キャプション | 「クジラの解体作業」巨体のクジラを解体する工場があった。長刀で解体を行う。1952年。(Photo瀬底正俊) |
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解説 |
・捕鯨ではなく、鯨の解体作業をおこなっていた。(長刀のようなもので切り裂く) ・大元は大洋漁業(本土の会社)。大洋ホエールズというプロ野球チームも経営していた。 ・県内には捕鯨をやる港が何か所かあった。たまたまここの敷地が空いていた。 ・鉄くずスクラップ業が解散して、その敷地を利用した。(字誌63P )。 ・資源を獲りすぎたので捕鯨が衰退した。近海にいなくなった。(字誌) ・ハコクジラという種類を多く獲っていた。(字誌64P) ・体長12~15m。 ・クジラの肉は豚肉のようだった。 ・クジラの肉のにおいはよく臭いと言われるが、そんなに臭いと思わなかった人もいる。 ・キャッチボートの大砲で捕獲し母船で運ぶ。船首が空いている船。 ・母船が沖にいて、湾内にはタグボートで引っ張ってきた。 ・捕鯨船(特殊な設備を施している船。常にクジラを探している)が獲って、他の船(タグボート)が運ぶ。 ・船は字誌のP63を参照。クレーンが付いていて大きかった。 ・船には4~5名が乗っていた。捕鯨船は遠方から解体場まで運ぶだけで、船上では特に作業は無かった。 ・解体は10~15人が作業していた。4~5時間ぐらい。 ・解体職人は本土の人が多かった。岩手県人も多かったよう。(字誌63P) ・津波古の人も15、6人働いていた。城間森昌、山城正雄、上原忠造など。 ・解体場は500~800坪あった。現住所1074-32、42~54にかけての地域。 ・昼夜関係なく作業をしていた。クジラを入れる冷凍設備などがなかったから。陸揚げされたら夜でも解体していた。 ・長刀は2~3mあった。解体する部位によって使い分けていた。 ・従業員の給料は不明。 ・解体した肉は主に本土に出荷されていた。 ・クジラ肉は刺身用として津波古周辺に少量ずつ配られた。主として大和の本社(大洋漁業?)に送られたとみられる。(字誌63P) ・解体のとき、血などが海に流れて真っ赤になり、馬天港は魚類が寄ってきた。歯は三線の撥(ばち)に加工したが柔らかかった。(字誌63P) ・クジラの味について。豚肉のような感じ。硬いという印象しかない、蒸気で炊いた肉は味がなかった、など。 ・不要なものはあまりなかったが、仲瀬毛の海辺には骨が捨てられていた。 ・馬天以外では糸満と名護が捕鯨をやっていた。字誌63Pに詳しい。 ・クジラが獲れなかったときは休業を余儀なくされたが、そのときは釣りをしている人が多かった。(学校から帰ってくるときにその風景をみたことがある) 【調査・執筆:盛口海(珊瑚舎スコーレ)】 |
大分類 | 写真 |
小分類 | デジタルデータ |
資料コード | 000000 |
内容コード | C000002408 |
点数 | 1 |
資料群 | ー |
資料タイトル | ー |
年代区分 | 1950年代 |
キーワード | 漁業労働 |
場所 | 佐敷-津波古 |
撮影年月日 | 1952// |
責任表示 | 南城市教育委員会 |
出典 | 津波古字誌編集委員会(編) 2012 『津波古字誌』字津波古自治会. |
情報登録日 | 2022/03/01 |