キャプション | 「漁船の台風被害」台風11号で沈没したマグロ船。第8清徳丸(49トン)。1979年8月23日(Photo瀬底正俊) |
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解説 |
1.当時の台風の波の荒さはどれくらいでしたか? 写真右側の柱状のものは、馬天製糖工場の煙突です。煙突と船のレーダー部分との間に、陸揚げされた船が見えます。船の修理も行われていました。木造の船もつくっていました。その場所・施設を「造船場」と言っていました。台風11号は大型でした。波の高さは5~6m以上あったと思います。港のひがたもありました。周辺は大きな被害を受けました。馬天港の突堤にぶちあたる波は高さ10mぐらいはありました。翌日の新聞記事になりました(馬天港)。台風11号の名前はジュディ。(スマホより)。台風シーズンにはいっているので、この台風としては猛烈な風、雨が強かったです。 2.当時、海に近い家の台風対策はどのような事をしていたのですか?(台風の時はどんなことをして過ごしていたのですか) トタン屋根の家はトタンの上に石や材木をのっけたりしていました。弱そうな家の人はとなりの強そうな家へ避難することもありました。テレビなどもない時代でしたので、台風が過ぎ去るのを祈り、我慢しました。当時の家は木造でしたので家の広い所に避難していました。台風対策は引き戸が飛ばされないか対策しました。ろうそくを灯してトランプ遊びしました。ソーミンタシヤーを食べました。当時は台風対策はしていたと思います。台風が来る前から電灯がつかない所もありました。夜が大変だったでしょう。 3.台風の時、民家にはどんな被害がありましたか? 当時の民家は、ほとんどが茅ぶきで、今のような鉄筋コンクリートの家ではありません。それで屋根が吹き飛ばされたり、つぶれたりしました。当時の家はカヤブキで台風によってカヤが飛ばされて被害も大きくて大変でした。かやぶきのカヤが飛ばされたり。屋根のトタンが吹き飛ばされました。 4.当時の船の台風対策はどのようなものでしたか? 陸揚げされた船もあったようです。その他、わかりません。当時は船揚場がなくて港岸の近くに係留してやっていました。小さなサバニは陸上げ。5トン未満のポンポン船は冨祖崎区の浜崎川へ避難しました。マグロ船は港内でロープを四方八方からめぐらして対策しました。ほとんどが陸上げされていた。 5.この船はまだ海の中に沈んでいるのですか?また、他の船にも被害はありましたか? 大きな被害はありませんでした。写真の突堤は、東西に伸び拡張され、現在も使用されています。 木船で沈んだり流されていました。陸上げして解体しました。港内はさざなみ号で浚渫したため、被害にあった船は沈んでいません。この船は跡形もありません。いまではそういう話もないです。たぶんあったと思います。 6.毎年台風の際、馬天港はどのような状態になりますか?(陸揚げする漁師がたくさん、他の港所属の船も避難に来る、など) 与那原船籍の船が字冨祖崎の川に避難したことがあったようです。台風の際は船揚場もなく港岸の近くに避難していました。小さな船は陸上げしました。毎年、台風シーズンがあります。漁師たちは台風が来るのが分かっていたと思います。 【調査・執筆:田場美羽(珊瑚舎スコーレ)】 |
大分類 | 写真 |
小分類 | デジタルデータ |
資料コード | 000000 |
内容コード | C000002407 |
点数 | 1 |
資料群 | ー |
資料タイトル | ー |
年代区分 | 1970年代 |
キーワード | 風景漁業 |
場所 | 佐敷-津波古 |
撮影年月日 | 1979/08/23 |
責任表示 | 南城市教育委員会 |
出典 | 津波古字誌編集委員会(編) 2012 『津波古字誌』字津波古自治会. |
情報登録日 | 2022/03/01 |