■親戚一同で宮崎県に疎開
戦時中(せんじちゅう)の私の家族は、父方(ちちかた)の曾祖父母(そうそふぼ)と祖父母(セイスケとカメ)、両親(盛忠(せいちゅう)と節子(せつこ))、2歳上の兄(盛賢(せいけん))、妹2人(ヨリコとカヨコ)、私の10人だった。父は日本兵として従軍(じゅうぐん)していたため不在だったが、どこに派遣(はけん)されていたのかはわからない。
私が国民学校(こくみんがっこう)1年生だった昭和19年(1944)、「沖縄が危ないから本土(ほんど)に逃(に)げなさい」という指示があり、曾祖父母以外の家族で疎開(そかい)することになった。曾祖父母は、いろいろな情報を得ていたようで、「ここ(沖縄)は全滅(ぜんめつ)するから、家族みんなで疎開しなさい」と勧(すす)めてくれた。ありがたいアドバイスだった。
祖父と母、下の妹(カヨコ)は、先にほかの人々と一緒に大阪(おおさか)に疎開した。その後、祖母と兄、上の妹(ヨリコ)、私の4人は、祖父のきょうだいとその家族とともに、知念村(ちねんそん)(現 南城市)から疎開する人々と一緒に宮崎県(みやざきけん)へ疎開した。大阪にいた祖父、母、カヨコとは、宮崎県で合流(ごうりゅう)した。私たち家族と祖父のきょうだいの家族を合わせると、総勢(そうぜい)約20人の大所帯(おおじょたい)だった。
疎開にどのような荷物を持っていったのか、那覇(なは)の港までどうやって行ったのかは、当時幼(おさな)かったこともあり覚えていない。那覇で人力車(じんりきしゃ)に乗ったことは記憶(きおく)に残っている。
■疎開先の京町温泉
疎開船は鹿児島(かごしま)に着き、私たちはそこから疎開先(宮崎県西諸県郡真幸村大字向江(にしもろかたぐんまさきむらおおあざむかえ)。現 宮崎県えびの市向江)へ移動した。初めの一時期(いちじき)は、名前は覚えていないがどこかのお寺に宿泊したと思う。地元の人たちからの歓迎会のようなものはなく、よそものが来た、という感じだった。
その後、私たちは京町温泉(きょうまちおんせん)※1 の、カイジョーさんという現地の大地主(おおじぬし)の2階建ての屋敷(やしき)に移った。おそらく親戚一同で同じ屋敷に移ったのではないかと思う。私たち家族は2階に住んだ。屋敷のそばには温泉があったが、それもカイジョーさんが所有していたと思う。
カイジョーさんは年配(ねんぱい)の男性で、私たちはカイジョータンメー(カイジョーおじいさん)と呼んでいた。カイジョーはおそらく名前だったと思う。姓は覚えていない。私はまだ子どもで遊びたい盛りだったので、カイジョーさんによく叱(しか)られた。
京町温泉には、傷(きず)や病気を治すために温泉に入りに来る人が多くいた。(傷痍軍人(しょういぐんじん)などの)日本兵は見たことがない。また、私たち家族のほかにも、知念村からの疎開者が何人かいた。
疎開中に空襲警報(くうしゅうけいほう)が何度かあった。そのときには山奥の、自然にできた岩と岩の間のくぼみのようなところに避難(ひなん)した。空襲で弾(たま)が落とされたという話を聞いたことはあるが、私たちが住んでいた地域が被害を受けたことはなかった。日々が平穏(へいおん)すぎて、(今振り返っても)本当に戦争中だったのかな、と思うくらいだった。
■母や祖母たちが農家の手伝い
若い男性はみんな兵隊にとられていたため、疎開者の中には女性や年配の人が多かった。そのため、疎開地では女性の労働力に頼ることが多かった。母や祖母、疎開した女性たちも働いていた。かれらは、日雇(ひやと)いで現地の農家の手伝いに行き、家族を食べさせてくれた。
麦飯(むぎめし)をよく食べたこと、それが美味(おい)しかったことを覚えている。彼女たちは働き者だったので、現地の農家からよく手伝いを頼まれていた。私は家族で疎開していたおかげで、極度(きょくど)にひもじい思いをすることはなかった。
しかし、学童疎開(がくどうそかい)の子どもたちが、(ひもじさのために)食べ残しや道にポイ捨てされた食べ物を拾って食べているのを見たことがある。また、学童疎開の子どもたちが隊列(たいれつ)を組んで歩いていたのを見たことがある ※2。かれらがなぜ京町温泉に立ち寄っていたのかはわからない。
■疎開先での学校生活
私はカイジョーさんの屋敷から学校に通った。学校は屋敷から近かったように思う。田植(たう)えのときには、学校の生徒たちも手伝いをした。
学校の近くには大きな川(川内川(せんだいがわ))があった。川が1、2度ほど氾濫(はんらん)し、学校も浸水(しんすい)したことがあった。
担任はオオハラトシコ先生で、私のことをかわいがってくれた。沖縄の人を見ると遠くからでも殴(なぐ)りにくるような子もいたが、仲良く遊んでくれる子たちもいた。彼らとはコマで遊んだり、竹をよじ登ったり下りたりしてよく遊んだ。当時の同級生とは戦後も年賀状のやり取りをしたり、会いに行ったりして、交流を続けた。
■沖縄に引揚げ
疎開中、一緒に疎開した親戚のうちの一人が病気で亡くなった。残った者はみんな、戦争が終わると沖縄に戻った。鹿児島から船に乗って帰った覚えがある。
船は久場崎(くばさき)(現 中城村(なかぐすくそん))に着き、そこでDDTをかけられた。久場崎からはGMC(アメリカ軍のトラック)に乗って知念村に帰った。
知念村に帰ると、家は焼けずに残っていた。沖縄戦中、家の近くの山に逃げていた曾祖父母も、無事に戦争を生き延びていた。父も戦地から無事に復員(ふくいん)した。
(2018年 事務局による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 疎開先の向江に現在もある温泉街。
※2 読谷村史編集委員会編『読谷村史第五巻資料編4 戦時記録上巻』(読谷村役場 2004 499頁)によると、加久藤村(かくとうむら)(現 宮崎県えびの市)に疎開していた読谷山村(ゆんたんざそん)(現 読谷村(よみたんそん))の古堅(ふるげん)国民学校の疎開学童たちが、真冬に京町温泉まで温泉に入りに行ったことが時々あったという。彼ら以外にも京町温泉に来ていた疎開学童がいたのかは定かではないが、永吉さんが話すように、京町温泉に疎開学童が来ていたのは確かだったといえる。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015795 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 55-56 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |