話は純粋に面白い。また、私自身、ムーチーの行事には子供の頃から親しみを感じています。子供の頃は餅を年齢の数だけ軒先にぶらさげたものです。それに、鬼餅の話は大里の話であると言っても、ムーチー自体は、沖縄全体でよく知られた行事ですし、この話も沖縄全体でよく知られている、沖縄を代表する民話の1つなのです」と湧上さんは答えました。
 ちなみに、湧上さんは、幼少期、鬼餅の話(大里鬼の話)に限らずその他多くの民話を、同居していた祖父からウチナーグチで聞きました。湧上さんがなかなか寝付けない時、祖父が孫の洋さんを寝かせるために、話をしてくれたといいます。「祖父から聞いた話を思い出してこの台本の骨格を書きました。それからいくつかの本を参考にして加筆修正をし、大会用の台本を完成させました」と、湧上さんは語っています。
 当時、南城市しまくとぅばお話大会に生徒を出場させることは、船越小学校の業務の1つとなっていました。学校側から生徒の選抜を頼まれていた湧上さんは、金城利和君を推薦しました。金城君はウチナーグチクラブの活動中、熱心に湧上さんの話を聞いていたので、湧上さんは「この子なら大会に出せる」と思ったそうです。また、そのほかにも金城君を選んだ理由があります。それは、言葉に上品さを感じたということです。「金城君の住む愛地という集落は、元々首里から流れてきた人々により創建された屋取集落で、愛地には首里士族の言葉が残っています」と、湧上さんは説明します。その通り、愛地はもともと字船越の屋取集落で、1921年に分離し富名腰2区となり、戦後に愛地に改称されました(詳細はこちら)。現在に至っても、この歴史の違いで、言葉の使い方や響きに独自なものが残っているというのは驚くべきことです。
 湧上さんの目には狂いはありませんでした。金城君は熱心に台本を覚え、うまく表現できるようになるようになっていきました。湧上さんは、身振り手振りが過剰もしくは不足していると思った時には、助言しました。なお、金城君の祖父母や両親も家庭で指導しました。彼の祖父が特に熱心だったそうです。
 周囲の人達の指導と本人の努力により、金城君は滑らかに話せるようになりました。身振り手振りも上達しました。しかし、湧上さんは十分満足しませんでした。その点について、「たしかに上手く表現できるようになりました。しかし、心から話しているという感じがしませんでした。内容をしっかりつかんで、自分の言葉で話しているという印象を受けなかったのです。ただ口から言葉が出ているだけのような無味乾燥な感じがしたのです」と湧上さんは説明します。
 では、改善のために何か手を打ったのでしょうか。湧上さんは、考えた末にあることを行いました。「このままではいけないと思い、金城君を車に乗せて、物語の各シーンの現場に連れて行きました。鬼が棲んでいたとされるガマや、真手川原(鬼が妹を「待て」と言いながら追いかけた場所)などに連れて行きました。その後、金城君は、各場面を想像しながら話すことができるようになったのか、真に迫るような話し方ができるようになりました」と湧上さんは回想します。
 このように幾つかの段階を経て、金城君の表現力は向上していきました。直前の確認では、校長先生も加わりました。それが最終の指導となりました。

4.湧上さんへのインタビュウ

 筆者は、インタビュウで、ウチナーグチクラブへの支援で大きな実績をつくった湧上さんに、ウチナーグチ(しまくとぅば)に関する湧上さんの考えを聞きました。また、ミントゥンの会に参加することにより郷土に貢献してきた湧上さんの郷土愛などについても聞きました。以下に、そのインタビュウ内容を掲載します。

――湧上さんは、しまくとぅばで、祖父から民話を教えてもらったとのことですが、家では祖父以外の人ともしまくとぅばで会話をしていたのでしょうか。

 祖父母とは常にしまくとぅばで話をしていました。母とは大半しまくとぅばで会話をしています。

――弟さん妹さんとの会話では、しまくとぅばを使っていましたか。

 子供の頃は、弟や妹達との会話は、大半はしまくとぅばで行なっていました。

――奥様との会話では、しまくとぅばが使われていたと想像します。湧上さんも奥様も、しまくとぅばを話せる世代の方ですから。正しいですか。

 妻とは、子供達のいる前では標準語で会話をしていましたが、2人だけの時には、標準語での会話も、しまくとぅばでの会話もありました。

――同世代の人との会話では、いつも、しまくとぅばが用いられていると思っていましたが、必ずしもそうではないのですね。

 友人で、玉城文化協会でもお世話になった幸喜徳雄さん(百名出身)とは、しまくとぅばを交えて話していました。しまくとぅばが話せない人が来たら、完全な標準語に切り替え、その人がいなくなったら、またしまくとぅばを交えた会話に戻す。そのようなことをしていました。

――子供の前での奥様との会話が標準語でなされていたのであれば、湧上さんと子供との会話も標準語で行なわれていたと想像できますが、正しいですか。

 その通りです。妻も子供と標準語で話していました。ですから、子供はしまくとぅばを話せません。

――しかし、3世帯で暮らしていたならば、湧上さんのお母さんから、湧上さんの子供へ、しまくとぅばが伝授されるということはなかったのですか?

それはなかったです。

――ということは、家にしまくとぅばができる人がいたにもかかわらず、湧上さんの子供は、しまくとぅばに接することなく育ったのですね。

 まったくしまくとぅばに接しなかった、というわけではありません。私と私の親との会話は、主に、しまくとぅばでなされていたので、子供たちは、その会話を耳にしていたはずです。ですから、子供たちは、ある程度、会話の内容を理解できると思います。しかし、話すことはまったくできないです。子供たちがしまくとぅばを話す機会は全然なかったですから。

――子供にとっては、湧上さんと湧上さんの親との会話が、唯一、しまくとぅばに触れることのできる機会だったのですね。

 そうです。しかし、その時間は少なかったと思います。子育ての時期は、仕事で外にいる時間が長かったですからね。

――湧上さんの子供がしまくとぅばを話せないとなると、当然、孫はまったくしまくとぅばができない、ということになりますね。

 そうです。孫はまったくしまくとぅばを使えないです。

――子供をしまくとぅばで育てようと思ったことはないのですか?

 ないですね。子供が幼い頃、沖縄では、しまくとぅばを残そうという気運は全然なかったのです。

――沖縄県は2006年に「しまくとぅばの日」を条例で制定しましたが、2011年と2013年の県民の調査によると、「しまくとぅば」を聞き・話せる人は45%から35%へと減少しています。現在、しまくとぅばを使える人はかなり減ったという印象を私は持っていますが、湧上さんはどのようにみていますか。

 個人的な印象ではありますが、シマ言葉を話せない人が多くなったという気がします。話せないけど聞くことができるという人も減っていっているのではないでしょうか。

――シマ言葉をどうしたら保存できるでしょうか。

 どうしたらいいでしょうか。なかなか良い案が浮かびませんね。保存していくことは難しいと思います。大里大城の区長経験者の久手堅豊さん(「第7回南城市しまくとぅばお話大会」最優秀賞受賞者)は方言について精力的に講演なさっています。そのような活動には敬意を表します。しかし、しまくとぅばを使える人が増えていくという状況をつくることは簡単ではないと思います。

――簡単ではないというのは理解できます。現代沖縄人は、しまくとぅばを使わねば生きてゆけないという環境で生活しているわけではないですからね。

そうなのです。公共の場で使うことはまずないです。それに、教科書が、しまくとぅばで書かれていません。言うまでもなく、新聞や一般書籍などもそうです。世に出ている情報はすべて標準語で書かれています。標準語があたりまえの社会になっています。そうなると、自然と、会話も標準語化してきます。このような中では、家庭で標準語をしっかり教えるべきであると、みんな考えるようになるのです。

――しまくとぅばが絶対に必要という場面はないのですか。

 あります。私のように歌三線をやっている者は、必ずしまくとぅばを使います。歌詞はしまくとぅばですからね。歌詞の意味を正しく理解したり、歌詞の微妙なニュアンスをつかんだり、正しい発音で歌ったりするという点では、幼い頃からしまくとぅばを自然に覚えていった人は優位に立てるでしょう。それについては、しまくとぅばを使う組踊などの芸能においても、同じことが言えます。芸能の継承を考えると、しまくとぅばの保存というのはとても重要であると思います。

――芸能がある限りしまくとぅばが消滅することはないとも言えますね。

 そうですね。しまくとぅばには独特のニュアンスがあるので、標準語で沖縄の芝居を演じたら、面白くなくなります。琉歌でもそうですが、しまくとぅばが標準語に置き換わるということはないでしょう。

――旧玉城村から近い八重瀬町志多伯の村アシビ(祭祀芸能)で演じられる組踊や沖縄芝居、現代劇の台詞は、いずれも沖縄方言です。これらの村芝居には子供も多く参加し、子供たちへのしまくとぅばの指導に力が入れられていると聞きます。村芝居はしまくとぅばの継承に役立つと言えますか。

 その取り組みは素晴らしいと思います。一定の効果はあるでしょう。しかし、それで、日常会話がスムーズにできるくらい上達するということはないと思います。その水準を目指すのであれば、言葉を覚える初期の段階から、家庭でしまくとぅばの会話に触れることが必要になるでしょう。赤子が自然に言葉を覚えていく段階から、一定の年数、しまくとぅばに触れることが必要な気がします。それに、言葉を覚えるには、聞くだけでなく、自分自身の言いたいことを話すという訓練もいります。様々な場面でしまくとぅばで話すことにより、会話力を高めていけるのです。そう考えると、やはり、土地の言葉を高い水準で習得するには、家庭内を中心として様々な状況で継続的に会話をするということが、不可欠と思います。

――やはり、言葉は継続的に使わねば上達しないということですね。

 いったん上達しても、頻繁に使わなければ話せなくなりますよ。私のように自然にしまくとぅばを覚えた者でも、普段のほとんどの会話は標準語ですから、標準語と比べたら、しまくとぅばは話しにくくなっています。標準語は難なく自然に言葉が出てきますが、しまくとぅばを話す時には、ほんの一瞬ですが言葉を思い出そうとする時間が必要になっています。

――2016年に一般財団法人南部振興会が「「島尻しまくとぅば大会(仮称)」の共催事業実施依頼」という題の文を作成していますが、この中に1つ違和感を覚えた箇所があります。「言葉にはその民族の精神を支える不思議な力が宿っている」という箇所です。沖縄では、シマが異なれば言葉も変わると言われます。各集落で異なる言葉が話され、その違いがシマのオリジナリティの1つとなっています。「シマの精神を支える不思議な力が宿っている」というのであれば理解できるのですが、「民族の精神を支える不思議な力が宿っている」というのは、少し違うのではないかと思います

 そう言われれば、そうですね。沖縄本島の人は、宮古島や八重山のしまくとぅばはまったく理解できないです。沖縄本島でも、北部と南部でかなり異なります。芝居で使う言葉は首里那覇の言葉が多いです。宮古・八重山の人は、首里那覇の芝居を見ても、意味がわからないことが多いと思います。

――先島の言葉も本島の言葉も琉球方言ですが、琉球方言は日本語の一方言です。それを考えると、ここでいう「民族」は、「日本民族」という意味にとらえることができます。であれば、「琉球方言という日本語の一方言には、日本民族の精神を支える不思議な力が宿っている」と解釈せざるをえなくなりますが、これは、しまくとぅばの保存を掲げるための説明としてはどうかと思います。やはり、しまくとぅばの「しま」は、字・区単位の小さな地域のシマを意味するものと考えて、「民族」という言葉を持ち出さないほうがよいと思います。

 たしかにそうかもしれません。多くの沖縄の人は、「あなたの言葉は何か」と問われたら、まず、「自分のシマの言葉」と答えると思います。実際、それを証明するような動きが、近年、玉城地域の奥武島でありました。自分たちのシマの言葉を残そうという動きです。奥武島のみなさんは、大学の先生(琉球大学の中本謙准教授)の協力を得て、『奥武方言』という本を発刊しました。

――湧上さんは、ミントゥンの会を通じて、様々な形で地域に貢献なさってきましたが、どのような思いで行なってきたのでしょうか。たとえば、自分が持っているものを伝えることにより、自分の足跡を残したいというような考えはありますか。

 自分の足跡を残したいなどという考えはないです。学校からミントゥンの会を通じて依頼があるから、対応しているだけですよ。地元の学校の子供たちと接するというのが楽しいので、要請に応えています。それだけです。

――学校で、子供に何かを伝える際に、湧上さんご自身が幼い時に親や祖父母から教わったことを思い出すことはありませんか。

ありますね。その場、その場で。親や祖父母から学んだことと関係する話が出てきた時には、過去に自分が聞いたことを思い出しますね。

――ミントゥンの会の地域学習には、郷土の歴史・文化・自然を学ぶことにより郷土愛を育むという目的もあるように思います。ここで、郷土愛に関する質問をさせていただきます。2012年の県民意識調査では、「沖縄人であることを誇りに思う」という回答が85%もありましたが、私は、聞き取り調査を通じて、郷土愛の希薄な沖縄人が増えていっていると考えています。郷土愛の希薄化が原因で、一度郷土から出た人が戻ってこなくなっている。そういうことが起きていると思っています。具体的には、こういうことが起きていると考えています。現代沖縄人は、幼い頃から、習い事や勉強などで忙しい日々を過ごし、愛郷心を育む余裕のないまま、進学や就職で本土へ出る。そして、そこでまた多忙な日々を過ごし、少しずつ故郷のことを忘れていく。やがて、本土で結婚し、家も本土で建てて、定年退職を迎える。その頃には、すっかり本土の生活が肌に合うようになり、広い人脈がしっかり出来上がっている。故郷に戻るということは夢にも思わなくなってしまっている……。このような傾向があるように思うのですが、どうでしょうか。

 そのような傾向があると断定できませんが、そのような例はたくさんあります。例えば、本土へ出てそこで家を購入したという例があります。那覇に出て、那覇に家を建てたという方も多いです。

――少し話はずれます。私はかつて宮古島で調査をしたことがあるのですが、その時、こういう話を聞きました。東京から宮古島へ戻りたいと本人は思っていても配偶者がそれを許さないという話です。配偶者と意見が合わないために故郷に戻れないというケースを聞いたことがありますか。

 沖縄本島でも同じような話はありますよ。男性の話ですが、その人は、東京へ出て医師となり東京で結婚し、しばらく東京で働いていましたが、地元に戻って親の医院を継ぐことになりました。しかし、奥さんは「こんな田舎にはいられない」と言って東京に帰ってしまいました。結局は、その医師も東京へ戻ることになりました。そのほかにも同じような話があります。妻子を連れて東京から沖縄に戻った後、東京出身の妻が「こんな田舎に住めるか」と言って、子を連れて東京へ戻った、という例もあります。

――「郷土愛がないからUターンしない」と単純に考えてはいけませんね。

 理由は人によって様々であると思っておいたほうがよいでしょうね。また、次男三男にとっては、郷土は必ず戻らねばならない場所ではないかもしれません。沖縄では、まだ、長男が家を継ぐという考えが根強く残っていますから。次男三男は、どうせ分家するのであれば、家は別に郷土に建てなくてもよいと考えるのでしょう。私の次男家族は、毎年正月を沖縄で過ごしますが、分家して神奈川県に家を建てています。

――郷土に戻らない理由は、いろいろとあるのですね。そうなると、郷土愛という言葉も慎重に使わねばなりません。何に対して郷土愛を持つかということも考える必要がありますね。

そうだと思います。その対象は人によって異なります。様々なものがあるでしょう。しかし、一般的には、原風景の形成に寄与するもの、つまり、歴史や文化、豊かな自然が、郷土愛を育むと考えられています。では、実際のところ、それは正しいのでしょうか。私は、それらが必ずしも郷土愛を生む効果を持つわけではないと考えています。

――そのように考えるようになった出来事があるのでしょうか。

あります。私が、若い人たちに郷土愛を持ってもらおうと思って、歴史や文化、自然に関することをいろいろと話をしても、かれらはなかなか興味を持ってくれません。文化財に関心のない若い人は多いです。自然保護よりも開発に重きを置く若い人もたくさんいます。商業施設がたくさんあるほうが便利でよいではないかと考えているのです。今の70歳代以上の人と、それ以下の世代では、その点について感覚が異なるような気がします。

――那覇などの中心地へ出た人たちは、年中行事の際、船越に戻って来ますか。

今はあまり戻ってきませんね。20年前まではよく帰ってきたような印象を持っています。

――戻って来ていた人は、郷友会のメンバーですか?

郷友会の会員が多いですが、かれらだけではありません。親戚を訪問するという目的とか、故郷の同級生と会うという目的とかで戻って来る非会員もいました。基本的に、船越で生まれ育った人は、行事の際に懐かしんで帰って来ます。しかしながら、今や、かれらも高齢化してしまい、簡単に移動できなくなってきています。

――今の話だと、船越での生活体験のない人は船越には来ないということになりますね。

 そうです。船越で生まれ育った人の子供・孫の世代は、船越に行こうとは思いません。かれらは船越での生活体験を持っていないので、船越に強い愛着を持つことは少ないと思います。かれらにとっての故郷は、那覇などかれらの生まれ育った場所なのです。

――そうとはいえ、清明祭や盆では船越に来るのではないでしょうか。

最近のことはよくわかりませんが、20年前と比べると、その数が減ったということは断言できます。このことは、船越だけでなく、沖縄のほかの地域でも起きていることだと思います。また、船越に来たとしても、車で来て墓参りだけしてすぐに帰る人もいます。

――郷友会は今でも活動していますか。

わかりません。今、会が存在するのかどうかもわからないです。かつては、那覇に住んでいる人たちが中心となって船越の郷友会を結成していました。年中行事のスケジュールをつくり、いろんな活動をしていたようです。

――郷土との心の距離がだんだん遠くなっていますね。

 そうですね。那覇などへ出た人の中では、門中から離れて自分達で墓を建てた人もいますよ。個人化が進んでいるのかもしれません。

――かつて那覇などへ出た人はその後も郷土との紐帯を保ちました。郷友会の活動もさかんにやりました。しかし、今は、かつてのようにはなっておらず、郷友会も衰退していっています。郷土との紐帯は薄れていく一方です。かつてと今とではなぜこれだけ違いがあるのでしょうか。原因は何なのでしょうか。個人化が進む原因は何なのでしょうか。それについて考えるには、私がかつて宮古島で聞いた言葉が参考になるかもしれません。「ユイマール(農業や家つくりなど)で苦労を共にした世代と、そうでない世代では、愛郷心の強さが異なる。助け合って困難を乗り越えてきた世代は、やはり故郷に強い感情を抱く。その世代の人の記憶には、多くの親しいシマの人がいる」と聞きました。湧上さんはこの言葉をどのように感じますか。

 たしかに、助け合った時代の人は強い愛郷心を持っていると言えますね。ところが、その人がどれだけ強い愛郷心を抱いていたとしても、その人の子供・孫の世代にとっては、生まれ育った場所が那覇の場合、那覇がかれらの故郷になるので、ルーツとなるシマへの愛郷心は弱まるのです。

――これまで主にUターンの話をしてきましたが、東京や大阪などの本土の都会から船越に移住してきたという人はいませんか。

 います。ミントゥンの会の会員の佐藤洋一さんは千葉県から船越に移住してきています。船越区の会合などにもよく参加しています。

5.さいごに

 ここでは、「ミントゥンの会とは?」「湧上さんの地域への貢献」「湧上さんへのインタビュウ」の各章を振り返って要点をまとめ、その後、筆者の感想を述べます。

ミントゥンの会とは?:
・学校との円滑なコミュニケーションができている。学校との信頼関係が強くなるにつれて、組織は発展していった。
・沖縄県対米請求権事業協会による資金面での支援が、組織の規模拡大に寄与している。助成金の申請を行なった石嶺氏の貢献度は大きい。
・全国学力・学習状況調査の結果、ミントゥンの会の学習支援に効果があることが証明された。
・総合学習や地域学習など、社会教育的内容の教育を学校の教員だけでは行うことは難しい。よって、ミントゥンの会の活動は、社会教育的学校教育に大きく貢献していると言える。
・ボランティアでこれだけの大きい活動(2016年では合計延べ人数2,279人)ができるのは刮目すべきことである。
・文部科学大臣表彰を受賞。これは誇るべき成果である。
・新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)が蔓延している間でも、ミントゥンの会は活動を止めず、できる限りのことはやっている。
・会員数が減少傾向にある点が懸念される。
・新しい学習指導要領でも、地域の協力は求められている。ますます、ミントゥンの会の活躍は期待されている。

湧上さんの地域への貢献:
・湧上さんは、ミントゥンの会に入会する前から、地元の小学校からの要請に応えて、子供に様々な指導を行っていた。
・活動が多岐にわたっている。湧上さんは、クラブ活動(三線クラブ、ウチナーグチクラブ)・平和学習・地域の地層案内・昔の子どもの遊びの話・沖縄の祭りの話・民具の見学案内・地域の史跡案内等への支援を行ってきた。
・ウチナーグチクラブでの指導では、大きい成果を出した(金城利和君は、第7回南城市しまくとぅばお話大会で見事最優秀賞に選ばれた)。

湧上さんへのインタビュウ:
・公共で使われている言葉が標準語である限り、家庭でも、家庭以外でも、使われる言葉は標準語である。よって、しまくとぅばを話せる人が減少していくのは自明である。
・芸能など、しまくとぅばが絶対に必要な分野では、しまくとぅばが使い続けられると考えられる。
・船越出身者の郷土愛が希薄になっている可能性がある。その根拠は、①郷友会が形骸化しているということ、②清明祭や盆で里帰りする人の数も減少傾向にあるということ。③Uターンしない人が多く見られるということ。
・何に対して郷土愛を感じるのかは人それぞれである。
・Uターンをしたくてもできない人もいる。

 筆者は、今回、ミントゥンの会の活動について初めて学びました。同会が教科学習の支援にとどまらず、総合学習や地域学習、クラブ活動などにおいも様々な支援を行ってきたことに筆者は驚きました。また、湧上さんが1人で多岐にわたる学習支援を行ってきたことにも感嘆しました。しかし、インタビュウの間、湧上さんは、自慢げに語ることはありませんでした。「頼まれたからやっただけのことです」と淡々と答えるだけでした。
 湧上さん含め、ミントゥンの会の会員の方々のボランティア精神には頭が下がりますが、そのボランティア精神はどこから来ているのでしょうか。筆者は、調査を始めた頃、それは郷土愛から来ていると考えていました。しかし、湧上さんと対話を重ねたり、資料を読み込んだりするにしたがい、それは一面的な見方であることを知りました。たしかに、郷土愛は大きな力の源泉になっていることは間違いないと思います。しかし、それだけでは、本土から移住してきた人の活動の動機を説明することができません。
 筆者は、それについて考えている時、ふと、指揮者の小澤征爾氏の言葉を思い出しました。里信邦子氏が2008年7月2日付で公開している小澤氏へのインタビュウ記事に、その言葉が記されています。「ボストン交響楽団の音楽監督を辞められる少し前から、音楽教育に力を入れられていますが、なぜでしょうか?」という問いに対して、小澤氏は次のように答えています。

 実はずいぶん前から、ボストンに入って5~6年たってから、学生の指導を始めましたから三十何年もやっていたんです。ただ目立たなかっただけです。この教えたくなるというのは、もう本能ですよね。なんかそうみたい。これちょっと麻薬的なところがあって、教え始めるともうやめられなくなるんですよね。面白いですよ。でも、みんなそう言いますよ。教え始めた人は。こう、なんて言うの。学生さんにいいのがいると、若いのにいい資質の人がいるとますます教えたくなる。本業よりそっちのほうが面白くなったりしてね。で、女房にしかられたりしています。
(swissinfo 閲覧日2022年10月7日)

 小澤氏によると、教育をしたくなるのは「本能」とのことです。自分が持つ知識や技術を自分のものにしておくだけでなく、ほかのだれかと共有したいという思いは、誰もが持つ本能なのかもしれません。筆者は、この言葉を聞いて、やはり人間は社会的な存在であると思いました。
 ボランティア団体であるミントゥンの会に所属する皆さんは、少なくとも、この「本能」と郷土愛を持って活動に参加しているのではないでしょうか。「本能」や郷土愛以外のまた別の何かが、ボランティア精神を支えているのかもしれませんが、それについては今後の調査で明らかにしていきたいと思っています。

文責:堀川輝之