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湧上洋さんのオーラルヒストリー (2)「戦争体験記」

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湧上洋さんのオーラルヒストリー (2)「戦争体験記」
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1.はじめに

 オーラルヒストリー(湧上洋さん編)の第2回目のテーマは、沖縄戦です。本稿は3部構成になっています。まず、湧上さんが執筆した「戦争体験記」を公開します。次に、筆者による湧上さんへのインタビュウを掲載します。そして、最後に、「戦争体験記」への筆者の感想を述べます。
 湧上洋さんは、過去に『玉城村史 第六巻 戦時記録編』と『玉城村 船越誌』に戦争体験に関する手記を寄稿しています。また、湧上さんはビデオ・インタビュウでも戦争体験を語っています。今回公開する「戦争体験記」では、それらで伝えられていない内容が多く含まれています。
 なお、筆者によるインタビュウでは、沖縄戦に関わる戦後の事柄についてもいくつか質問をしています。「すべての歴史は現代史」というクローチェの言葉がありますが、筆者は、「現代人にとって沖縄戦とは何か」という問いを念頭に置きながら湧上さんと対話しました。湧上さんは、当時見聞きしたことや思ったことをありのままに語るだけでなく、時々「沖縄戦を体験した現代人」としての視点も交えて話しました。
 また、湧上さんは、初稿の校正も行って下さりました。それにより、多くの箇所を修正し本稿の確度を高めることができました。この場をかりて感謝申し上げます。

2.「戦争体験記」湧上洋(沖縄戦当時10歳)

 太平洋戦争は昭和16年12月8日に始まった。当時、私は玉城国民学校の1年生であったが、多くの人がハワイの真珠湾攻撃やマレー半島上陸等の日本軍の勝利に酔いしれていたことを記憶している。また、日本軍の勝利のポスターが汽車駅や公共施設等の壁に貼られていたことや、日本軍の快進撃する漫画の本を読んだことを鮮明に記憶している。しかし、当初の日本軍の快進撃は昭和18年になると一変し、日本軍のガダルカナル島撤退、アッツ島玉砕と続き、次第に日本軍の敗戦の色が濃くなっていった。
 学校では「忠君愛国」と「神国思想」を前面に打ち出した皇民化教育が行われ、「教育勅語」を意味も分からないままに一字一句丸暗記させられたものである。そして、戦場で死ぬときは、必ず「天皇陛下万歳」を叫んで死ぬんだと教えられ、軍国主義教育が徹底して行われていた。当時は天皇陛下のために死ぬことは軍人の本望であると言われていた。また、当時は、敵国である米英の兵隊と戦って力尽きて戦死すれば、靖国の神としてまつられるので、それは日本人として最高の名誉であると誰もが考えていた時代であった。
 ガダルカナル島の凄絶な戦闘において、与那国島出身の大舛松市陸軍中尉(没後大尉)が先頭に立って奮闘して壮烈な戦死を遂げたことが新聞に大きく報道されると、学校の授業のなかでも取り上げられ、「大舛は軍神である」とか、「大舛に続け」との大舛精神の継承教育が行われ、戦意高揚に利用された。今日では大変恐ろしいことであるが、当時は先生も生徒もそうしなければならない教育環境に置かれていたので、私達生徒もその教えを従順に受け入れていたものである。
 昭和18年になると、集団登校制が実施された。校門近くになると、上級生を先頭に2列縦隊に整列し、歩調を取って校門に入ったものである。そして、天皇・皇后両陛下の「御真影(顔写真)」と「教育勅語」が納められていた奉安殿の前を通る時は必ず最敬礼をすることになっていて、私達生徒は登下校の際、どんなに急いでいても立ち止まって最敬礼をした。また、始業時間の合図の鐘が鳴ると、鳴り終わるまで何処にいても直立不動の姿勢をさせられたものである。
 教室に入ると授業の始まる前に、天照大御神と書かれた神棚に向かって柏手を打ち、その後、明治天皇の御製のうた「あさみどり 澄みわたりたる 大空の 広きをおのが 心ともなが」を歌ったものである。
 運動場での全校生徒の朝礼では、最初に東(皇居の方向)に向かって最敬礼をし、必ず宮城遥拝が行われた。また、音楽の時間には、「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」の歌を絶えず歌わされたものである。
 学校(初等科1年生~6年生・高等科1年生~2年生の8年制)では全校生徒による校内清掃作業が毎月1回あった。作業班は初等科1年生から高等科2年生までの約20名編成で組織され、高等科2年生の班長の指揮の下で分担区域の清掃を行なった。私達は、作業開始と作業終了後には当番の先生の見守る中で、高等科2年生から順に一列横隊に整列させられ、「番号!」という班長の号令の下、「イチ」「ニッ」「サン」と一人一人が順番に声を出し、最後の人が番号を言い終わると、班長が「第〇〇班総員〇〇名、現在〇〇名、異常ありません」と言った。そのような軍隊式の点呼が行われたものである。
 昭和19年になると、学校での竹槍訓練、分裂行進訓練、避難訓練、防火訓練等が盛んに行われた。
 竹槍訓練は、前面に敵を想定して英国のチャーチル・米国のルーズベルト・支那(現中国)の蒋介石の等身大の藁人形が運動場に立てられて行われた。生徒がその藁人形に向かって竹槍を構えて立ち、先生の「前へ前へ 後ろへ後ろへ」の掛け声で前進後退をし、「突けー」の号令で藁人形の胸に竹槍を突く訓練であった。当時は、「撃ちてし止まん」とか「一億火玉となって体当たり」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「鬼畜米英皆殺し」等の士気を鼓舞するような、あるいは敵愾心をあおるような標語で国民の戦意高揚に務めていた時代であったので、私達生徒は真剣になって訓練をしたものである。
 分列行進訓練は3年生以上の生徒で行われた。竹槍をかついだ生徒がクラス毎に2列縦隊に整列(分列)し、上級生から順に運動場の200メートルコースを一周した。分列隊の先頭が校長先生の立つ式台の十数メートル先を通る時、先頭の級長の「(かしら)(みぎ)」の号令の下に、首をパッと右に向けて行進した。時には、字毎に分列をつくり、分団長(上級生)の指揮の下に分列行進をやることもあった。
 学校では月2回の避難訓練も行われた。訓練の空襲警報の合図のサイレンが鳴ると、前の席に座っている生徒から順に1列になり、担任の先生が先頭に立って誘導し、手早く静かに行動してクラス毎に決められた近くの岩陰に避難した。移動中は、左手の掌を開いて腕を前に伸ばし、右手の肘を直角に曲げ、その掌を左手の肘にあて、前を歩く人に追突してつまずかないようにしていた。
 防火訓練は3年生以上が参加し、バケツリレー方式で行われた。それは、近くの水源地から校舎まで1列に並び、水の入ったバケツが自分の手に移ると、その反動ですぐそのバケツを次の人に渡していくという方法である。バケツリレーには上級生があたり、空になったバケツを水源地まで運ぶのが私達3、4年生の役割であった。
 以上のように当時の教育は、全てが天皇を絶対的なものとして忠誠を尽くし、戦争意欲を昂揚させるための教育で、現在の平和教育とは異なり、人権を無視した極めて危険で間違った教育であった。
 一方、学校の外では、5年生以上の生徒が出征将兵家庭の勤労奉仕作業に駆り出されていた。休みの日になると、5年生以上の生徒が出征将兵家庭の田畑の耕作や芋掘り作業を集団でする姿を見かけたものである。
 当時は、学校の先生や村役場の職員の殆どが国民服(国防色と呼ばれた軍服の色と同じカーキー色の上衣とズボン)となり、一般の女子はモンペ服(和服の袴の形状をした作業着の一種)を着て、戦時色一色であった。また、各字では防空演習や消火訓練等が盛んに行われるようになり、上意下達の機構として10世帯内外で組織された「隣組」がつくられていた。隣組活動の中心になっていたのは婦人会の人達で、回覧板を首にぶら下げて活動していた姿は今でも記憶している。岡本一平の詩、「とんとんとんからりと隣組 格子戸あければ顔なじみ 回してちょうだい回覧板 知らせられたり知らせたり」の「隣組」の歌が、童話的で軽快なリズムと庶民的な作風から大人や子供にも親しまれ、流行っていたのもその当時である。この歌は、戦時体制下において国民を総動員する目的で作られた全国的な末端統制組織である「隣組」の活動を推進するうえで、大いに役立っていたように思う。
 各家庭では、防空頭巾や竹槍が作られ、防火用水、防火用砂等も置かれていた。また、隣組による共同防空壕構築も盛んに行われていた。富名腰(現船越)区民の多くの人達は集落裏高台の上山(イーヤマ)に防空壕を造っていたが、私達の隣組では集落前方の山の8合目高台(船越から前川へ上がる道<グナバル(ビラ)>の左側約200メートルに位置する山。現街クリーン建物左手高台)に共同の防空壕を造った。しかし、隣組仲間の人達は途中から多くの区民の避難していた上山(イーヤマ)に移ってしまい、最後までその壕を使用したのは私達家族だけであった。
 夜は灯火管制がしかれ、ランプは黒い布を上からかぶせてカバーして外に灯りが漏れないようにしていた。
 米・メリケン粉・醤油・食用油等の食料品の生活必需品は配給制であったために不自由な生活を強いられていた。また、大人の吸うタバコの販売数量も制限され、切符制であったので、店では朝早くからタバコを買う人の並ぶ姿が見られたものである。それでも、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもとに、私達は勝ち戦を信じて頑張っていたものである。
 昭和19年4月、私は4年生になっていたが、「戦争が沖縄に迫って来ている」と、大人が話し合っているのを聞いていてもそれほど実感はなかった。しかし、満州に配備されていた武部隊が沖縄に転進し、その武部隊の飯田大隊が玉城村に駐屯するようになってからは、≪間もなく沖縄で戦争が始まるのでは≫、と不安を抱くようになっていった。
 武部隊は精鋭部隊と言われていたが、その飯田大隊が、夏休みが始まって間もない頃(7月中旬)、朝早く那覇を出発して玉城村に行軍してきて、玉城国民学校を本部にして玉城村に駐屯したのである。
 飯田大隊の行軍は、各中隊とも馬に乗った中隊長を先頭に、重装備をして銃を担いだ兵隊が整列して続いた。朝の9時頃、富名腰(現船越)区前の郡道(現県道48号線)を通って玉城国民学校へ向っていたが、5~6中隊ほどからなる飯田大隊の行軍は、先頭の将兵が糸数入り口の山川堂(ヤマガードー)に達しても後尾の将兵は新橋(ミーバシ)(船越小学校の西側の雄樋川にかかる橋)付近まで延々と続いていた。勇ましく行軍する姿は実に頼もしく、その見事な光景は今でも私の脳裏に焼き付いているのである。
 夏休みも終わり2学期の授業が始まると、学校の校舎が飯田大隊の兵舎として使用されたために、学校での授業が出来なくなった。そのために、授業はクラス毎に分散し、地域のムラヤー(現公民館)や民家の建物を仮の校舎にして行われた。私のクラスの授業は字当山の民家(神谷家)を利用して開始された。しかし、当山区での授業は長くは続かなかった。
 2学期が始まって暫くすると、本土への学童疎開が開始され、玉城国民学校からも多くの生徒が先生に引率されて九州(熊本県・大分県・宮崎県)へ疎開した。そのために、生徒と先生の数が減り、クラス全体の1ヶ所での授業が不可能になってしまった。クラスは地域ごとに再編され、午前と午後に分けての複式授業が開始された。私達富名腰の同級生は字糸数のムラヤーで午前の授業を受けたものである。

字当山の民家(神谷家)。学校の校舎が飯田大隊の兵舎として使用されたた後、湧上さんはこの民家で授業を受けた。

 2学期の授業が開始されて暫くすると、4年生以上の生徒は授業の合間に武部隊の陣地壕構築の勤労奉仕作業に駆り出された。最初の陣地壕構築は、糸数城址の東側一帯の高台での戦車壕(戦車の進撃を妨害するための掘穴)掘りであった。上級生は兵隊と一緒になって穴掘り作業や石積み作業をし、私達下級生は石積みに必要な石を糸数城周辺から拾い集め、その石をザルやモッコに入れて運ぶ作業をさせられたものである。
 飯田大隊は12月初旬頃まで玉城村に駐屯していたが、その中の牛山中隊は富名腰区にいた。牛山中隊は屋号(ナケ)()()(グヮー)(メー)()(ヤー)の2階の部屋を本部にし、周辺の民家を借りて寝泊りしていた。そして、集落東側約800メートル先の山川堂(ヤマガードー)から集落南東側約600メートル先の(メー)()(モー)一帯の山で陣地壕を掘っていた。陣地壕掘りには富名腰区民も動員され、時には私達生徒も参加する事があった。
 壕掘り作業は重労働であったが、紳士的な兵隊が多かったことから、兵隊と区民との交流は大変友好的であった。訪ねてくる兵隊に対し、殆んどの区民が黒糖などを出してもてなしていた。若い兵隊が多かったせいか、私達子供に軍歌を教えるなどして一緒に遊ぶこともあった。私の家にも多くの兵隊が訪ねて来ていたが、その中の1人、岩間俊憲軍曹とは、一緒に撮った想い出の写真が残っており、それが縁で年賀状のやり取りが長く続いていた。時々、仲間の間で戦争の思い出話が出るが、今でも長野曹長・野口軍曹・岩間軍曹などと、当時の兵隊の名前がすらすらと出るほどであるから、いかに当時の子供達が兵隊達を慕い、憧れていたかが分かる。
 武部隊が玉城村に駐屯して暫くすると、時折敵のB29機やB24機が地上偵察のために飛来するようになった。B29機とB24機は、はるか上空をピカピカと光を放ちながら飛び、時には細長い飛行雲を出すこともあった。そういう時には、高射砲陣地から敵機に向けて砲弾が発射されたが、飛行機がはるか上空を飛んでいるために、弾は飛行機まで届かず、飛行機のはるか下の方で丸っこい黒煙を出して炸裂し、その音が聞こえるだけであった。私は、敵機が我がもの顔で飛び回っているのを見て、子ども心にもいいようの無い憤りと、がっかりした気持ちを抱いたものである。B29機は地上を偵察飛行するだけであって、地上を攻撃することはなかったと記憶している。
 日本軍でも敵機の襲来に備えての軍事演習が行われていた。特に、小禄(那覇市)や中頭方面の飛行場周辺では、演習が頻繁に行われていたようで、富名腰までも演習時の弾の炸裂する音が絶えず聞こえていた。
 忘れもしない10月10日、それは米軍機が沖縄を空襲した最初の日である。その日は、朝早くからドドーン、ドドーンと砲弾の炸裂する音がはるか西の方から聞こえていた。何時もの友軍(日本軍)の演習が始まったとばかり簡単に考えて、私の家では誰も気にしないで朝食を摂っていた。暫くすると、東の方から複数の飛行機のエンジンの音がし、瞬く間に空全体から聞こえるようになった。≪今日は特別に大きい演習が始まるのかな≫、と思って家の外に出て空を見上げると無数の飛行機がアブの群れのように空一杯に広がって西の方向に向かって飛んでいた。しかも東の方からは次々飛行機が現れ、実に見事な大編隊をなして悠々と飛んでいるところであった。道を通る兵隊に訊ねると、「今日は大演習の日だよ」、と言って誇らしげに語っていた。私は大編隊で飛んでいく飛行機を見て、実に頼もしく感じられ、暫くの間見惚れていた。そのうちに那覇方面からドドーン、ドドーンという砲弾の炸裂する音が聞こえるようになった。よく見ると、那覇の上空には黒煙がもくもくと立ちのぼっている状況が遠望された。初めて敵の空襲であることが分かり、私達家族は急いで壕に避難した。
 私達の壕は山の高い所にあったので、敵の飛行機が那覇の街に爆弾を投下する様子を遠望する事が出来た。那覇の街は何回となく空襲され、爆弾が投下されるたびに建物の炎上するのが見られ、爆弾の炸裂音が富名腰までも聞こえた。空襲は午後4時頃に終わったが、那覇の街では火災が続き、上空は夜通し赤く染まっていた。那覇では多数の死傷者と多くの家が失われたというが、私達の周辺には空襲による被害はなかった。十・十空襲以来B29機の偵察飛行が頻繁に行われるようになったが、暫くのあいだ空襲はなかった。
 12月の初旬頃、武部隊の台湾への移動に伴い、代わりに石部隊の飯塚大隊が玉城村にやって来た。同大隊は翌20年1月末まで駐屯したが、その中の橋本中隊(?)が富名腰区の現場(げんば)製糖場(通称ゲンバ。現船越小学校)に駐屯し、糸数区の上原(イーバル)で陣地壕を構築していた。石部隊が玉城村に駐屯してから、軍の住民に接する態度が次第に高圧的になった。陣地壕構築作業への住民の動員が強化され、生徒の陣地壕構築作業も増えていき、授業を受ける時間が次第に少なくなっていったと記憶している。
 ゲンバにいる橋本中隊には、富名腰区から毎日5~6名の女性が炊事仕事の手伝いに動員され、水運びをする姿が見受けられたものである。また、その頃から軍への芋の供出が始まった。私も供出用の芋掘りの手伝いをしたことや祖父と一緒にゲンバまで芋を運んだ記憶が残っている。
 昭和20年2月1日、部隊の配置替えが行われ、石部隊の飯塚大隊に代わって球部隊の美田連隊が玉城村に駐屯した。富名腰区には、分教場に美田連隊西村大隊の四一式山砲4つを有する中隊(歩兵砲中隊?)が駐屯した。分教場近くの私の家の庭には、同中隊の炊事場が設置され、炊事当番兵の隈元兵長と山口一等兵の2人が私の家の一番座に寝泊りしていた。2人の炊事当番兵はとても親切でやさしい方であったので、私達家族は2人と家族の一員のように接していた。泣き虫であった妹の政子が泣き出すと、家族の私達はそのままほうっておいたが、それに対し、2人は乾パンや金平糖をくれたり、煮干しの魚を焼いて与えたりしてよくなだめていた。

湧上さん宅の井戸。炊事班が利用していた。

 生徒による陣地壕構築作業はますます増加していき、字毎に作業班が組織されて行われた。私達富名腰の作業班は集落前方の(メー)()(モー)の山での陣地壕掘り作業と前川区大道(ウフドー)の南東側の山での戦車壕掘りであった。両方ともクチャ(泥灰岩)で出来た山であったので、壕掘りにはツルハシとスコップが使われた。ここでも、上級生は兵隊と一緒になっての壕掘り作業をやり、私達下級生は掘り取ったクチャの土塊をザルに入れて外に運び出す作業を行った。壕掘りの途中で軟弱な地層に差し掛かると土塊が落下する事もしばしばあったが、そういう時には、生徒の作業は中止させられ、兵隊だけで行っていた。掘られた壕はそのままでは落盤の危険があるので、松の木で造った支柱と枠組みで壕の天井を支えるなどをして補強していた。松の木は皮を剥いでから使用していたが、皮をむく作業は下級生の仕事であったので、私達下級生は常に鎌を持参して陣地構築作業に参加していた。
 3月になると、殆どの男の先生が防衛隊に召集された。その為に授業は残された年輩の男の先生と女の先生方だけで行われるようになり、極めて不十分なものになっていった。
 玉城国民学校の先生であった私の父も防衛隊に召集され、防衛隊の責任者として美田連隊の西村大隊に配属された。部隊での父の任務は、西村大隊の連絡会議に出席する事と大道(ウフドー)周辺の山で壕掘りをする防衛隊員を指揮する事であると、父は祖父に話していた。私は母の言いつけで弁当の差し入れに、3回ほど大道(ウフドー)の父の宿舎を訪ねた事があるが、私が行くたびに父は、陣地壕掘り作業から部下より早く宿舎に戻って、机の上で書類作成などをしていた。
 十・十空襲以後暫くなかった敵の空襲が昭和20年1月の初め頃から始まった。空襲警報が発令されるようになると、最初の頃は発令されるたびに私達は4百メートルほど離れた壕と家を行き来する生活をしていた。しかし、空襲は何時も那覇や小禄の飛行場周辺であったので、途中から屋敷内の簡易な壕に避難するようにしていた。
 3月になると、空襲警報が絶え間なく発令されるようになり、授業の中断される日が増えていった。また、村民の金武村(現宜野座村)漢那への疎開が開始され、それに伴って授業を受ける生徒の数が次第に少なくなっていった。そのために、授業は3月中旬ごろから中止になったと記憶している。
 当時の私の家族は、祖父母、父母、8歳の弟、5歳と2歳の妹、4歳の叔父および私の9人であった。父は防衛隊に召集されて玉城村に駐屯していた美田連隊の西村大隊に防衛隊隊長(責任者)として配属され、前川区大道(ウフドー)の民家にいたので、家にいる家族は8人であった。
 昭和20年3月24日、その日は彼岸(ひんが)()(彼岸折目)で、母は仏壇に供える餅作りの準備をしていた。午前8時過ぎ、突如米軍艦からの艦砲射撃が開始され、集落前方のメーヌモーの裏側の山一帯(前川集落東側の原野)からドローン・ドローンと弾の炸裂する音が聞こえてきた。私達家族は屋敷内の簡素な壕に避難したが、何時もの空襲と状況が違うことに不安を抱いて壕の中で成り行きを見守っていた。
 しばらくして、メーヌモーの陣地壕(私たちの家に隣接する分教場に駐屯する西村大隊の歩兵砲中隊の壕)から炊事当番兵の山口一等兵(中隊の炊事場は私達の家の庭にあった)が走ってやって来て、「奥武・港川の沖から米軍の艦砲射撃が開始されたので、頑丈な壕に避難するように」、と祖父に告げ、部隊の陣地壕に戻っていった。私達家族は急いで頑丈な壕(街クリーンの建物左上の高台)に避難した。

捕虜になるまで過ごした壕のあるメーヌモー。右に見える街クリーンの建屋の左上あたりに壕は位置している。
前川へ向う道(写真右側)。街クリーン建屋の前の土地は、戦時中は畑であった。湧上さんの祖父は、ここで大豆や芋をつくっていた。

 米軍の艦砲射撃は正午頃からますます激しくなり、弾の落下する範囲も広がっていった。壕の裏側の原野からも艦砲弾の炸裂する音が頻りにし、私達の壕の位置する山の頂上付近にも艦砲弾が落下することもあり、厚さ15メートル程の硬いクチャ(泥灰岩)の層で覆われている私達の壕も時々軽く振動することがあった。艦砲射撃は午後5時頃に止んだが、不安な気持ちを抱き続けて過ごしたせいか、その日は大変長く感じられた。
 午後6時頃、祖父と一緒に壕裏側の山の様子を見に行ったところ、地面の至る所に大きな穴が出来、多くの木が折れたり引き裂かれたりしていた。初めて見る艦砲弾の威力に驚くばかりであった。
 家では、家族を連れて先に帰っていた母が夕食を作って待っていた。餅を作るために水に漬けてあった糯米を蒸かした飯であった。7時ごろに夕食をとったが、夕食が終わりかけた頃父が家を訪ねて来た。
 米軍の玉城村への上陸必至と考えた父は家族の事を心配し、村民の疎開先である、やんばるの漢那へ避難するように勧めた。父は、「軍のトラックが胡屋(現沖縄市)から軍事物資を運ぶために8時半に分教場の兵舎を出発することになっているから、胡屋まで乗せてもらいなさい。係りの将校とは了解済みであるから」、といって祖父を運搬担当の兵隊と運転手に引き合わせた。2人の兵隊は、係りの将校からすでに連絡があったらしく、父からの頼みを快く了解してくれた。私達家族8人は、持てるだけの荷物を持ってトラックに乗り、父と2人の炊事当番兵(隈元兵長と山口一等兵)の見送る中を胡屋に向かって出発した。
 トラックはしばらく速度を上げてスイスイ走っていたが、途中からやんばるに歩いて避難する大勢の人々で道がいっぱいになっていたので、時々トラックの速度が遅くなった。特に、両側に長く続く松並木道(普天間宮への参詣道で宜野湾マーツーだと、祖父は云っていた)に差し掛かると、トラックが停止することもあった。そのために、胡屋に到着するまでにかなりの時間を要した。2時間ほどかかったと兵隊が話していた。
 トラックから降りた私達家族は、兵隊達に礼を述べ、やんばるに向かって胡屋を出発した。祖父が食料品と炊事用具類をモッコに入れて担ぎ、祖母が衣類・寝具類の入った大きな風呂敷包みを頭に載せ、母が2歳の英子を負んぶしながら頭に衣類の入った風呂敷包みを載せ、8歳の久と私が黒糖と芋澱粉の入った背嚢を背負い、私達は荷物を分担してもって歩いた。
 出発して最初の頃は、5歳の政子も4歳の正志も元気よく歩いていたが、途中から歩くのが遅くなり、やんばるに向かって移動する避難民に次々追い越された。翌朝6時頃、やっとのことで東恩納集落にたどり着くことができ、その日は地元の人の好意で借りた古い墓を利用した壕で休む事が出来た。
 翌日、朝から続いた米軍の空襲が午後4時頃に止んだので、私達は漢那に向かって東恩納集落を出発した。道はすでにやんばるに移動する避難民であふれていた。しばらくして前方に石川集落が見えてきたが、日中の空襲でやられたらしく、至る所から火の手があがっていた。
 石川集落の中心部辺りに差し掛かった時のこと、突然数機の米軍機が低空で襲来し、移動する私達避難民を目掛けて機銃掃射と爆弾投下をあびせた。その日の空襲は終わったとばかり思っていたのに、思わずの空襲に遭ったわけである。私達は急いで海岸近くの大きなフクギの木のある林に逃げ込み、木の下に隠れた。空襲は道路と周辺の家を目標にして行われていたが、時々私達が隠れている所にも機銃弾が飛んで来る事もあった。空襲で爆弾投下や機銃掃射に遭ったのは初めてであったので、私は空襲の止むまで恐怖で体が震え続けていた。幸いにも私達家族を含め周辺には死者や怪我人は出なかった。
 20分ほどで空襲が止んだので、私達家族は道まで戻り、移動する避難民に混じって漢那への移動を開始した。道路の上には、逃げ遅れたために機銃掃射でやられたらしく、十数名の人が数箇所に倒れていた。また、集落外れの川にかけられた橋も破壊されていた。
 石川集落を発って2時間ほど行ったところから、政子と正志の歩く速度は遅くなり、後続の避難民に次々に追い越された。祖父と祖母は歩くのを嫌がる2人をなだめすかしながら手を引いて歩いていた。伊芸集落に差し掛かったころから、遂に2人は歩くのを止めてしまった。
 私達家族だけ取り残されてしまい、途方にくれていたところ、幸運にも荷物を運んで金武集落まで行く馬車が追い付いてきた。祖父の交渉によって政子と正志を馬車に乗せてもらい、私達家族は翌朝未明に金武集落までたどり着く事が出来た。
 日中は絶えず米軍機の空襲があり、漢那への移動は危険で出来なかった。私達家族は、持ってきた米を炊いて作った握り飯を食べて日中を金武の山に隠れて過ごし、夕方から移動を開始した。漢那集落に着いたのは翌朝未明であった。
 私達が集落内の広場で一休みしている間、祖父は村民の避難している壕を探しに出掛けた。祖父が戻ってきたのは2時間ほど後の事であった。村民の避難壕は大きな洞窟の壕で、集落外れの道路近くにあった。大分明るくなってから私達は壕に到着した。
 ところが、壕は避難民でいっぱいになっていた。祖父は壕の責任者と粘り強く交渉していたが、私達家族の入れる場所の確保は出来なかった。また、食料の備蓄も少なく、あと1ヶ月分しか無いとのことで、私達家族への食糧の支給は困難であるとの事であった。
 壕に入ることの出来なかった私達家族はどうする事もできないまま、壕の入り口近くの林の中に隠れて過ごしていた。壕からは1日1人1個ずつの握り飯が支給されたが、それだけでは不足であったので、持ってきた芋澱粉と黒砂糖を水に溶かし、それを飲んで飢えをしのいでいた。
 不安な気持ちを抱いて過ごして2日目を迎えた。その日の夕方、祖父が、「ここにいては、家族全員が餓死してしまう。富名腰(現船越)に戻るんだ」と決意したので、私達は祖父に従って富名腰に帰ることにした。日が暮れて暗くなってから持ってきた荷物を持って隠れていた林を出発した。出発して2時間経った頃、偶然にも松本集落(現沖縄市)に帰る馬車が追い付いてきた。祖父の交渉によって松本まで乗せてもらった。
 松本には翌朝未明に着いた。祖父が集落内に造られた壕を探してきたので、私達家族は日中その壕で休むことにした。幸いにも地元民の好意で飯炊きが出来たので、家族全員満腹して休む事が出来た。
 ところが、やんばるではそれほどなかった日中の空襲が、松本では大変激しく行われた。周辺の山では米軍機の機銃掃射と爆弾投下が繰り返し行われ、時々集落内にも機銃掃射があり、生きた心地はしなかった。そのうちに、激しい空襲にすっかり怖じけてしまった母と祖母が富名腰に帰ることをためらってしまい、やんばるに戻った方がよいと言い出した。富名腰に帰ることを決意していた祖父は困ってしまい、富名腰に帰るのがよいのか、やんばるに戻った方がよいのか、すぐに結論を出すことが出来なかった。結局、何処が安全な場所なのか何処が危険な場所なのかの判断が出来ないことから、迷いに迷った祖父が、ふたてに分かれて行動することを提案し、母と祖母も同意した。祖父は正志と私を連れて家に帰ることになり、残り5人はやんばるに戻ることになった。幸いにも、地元民をやんばるへ避難させる馬車があり、5人は好意でその馬車に乗せてもらってやんばるへ出発した。
 その日の夕方、私達3人はやんばるに戻る5人に別れを告げて松本を出発した。祖父は正志を負ぶり、私は徒歩での移動であった。
 松本からは泡瀬(現沖縄市)に下り、海岸に沿って暗い夜道を南に向かって歩いた。中城村に入った頃から、時々海上の米軍艦から砲弾の発射される音が聞こえ、右手の山々に落下していた。行く先の殆どの橋は破壊されていたが、日本軍によって破壊されたのだ、と祖父は話していた。道路上には、民間人の歩く姿は殆どなかったが、数十名の群れを成して慌ただしく行き来する兵隊(日本兵)の姿が至る所で見受けられた。私達は一晩中歩き続け、翌朝未明に自分たちの家にたどり着くことが出来た。
 まだ夜は明けていなかったが、隈元・山口の2人の炊事当番兵はすでに起床して、慌ただしく朝食の準備をしているところであった。2人は戻って来た私達3人を見て大変びっくりして怪訝な顔をしていたが、3人だけで戻って来た経緯を祖父から聞いて納得してくれた。
 2人は、「日中は毎日空襲があり、そのために壕に避難して夜だけ家に戻って寝泊りして炊事をし、昼食と夕食の分の飯まで朝で炊いている」と、祖父に話していた。その日は兵隊の作った食事を食べさせてもらい、自分達の壕に行ってゆっくり休むことが出来た。
 私の家では、豚5匹と鶏10羽ほどの家畜を飼っていたが、私達家族が1週間ほど家を離れていた間、2人の兵隊が残飯を与えて飼ってくれていた。そのことに感激した祖父は、後日2匹の豚をつぶして肉の大半を兵隊たちに提供し、感謝の意を示していた。
 空襲と艦砲弾の飛来は毎日続いたが、富名腰周辺には極めて少なく、日中だけに限られていた。日中は兵隊も住民も壕に避難し、外に出て活動するのは夕方暮れてからの事であった。
 祖父は朝と夕方になると、毎日食事の準備と家畜の餌やりのため家に帰っていた。家では2人の兵隊も早起きしてその日の食事の準備をしていた。戦況も2人の兵隊から早めに知る事が出来た。米軍の北谷・読谷の海岸から沖縄に上陸した日は、私達が富名腰に戻って3日経った4月1日であるが、夕方家に帰っていた祖父はその日のうちにその上陸のことを兵隊から聞いて知っていた。
 私達が富名腰に戻って来た日から1週間ほど経った日の夕方、父が壕を訪ねて来た。父は、私達が戻って来た事をその日のうちに炊事当番兵から知らされていたが、米軍の上陸に備えての厳戒態勢がとられていたために、すぐに外出の許可をもらう事が出来なかったと話していた。3人だけで戻って来た経緯も兵隊からの説明で一応納得していたようで、それほど追及はしなかった。ただ、やんばるに戻って行った家族5人の事が心配だと、しきりに呟いていた。父は、「どんなことが起こっても決して自分の壕から逃げることをしないように」と、祖父に強く念を押して部隊の壕に戻って行った。
 それから10日ほど経った日の夕方、隣の前川集落に住む母方の祖母が私達家族の事を心配して壕を訪ねて来た。5人と別々になった経緯について説明する祖父に対し、前川の祖母は、足手まといになる5人をやんばるに行かせて自分たち3人だけで戻って来たと誤解してしまい、しきりに祖父を問い詰めていた。祖父の繰り返しの説明で前川の祖母は一応納得していたが、それでも内心疑っているようであった。
 その後、前川の祖母は私達の壕生活を心配し、危険を伴う2キロメートルほどの道を歩いて私達の壕を訪ね、身の回りの面倒を見ていた。祖父が外出中の場合には、決まって5人と別々になった経緯を私に問いただしていた。「やんばるに戻った孫たちの身の上にもしものことがあれば自分は生きておれない」とまでいって、祖母は嘆き悲しんでいた。ところが、週1回ほどの間隔で私達の壕を訪れていた祖母は5月中旬頃からまったく訪れなくなった。空襲と艦砲弾の飛来が一層激しくなっていたので、そのせいで来られなくなったとばかり思っていた。それでも私は祖母の訪れを何時も心待ちにしていた。前川の祖母が亡くなった事を知ったのは、捕虜になり知念集落に収容された後の事である。祖母は前川の民間壕に避難していたが、壕の外で炊事をしている時に飛来した砲弾の炸裂で破片が頭にあたり、即死であったと云う。本当に悔やまれる死である。
 私達の壕の周辺に美田連隊西村大隊の陣地壕が四つあった。その壕の一つに30人ほどの初年兵が入っていたが、時々壕の前のサトウキビ畑に出て小銃の射撃訓練をしていた。射撃訓練は標的もなく、編隊を組んで飛行する敵の飛行機に小銃を向けての射撃訓練であった。前年の夏、玉城村に駐屯していた武部隊飯田大隊の初年兵の射撃訓練を見学したことのある私には、飛行する敵の飛行機に向けての射撃訓練が果たして実戦に役立つのかと、子供心にも疑問に思ったものである。
 武部隊飯田大隊の初年兵が奥武集落の裏側のイーバル(当時は原野であった)で射撃訓練を行った時、私は招待された父に連れられて行き、訓練を見学した。訓練では、伏せる動作や銃の構え方、発射の仕方等を古参兵達がきめ細かく指導し、標的に向けて射撃させて当たった弾の数を確認していた。また、銃の発射訓練の後には、古参兵による手榴弾投げや擲弾筒の発射の模範訓練も行われ、実戦さながらの訓練であった。
 4月末頃、父が再び壕を訪ねて来た。父の所属する部隊が前線に移動することになった事を告げに来たのである。父は、第一線で戦っている石部隊の戦況が思わしくないので応援に行くんだと言い、第一線での戦いで命を落とすかも知れないとも言っていた。父は部隊に戻る際に、「この戦争はどうなるかわからないので、米兵が近くまで攻めてきても絶対に壕から逃げないこと。たとえ捕らえられても決して米兵は殺すことをしないから。」、といって壕を立ち去ったのである。
 山の高い所(8合目)にあった私達の壕からの視野は広く、富名腰集落及び周辺地域を眼下に見る事が出来、また首里・那覇や運玉森の山頂も遠望できた。幸いにして、壕の入り口周辺には松の木やガジュマル(榕樹)の木があり、ススキが密生していたので、壕の外に出ても空から見つかる心配はなく、周囲の様子を眺めるには打って付けの場所であった。

那覇方面を臨む景色。遠くに見える中央部の大きな建物は県庁舎。
与那原方面を臨む景色。遠くに見える、三角形の高い山は運玉森。

 やんばるから富名腰に戻って来てから私達は壕の中での生活を続けていた。壕内には私達家族3人以外に誰もいなかったので、子供であった私と正志にとっては何時も寂しく、退屈であった。また、壕の外が危険であると云う事で、2人は便所に行く以外は壕から出ることを祖父に禁じられていたので、よけいに壕の外に出て遊びたくて仕様がなかった。そういうことで、出す必要もない小便を口実に壕の外に出て周囲を眺め、退屈を紛らわせていたものである。また、祖父は食事作りや家畜の餌やりをするために朝と晩の2回家に行っていたので、その時間帯になると、2人は壕の外に出て自由に遊んだものである。
 父の所属する部隊が前線へ移動した4月下旬頃から、前線近くの中城・西原方面の住民や首里・那覇の住民が富名腰に避難してくるようになった。しかし、その頃までは、富名腰への艦砲弾の飛来や空襲は殆どなかった。
 5月の初め頃になると、私の壕からは首里・那覇上空や運玉森上空での砲弾の飛び交う状況が遠望され、それに伴い首里・那覇・西原及び中城方面から富名腰に逃げて来る避難民が急激に多くなった。その為に、トンボの形をした米軍の偵察機が上空を頻繁に飛ぶようになり、富名腰周辺への艦砲弾の飛来も増えて、避難民及び富名腰区民の中から怪我をしたり亡くなったりする人が出るようになった。

避難民や前線からの撤退兵が通った道。当時の道幅は狭かった。

 ある日のこと、壕を出て周囲の様子を眺めていると、私の壕から800メートルほど離れた富名腰集落の上空をトンボ偵察機がゆっくり旋回しながら飛んでいた。トンボ偵察機は20分ほどで立ち去ったが、それと入れ替わりに爆撃機5~6機が飛来して空爆を開始した。爆撃機は大城集落前方の西側から富名腰集落に繰り返し4~5回ほど急降下して爆弾と焼夷弾を投下していたが、弾が地上に落下するたびに轟音を発して炸裂し、建物の屋根や樹木の枝等が空高く舞い上がるのが手に取るように見えた。そして、焼夷弾にあたった家々から出火して一面火の海となり、夜遅くまで火災は続いていた。翌日被害状況を見て来た祖父の話では、集落の中央から西側一帯の大半の家が破壊されて焼失し、民家に隠れていた避難民の中から死傷者が多数出たとのことであった。
 富名腰集落が空爆されて以来、トンボ偵察機が頻繁に飛来するようになった。トンボ偵察機がゆっくり旋回して飛ぶと、決まって艦砲弾の飛来や空襲が行われたので、上空を飛ぶトンボ偵察機の存在は不気味であった。
 ある日のこと、その日は連日の雨が上がり、朝から太陽が照りつけていた。私は壕の外の広場に出て飛び回って遊んでいた。暫くすると、滅多に私達の壕の上空を飛ぶことのなかったトンボ偵察機が、その日に限って壕の上空を旋回して飛んでいた。トンボ偵察機の飛来に気づいた祖父に注意され、私は急いで壕の中に逃げた。私が壕に入りかけた瞬間、飛んできた艦砲弾の一発が壕入口近くに落下して炸裂し、弾丸の破片と土の塊が足元に飛び散った。私に怪我は無かったものの、もしも壕に逃げるのが遅れていたなら、艦砲弾で命を落とすところであった。間一髪のところで、私は命拾いしたのである。祖父には叱られるし、私は恐怖で体が震えて生きた心地がしなかった。やんばるに避難する途中、石川集落で敵機の機銃掃射に遭った時以来の恐怖を味わったのである。隣の軍の陣地壕(前線に出動し空いていた)には数十名の避難民が入っていたが、雨で濡れた着物や布団を壕の外の広場に干したことが艦砲射撃を受ける原因になったと、艦砲弾の飛来が止んだ後で壕を出て外の様子を見て来た祖父は話していた。夕方、祖父が家に行っている留守中に、私は壕の外の様子を見に行った。壕の前の広場は砲弾の落下で至る所に穴が空き、千切れた着物や布団の綿が四方に飛び散っていた。
 島尻南部には前線に行かずに留守番兵が一部残っていた。前線が激化して近づくにつれ、兵隊の住民に接する態度が一層高圧的になり、許可なく住民の家畜を捕まえて殺して食べることもしばしばあった。ある日の朝、家畜の餌やりで家に行っていた祖父が怒った顔をして何時もより早めに戻って来た。祖父の話によると、見た事のない若い2人の兵隊が豚小屋に入って豚を捕らえようとしていたとの事である。祖父が、「断りもなしに豚を捕まえるのは兵隊のやることではない」と咎めたのに対し、2人の兵隊は、「貴様、この戦争で生き残れるとでも思っているのか」と云ったとの事である。気の強い祖父はすかさず、「この戦争は負けるとでも思っているのか。勝つ戦争であればどこまでも生き残れるもんだよ。兵隊たちがそんなことを言うものではないよ」と言い返して、逃げるようにして壕に戻って来たとの事である。その日の夕方、祖父が夕食作りで家に行ったところ、兵隊たちは豚を捕まえきれなかったらしく、豚は豚小屋に残っていたとの事である。
 そのような事があり、祖父は豚の飼育を止めることにした。豚は隣の軍陣地壕にいた避難民達の協力で潰して、肉を皆に分け与えた。食べ物に窮していた避難民達は、久しぶりの御馳走にありつけたことを喜び、祖父に大変感謝していた。
 5月初旬の終わり頃になると、首里・那覇や運玉森一帯で激戦が続き、連日連夜砲弾の飛び交う様子が遠望された。それに伴って暫くすると、首里・那覇・西原及び中城方面から逃げて来る人々の数が増加し、私達の壕から200メートルほど離れた下方の村道を通って島尻南部に避難する人々(避難民)が見られるようになった。移動して行く避難民の姿は、荷物の入ったモッコを担ぐ年寄りの男性、子供を負ぶりながら大きい風呂敷包みを頭に載せた女性、背嚢を背負った子供などと、私達がやんばるに避難して行った時とまったく同じであった。移動する避難民の上空には絶えずトンボ偵察機が飛んでいたが、最初の頃は何事も起こらなかった。ところが、5月中旬頃から前線から撤退する兵隊が避難民の中に交じるようになり、米軍機からの機銃掃射が始まった。
 5月中旬のある日の昼下がり、祖父が芋掘りに出掛けていたので、私と正志は壕から出て広場で遊んでいた。下の村道では、大勢の避難民が島尻南部に向かって歩いて移動していたが、避難民に交じって集団で撤退する兵隊の姿も見られた。突如、糸数集落上空から2機編隊の米軍戦闘機が超低空で現われ、移動して行く人々に対して背後から機銃掃射を行なった。眼下で展開される状況を見ていた私には、それはまるで戦争映画の激しい戦闘シーンでも見ているようなものであった。戦闘機は私の立っていた位置よりも低い所を飛んでいたので、操縦しながら機銃掃射をする憎たらしい米兵の横顔を見下ろしてはっきり見ることができた。私は逃げまどう避難民の無事を祈る気持ちで見ていた。ところが、道では、荷物を投げ捨てて近くのサトウキビ畑に走って逃げて行く人々の様子や、不意に襲撃されたために逃げきれずに道に倒れていく人々の様子が手に取るように見られ、怪我した事と恐怖で泣き叫ぶ子供達の声も聞かれた。壕の前で間近に見たその光景は、実に惨たらしく哀れなものであった。道の側の畑で芋掘りをしていた祖父も走って逃げていたが、壕の外に立っている私達2人を見た祖父は、自分の身の危険も顧みずに私達に手を振って大声で壕の中に入るよう合図をしていた。
 戦闘機は機銃掃射を繰り返し3回ほど行なった後に立ち去ったが、道の至る所に怪我をした人や死んだ人が多数倒れていた。暫くすると、サトウキビ畑に隠れていた人々が家族の安否を確認しながら道に戻って来て、無事であった家族は荷物を拾って移動して行った。怪我人の出た家族は、怪我人を負ぶったり支えたりして立ち去った。死者の出た家族は暫く亡くなった人を囲んで悲嘆にくれていた。その光景は本当に哀れで惨たらしいものであった。道には3人の兵隊も倒れていた。その内の2人の兵隊は亡くなっていたらしく、仲間の兵隊達によって道の側の畑に運ばれた。もう1人の兵隊は足に機銃弾を受けて重症で、立つ事が出来なかった。歩けないことが分かると、仲間の兵隊達は怪我をした兵隊を道の上に残して立ち去った。2時間ほどして壕の外に出て下の様子を見たところ、怪我をした兵隊は元いた所から100メートルほど先まで移動していた。「生き抜こうとする人間の執念は大変なものだ。」、とその様子を一緒に見ていた祖父は呟いていた。ところが、暫くすると、その兵隊のいる方向からポンと弾の爆発する音が聞えた。振り返ってみると、兵隊はうつ伏せになった状態で動かなくなっていた。自らの死を悟って、持っていた手榴弾を爆発させて自決したのである。
 そのような事があった二日後の朝、祖父が家に行って留守であったので、私は壕の外に出て遊んでいた。暫くすると富名腰集落の東側からポンポンと散発的に砲弾を発射する音が聞こえた。よく見ると、30人ほどの日本兵が屋号上門(イージョウ)の前の道路を中心に4門の山砲を設置して、西の方に向けて砲弾を発射していた。砲弾20発ほどが発射された頃、上空を旋回して飛んでいたトンボ偵察機に発見され、米軍の艦砲弾集中攻撃を受けてしまった。4つの山砲は飛来した敵の砲弾で瞬く間に破壊され、十数人の兵隊が爆風によって飛ばされ、地面に叩きつけられていた。そして、上門の家や周辺の家々が飛んできた砲弾で破壊されるのも見えた。私は目の前で展開されている様子を夢中になって眺めていたが、急いで壕に戻って来た祖父に見つかり、こっぴどく叱られたものである。
 5月下旬頃になると、下の村道を通って島尻南部に向かって移動して行く避難民や、前線から撤退する兵隊の数が一層増えた。移動して行く避難民から聞いた祖父の話では、米軍は与那原方面まで進攻して来ているとの事であった。隣の軍の陣地壕に入っていた避難民の中からも、移動して行く人々に刺激されて壕を出て島尻南部に移動する家族が出始めた。暫くすると、陣地壕には私達の大元祖家(ウフムートゥヤー)にあたる西原村(現西原町)字嘉手刈の屋号伊礼(イリー)の母親と、幼い娘2人から成る3人家族だけしか残っていなかった。伊礼家の親子3人は、島尻南部は危険であるから行かない方がよいとの私の祖父の忠告を守り、陣地壕に残っていたのである。
 ところが、私達家族が捕虜になる1週間ほど前になると大里城跡一帯で激しい攻防戦が連日連夜展開されていたらしく、私達の壕からは砲弾の飛び交うのが見られ、砲弾の炸裂音が聞えた。特に夜になると、大里城跡一帯の地上は絶えず打ち上げられる火の弾(祖父は照明弾と言っていた)でこうこうと照らされ、砲弾が飛び交っていた。その状況は私達の壕からも遠望された。
 最後の一家族となって陣地壕に残っていた伊礼家の家族3人も、大里城跡一帯での砲弾の飛び交う攻防戦に動揺し、遂に私達家族に別れを告げて壕から出て行ってしまった。戦後40年後に分かった事であるが、伊礼家の親子3人は南部の戦場を逃げ回っているうちに母親と上の娘は弾にあたって亡くなり、当時5歳であった下の娘だけが捕虜になって孤児院に収容されたとの事である。
 大里城跡一帯での激しい戦闘は四日ほどで終わったらしく、その後は砲弾の飛び交いは無くなって小銃と機関銃の発射音や手榴弾の炸裂する音だけが聞えるようになった。私達家族が捕虜となる二日前になると、小銃と機関銃の発射音や手榴弾の炸裂する音は大里城跡一帯から東側に移動して眞境名集落の裏山や稲福集落一帯から散発的に聞こえるようになった。夕方になると、小銃と機関銃の発射音や手榴弾の炸裂する音は殆ど聞かれなくなり、戦闘は終わった。
 捕虜にされる3日前(6月1日)になると、壕の下の村道には、島尻南部に移動していく避難民の数が増加した。移動する集団の中には隣村の稲福区や大城区の祖父の知人家族もいたと、避難民からの情報を得る為に時々道に下りていた祖父は話していた。
 捕虜にされる2日前(6月2日)になると、移動する集団の中に集落裏山のイーヤマの壕に避難していた富名腰区民も含まれるようになった。島尻南部に移動して行く区民に対し、「島尻南部は間もなく米軍の総攻撃が予想されるので、島尻南部より自分たちの壕が安全だよ。」と云って壕に戻るよう祖父が勧めたところ、逆に一緒に避難することを区民から誘われたと祖父は云っていた。
 捕虜にされる前日(6月3日)の朝9時頃、米兵は糸数集落まで攻め進んで来て、糸数イーバル(糸数西側)から富名腰区民の避難しているイーヤマ(集落裏山)に向けて機関銃を発射した。機関銃の発射音は私の壕からも大きく聞かれた。暫くすると、イーヤマに隠れていた多くの富名腰区民は壕から脱出して島尻南部を目指して逃げた。私達の壕の下の前川に行く村道は、島尻南部へ逃げて行く富名腰区民と避難民であふれていた。上空を飛ぶトンボ偵察機は見られたが、艦砲弾の飛来もなく、戦闘機の機銃掃射もなかった。逃げて行く区民の中に、私の家族と近い親戚(祖父の従兄弟家族)にあたる家族8人も含まれていた。親戚家族は、私の祖父が、「自分の壕が安全だよ。」、と富名腰に留まることを勧めたにもかかわらず逃げて行く大勢の避難民に刺激されて(巻き込まれて)立ち去った。戦後になって分かったことは、親戚家族は島尻南部で一家全員亡くなり、皮肉にも親戚家族の瓦葺の大きな住宅が無疵で残っていた。戦争の大きな悲劇である。
 壕下の村道は、午前中島尻南部に避難する人々で溢れていたが正午頃から少なくなり、午後3時頃になると人々の姿は殆ど見られなくなった。私達家族だけが取り残されてしまったのである。私は幾度となく島尻南部に逃げることを祖父に訴えたが、祖父は、「心配するな。」、とだけ言って、私の云う事を無視した。私達家族だけが取り残された淋しさと不安で私はすっかり打ち沈んでしまい、壕の中にちぢこまっていた。
 壕から出て行くことを祖父が頑なに拒んだのには、それなりの理由があった。父が前線に出動する事を告げるため壕に来た時、「米兵が富名腰まで攻め進んできたら戦争に勝ち目はないので、絶対に壕から逃げないこと。たとえ捕虜になっても、決して米兵が殺すことはしないから。」、と云ったからである。
 その日の夕方6時ごろ、壕の外にいた祖父に呼ばれて私と正志は壕の外に出た。「米軍の斥候兵がウフモーまで来ているよ。」と云って、祖父が集落の西の方の高台を指差した。よく見ると、銃を持った5~6人の米兵が私達の壕から1キロメートルほど離れたウフモー製糖場周辺をゆっくり歩いていた。その様子を見た私はますます不安になり、「決して壕から出て行くな。」、と父の言ったことを頑なに守っている祖父が恨めしく思えてならなかった。
 その日の夕食は7時頃にとった。すると、私達の食事中に軍服姿の人がいきなり壕の入り口にかけられたニクブク(藁の敷物)を掻き分けて入ってきた。よく見ると、軍服姿の人は紛れもなく父であった。父の顔を見るなり、私の不安な気持ちは一度に消えてしまった。
 父の話では、4月の末に玉城から前線に移動した父の所属する美田連隊西村大隊は真和志村(現那覇市)の真嘉比集落一帯に布陣し、戦車を先頭にして進撃する米軍と一進一退の攻防戦を展開したと云い、度重なる白兵戦で配下の防衛隊員からも多くの死傷者を出したという。6月2日に具志頭村(現八重瀬町)玻名城へ撤退出来たのは僅かの隊員だけであったという。6月3日の今日、糧秣の運搬をするために父は隊員7人と一緒に艦砲弾の激しく飛来するなかをメーヌモー(部隊の陣地壕があった)へ来たという。
 父と7人の防衛隊員は午後4時に玻名城の壕を出発し、艦砲弾が飛来するなかをメーヌモーの陣地壕に向かった。向かう途中の道は、島尻南部を目指して移動する避難民で溢れていた。絶え間ない艦砲弾の飛来で多くの避難民が犠牲になり、次々倒れていくのが見られたという。また、島尻南部に移動する避難民の中に父の知人や教え子達もいたという。知人や教え子達に対して父は、「南部には行くな。向こうは激戦地で大勢の人が死んでいる。自分のムラに帰るか、知念方面へ行った方がよい。」、と勧めたが、耳をかす人は1人もいなかったと云う。
 父と隊員7人は激しい艦砲弾の飛来で多くの避難民が倒れて行く中を、誰一人怪我一つ無く奇跡的にメーヌモーの陣地壕に辿り着くことが出来たという。しかし、艦砲弾の激しく飛来する中を糧秣持参で部隊に戻るのは極めて困難であると判断した父は、上官が糧秣運搬のための出発の直前に父をそっと呼び、「危険を冒してまで部隊に戻ることはない。」、と暗に隊員の解散を勧めていた事もあり、意を決して隊員を解散させて家族の元に返し、自らは家族の様子を見てから帰隊しようとして、私達の壕に立ち寄ったとの事であった。
 父は私達の元気な姿を見ながら祖父と立ち話をしていたが、20分ほどすると「防衛隊の責任者である自分は部隊に戻らなければならない。」、と言って壕を出て行こうとした。すると、祖父が父の手を掴んで出て行くのを遮り、手榴弾まで奪ってしまった。祖父は、「勝ち目の無い戦争で部隊に戻る必要はない。」、とか「どうしても壕から出て行くのであれば、手榴弾で自分達を殺してから出て行け。」、とまで言って壕から出て行こうとする父を必死になって止めていた。祖父と父との言い合いは30分ほども続いたが、遂に父は必死になって止める祖父の気迫に負けてしまい、部隊に戻るのを断念して靴を脱いで壕の中に上がったのである。
 父は軍服を脱いで祖父の着物に着替え、軍服・(まき)(きゃ)(はん)・軍靴・軍帽及び、手榴弾等軍に関係するすべての物を壕の奥の床下に隠した。そして、夕食をとった後、暫くの間戦場での出来事等を私達に語っていた。
 父は戦場での交戦で幾度となく危ない目に遭ったようだが、怪我一つ無かった。父の話によると、戦場では出撃で壕から出て行く時よりも蛸壺に入って白兵戦を展開している時とか、蛸壺から撤退して壕に戻る時が最も危険であった。特に壕へ撤退する時に飛んで来る迫撃砲弾は回避の仕様がなく、やられる事が多かったという。また、前線の真嘉比からの撤退中に、父は壕近くで迫撃砲の至近弾を受けて飛ばされて土砂を被ったが、怪我は無く上着の右袖が少し切られただけで済んだとのことである。
 その日の晩は10時頃に寝たが、何時もは(のみ)(しらみ)の痒みで頻繁に目を覚ますのに、側に寝ている父に安心して朝までぐっすり寝ることが出来た。
 翌6月4日の朝7時頃、祖父と父の話し声で目を覚ました。壕の外の様子を見て来た祖父は、下の村道は銃を持った米兵でいっぱいになっていて、私達の壕のある山に向かって前進中であると話していた。私達は捕虜にされることを覚悟し、身支度をして米兵の来るのを待っていた。ところが、私達の壕に到着すると思われた時間が過ぎても、米兵は現れなかった。
 予定時間が20分ほど過ぎた頃、祖父は再び壕の外の様子を見に出て行き、数分後になって慌てて壕に戻って来た。「壕の周囲に米兵の姿が見当たらないので、壕前の広場に出て山の上を振り向いて見たら、既に米兵は山の上まで登っていた。」、と祖父は云い、「米兵に見付かったので、間もなく米兵達がやって来るよ。」、と言った。
 暫くして米兵が壕の前で声をかけたので、私達家族は祖父を先頭に手を挙げて壕から出た。壕の入り口の両側には、4人の迷彩色の軍服を着た米兵が私達に銃を向けて立っていた。最後に父が壕から出たところ、壕の前にいた7人の米兵まで駆け寄って来て父を取り囲み、今にも銃を発射しようとした。その間私は、恐怖のあまり顔は引きつり、体が震えてた。父は頻りに何かを言って米兵達に訴えていたが、父の言っていることが分かったらしく、暫くすると米兵達は囲みを緩めて銃を下ろした。後日私が聞いた父の話では、「自分は学校の先生であり、兵隊ではない。」、と父は片言の英語で訴えたと云う。
 私達家族は、2人の米兵の誘導で移動させられた。壕からは山と畑の境界の小道を通って一本松(イッポンマーチ)と呼ばれていた郡道(船越集落前の県道48号線)に出て、東の山川堂(ヤマガードー)(糸数集落入り口)の方に向かって歩かされた。島尻南部の方からの砲弾の炸裂音が小さく聞こえたが、私達の周辺には物音一つもなく静かであった。
 山川堂(ヤマガードー)切り通し(ワイトゥイ)に差し掛かった時の事、前方から人が歩いて来る靴音がした。すると米兵は私達を道の側に避難させ、自分達は前方に銃を向けて構えた。暫くすると、1人の作業服姿の人が現れたのである。よく見ると、その人は私達の親戚(前湧上)に住み込みで雇われていたカミースーという方であった。今にも銃の引き金を引こうとする2人の米兵に対して父は、「兵隊ではない。」、と言って銃の発射を制し、カミースーを助けたのである。
 山川堂からは、カミースーも一緒になって糸数集落に向かって鍛冶屋(カンジヤー)坂道(ビラ)を上がった。坂道を上がる途中、道の南の方からポンポンと音が聞こえるので後方を振り向いて見たら、奥武・港川沖の海上には多くの米軍艦が集結し、具志頭・摩文仁方面に向けて艦砲弾を発射していた。糸数の製糖場(アブチラガマ近く)の側を通った折、昨日まで米軍と日本軍の交戦があったらしく、周辺の家や森から煙が出ていた。私達は糸数集落から喜良原集落を経て午後2時頃大里村大城に着いた。大城集落には、既に50人ほどの人が収容されていたが、その日は私達も空いていた民家に一泊させられた。

大里の大城バス停近くの住宅。かつて瓦葺きの収容所があった。湧上さんは捕虜となりここで1泊した。

 翌日は大雨であった。私達は、奇妙な雨合羽(終戦直後、タクヌチブルーと称してよく使用した。)を被った3人の米兵の誘導で、降り頻る雨の中をびしょ濡れになって百名集落まで歩いて行かされた。
 百名には尋問所があり、男の大人は軍人か民間人かの尋問を受けていた。祖父と父は幸いにも尋問を無事にパスし、祖父は民間人であるとの証明書を、また父は学校の先生であるとの証明書をもらった。尋問が終わると、私達はトラックに乗せられ、知念村知念(現南城市)に送られたのである。

百名公民館近くの道。この道沿いで2世の米兵と米軍に選ばれた捕虜が捕虜を尋問していた。日本兵・防衛隊員か一般住民かを分けるために尋問が行われていた。一般住民に変装した日本兵は、方言で尋問されると答えられず、屋嘉収用所へ送られた。現在森山商店のある場所は、当時は畑であった。

 知念集落には、捕虜になった人々が既に収容されていた。幸いにも、人の入っていない理髪家風の小さな家が集落の中心部の県道沿いに見つかったので、私達家族はその家に住むことになった。

湧上さんが知念区で捕虜生活をしていた場所。現在はコンクリートの平地になっている。岩は当時のまま。知念バス停近く。

 私達が知念集落に来た翌日の夕方のこと、数名の米兵が私達の家にやって来て、父と祖父を連行した。連行される時、父と祖父は怯えている私と正志に、「心配するな。すぐに返されるから。」、と言い残して出ていったが、それでも私の体は不安と怯えで震えていたのである。父と祖父が連れて行かれるのを窓越しに見ていると、連行先は私達の家の近くの広場であった。広場には多くの男の大人が集められ、何やら米兵の取り調べを受けているようであった。
 連行されて1時間程すると、祖父は広場から戻って来た。祖父は米軍将校と二世兵の尋問を受けたが、百名で貰った証明書のお陰で尋問は簡単に済んだとの事である。ところが、父は戻ってこなかった。祖父の話によると、父は尋問を受けた後で10人ほどの人と一緒に別の場所に移されたとの事である。
 私達は心配と不安な気持ちで父の帰りを待っていたが、父は2時間ほど経ってから帰ってきた。父は尋問を受けた後に、10人ほどの人と一緒に米軍中隊長と二世兵のいる所に連れて行かれ、隊長から知念区の副区長に任命されたとの事である。
 父はその日の翌日から区事務所で仕事をしていた。区事務所は大きな民家を利用していたが、私達の家から山手側に100メートルほど離れた小高い所にあった。父の話によると、知念区事務所には米軍隊長と通訳官の三木という二世兵がおり、その下に区長(又吉世沢)、副区長(父)および10人の職員がいたと云う。区事務所には庶務係・配給係・労務係・治安係等が置かれ、移動者の円滑な収容・人口動態の把握・食料物資の配給・軍作業の手配・治安維持等の仕事をしていたと云う。
 配給所では米・メリケン粉・肉の缶詰等の食料品を配給していたので、食い物には不自由しなかった。また、軍作業に出ていた祖父がいろんな缶詰を貰って来たので、当時としては結構贅沢な暮らしをしていた。
 軍作業は区の設置1週間後頃から始まった。朝8時頃になると、大勢の男の人が私達の家の近くの広場に集まり、米兵の運転する3台のトラックで作業現場に運ばれていた。戦死者の埋葬や道路工事に従事するのが主な作業内容であったようだが、最初の頃は島尻南部一帯において戦闘中であり、また日本軍の敗残兵の出没で危険を伴っていた。
 ある日のこと、その日に割り当てられた人達が何時もの通り軍作業に出掛けたが、夕方帰って来たトラックから戸板に寝かされた上半身裸の1人の若者が下ろされた。近くに行ってみると、その若者の胸に赤く染まった傷痕があり、既に亡くなっていた。一緒に作業に行った人の話では、仲間と一緒に道路工事をしていた時に日本軍の敗残兵の狙撃弾を胸に受けたとの事であった。二世兵の三木さんと副区長の父が知らせを受けて確認に来ていたが、父はその若者を知っていた。父の話では、その若者は玉城村中山区出身の教え子であると言っていた。若者を知っている周囲の人々からは、「折角義勇隊から生き残ってかえっていたのに。」、と云って悔しがる声がした。暫くして家族が到着し、悲しみのなかで遺体を引き取って行った。
 知念区が誕生して2週間ほど経ってから小学校が設置された。教職に身を置いていた父の提案であったという。学校の場所は私達の家から南側に200メートルほど離れた原野であった。確か、教室として3棟の茅葺きの掘っ立て小屋が建てられたと記憶している。しかし、本も鉛筆も帳面も無い状態でどのようにして教室で学んだのか、私は覚えていない。記憶にあるのは、先生の引率で集落前の海辺まで行き、砂浜にA・B・Cと指先で書いてアルファベットを学んだ事だけである。
 具志頭・摩文仁方面での米軍と日本軍の戦闘は、私達が知念区に収容された後も暫く(3週間ほど)は続いていた。具志頭・摩文仁周辺の海上には、米軍の無数の軍艦が島を包囲する形で集結していた。日本の特攻機が、知念の沖合に展開する米軍艦に体当たり攻撃をする様子もしばしば見られた。1ヶ月ほど経つと、島尻南部一帯の戦闘は止み、同一帯を包囲する形で展開されていた沖合の無数の米軍の軍艦も少なくなっていた。
 収容されて1ヶ月経った頃になると、人々は収容所での生活にも慣れ、別の区とも往き来してお互いの親戚や知人の無事を確認し合っていた。
 知念区には、後に琉球民謡で一世を風靡した舞踊家の糸数カメさんが収容されていた。また、芸能に関係していた辻の女性等も収容されていた。収容されて2ヶ月経った頃、私達の家の近くの広場で、糸数カメさんと辻の女性達による舞踊や歌劇の公演が区の企画で催された。戦争ですべてを失った人々にとってこれが唯一の娯楽であり慰安であったので、公演当日の広場は見物に来た人々でいっぱいになり、かれらは熱心に見物していた。米軍隊長と二世兵の三木さんも招待されていたが、大変珍しそうに鑑賞していた。
 米軍隊長と二世兵の三木さんは、時々区内の巡視をしていた。知念区にくわしい副区長の父が案内役であった。ある日、巡視の途中に私の家を訪ねた三木さんが、男所帯である私達4人家族に気付き、事情を聞いていた。父が、私達の家族が元々9人家族であること、妻と母と子供3人は金武村漢那に疎開していることなどの事情を説明し、漢那にいるであろう家族5人の安否が心配だと話したところ、三木さんは私達家族を気の毒に思い、5人を連れ戻しに行く約束をしてくれた。
 それから10日ほど経った日の朝9時頃、父は5人の消息を尋ねるために、三木さんの運転するジープで金武村に向かった。ジープには牽引車が取り付けられていた。5人の無事な姿を早く見たいと、祈るような気持ちで私は父の帰りを待っていたが、その日の夕方の5時頃にジープは戻って来た。駆け寄ってよく見たら、ジープと牽引車には三木さんと父以外に何と6人も乗っていた。実は、金武村漢那に疎開する時、妊娠6ヶ月であった母は惣慶(現宜野座村)で女の子を出産したのである。女の子は惣慶で生まれたと云う事で、名前を慶子と付けられていた。その日は知念区に収容されていた親戚や知人の方々も私達の家に駆け付けて来て、5人と再会できた事を喜び合い、また子供の誕生を祝福してくれた。私達の家族は4人から6人増えて10人家族になったのである。
 惣慶での暮らしは、母の出産で働き手を失い、惨めなものであったという。事実、ジープから降り立った時の6人の体はやせ細っていた。母と祖母は訪ねて来る親戚の方や知人に対し、何時も惣慶での悲惨な暮らしぶりを語っていた。それに対し、訪れて来た人達は、「やんばるに疎開しなければ、哀れな生活をしなくてすんだのに」と言って同情していた。しかし、祖母と母は、「苦労はしたが、疎開して命拾いする事が出来たよ」と言って静かに笑っていた。何故なら、島尻南部へ逃げて行く避難民の様子を見て、自分達だけ壕に留まる事の出来ないことは、臆病な祖母と母は誰よりもよく知っていたからである。「もし、やんばるに疎開しないで自分達の壕に留まっていたなら、きっと子供達を引き連れて島尻南部に逃げて行ったであろう。その結果、命を落としていたかもしれない。」、と祖母と母は語るのであった。
 知念区には、百名・志喜屋・山里・具志堅・久手堅等の周辺の区と同様に大勢の人が収容されていた。首里・那覇の人や中城・西原等中頭方面に人もいれば、具志頭・東風平・大里等の人もいた。勿論、知念・玉城の人も大勢いた。収容されてから3ヶ月ほど後に知念市が誕生し、市長選挙と市会議員選挙が行われた。私の父は二世兵の三木さんに勧められて知念区代表として市会議員選挙に立候補した。幸いにして知念区の住民や市内に在住する大勢の玉城村民の支援を受けて当選した。
 市会議員になった父は、志喜屋区に置かれた市議会にしばしば出席していた。確か3回目の市議会に父が出席した日の事であったと記憶しているが、その日の議会で米軍地区隊長から富名腰を開放する旨が伝達され、富名腰区の建設について協議されたと、夕方市議会から帰ってきた父が祖父に話していた。いよいよ富名腰に帰れる時が決まったのである。
 それから暫くして富名腰区の設置と、富名腰の建設が正式に決定され、当山区出身の安次富信雄建設隊長兼区長を中心に各区から派遣された建設隊員によって家屋の建設が始まった。父は二世兵の三木さんと一緒に家屋の出来上がり状況の視察や知念区から派遣された建設隊員の激励のために、しばしば富名腰に出掛けていた。
 富名腰の家屋建設(簡易な茅葺き長屋100棟ほど)は10月末頃に完了し、住民の受け入れが開始された。そして、住民の受け入れと同時に≪ふなこし≫の表記漢字が、富名腰から船越に変更されて区の行政が始まり、戦後の船越区が誕生したのである。
 私達家族が知念区から船越区に戻ってきた時には、既に国頭方面からの多くの人が船越区に移動して来ていた。当時の船越区は知念・具志堅・山里・志喜屋方面や、やんばる方面から引き揚げて来た玉城村民の他に東風平・具志頭・大里・南風原等の村民も受け入れていたので、人口が8千人ほどにふくれ上がり、集落前の田圃までもテント小屋が建てられていた。
 船越に来てからの父は、市会議員を辞め、字屋嘉部出身の古波津里珍先生と一緒になって学校開校に向けての教員探しに一生懸命かけずり回っていた。11月26日、八年制の船越初等学校が開校した。父は本来の教職に復帰し、教頭として古波津里珍校長を補佐し、学校運営にあたったのである。
 私達家族は、今次の沖縄戦で家が焼失して家財道具一切を失って全くの無一文になり、大変悲惨な生活を強いられたが、家族全員誰一人怪我も無く生き延びる事が出来た。しかし、前川の母方の祖母と従兄弟1人が艦砲弾飛来で命を落とした事も事実であり心が痛む。今では、衣食住も足りて何不自由無く平和で楽しい生活をしているが、毎年6月23日の沖縄の終戦記念日を迎えるたびに、76年前に味わった悲惨な沖縄戦の事を思い出してしまう。私達の子や孫の為にも、あの忘れる事の出来ない忌まわしい戦争を二度と繰り返してはならないと、何時も念じているところである。

令和3年8月 米寿を記念に記す

   戦世も凌ぢ 寄ゆる歳なれば
      歌と三線に 心癒ち

3.湧上洋さんへのインタビュウ(聞き手:堀川輝之)

 今回公開の「戦争体験記」には「米寿を記念に記す」と書かれていますが、10歳時の体験を米寿になって事細かく思い出して書いたのではありません。「20歳くらいの時に書き残した詳細のメモを活用してこの『戦争体験記』を書いた」と湧上さんは語っています。しかし、筆者はインタビュウを通じて、湧上さんが米寿を過ぎた時点でも、かなり細かく10歳時の出来事を記憶していることを知りました。その記憶力には驚くばかりです。
 「戦争体験記」は、当時10歳の少年の記憶をたどって書かれたものとは思えないほど、内容が豊富です。「戦争体験記」の主な特徴は次の通りです。

・各出来事についての説明が詳細である。例えば、出来事の時刻まで記された箇所が多い。また、祖父との会話や、祖父と父との会話の内容が克明に記されている。
・記述に客観性がある。見聞きしたことや感じたこと、考えたことが、加工されずに記されている。例えば、日本兵を十把一絡げ的に評価するのではなく、見聞きした日本兵(武部隊や石部隊、美田連隊、当番兵、敗残兵)を個別に公平に評価している。
・目の前で起きた出来事だけでなく、壕から遠望して知った出来事(富名腰全体で起きたことや富名腰を超える範囲の戦渦)についても述べられている。

 筆者は、湧上さんから「あなたが初めてこれを読むことになりますよ」と言われて、「戦争体験記」を読むことになりましたが、読後、さらに知りたいことがたくさん出てきました。そして、「戦争体験記」に関するインタビュウをさせてもらうことになりました。以下は、その記録です。湧上さんの記憶があいまいなことも、今後の研究の課題点を提示する目的であえて記すようにしました。

 ――集団登校と集団下校では、なにか違いはありましたか?

湧上 集団登校の時は、校門の近くで、一定の人数が集まるのを待っていました。そして、だいたいの人数が揃ったら、入門していました。一方、下校時では、クラス毎に授業が終わるタイミングが異なっていたので、クラス単位で門を出たように記憶しています。とにかく、1人で門をくぐるということはなかったです。

 ――教室に、天照大御神の神棚があったとのことですが、各教室にあったのですか?

湧上 はい。黒板のほうを向いて右側上の角に神棚が設置されていました。

 ――校長先生の朝礼での話の内容を覚えていますか?

湧上 覚えていませんが、時局に合った話、つまり戦争に関する話が中心であったように思います。

 ――竹槍で藁人形を突いていたということですが、藁人形について詳しく教えて下さい。

湧上 藁人形は、案山子のような形をしていました。チャーチルやルーズベルト、蒋介石の似顔絵が貼られていました。それらの名前も書かれていたように思いますが、その点は記憶がはっきりしていません。

 ――竹槍訓練は女子もやっていたのですか?

湧上 上級生は女子も竹槍訓練を行っていました。男子は4年生以上はやっていたと思います。

 ――竹槍訓練の竹とはどのようなものだったのですか?

湧上 細い竹ではなかったです。藁人形を突くには一定の強度が必要なので、直径3~5センチくらいはあったように記憶しています。長さは、2メートルくらいあったかもしれません。とにかく、自分の身長よりかはだいぶ高かったです。竹槍は学校に置いていました。1人1本所有していたと思います。なお、竹槍は、業者が作ったのではありません。各自で用意していました。

 ――「戦争体験記」を読み、当時の皇民化教育は強烈なものであったことが理解できました。これに関連して、『校庭は墓場になった』という本で、少し違和感のある記述を見出しました。それは、船越の川崎ゆきさんによって書かれた寄稿文にある一文です。これについて湧上さんの意見を伺いたいと思います。このように書かれています。「戦前派のわたしたちは、個々の幸福を取り上げられても一言の不平も言えず、疑問も持たず、否、かえって自分も大和撫子の一人だ。自分のからだにも大和魂の血が流れているはずだと、女たちも自らを励まし戦争遂行に力をかして来た。そして今、(中略)戦争を知らない子どもたちにその悲惨さをくり返してはならないことを伝え、あのような過ちはもう決して決して(筆者追記:繰り返してはならない)と強く訴え続けたいのである」私には、「大和撫子」「大和魂の血」という表現に違和感を覚えます。かつて琉球王国という世界と交易するだけの国がありました。しかも、琉球王国には長い歴史があります。つまり、沖縄は、独自の歴史と文化を持っています。であれば、本土的な「大和撫子」「大和魂」という文言を沖縄の人が用いるのには、違和感を抱きませんか?
参考:退職婦人教職員全国連絡協議会(編)1983『校庭は墓場になった』ドメス出版p.362

湧上 違和感はまったくないですね。私もそういう感覚を持っていました。学校でそういうふうに教えていたのです。教育が徹底されていたのです。川崎さんや私だけではなく、当時の人は、みな、そうだったのです。

 ――戦争当時、女性は化粧をしていたのでしょうか?

湧上 那覇の上流階級では、化粧する女性もいたかもしれませんが、田舎では農業中心の生活をしていたので、簡単にクリームを塗る程度で、ふだん化粧する女性はいなかったのではないでしょうか。富名腰では、普段化粧している女性を見た記憶はありませんね。

 ――婦人会の人が、回覧板を首にぶら下げて活動していたと書かれていますが、婦人会の人が回覧板を回していたということでしょうか?

湧上 そうです。10世帯前後の隣組を1つの単位として、その世帯間で、婦人会の方々が回覧板を回していました。

 ――ちなみに、家を訪問するという点についてですが、当時、鍵がかかっているということは、ありましたでしょうか?

湧上 当時、鍵をかけている家はなかったのではないでしょうか。穴に棒を挿しこんで扉を固定したり、つっかえ棒で扉が開かないようにしたりするなどの仕掛けはあったように思いますが、集落の人々はみな顔見知りでしたし、鍵をかける習慣はなかったように記憶しています。

 ――武部隊の岩間俊憲軍曹とは戦後、年賀状のやり取りを行うようになったということですが、武部隊とはそれくらい親密だったのですね。

湧上 武部隊には若い人が多く、かれらは子供達と仲良くやっていました。武部隊は沖縄戦を前に台湾へ移動したので、沖縄での凄惨な体験を持っていません。富名腰での駐屯時代が懐かしかったのか、戦後、復帰直前に、武部隊の牛山中隊のメンバーは、14,15名ほどで船越に来ました。

 ――現在の街クリーン(街クリーン株鋤会社 船越工場)の近くの壕では、湧上さんの家族以外の世帯もいたとのことですが、最後は、湧上さんと正志さん、お爺様だけが残ることになったのですね。

湧上 そうです。私達家族がいた壕は、隣組家族が共同で使用するためにつくられた壕です。最初、私達家族以外の家族も壕にいましたが、戦争が激しくなると本家の親兄弟と一緒の方がよいと思い、イーヤマへ移ってしましましたね。私の家族以外はすべて分家筋家族でしたから。

 ――1944年の2学期、4年生以上は糸数城址の東側一帯の高台の陣地構築に動員されたとのことですが、女子生徒も参加したのですか?

湧上 上級生の女子は、バーキ(竹細工の籠)を持って石などを運んでいたように思います。

 ――前川区大道の南東側の山での戦車壕掘りでは、女子生徒は参加しましたか?

湧上 女生徒はいなかったように記憶しています。

 ――湧上さんが米兵に見つかって捕虜になるまでいた壕は、今もあるのですか?

湧上 現在は草木が生い茂っているので見に行くことができませんが、今も壕はあると思います。しかし、戦後77年も経過した現在、壕の天井を支えている松の木は腐食している可能性が高いので、中に入るのは危険であると思います。
 一方、メーヌモーに中島速射砲大隊(独立速射砲第7大隊)が使用した古寺(フルディラ)ガマ(自然の洞窟)の壕がありますが、こちらの壕は頑丈にできているので、幸い今でも中を見ることができると思います。中島大隊は前線に出動後も衛生兵2人と7~8人の女子救護班員がこの壕に残り、前線から送られた負傷兵の治療と看護にあたっていたといいます。
 私は、小学校で子供たちに南部戦線の話をすることがありますが、口頭だけではなかなか私のイメージを伝えることができません。ですので、写真を使うなどの工夫をしています。しかし、写真よりも、現物の遺跡のほうがよいです。古寺ガマの壕に行く歩道を整備したり、壕内の補強工事をしたり、サイン(説明付きの立て看板)をつくったりして、戦争史跡として見学ができるようにしてほしいですね。

山の左側に古寺ガマがある。戦後、湧上さんは中島大隊が残した速射砲弾から火薬を取って遊んだという。

 ――戦争中、何度も危険な目に遭っていますが、石川集落で機銃掃射の攻撃に身をさらされたのは特に恐かったのではないでしょうか?

湧上 大きな木の反対側に隠れて助かりましたが、今でも思い出すと恐怖を感じます。10歳にして、人間の命が簡単に消されてしまうという現実に直面したのですからね。忘れることはできません。ちなみに、当時5歳だった妹の政子に、先日、「当時のことについて何か覚えていないか」と聞いてみましたが、彼女は「殆ど何も覚えていない」と答えました。恐怖が残るか残らないかは、体験年齢によって変わるようですね。

 ――馬車が幾度か登場しますが、当時の馬車はどのようなものだったのでしょうか?

湧上 当時、馬車は、農産物や荷物を運ぶために使われていました。製糖場で黒砂糖を樽に詰めて、それを馬車に乗せて、市場のある那覇へ運んでいました。裕福な農家が馬車を有していました。戦前の富名腰では10軒くらいの農家が馬車を所有していたと記憶しています。

 ――家族5名はやんばるへ戻り、3名は富名腰へ帰ることになりました。これは、結果的に全員の命を救う最善の策となりましたが、この決断はなかなか難しかったと思います。この時、湧上さんは、お爺様に意見をしましたか?

湧上 いいえ。何も言っていません。子供は大人の判断に従うだけでした。

 ――ひもじい思いをすることが確実に分かっていたにもかかわらず、それでも、お母様含め女性と低年齢の弟妹は、やんばるへ戻りました。この選択も厳しいものであったはずです。

湧上 やはり、機銃掃射や艦砲射撃の恐怖が大きかったのです。南部では、もっと機銃掃射や艦砲射撃がひどいのではないか。母達は、そう考えると、物資の少ない山原へ戻るほうがまだマシと考えたのです。撃たれたら即死する可能性もありますからね。しかし、全員戻ると全員山原で倒れてしまう可能性がありました。それも、現実でした。それゆえに二手に分かれるという考えが出てきたのです。祖父が最終的に結論を出しました。祖父は、どちらがより危険であるかを判断することはできませんでした。最後は、戦争が終わった時にどちらかが生きていればよいという判断をせざるをえなかったのでしょう。これは、究極の選択だったのです。

 ――お母様の実家は前川(船越の南側と隣接する字)とのことですが、前川に行くことはよくありましたか?

湧上 母の実家にはよく遊びに行っていましたよ。大きなみかんの木があって、みかんを食べるのを楽しみにしていました。母方の祖母から可愛がられていました。ですので、「戦争体験記」でも書いた通り、われわれが富名腰の壕に戻った後、祖母は私と正志を心配して、幾度も会いに来てくれていました。

 ――その祖母がお亡くなりになったということを知った時は、かなり動揺したのではないでしょうか?

湧上 そうですね。ショックは大きかったです。当然、私の母も、実母を失くしたので、大きなショックを受けていました。

 解説:2002年に発刊された湧上豊さんの自分史『苦難を乗り越えて』(私家版)によると、湧上洋さんの母(湧上豊さん)の母(湧上洋さんの母方の祖母)はウシさんという名の方です。ウシさんの夫(豊さんの父)の仙三さんは、豊さんが5歳の時に、肺結核で亡くなりました。二十代で未亡人となったウシさんは彼女自身が苦労したこともあり、情け深い人でした。同書ではウシさんについて次のように記されています。「母は、大変情け深く、部落の貧しい同じ境遇の未亡人達に手作りの味噌や自分で織った反物等をあげるなどして貧しい人たちを助けておりました。母は戦争で亡くなりましたが、戦後母の友達が私たちにそのことをよく話しておりました」(p.5)

 また、沖縄戦時のウシさんについては、次のように書かれています。「後になって、姉がよく話していましたが、前川の母は富名腰の壕を五~六回ほど訪ねて行き、洋たちの着物を洗濯していたという。洋の頭や着物に一杯ノミとシラミが住み着いていたということで涙を流していたそうです。また、母はやんばるにいる私たちのことを案じ、生きているかどうかと大変心配していたという。そして、やんばるにいる孫たちにもしものことがあれば生きておれないといって涙を流していたそうです」(p.16)

 ――4月末頃お父様が壕を訪ねた時のことについてですが、この時、お父様は「第一線で戦っている石部隊の戦況が思わしくないので応援に行く。第一線の戦いで命を落とすかもしれない」と言った後、「この戦争はどうなるかわからない」と敗戦の可能性を示唆していますね。日本必勝と学校で教わっていた湧上さんは、お父様の言葉に違和感を覚えませんでしたか?

湧上 たしかに私自身は、その時点では、日本が負けるわけがないと考えていました。それは、軍国教育が徹底されていた証拠です。それに、子供は、そもそも、明るい未来しか考えられないものです。大人のように、状況を冷静に見て判断できませんでした。とにかく、その頃、祖父や父が日本の勝利に対して疑問を持ち始めていたのは間違いないです。今から考えると、それは論理的に理解できます。なぜなら、父の部隊が真嘉比(現那覇)方面に投入されることになったのは、第一線の浦添方面が敗けこんでいたからです。前田の前線で日本軍が連戦連勝であれば、応援に行く必要などありません。戦争は確実に負ける方向に向かっていたのです。

 ――神国日本は必ず勝つと教育されていた湧上さんにとっては、お父様の「この戦争はどうなるかわからない」という言葉は、タブーの言葉に思えなかったですか?

湧上 勿論、父は、身内に対してだから、「この戦争はどうなるかわからない」と言えたのです。当時10歳であった私でさえ、父は家族に対してだからそのような悲観的なことが言えるということを察することは出来ました。

 ――当時は鬼畜米英と叫ばれていた時代でしたが、お父様は、米兵は捕虜を殺さないと考えていましたね。

湧上 父親は学校の教員をやっていて、なおかつ防衛隊員の責任者でもあったので、いろんなところから情報を入手していた可能性がありますね。普通の人よりも、正しい情報に触れる機会が多かったのではないでしょうか。

 ――湧上さんご自身は、米兵につかまったら殺されるにきまっていると思っていたのでしょうか?

湧上 私は、学校教育のせいで、そう思わされていたと思います。だからといって、父や祖父の話を聞いて、考えが混乱するということも特になかったですね。

 ――お爺様は、息子の言葉を信じていましたね。「米兵が捕虜を殺すということはない」という言葉も迷いなく信じていました。そのように私は読めました。

湧上 祖父が息子を信頼し、息子の言葉を信じていたということは正しかったと思います。その信頼関係があったからこそ、私達家族は、集団心理に飲み込まれずに、現在の街クリーンの近くの壕に留まり、助かることができたと言えます。とはいえ、「米兵が捕虜を殺さない」ということについては、祖父自身の判断もあったと、私は考えています。祖父は、日露戦争などに従軍した人達から戦争の話を聞いていました。ですので、簡単に捕虜が殺されることはないと判断できていたのでしょう。広い視野で戦争について考えることができていたのではないでしょうか。

 ――避難民についてお聞きします。「5月の初め頃になると、私の壕からは首里・那覇上空や運玉森上空での砲弾の飛び交う状況が遠望され、それに伴い首里・那覇・西原及び中城方面から富名腰に逃げて来る避難民が急激に多くなった」という記述がありますが、避難民がどこから来たということは、どのようにして知ることができたのでしょうか?

湧上 祖父が避難者から直接話を聞いたのです。祖父は、避難民の通る道沿いに畑を持っていて、いつもそこでイモを収穫していたのですが、道行く避難民に声をかけて様々な情報を仕入れていたのです。ちなみに、避難民には、女、老人、子どもが多かったです。

 ――5月の初め頃、敵の爆撃により、富名腰集落の中央から西側一帯の大半の家が破壊されて焼失し、民家に隠れていた避難民の中から、多くの死傷者が出た、と記されていますが、これがきっかけで南部に逃げた家族も多かったのではないでしょうか?

湧上 それはなかったです。たしかに、これは大惨事ではありましたが、この時点で富名腰の住民は既にイーヤマの壕に避難していたので、この時人的被害を受けませんでした。一部、年配の人が自分の家にいるほうがよいと言って、自宅にいてイーヤマの壕に避難しませんでしたが、それは例外でした。あくまでも、死傷した多くの人は、那覇・首里・西原・中城などから来た避難民です。かれらは、壕を探すことができず、富名腰住民の家に避難していたので、爆撃をもろに受けることになったのです。ですので、イーヤマの壕に避難していた富名腰住民がこの爆撃をきっかけに、急に恐怖を覚えて、南部へ逃避するようになったということはないですね。富名腰住民が南部へ逃げだすきっかけになったのは、それより後のことです。糸数の方からイーヤマに向けて機関銃が発射された6月3日、多くの富名腰住民は、慌てて、イーヤマから南部に逃げるようになりました。

 ――留守番兵についてお聞きします。豚を盗みに来たのは、どの部隊の留守番兵だったのですか?

湧上 わかりません。「見たことのない兵隊だった」と、祖父は言っていました。ですので、玉城駐屯の部隊ではないと想像できます。当時はまだ首里から撤退する前のことなので、敗残兵ではなかったです。どこかの部隊の留守番兵ということしか言えません。

 ――5月中旬の2機編隊の米軍戦闘機による機銃掃射についてお聞きします。避難する人々が軍人も民間人も入り混じった状態で、無差別に攻撃されるという悲惨な現場を近くで見たとのことですが、これも忘れられないショッキングな出来事ではないでしょうか。

湧上 そうですね。米軍の戦闘機は、糸数の方から急降下して低空飛行で避難する人々を背後から撃ったのです。私は、「早く逃げろ」と心で叫びながら、その光景を見ていました。現在の街クリーンの近くの壕からは、パイロットの横顔が見えました。憎たらしいと思いました。アメリカへの憎しみを抱きました。アメリカが憎いという感情は戦後もしばらく残りましたね。

 ――アメリカ憎しという感情についてお聞きします。捕虜になった時、鬼と信じ込まされていたアメリカ兵が、食料を与えてくれたり、怪我を治療してくれたりして、驚くとともに、アメリカに好感を持つようになった、というような話が、沖縄戦の体験記には時々出てきます。捕虜になった後、それと同様の感情を抱くことはなかったですか?

湧上 暫くはなかったです。捕虜になってから、意外にも米兵の優しさに触れることはありましたが、暫くは、アメリカ人に好感を持つことはありませんでした。やはり、米軍戦闘機が機銃掃射で多くの人を殺した凄惨な出来事を間近で見ていたのが、心に一番大きく影響していると思います。その時の憎いという感情はすぐに消えるものではありませんでした。

 ――前線からの撤退兵が民間人とまぎれて逃げまどい、機銃掃射を受けるという現実を目の当たりにした時でも、まだ、日本は勝利すると思っていましたか?

湧上 はい。その時は、まだ、日本が敗けることはないと思っていました。

 ――米兵に捕まった直後に、カミースーという人に会っていますね。どのような人だったのですか?

湧上 カミースーというのは、名前です。大地主の家に住み込みで働く出稼ぎ労働者の1人でした。馬車を引く仕事などを受け持っていました。戦後、カミースーさんは、出身地へ帰らず、富名腰に戻りました。出身地で働く場所がなかったのか、富名腰のことが気に入っていたのか、わかりませんが。残念ながら、カミースーさんは、戦後2、3年経ってから亡くなりました。

 ――米兵に捕まった後、百名から知念へ移動させられましたね。百名で留まることはなかったのですね。

湧上 その頃、百名での収容人数が増加していて、満杯になっていたと思います。志喜屋でも同じような状況にありました。そのため、まだ収容人口の少なかった知念へ送られたのです。知念では、捕虜はあまりいませんでした。しかし、その後、3千人を超えるほど、人口は膨らみました。1つの家に、数所帯が入って生活するような状態になりました。

 ――知念区では、副区長となったお父様の発案で学校が再開されることになりましたが、生徒は多かったですか?

湧上 多かったです。私は5年生でしたが、5年生だけで50名以上いたように記憶しています。たしか2クラスあったように思います。

 ――知念区で、特攻機による体当たり攻撃を見たとのことですが、その時点でもまだ日本の勝利を確信していたのでしょうか?

湧上 この頃になると、さすがに、日本が勝利するという気持ちはなくなっていました。

解説:戦闘機による体当たり攻撃は、「統率の外道」として、大西滝治郎海軍中将の主導により、1944年10月にフィリピン・レイテ海戦で始められました。小磯国昭内閣の総辞職後鈴木貫太郎に組閣の命がくだった1945年4月5日の翌日6日、航空特攻「菊水一号」作戦を遂行するために、陸海軍機が、鹿屋や知覧などの九州各地の基地や台湾の基地から、沖縄周辺に群らがる米軍艦船を目指して出撃しました。この日(4月6日)だけでも、222機340人が戦死しました。その中には、学徒動員で召集された大学生も多くいました。その後も、4月7日90機140人、4月12日109機193人、4月16日157機244人が戦死しました。この特攻攻撃は、沖縄戦の組織的戦闘が終了した6月23日以降も続けられました。終わったのは8月です。『特別攻撃隊』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編)によると、3月中旬から終戦までの間に沖縄方面で戦死した航空特攻隊員は、陸海軍計3,002人となっています。

参照:読売新聞戦争責任検証委員会編著2006『検証戦争責任』2中央公論新社pp.140-141

 ――知念区での移動の自由はどのようなものでしたか?

湧上 収容されて一ヶ月後、別の区とも行き来できるようになりました。百名から知念までは常に行き来できるようになりました。移動許可を得る必要もありませんでした。捕虜収容所のある一帯では、移動は自由でした。

 ――知念区に収容されて2カ月経った頃に、糸数カメさんと辻の女性達による舞踊や歌劇の公演が催されたということですが、どのような様子だったか今でも覚えていますか?

湧上 今でもはっきり思い出すことができます。みな、芸能に飢えていたので、公演は大いに盛り上がりました。大勢の人が集まって喜んでいましたね。

 ――それがきっかけで、芸能に目覚めたということはありますか?

湧上 それはありません。当時はまだ10歳だったので、まだ、そういうことはなかったです。

 ――やんばるでの暮らしについて、お母様は何か語っていましたか?

湧上 惣慶での暮しはみじめだったとのことです。母は海へ行き、海藻や貝をとって飢えをしのいでいたと言っていました。山では野草をとりました。しかし、十分な食料は確保できなかったといいます。再会したときには、母はとても痩せていましたね。それでも、幸運だったほうです。壕から出て集落で住むようになってからのことですが、収容された家の主人が元金武の村長で、その人は母親達によくしてくれたそうです。母屋には入れませんでしたが、馬小屋で住まわせてもらったそうです。

解説:湧上豊さんは、自分史『苦難を乗り越えて』で、疎開での様子を次のように記しています。「私たち五名は美里で一泊した後、幸いにもやんばるへ行く馬車に乗せてもらい、翌日漢那に着き、戦争が終わるまで山の中の小屋で生活しました」(pp.13-14)、「幸いなことに、玉城村民の避難小屋が松田の山奥の開墾地に建てられていましたので、そこに移り住むことが出来ました。小屋には同郷の金城カメさん親子四名が既に住んでおり、私たち家族が一緒に住むことを好意を持って受け入れてくださいました。隣の小屋には、安室さんご家族も住んでおり、三家族は常に一緒に行動しておりました。身重の私は、二家族のお世話になることが多く、大変心強く思いました。(中略)私は身重でありましたので、他の人のようには食料探しの働きは出来ませんでした。子供たちは次第に痩せていき、本当に骨と皮ばかりになり、目ばかりキョロキョロさせていました。それでも、病気一つしないで元気でありました」(p.14)、「六月の終わり頃になりますと、日本は戦に負けたとの噂が聞かれるようになりました。しばらくすると日本が負けたのはデマではなく本当のことだと分かり、私たちは山を降り、惣慶の部落へ行きました。(中略)惣慶部落での生活は食料品の配給もあり、山の生活に比べて少しは良かったと思います。しかし、お産前の私には報酬として食料品のもらえる作業に出ることも出来ず、配給品だけでの生活は大変厳しいものでした」(p.14)

 ――お母様は、沖縄県立第一高等女学校を卒業なさっていますね。

湧上 はい。第一高女時代からの友人には、元沖縄県知事の翁長雄志さんの父、翁長助静さん(元真和志市長)の奥様(和子さん)がいます。長く交流がありました。

 ――お父様(湧上蒲助さん)についてお聞きします。米兵に見つかった時、防衛隊員であることをうまく隠し通すことができましたね。

湧上 父は、捕虜にされた時、洋服姿ではなく着物姿になっていました。学校の先生であるということを強く訴えて、兵隊や防衛隊員ではないと米兵に信じ込ませることができました。

 ――それどころか、米軍に信頼され、知念区の副区長に任命されました。

湧上 そうです。米軍の命令で知念区の副区長になり、収容所の運営にあたったのです。

 ――お父様は、2世の三木氏と親しくなり、彼から勧められて立候補し市会議員選挙に出馬しました。書籍(沖縄タイムス社編・発行1970『1970沖縄年鑑戦後25年総合版』)によると、1945年9月16日知念・前原・コザ・石川など16地区で市会議員選挙が、25日同16地区で市長選挙が行われたと書かれていますが、この市会議員選挙に立候補したということですね。

湧上 そうです。当選できました。父は、「百名から知念までの収容所には、捕虜として収容された多くの玉城村民がいたから、それが当選につながったのだろう」と、言っていました。

 ――お父様の学歴は、『玉城村 船越誌』に、1932年沖縄県師範学校本科第一部卒業、1944年沖縄県師範学校研究科修了と書かれています。また、文武両道で、師範学校在学中は、柔道や角力、水泳などで活躍し、最上級生の時、黒帯初段で柔道部主将だったとも書かれています。

湧上 そうですね。同級生には喜屋武真栄さんもいました。この方は師範学校時代、空手で活躍なさっていました。喜屋武真栄さんと父親は本当に仲が良く、戦後もずっと交友が続いていました。ここ(船越の湧上家)にもしばしば来ていました。父の死後も、時々ここに来て仏壇に手を合わせていました。国会議員になった後も来ました。来ると、思い出話をしたり、その時の国政などを話したりしていました。情に厚い方でした。

解説:喜屋武真栄氏(生没1912~1997年)は、北中城村生まれで、沖縄県祖国復帰協議会会長、沖縄教職員会会長として屋良朝苗氏と二人三脚で復帰運動に尽力しました。1970年には参議院議員となり、5期24年間務めました(https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-41084.html 2022年9月22日閲覧)。

 屋良朝苗著『屋良朝苗回顧録』(朝日新聞社1977年)には、喜屋武真栄氏に関する記述が多数出てきますが、ここでは、戦災校舎復興運動と教公二法阻止運動に関する記述を紹介しましょう。
 戦災校舎復興運動とは、沖縄戦で壊滅状態になった校舎の写真アルバムを日本全国に配布することで日本国民にその惨状を知らせ、復興の協力を求めるという運動でした。屋良朝苗氏は喜屋武真栄氏とともに、本土を広く行脚しながら、その運動を展開しました。1952年4月1日沖縄教職員会発足に伴い初代会長に就任した屋良朝苗氏は、同年、教職員会を中心に、PTA連合会、婦人連合会、市町村長会、青年連合会などの団体に呼びかけて、「沖縄戦災校舎復興促進期成会」を結成しました。また、屋良氏はこの会の会長に就任しました(p.21)。
 屋良朝苗氏は同書で、この運動が行われていた当時の喜屋武真栄氏について、こう記しています。「校舎復興と沖縄の実情を全国民に訴えるため、私は二十八(1953)年一月二十日、喜屋武真栄君を伴って、上京した。喜屋武君は、群島政府文教部で体育の指導主事をしていた。早くから全国行脚を決意していた私は、若手で一番適材と思われた彼に目をつけ、会長(教職員会会長)就任のさい「この計画は私一人ではできない」といって、ちゅうちょする彼を強引に教職員会に連れてきた。(略)喜屋武君は、訪れた先々で、空手の模範演技をするなどして、国民の沖縄に対する認識を一段と高めてくれた。彼はどんなつらいことがあっても黙々として動ぜず、私の目に狂いはなかった」(p.22)
 なお、屋良氏と喜屋武氏は、全国を回るだけでなく、全国行脚を開始した約半年後には、一度東京に戻り、国会議員一人一人に対する運動を開始しました。屋良氏は喜屋武氏とともに、議員会館でシラミつぶしに各議員に訴えて歩きました(p.31)。二人は常に一体で行動していたのです。
 1960年、沖縄県祖国復帰協議会が発足しましたが、会長を欠いたままの出発となりました。しかし、後日、赤嶺武次官公労委員長が選任されました。喜屋武真栄氏はその次に就任しました(p.73)。その後、教公二法阻止運動が出てきます。琉球政府中央教育委員会が1962年にまとめた教公二法案には、教員の政治活動を制限するなどの条項が盛り込まれていました(p.82)。1967年になると、民主党(当時の与党)は教公二法案成立に全力で取り組んできました。これに対し1月7日、教職員会をはじめ、沖縄社大党・人民党・社会党の野党三党、県労協、復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)などは、「教公二法阻止県民共闘会議」を結成しました。同会議の議長に就任したのが、喜屋武真栄氏です(p.82)。教公二法阻止運動の最終段階で、屋良朝苗氏は喜屋武真栄議長らとともに、立法院内で長嶺秋夫議長と会い、折衝することになりました。その時、外では、同法案に反対する教職員や労組員など2万人を超える大衆が立法院を取り囲みました。最後は、「教公二法案を棚上げし実質的に廃案にするという協定書」が与野党間で取り交わされることになりました(p.84)。
 この通り、喜屋武真栄氏は、米国統治時代、屋良朝苗氏と共に復帰運動や民主主義運動に邁進してきました。多忙な生活を送っていたはずの喜屋武真栄氏が、しばしば、船越の湧上家を訪ねてきていたというのは、驚きです。よほど2人の仲はよかったのでしょう。
参照文献:屋良朝苗1977年『屋良朝苗回顧録』朝日新聞社

 ――湧上さんの「戦争体験記」に登場する人々の中でもっとも印象的な人物は、湧上さんの祖父の次一さんです。独立独歩の人という印象を受けました。胆力があり、軍国主義に染まっている様子も感じられません。当時にしては、ちょっと珍しい人物ではないでしょうか。

湧上 ごく普通の人ですが、戦前は、区長や村会議員をやっていました。それに、湧上聾人が選挙に出た時には、手伝っていました。湧上聾人は、村会議員や県会議員、代議士を経験した人で、東条内閣に反対して代議士を辞めさせられたといいます。あの中野正剛とも関係がありました。祖父は、湧上聾人から影響を受け、体制に対して批判的に見る目も持っていたかもしれませんね。

解説:湧上聾人(改名前は湧上平二)氏(生没1888~1966年)は『玉城村 船越誌』では、次のように説明されています。師範学校に入学しましたが、聴覚障害のため一学期終了とともに退学を命じられました(p.351)。那覇の城岳の私立養秀中学に転学しましたが、校長が沖縄人の教師を辞めさせたことに同情して、ストライキを起こし集団退学をすることになりました(pp.351-352)。その後、早稲田大学高等師範科に入学するも、1912年に中退しました(p.360)。それ以後、政治の道を志し、1921年玉城村議会議員に当選し、村学務委員となりました(p.360)。1923年湧上平二を聾人と改名し、1925年から沖縄県議会議員を2期務めました(p.360)。沖縄における医療の改善の必要性を感じた聾人氏は、医療費の安い公営病院の開設のために、ハワイで寄付を募り、那覇市と交渉しましたが、これは失敗に終わりました。しかし、1931年那覇市天妃町に沖縄同仁病院を設立しました。この病院は1944年の「10・10空襲」まで経営されることになりました(p.354)。
 聾人氏は、小作人のための闘争にも参加しました。1932年には、サイパン島へ渡り、南洋興発株式会社のキビ作小作人の争議支援を行いました(p.354)。さらに、1938年、沖縄製糖株式会社による石垣島の4千町歩の買収計画に対して、自作農主義者として反対運動を展開し、買収工作を阻止しました(p.354、p.360)。
 1937年、県議会議員に再び当選し3期目の議員活動を行うことになりました(p.360)。1942年には、中野正剛の援助を受けて立候補して衆議院議員に当選しました(p.360)。
 聾人氏は憲政会に所属していました。そのため、東京の憲政会本部から派遣されていた代議士諸公から那覇の旅館に呼び付けられ、衆議院第二区の補欠選挙で山本実彦(憲政会)の応援を強制されました。しかし、聾人氏は、「先輩(大城幸之一氏。政友会から立候補)には弓を引けない」と断りました。あやうく除名処分にされるところを、中野正剛代議士の取り成しで、処分は免れることになりました(p.353)。
 なお、聾人氏は、衆議院議員に当選するも、東条内閣の翼賛政治に反対したために弾圧を受け、1944年に失格することになりました(p.354)。
参照文献:船越誌編集委員会2002『玉城村 船越誌』玉城村船越公民館

解説:中野正剛(生没1886~1943年)は、激情的且つ反逆的な政治家でした。木坂順一郎著『昭和の歴史7 太平洋戦争』(小学館1994年)を参照して、その点について以下に説明します。
 中野は早稲田大学卒業後、東京朝日新聞に入社しました。その後、政界へ転じ、民本主義的大アジア主義的ナショナリストとして活躍しましたが、満州事変(1931年)前後からファシストへ転向し、東方会を率いるようになりました。中野は、大東亜共栄圏建設には賛成でしたが、政治は政治家が指導すべきで、軍人や官僚が政治に介入することは邪道であると考えていました。口を開けば、官僚統制や軍人の横暴を批判したため、東条首相からは目の敵にされていました。
 政府(東条内閣)は、1942年に創立された翼賛会(翼賛政治会。総裁・阿部信行陸軍大将)を唯一の政治結社と認め、他の政治結社を解散させる方針をとりました。その結果、右翼の小政党も解散に追い込まれ、思想団体として存続する道を選ばざるをえなくなりました。当時全国に300の支部と20万人の青年隊を擁していた東方会を率いていた中野正剛は、この翼賛体制に最後まで抵抗しましたが、同年5月23日東方会を解散し、同会を思想団体・東方同志会として再生させることになりました(pp.107-109)。
 東方会が解散に追い込まれても、中野は東条に対する批判を止めませんでした。1943年1月1日付の『朝日新聞』に「戦時宰相論」を書き、暗に東条首相を批判しました。東条はこの寄稿に激怒し、同新聞を発禁処分にしました(p.377)。
 また、中野正剛・赤尾敏などの右翼議員や、斎藤隆夫・安藤正純らの自由主義的議員は、東条内閣が1943年1月の第81回議会で成立させた戦時刑事特別法改正案(治安対策の強化)や戦時行政特例法案(政府の経済運営に対する統制権限の強化)を「東条独裁」であるとして、批判しました(p.332)。さらに、1943年6月17日、第82回臨時議会の会期中に開かれた「翼賛会」代議士会において、中野は、会期延長を主張する鳩山一郎の援護射撃をし、東条内閣の独裁ぶりを攻撃しました。東条首相のまわりには「茶坊主ばかりが集まっている」とまで言って批判しました(p.366)。翼賛会に愛想をつかした中野正剛は、阿部総裁に脱会届をたたきつけました。その後、鳩山ら5名も脱退しました。これにより、一国一党の翼賛会に亀裂が入るようになりました(p.366)。
 翼賛会を脱退した中野は岡田啓介や近衛文麿と密会し、東条打倒工作を進めましたが、これは失敗に終わりました。治安当局は中野を倒閣容疑で警視庁に留置しました。その後、東京憲兵隊が取り調べを行ないました。帰宅が許された後、中野は割腹自殺をとげました(pp.377-378)。
参照文献:木坂順一郎1994『昭和の歴史7 太平洋戦争』小学館

 ――船越に戻ってきたら、家財一式がすっかり焼けてしまっていたとのことですが、これもショックが大きかったのではないですか?

湧上 ええ。非常に残念に思いました。実は、爆撃や艦砲射撃では、家は焼けなかったのです。知念に収容されていた時、しばらくの間、家はまだありました。しかし、戦争が終わってから焼けました。日本の敗残兵が家に入ったのを米兵が見て、掃討作戦の一環として家を焼いたと、聞いています。

 ――戦後、長屋から船越での生活を開始したのでしょうか?

湧上 そうです。建設隊がつくった長屋の家は、元の家よりもずっと狭かったです。私が就職するようになってから、ようやく、しっかりした家を建てるようになりましたが、それまでは、茅葺の家で住んでいました。台風のたびに破壊され、造り直しをすることになりました。当時は、船越のどこでも同じような状況でした。茅葺の家では、蚊が入ってくるので、蚊帳を使って寝ていましたよ。

 ――戦後の生活も大変だったのですね。

湧上 簡易水道もよく壊れました。ウチの家でも、簡易水道を使っていましたが、しょっちゅう断水しました。幸い、我が家には井戸があったので、井戸の水を利用することができましたが、ほかの家では苦労したと思います。上水道が通るようになった1976年より前は、そのように水の利用も不便だったのです。ちなみに、船越におけるバスの開通は1953年、電気の利用開始は1962年です。戦後すぐに不自由のない暮らしができるようになったわけではありません。

 ――戦争を繰り返してはいけないと強く思う人が減ってきているように思いますが、その点についてはどのように考えていますか?

湧上 戦争体験者が沖縄戦のことを忘れることはないと思いますが、体験していない人の関心は薄くなっているように思います。船越でもそうです。

 ――富名腰の道は、前線からの撤退兵や住民が摩文仁に逃げていく時のルートになっていたので、富名腰で亡くなった人は多いです。そのような歴史があっても、沖縄戦に対する意識の低下はまぬがれないのでしょうか?

湧上 自分の家の目の前に基地があり、それによる被害に(さいな)まれる日常生活を送っていれば、戦争や安全保障に関心を持つでしょうが、船越には基地はありません。現在の若者は、沖縄戦が遠い昔のことと思っています。かれらは、親から戦争の悲惨さについて聞いたことがあっても、今、強く戦争に関心を持つことはないのではないでしょうか。

 ――遺骨が混じっている土を辺野古基地建設に使うことについてはどう思いますか?

湧上 やはりむこう(辺野古)に持って行くのはよくないと思います。私の身内でも、1人運玉森で亡くなっています。もう1人は摩文仁か真壁で亡くなっています。現在もかれらの遺骨はどこにあるかわからないまま、拾うことができていない状態にあります。かれらの骨が辺野古に持って行かれると思うと、嫌な気がします。戦地だった土地の土、しかも、まだ遺骨が埋まっている土地の土が、軍事基地に利用されるというのはいかがなものか。これはおかしいと、誰でも思うのではないでしょうか。

4.さいごに(筆者の感想)

 湧上洋さんは、戦前、祖父母・父母・子供5人(洋さん含む)の9人で生活していましたが、沖縄戦の年の3月、父は防衛隊に召集されるようになり(西村大隊に配属)、家族と離れて住むようになりました。
 米軍の沖縄本島上陸前、祖父母・母・子供5人は、漢那(現宜野座村)へ避難することになりましたが、そこでは食料が十分にないことが明らかになったため、富名腰へ戻ることになりました。しかし、南下するに従って機銃掃射や艦砲射撃が激しくなり、富名腰へ戻ることにも危険が伴うことは明白になりました。松本集落(現沖縄市)では、激しい空襲があり、恐怖が大きくなりました。結局、祖父の決断で、洋さんと祖父、正志さんの3人は富名腰に戻ることになり、残りの5人は北部(ヤンバル)へ戻ることになりました。湧上洋さんは、富名腰に戻ると、メーヌモーの高い位置(現在の街クリーン株式会社船越工場の近く)にある壕で、捕虜になるまで暮らすことになりました。
 湧上洋さんの「戦争体験記」を、捕虜になる前の話に限定して、大きく2つに分けると、「学校や近所などの社会と接点のあった時」と「壕の中で社会から隔離された時」に分けられます。後者では、民間人と日本兵が米軍の攻撃で死傷する話が出てきました。筆者は、「戦争体験記」を読んだ時、その惨たらしい出来事にもっとも衝撃を受けましたが、インタビュウを通じてもっと強い印象を受けたことは、前者で出てきた徹底した軍国教育です。インタビュウ中、幾度もこの話が出たからです。
 歴史を学ぶ際には、「個人が社会にどのような影響を与えたか」そして「社会が個人にどのように影響を与えたか」という2つの視点を持つことが大事ですが、当時10歳だった湧上さんの個人史を見る際には、前者はあまり重要ではありません。一方、後者は、とても重要です。筆者は、戦前の皇民化教育や軍国教育が苛烈であったことは、書籍等を通じて知っていましたが、湧上さんの「戦争体験記」を読んだり、湧上さんにインタビュウをしたりすることで、それが紛れもない事実であることを知ることができました。おさらいとして、そのことを示す例を「戦争体験記」から3つ引用してみます。

 昭和18年になると、集団登校制が実施された。校門近くになると、上級生を先頭に2列縦隊に整列し、歩調を取って校門に入ったものである。そして、天皇・皇后両陛下の「御真影(顔写真)」と「教育勅語」が納められていた奉安殿の前を通る時は必ず最敬礼をすることになっていて、私達生徒は登下校の際、どんなに急いでいても立ち止まって最敬礼をしたものである。

 教室に入ると授業の始まる前に、天照大御神と書かれた神棚に向かって柏手を打ち、その後、明治天皇の御製のうた「あさみどり 澄みわたりたる 大空の 広きをおのが 心ともがな」を歌ったものである。

 運動場での全校生徒の朝礼では、最初に東(皇居のある方向)に向かって最敬礼をするなど、必ず宮城遥拝が行われた。また、音楽の時間には、「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ」の歌を絶えず歌わされたものである。

 なお、湧上さんは、「戦争体験記」(2021年8月)とは別に、小学生向けの講演のためのレジュメ「私の戦争体験」(2020年6月17日)も作成していますが、それには、「国民学校における学校教育」について、次のようにまとめられています。

1)皇民化教育の内容は、天皇(皇室)を絶対的なものとし、天皇(皇室)への尊崇と皇国(天皇が治める国)への忠誠心を養う教育。天皇・国家に忠誠を尽くす教育。

2)国民は天皇の臣民(しもべ)であり、国(天皇)への絶対服従。

3)天皇陛下(皇国)のために、戦場で死ぬことは軍人の本望。

4)戦死すると靖国の神として祀られるので、日本人として最大の名誉。

5)沖縄地上戦の頃、アメリカ戦艦群への日本軍の神風特攻隊による自爆攻撃や、アメリカ戦車群への爆薬を背負っての自爆攻撃。


 「あのような教育環境にいると、日本が負けると考えられるようにはならなかったです。神国日本は必ず勝つ。生徒はみな、そう信じ切っていました」と湧上さんは、インタビュウで語っていました。湧上さんがようやく日本の敗北を意識するようになったのは、捕虜になって知念区で暮らすようになった頃です。
 一方、湧上さんの父(蒲助さん)と祖父(次一さん)は、沖縄戦開始の早い段階(4月末)で、日本が敗ける可能性があることに気付き始めました。父は、沖縄県師範学校本科第一部および沖縄県師範学校研究科を卒業した学業エリートでした。広い視野で物事を考える訓練を受けていたでしょう。それゆえに彼が時局を冷静に分析することができたと言えるかもしれません。
 しかし、祖父は、『玉城村 船越誌』で「百姓の子には学問はいらないという当時の風習に従って、小学校も尋常科で終わった」(p.355)とある通り、高学歴の人ではありませんでした。しかし、次一さんは、時代の空気に染まることなく、冷静に物事を考え、柔軟な思考で難局を乗り切りました。家族がやんばると富名腰の二手に別れて暮らすという判断は、結果として、家族全員の命を救うことになりました。また、富名腰の字民が壕から出て南下するようになった時でも集団心理に飲み込まれることなく、メーヌモーの壕に留まり続けました。さらに、壕暮らしの3人の様子を見に来た息子(蒲助さん)が防衛隊の責任者として任務に戻ろうとした際には、「勝ち目の無い戦争で部隊に戻る必要はない」と言って、息子を引き留めました。これは、部隊に戻ると死ぬ可能性が高いということを予測することができたからでしょう。そこに「神国日本は必ず勝つ」という幻想はまったくありません。当時、このように戦局を正しくみることができた理由は、湧上洋さんが指摘するように、選挙応援を通じて湧上聾人氏から影響を受けることがあったということでしょう。湧上聾人氏は、南洋興発株式会社や沖縄製糖株式会社などの大企業を相手に小作人のために戦った反骨の人です。また、衆議院議員時代は、東条内閣の翼賛政治に反対しました(そのため弾圧を受けて失格する)。次一さんは、体制を批判的に見ることも重要であるということを聾人氏から学んでいたのでしょう。そのおかげで、時代の空気に飲み込まれずにすんだと言えます。
 次一さんが、中野正剛の思想から影響を受けたかどうかについてはわかりませんが、聾人氏の東条内閣への態度を見る限り、聾人氏が中野正剛の影響を受けたことは間違いがないと言えます。
 筆者は、湧上洋さんの戦争体験を知ることで、何事に対しても冷静に見ることができることが大切であると感じました。また、大きな力に対しては批判的に見ることも必要であると思いました(あらゆる点において批判的である必要はありませんが)。歴史は複雑で、常に多面的に見る必要がありますが、個々人の特異な体験を聞くことがそのために役立つことを、湧上さんの戦争体験記を知ることにより、改めて認識することができました。

文責:堀川輝之