■自宅が中城湾臨時要塞部隊の宿舎になる
[1941年、中城湾臨時要塞(なかぐすくわんりんじようさい)が現在の与那原(よなばる)(現 与那原町)に建設され、中城湾臨時要塞部隊が駐屯するようになった。翌年9月の編成改正で、同部隊の重砲兵連隊(じゅうほうへいれんたい)第2中隊が、伊計島(いけいじま)(現 うるま市)から知念半島(当時の村民の証言を総合すると、知念村知名(ちな)・安座真(あざま)・久手堅(くでけん)一帯だと思われる)へ移駐することになった。移駐時期は不明。また、いつごろかはわからないが、第2中隊は知念村民に「吉岡隊」と呼ばれるようになった ※1。]
第2中隊の浜田少尉(しょうい)が率いる第1小隊は、知念岬(ウフグシク原(バル) ※2)に大砲陣地を2基構築した ※3。二木(ふたき)少尉が率いる第2小隊は、知名の須久名原(スクナバル)(ワイトゥイ。岩の切り通しの道)に大砲1門と、野戦砲1門の陣地、知名グスク(クビリ。坂になった小道のこと)に防空壕を構築した ※4。また、知名海岸には銃口が数ヵ所あった。
中隊長と3人の下士官(かしかん)(石原軍曹ほか2人)は個人の家を、ほかの一般兵は知名区事務所を宿舎にしていた。私の家にも、当時の区長だった神谷五福さんと、二木少尉と2人の部下が宿借りの相談に訪れ、二木少尉に12畳(じょう)の床の間(とこのま)と廊下(ろうか)、勉強室を無償(むしょう)で貸すことになった。かれらの食事は、当番兵が区事務所の一般兵隊舎の炊事場から運んでいた。朝夕の清掃も当番兵が行っていた。風呂(ふろ)は区事務所の隊舎に設置されていた。夜中に時々、女性の声が聞こえたが、その声が「慰安婦(いあんふ)」だったのかどうかはわからない。
毎朝、陸軍の准尉(じゅんい)が率いる12人ほどの兵隊が、二木少尉が泊っていた私の家の前を通り、門前で「歩調を取れ」という声で行進し、陣地壕掘り(じんちごうほり)に出かけていた。
■沖縄戦前の生活
私が昭和18年(1943)に知念国民学校(現在の知念小学校の前身)に入学して間もなく、担任の先生が徴兵(ちょうへい)された。その後、校舎の一部が日本軍の兵舎として使用されることになった。そのため、生徒は各字(あざ)の事務所を転々と移動して、授業を受けることになった。また、陣地構築に民間人が動員されるようになった。
昭和19年(1944)の十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)のあとからは、避難壕を掘るよう指示が出され、親戚や隣近所の人同士で壕掘りを始めた。このように、アメリカ軍が沖縄に上陸する前から、知念村(現 南城市)でも戦争の準備が着々と進められていた。
■避難生活
昭和20年(1945)3月末にアメリカ軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)が開始されると、私たち家族は、家財道具(かざいどうぐ)を適当な場所へ埋め、食料や衣類などを可能な限り持って、知名(ちな)に造っていた自分たちの壕に避難した。当時のわが家は、明治33年(1900)生まれの祖父母と母親、兄弟2人の計5人家族だった。
そのころから、住宅地はアメリカ軍の飛行機からまかれたガソリンと焼夷弾(しょういだん)で焼き払われた。知名の須久名原(スクナバル)の大砲陣地への道路には日本軍が地雷(じらい)を敷設(ふせつ)していた。そのため、逃げまどう馬や牛などの家畜(かちく)が地雷を踏んで爆発させていた。それらの死んだ家畜を食肉にしようと取りに行き、銃撃(じゅうげき)されて亡くなった人もいた。また夜間に、壕から家に宿泊しに行って焼死した家族もいた。
ワイトゥイの大砲陣地から2、3発発砲(はっぽう)すると、間もなく空爆とすさまじい艦砲射撃(かんぽうしゃげき)が1日中続いた。大砲陣地やスクナ森(ムイ)頂上の高射砲陣地、知名グスク海岸の特攻艇(とっこうてい)陣地がことごとく爆破され、兵隊は各陣地を撤去(てっきょ)するはめに追い込まれた。住民も迫ってくる艦砲射撃に、自分たちの壕では危ないという思いから、山を越えて佐敷(さしき)方面へと避難を始めた。
私たち家族は、現在ゴルフ場になっているところ(守礼(しゅれい)カントリークラブ ※5)の道路を歩いて、佐敷村(現 南城市)伊原(いばら)のウティンダ壕に避難した。何日かして、知名へ戻ろうと伊原の壕を出て歩いていた。その途中、スクガー屋取(ヤードゥイ)(現在の南城市知念字知念にあった。現在は廃村)のところまで来たときに、アメリカ兵の姿が見えた。そのため方向を変え、久原(くはら)集落方面へ逃げて、そこの壕で生活した。
■収容所生活
それから約一週間後に知名に戻ると、「アメリカ軍は何もしない、早く出て来い」と日本語で呼び掛けられた。投降(とうこう)をうながすビラも配られ、着の身着のままで捕虜(ほりょ)となった。それまで見たことのなかった、青い目と赤い髪をしたアメリカ兵にびっくりした。
それから私たちは、佐敷村屋比久(やびく)のテント張りの収容所(しゅうようじょ)に収容された。数日後に知名へと移って、戦火を免(まぬが)れた瓦葺(かわらぶき)の家に数世帯ずつ入居して過ごした。
そこでの生活もつかの間、今度はヤンバル(沖縄本島北部)への立ち退き命令が出された。軍用トラックに乗せられて佐敷村新里(しんざと)の仮収容所で1泊し、翌日に歩いて馬天(ばてん)の港へ行った。そこから上陸用舟艇(じょうりくようしゅうてい)に乗せられて、久志(くし)集落(現 名護市(なごし))で降ろされた。
私たち知名と安座真(あざま)の人々は、主に嘉陽(かよう)、安部(あぶ)(ともに現在の名護市)にGMC(米軍のトラック)で運ばれて収容所生活を始めた。そこにいたおよそ7、8ヵ月の間にマラリアが流行し、お年寄りや体の弱い人の中から、ほとんど毎日、高熱で亡くなる者が出た。棺箱(かんばこ)などもなかったので、遺体は毛布に包んで近くの埋葬場(まいそうじょう)で埋めるという残酷(ざんこく)なものだった。
■村に帰る
昭和21年(1946)2月に村へ帰れることになり、トラックで運ばれて安座真(あざま)で降ろされた。
知名(ちな)と安座真の境(さかい)の大川(ウフガーラ)が境界線(きょうかいせん)で、知名側が立ち入り禁止になっていた。知名から海野(うみの)、久原(くはら)、さらに佐敷村仲伊保(なかいほ)までの土地が、飛行場を思わせるほどに平坦(へいたん)にならされていた。安座真に来た一週間後に旧正月(きゅうしょうがつ)を迎えた。
知念村に帰ってから、私は知念初等学校に通った。教室は初めテント張りのものだったが、のちにコンセット校舎に変わった。その校舎は、窓もない馬小屋のような教室で、生徒はガリ版刷りの教科書を使って勉強した。
■日本兵に殺された知念村の人々
戦時中、知名の壕で日本兵による住民の虐殺(ぎゃくさつ)があった。吉岡隊が知名城原(ちなグスクバル)(クビリ)に構築した壕から兵隊が撤収したあと、そこに知名出身の男性3人(1人は村の収入役、2人は字の幹部)が入って区民や家屋などの見守りのために滞在していた。
そこに逃亡兵が現れて「壕を出て行け」と言ったため、村収入役の男性が「民間人も戦場で戦っている中で逃げてくるとは何事か」と言ったところ、逃亡兵は「お前らはスパイだろう」と言うなり彼を銃殺した。残った2人は横穴から逃げて命拾いしたという。
射殺された男性の母親は当時90歳近く、村内でもまれな高齢者だった。ほかの家族がヤンバルへ疎開したあと、男性は高齢の母親を近くの岩穴に避難させて、毎日食事を届けていた。男性が亡くなったあと、私たちが知名の壕にいる間は、母親のいとこにあたる私の祖母が代わりに食事を運んでいた。母親は、「息子が来なくなっているが元気か」と気にしていたという。私たちが伊原の壕に移動してからは食事を届けることができなくなった。その後、彼女は餓死(がし)してしまったのではないか。
男性を埋葬(まいそう)した場所は、のちにアメリカ軍が道路拡張のためブルドーザーで敷きならしてしまった。散乱した遺骨を、私たちが拾ってお墓に納めた。
■「戦争は命の尊厳を喪失させる」
戦時中、私は幼かったが、当時の様々なことがはっきり記憶に残っている。自分の家に吉岡隊の小隊長が宿泊していたし、村婦人会の顧問(こもん)だった母が国防(こくぼう)婦人会(1942年に大日本婦人会となる)の活動で、陣地構築や兵舎などに行く際に一緒について行っていたからである。
戦争は人類を滅亡させるばかりでなく、地球の自然や文化を破壊・滅失させ、残るものにとっても何一つして益(やく)ない。戦争は愚か(おろか)であり、命の尊厳(そんげん)を喪失(そうしつ)させる。いかなることがあっても起こしてはならない。
(2018年 知花幸栄による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』(南城市教育委員会 2021〔第2版〕)530 ~ 531頁参照。
※2 ウフグスク一帯のことだと思われる。
※3 知念村史編集委員会編『知念村史 第三巻 戦争体験記』(知念村役場 1994)39頁では、浜田少尉は第2小隊長で、「サイハの下」(同書同頁に出てくる「知念岬サイハ嶽の東斜面」のことか)の陣地についた、とされている。
※4 前掲『知念村史』39頁では、二木少尉は第1小隊長で、「知名のワイトイ」の陣地についた、とされている。
※5 現 南城市知念知名にあるゴルフ場。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015794 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 52-54 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |