■楽しかった幼稚園の閉園
私の家族は祖母(数え80歳近く)、両親、子ども6人(私より10歳上の長男、8歳上の長女、6歳上の次男、3歳上の三男、四男の私、2歳下の次女)の合計9人で、私は5番目の子どもである。沖縄戦が始まった昭和20年(1945)当時、私は6歳だった。その年の4月、私は知念国民学校1年生として入学する予定だった。
沖縄戦前の昭和19年(1944)、安座真区事務所(今の字公民館。戦前はムラヤーとも呼ばれていた)の幼稚園 ※1 で習った唱歌が、今でも忘れられない思い出の1つである。「ぼくは軍人大好きだ 今に大きくなったなら 軍刀さげて剣さして お馬に乗ってはいドードー ※2」という歌詞だった。
楽しい幼稚園生活だったが、区事務所は日本兵の宿舎にすることになり、幼稚園はわずか1カ月半ほどで閉園 ※3 となった。その後、日本兵の数が多くなり、宿舎として使われる民家もあった。上空には、毎日のようにアメリカ軍のB-29 ※4 の偵察機が飛んでいて、戦争が近づいて来るのを感じるようになった。
■家族で防空壕掘り
沖縄が戦場になるということで、我が家でも私と長兄の2人で防空壕(ぼうくうごう)を掘った ※5。掘った場所は、現在の安座真にある慰霊塔の上の平地である ※6。掘ったのはフィンチャーゴーというもので、平坦地に溝のような穴を掘り、その上に木材や板などを置き、さらにその上に土などをかぶせたものである。ところが、十・十空襲で那覇の民間のフィンチャーゴーがほとんどやられたという噂を聞き、別の壕を掘ることになった。
そこで、ワンヂン(安座真集落南西の丘陵上)近くの崖(がけ)の麓(ふもと)のナカンザと呼ばれる場所に壕を掘った。そこに位牌(いはい)や家具などを持ち込んで避難の準備をした。そこから20メートルほど離れたところでは、別の家族も壕を掘っていた ※7。
■屋比久に避難
アメリカ軍が沖縄に来て、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)や飛行機(ひこうき)からのガソリン投下(とうか)が行われ、集落の瓦葺き(かわらぶき)の家や茅葺き(かやぶき)の家が数軒(すうけん)焼かれた。私たち家族はナカンザの壕に避難した。この壕の真上には武(たけ)部隊が新たに大きな壕を掘っていた。そのため、艦砲射撃に狙われたら危ないと心配していた。しばらくして、虫の知らせか、近くでギンバエが異常発生(いじょうはっせい)したということがわかった。それを知った母が「ここは危険(きけん)だ」と言い、家族でその壕を出て、斎場御嶽(セーファウタキ)の近くの岩陰(いわかげ)に隠(かく)れた。このとき、父は義勇隊として日本軍の荷物運びに動員されていて留守だった。そのため、母はこの後どこに避難したらいいか判断できず、迷っていた。この岩陰から海を見ると、コマカ島や久高島(くだか)の沖にアメリカ軍の艦船(かんせん)がずらっと並んでいて、ここも危ないと思った。
そのとき、日本軍の命令を受けた区長から「安座真(あざま)の人達は佐敷村(さしき)(現 南城市)屋比久(やびく)に避難(ひなん)しなさい」と言われたので、私たちは屋比久に行くことになった。その日の夕方、ナカンザの壕に戻り、夕飯(芋)を食べた。その後、家族で手分けして衣類や食器、食糧などを持てるだけ持ち、屋比久に向かって夜道を歩いていった ※8。
屋比久までは、ワンヂンからウティンダという道(群道)に入り、その道を通って移動した ※9。この道は大正時代に山腹を削って造った道で、所々で崖崩れが起きていた。そのため道が細くなっているところもあった。
移動中に一番困ったのは、戦争直前に日本軍が掘った戦車壕(戦車の進撃を妨害するために掘られた穴)だった。この壕は、道から1メートルほど掘り下げられており、通るためには下ったり上がったりしなければならなかった。しかし、一緒に避難していた祖母は日頃から杖なしで歩くことができなかった。そのため、戦車壕にさしかかるたびに、母や兄は荷物を置き、祖母を抱えて降ろしたり上げたりした。そういったことが3回ほどあった。
また、移動している途中で、赤青白の点滅する光が私たちの近くを横切った。私はそれが珍しくて見ていたが、長兄に「これは曳光弾(えいこうだん)というものだ。当たると死ぬよ」と言われ、びっくりした。
屋比久に着いたのは夜遅い時間だったと思う。このときに私たちの後を追いかけて来た父と合流することができた。
屋比久では〈トンチジョウ小(グヮー)〉というエーキンチュ(お金持ち)の家にお世話になった ※10。大きな瓦葺き(かわらぶき)の家だった。〈トンチジョウ小〉の家族は、おじいさん、母親、子ども3人の5人家族だった。
私たちは、昼は安全そうなところを探して隠れ、夜は〈トンチジョウ小〉の家に戻って泊まった。
現在の手登根公民館あたりには壕(ほう)が掘られていたと思う。その壕には日本軍がいて、そこから砲弾(ほうだん)を撃(う)っていた。日本軍の高射砲は移動式だった。大きな荷車のようなものに載せていた。そして、撃った後は高射砲を動かして壕の中に入れて逃げ込んでいた。すると、アメリカ軍のトンボ(偵察機)が飛んできて上空を旋回した。しばらくするとトンボがいなくなり、アメリカ軍の艦砲射撃が飛んできていた。
〈トンチジョウ小〉の家には防空壕がなかったため、私たちはスクナ森(ムイ)の木が茂っていた場所(手登根の壕がすぐ見えた)に壕を掘って避難した。そこは見晴らしがよく、艦砲射撃などもよく見えた。この壕にしばらくいたが、馬天沖からの艦砲射撃が激しくなったので、〈トンチジョウ小〉の家族と別れて移動することになった。
■知念村に戻る
そこで私たちは、知念村(現 南城市)久手堅(くでけん)の「カイグンショウ」の近くの壕 ※11 を目指した。壕は現在の知念屋外運動場の山手(やまて)のところにあった。このあたりには日本軍の壕がたくさんあった。夜間の移動時には、三男兄(当時小学4年生ぐらい)が先頭になって、地雷(じらい)のなさそうなところを選んで進んで行った ※12。
「カイグンショウ」の壕は、日本軍が掘った壕だったが、兵隊が出て行ったあとだったため使われていなかった。このころは梅雨(つゆ)の時期で、よく雨が降り、じめじめしていた。その壕で一週間か10日間ほど過ごした。
次に、私たちは斎場御嶽の近くのナガニクブー(地名)にある大きな壕 ※13 に移動した。この壕には弾薬が置かれていたが、日本軍の指示で義勇隊として徴兵された久手堅の人々により運び出されていた。壷川(つぼがわ)(現 那覇市)まで運ばれたという話もある。そこには10家族ほどの民間人が避難していた。梅雨時だったため壕内ではあちこちに水滴(すいてき)が落ちて、じめじめしていた。人数が多くて壕内での煮炊き(にたき)ができなかったので、夜になると安座真まで下って煮炊きをしたが、それは危険を冒(おか)しての行動だった。
■伊原・安座真での収容生活
ナガニクブーの壕は人の出入りが多かった。そのため、「日本は負けている」という情報も入ってきていた。そこで、残っていた米を全部食べてから捕虜(ほりょ)になろうということになった。鍋がなかったので一斗缶を探してきて、近くの岩陰で米を炊いていた。そのとき、叔父(おじ)が来て「みんな手を挙(あ)げて下りて行ったよ(アメリカ軍に収容(しゅうよう)されたよ)」と言った。それで私たちも安座真に行った ※14。
大雨の中、生活する道具だけを持ち、家族みんなで歩いて板馬(イチャンマ)に向かった。長兄が大鍋をモッコに入れて持ち、三男兄がムシロを持ち、父が妹をおんぶしていた。途中、安座真の殿(トゥン)(拝所)の広場にアメリカ兵らしき人々が、小さなテントを張っているのが見えた。雨の中、キャーキャーと騒いでいるようだった。
現在の国道331号線(当時は県道)を進み、知名(ちな)と板馬の間にあるクビリ(坂になった小道)のところで、2世のアメリカ兵が立っていた。避難民を誘導しながら、「道の側を歩かず、車が通った跡を歩きなさい」と言っていた ※15。
私たちは板馬のヤードゥイまで歩いた後、アメリカ軍のスリークォーター車(アメリカ軍の代表的なトラック)に乗せられた。そして佐敷村(現 南城市)伊原(いばら)に連れて行かれた。伊原では焼け残った民家に入ることになり、同じ家に入れられたほかの数(すう)家族と一緒に暮らした。食べ物が少なくて、父は安座真に芋掘りに行っていた。
伊原に2週間ほどいたのち、安座真に移った。安座真は焼け野原になっていたので、掘っ立て小屋(ほったてごや)を建てて住んだ。そこではサトウキビを搾(しぼ)った汁(しる)でアメ玉を作って食べていた。安座真に来て親から知らされたが、私たちが最初に避難したナカンザの壕の近くに爆弾(ばくだん)が落ち、私たちの壕は土で覆(おお)いかぶされてしまったそうだ。母の判断(はんだん)のおかげで助かったと思った。
■ヤンバルへ移動
安座真に来て1ヵ月ほど経ったころ、アメリカ軍から佐敷村新里に集まるようにとの移動命令があった。私たちは荷物を持って新里へ行き、そこで一泊した。その晩にアメリカ軍が空砲(くうほう)を撃った。大人が話しているのを聞いて戦争が終わったことを知った。この日は8月15日だった ※16。
翌日、馬天港(ばてんこう)(現 南城市)に移動した。その後、私たちは馬天港からLST(戦車揚陸艦(せんしゃようりくかん))に乗せられて、船の行先も知らされないまま出港した。大人も子どもも不安な思いをしていた。出航した日は、私の記憶では8月16日だと思う。
■ヤンバルでの生活
私たちは辺野古(へのこ)(現 名護市(なごし))で船から降ろされた。そこから大型トラックに乗せられ、嘉陽(かよう)(現 名護市)で降ろされた。嘉陽には知念村や佐敷村、西原村(現 西原町)の人がたくさんいた。そこで、「子どもたちは勉強をさせるので海岸に出てくるように」と言われ、砂浜でABCの文字を書くなどの授業を受けた ※17。しかし嘉陽にいたのは3、4日ほどで、授業を受けた次の日には安部(あぶ)(現 名護市)に移動した ※18。安部では木を切って茅葺き小屋を建て、2、3家族で一緒に暮らした ※19。
ヤンバルでの生活で一番困ったのは食べ物がなかったことだ。アメリカ軍の配給物資だけでは足りなかった。そこで、海水を汲んできてシンメーナービ(円錐状で丸底の大鍋)で塩をつくり、その塩と地元の人の芋を物々交換した。また、パパイヤの木を切って芯の柔らかい部分を食べたり、食べられそうな草や木の葉っぱなどを食べたりもした。
家族全員がマラリアに罹(かか)ったが、みんな命を失うことはなかった。
■神風台風が来襲
ヤンバルにいたころ、大型台風(おおがたたいふう)が発生した ※20。台風の高潮で安部川が氾濫(はんらん)し、水が集落にまで流れ込んでいた。川沿いには淡水魚やウツボなどが打ち上げられていた。私が暮らしていた掘っ立て小屋は竹で床を造っていたので、地面から3センチメートルほど高い位置にあった。一方、ほとんどの避難民は地面に直接カヤなどを敷いて暮らしていた。そのため、台風のときは荷物を水で濡らさないために、床に置かず全部持っていた。荷物をまとめて置く場所がなかったので、手で持ち続けるしかなく、寝ることができないようだった。
しかし、この台風のおかげで私たちは安座真に帰ることができた。安座真にはアメリカ軍が基地を建設しようとしていた。だが、建設中の建物は台風で壊滅したので、アメリカ軍は別の場所に基地を建設することにしたそうだ。この台風は、私たちにとって、まさに神風台風 ※21 だった。
■GMCに乗って安座真に帰る
数ヵ月後、知念村に帰れることになった。アメリカ軍から、迎えが来る日時の連絡があった。知念村に帰っても家もないだろうと思い、持ち帰れるものは全て持っていけるように準備した。私たちは年が明けてから安座真に帰ったと思うが、早くに帰れたほうだと思う。
迎えに来たGMC(アメリカ軍のトラック)には木の枠が付いていた。枠の高さまで荷物を詰め込み、人はその上に乗り出発した。途中、二見(ふたみ)と辺野古(どちらも現 名護市)の間の坂道(私たちは東喜(とうき)※22 の坂と言っていた)に松の木があった。その松の木はGMCの荷台に乗っている人たちにぶつかりそうな高さにまで伸びていた。私たちが乗っている車の前の車に乗った人たちが、荷台の中からノコギリを取り出して、その木を切り落した。
■戦後初期の安座真
安座真に戻ると、一帯(いったい)は敷(し)きならされて道路が造(つく)られていた ※23。安座真と知名の間の山にも、ブルドーザーを入れて道を造っていた。安座真の隣の知名一帯まで平らに敷きならされていたので、アメリカ軍はここに基地(きち)を建設する計画を立てていたのではないかと思う。
大型台風の影響で、アメリカ軍が造っていた仮設桟橋や、その先に繋がっていた浮桟橋、たくさんの砲弾や手りゅう弾などが、海岸に打ち上げられていた ※24。知名岬にはアメリカ軍の艦船が打ち上げられ、台風のすごさを見せつけていた。この艦船はのちに、アメリカ軍のサルベージ船が持ち去った。しばらくして真鍮(しんちゅう)ブームが起き、その次にスクラップブームが起きた。
安座真では、造られてあった小屋で暮らした。この小屋は戦争に出た若い人たちが捕虜(PW)になった後、アメリカ軍の指示で造った小屋だった。捕虜になっていた人たちは柵の中に入れられていた。
小屋は長さ四間(よま)(約7.2メートル)、幅二間(ふたま)(約3.6メートル)ぐらいで、真ん中に仕切りがあった。その小屋に2家族が入って住んだ。仕切りの先はおば家族であったが、どちらの家族にも10人近い人数がいた。この小屋で暮らし始めて間もなく、祖母が亡くなった。祖母は安座真に戻ってくることができた安心感で亡くなったのかもしれない。
安座真にはヒューム管(かん)工場が建てられ、4メートルぐらいの高さのやぐらが造られた。鉄製の大きなものだった。このやぐらが移動するためのレール(約30メートル)も敷かれていた。
また、村山さんという韓国系のハワイ2世の人がアメリカ軍の通訳(つうやく)を務(つと)めていた。配給所(はいきゅうじょ)があったが、のちにトタン葺(ぶ)きの公民館に造り替えられた。この公民館の資材は村山さんがアメリカ軍からもらってきてくれたものだった。そのおかげで、当時にしては立派な公民館ができた。その公民館で避難民が2年ほど間借りしていた。
安座真に帰ってきた年には、知念小学校に通うことができた。その次の年から6・3・3制度が始まった。私が中学生になるまでは、知念小学校と具志堅小学校があった。
(2015年 知花幸栄・永吉盛信による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 屋比久さんのお話によると「当時も幼稚園と言っていた。希望すれば4 ~ 5才(数え7歳)でも入園できた。人数は結構いたと思うが覚えているのは2人」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※2 明治37年(1904)に発表された軍歌「日本海軍」(作詞:大和田建樹、作曲:小山作之助)の替え歌。替え歌の作詞は水谷まさる。
※3 屋比久さんのお話によると「日本兵が空き家や大きな民家を使うことになったため、再び開園することはなかった」とのこと。屋比久さんはサーターヤー(製糖場)で遊んでいたという(2024年事務局聞き取り)。
※4 ボーイング社が開発した4発重爆撃機。アメリカ軍の爆撃機を代表する機体の1つ。乗員区画が与圧されており、高高度飛行性能が高かったため、飛行高度によっては日本軍の高射砲(高角砲)の射程に入らず、また戦闘機による迎撃が困難であった。
※5 屋比久さんのお話によると「掘った時期は十・十空襲の後。当時、長兄は学校を卒業しており、次兄・三兄が学校に通っていた。長兄は足に神経痛を患っていたため防衛隊に動員されていなかった。また、陣地構築などの軍作業ではなく、鍛冶屋の手伝いをしていた」(2024年事務局聞き取り)。
※6 屋比久さんのお話によると「現在の安座真公民館近くの丘陵の麓にある、安久仁の塔の裏側にある農道あたりに掘った」(2024年事務局聞き取り)。
※7 屋比久さんのお話によると「安座真には自然壕がないため、各家庭で防空壕を掘っていた」(2024年事務局聞き取り)。
※8 屋比久さんのお話によると「このとき、ナカンザの壕に入れていた位牌も持って行った」(2024年事務局聞き取り)。
※9 屋比久さんのお話によると「現在の国道331号線(当時は県道)はあった。しかし、県道より群道の方が近道だった。」また、「ウティンダは、ウティンダヤードゥイのことで、現在は墓だけがある」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※10 屋比久さんのお話によると「事前に割り当て地が決まっており、誰々の家を訪ねなさいと指示されていた。受け入れる側も避難者が来ることを知っていた」とのこと(2024年聞き取り)。
※11 『知念村史 第三巻 戦争体験記』によると、海軍が知念村久手堅ワンヂン原に兵舎を、久手堅上原に二基の高射砲陣地を建造したという(知念村史編集委員会編『知念村史 第三巻 戦争体験記』知念村役場 1994 37 ~ 38頁。同書ではこれらが陸軍の中城湾臨時要塞部隊の施設だとされているが、同部隊関係の資料にこれらの施設は出てこない。また2024年時点、南城市教育委員会文化課は、海軍の資料でこれらの施設に言及しているものを見つけていないため、これらの施設がどの部隊により建造されたものなのかは不明である)。また、屋比久さんのお話によると「昭和15年頃に日本海軍が造った高射砲陣地の跡地。この陣地は現在の知念屋外運動公園付近にあった。そこには高射砲2門を主に、それに付随する探照灯及び弾薬庫が設置されていた。また、管理兵舎と発電所は現在の久手堅ワンヂン原団地にあった。しかし、高射砲等の主設備は沖縄戦前に小禄飛行場近くに移設された。鉄筋コンクリート造りの弾薬庫とトタン屋根の兵舎は沖縄戦まであったので、その管理者がカイグンショウと看板表示をしていたと思う。」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※12 屋比久さんのお話によると「地雷は3センチメートルほどの穴を掘り、その中に爆薬を詰める。その穴の大きさに合わせて草を被せていたのだが、その草は枯れていた。また、被せた草は周辺の草と違っていた。それらを気を付けて見ながら歩いていたが、大人より子どものほうが見つけやすかった」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※13 屋比久さんのお話によると「この壕は角のように突き出している2つの岩の間にあった。あざまサンサンビーチから見える。この岩は漁師が海に出た際、位置確認の目印としていた」(2024年事務局聞き取り)。
※14 炊いていたお米について、屋比久さんによると「食べたかどうかの記憶がない。もしかしたら炊けるのを待たずに移動したかもしれない」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※15 屋比久さんのお話によると「道の側は地雷が埋まっている可能性があったが歩きやすかった。車が通った跡の道は安全だが、すべりやすく歩きにくかった」また、「避難民を立ち止まらせて持ち物チェックをするようなことはなかった」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※16 このころについて屋比久さんは次のように話している。「8月13日にナガニクブーの壕で生まれた子どもがいる。この子のお母さんは私のいとこにあたる。そのお母さんが『この子が生まれるころには戦争終わっているかな』とお腹をさすっていたことを覚えている。また8月15日に、このお母さんは生まれた子どもを抱っこしながら、荷物を入れたユナバーキ(目の粗い竹カゴ)を頭に乗せて新里まで来ていた」(2024年事務局聞き取り)。
※17 屋比久さんのお話によると「学齢期の子どもたちを集めて授業をしていた。自分より5、6歳上の子たちもいた。足元の砂を集めたり、ならしたりして文字を書いた」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※18 屋比久さんのお話によると「嘉陽も人が多すぎたため、安部に移動することになった」(2024年事務局聞き取り)。
※19 屋比久さんのお話によると「一緒に暮らしたのは〈ヤビク〉と〈ニシヤビク〉で、どちらもお父さんが兵隊に行っていた。〈ヤビク〉は祖母と娘(20歳くらい)の2人家族、〈ニシヤビク〉は母と子どもの3人家族だった」(2024年事務局聞き取り)。
※20 昭和20年(1945)9月17日に鹿児島県枕崎市付近に上陸した台風16号(枕崎台風)のことか。なお、屋比久さんは「9月16日に台風が来た」と話している(2024年事務局聞き取り)。
※21 屋比久さんのお話によると「日本軍は、毎年上陸する台風のことを、全て「神風台風」と言っていた。戦時中は台風が来てもおかしくない時期だったが、なぜか台風が来なかった」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※22 二見区はスギンダ(シジンダ)とスックの2小集落からなる区であった。両地域は民間人収容地域として、スギンダ(シジンダ)は東喜市、スックは二見市となった。「東喜」の由来には諸説あるが、定かではない。現在は、二見集落内を流れる杉田川に掛けられた「東喜橋」が当時の名残を残しているのみである(名護市史編さん委員会、名護市史『戦争』編専門部会編『名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦』名護市役所 2016 443頁,498頁参照)。
※23 屋比久さんのお話によると「3つあったサーターヤーの全てが敷きならされ、1つの敷地になっていた。アメリカ軍が基地を建設するための下準備をする場所だった。現在の安座真公民館一帯」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※24 屋比久さんのお話によると「無事だった手りゅう弾(1箱)を隠しておき、1個ずつ海に投げて魚を捕った」とのこと(2024年事務局聞き取り)
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015797 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 59-64 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |