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仲里 幸雄(なかざと ゆきお)(昭和10年生まれ 知念・志喜屋)【キーワード】村内避難

■タタンシチーに避難
[昭和19年(1944)の夏ごろから、知念村では第32軍の部隊の駐屯(ちゅうとん)や陣地構築(じんちこうちく)が始まった ※1。]志喜屋の公民館にも球(たま)部隊の兵隊が何人か駐屯していた。その中にナカヤマ軍曹(ぐんそう)という分隊長(ぶんたいちょう)がいて、私は彼に非常に可愛(かわい)がられた。私は当時から物おじしない性格で、ほかの子どもたちが怖がっていても、自分は平気で兵隊にすり寄っていき、肩車(かたぐるま)などをしてもらっていた。
志喜屋にはタタンシチー ※2、ヤドーヤー ※3、エーグチガマなどの自然壕(ごう)があった。(沖縄戦が始まったころ)バンバンバンバンという銃声(じゅうせい)と、コロコロという薬莢(やっきょう)が地面に落ちる音が聞こえるようになった。私たち家族はタタンシチーに避難(ひなん)した。志喜屋の住民はタタンシチーとヤドーヤーに分かれて避難していた。タタンシチーは小さな壕で、10世帯(せたい)ぐらいが避難していたと思う。

■タタンシチーが煙に包まれる
タタンシチーに避難してしばらく経ったある日、アメリカ軍がタタンシチーに何かを入れて、壕内に煙が立ち込めた。あれは催涙弾(さいるいだん)だったのではないかと思う。息ができなくなり、オホオホと咳(せき)をして壕の外に出た。すると薬莢が落下しコロコロという音がした。初めはそれが友軍(ゆうぐん)(味方の軍隊のこと)のものだと思っていた。
あるおじいさんが、「自分は生きたって長くはないから、出て行く」と言って上の方に登って行った。その後、彼が走って戻ってきて、「エー、これヒージャーミー(アメリカ兵のこと)たちだよ」と言った。そのため、ここは危ないということになり、その夜にタタンシチーを出ることになった。

■タタンシチーの上から機銃射撃
(私たちがタタンシチーから出た後)私のいとこのフミが(移動先を探して)マジク(志喜屋集落南部にある岩山)に様子を見に行ったが、あわてて帰ってきた。どうしたのか聞くと、そこで何人かが死んでいたという。そのため私たちはマジクには行かず、カンチャの向かいにあった小さな壕 ※4 に移動することにした。
夜間に農道を通って移動した。私たちの後ろには、どこの人かわからないが数人の避難民がいた。そのうちの1人の女性は、鉄兜(てつかぶと)代わりに羽釜(はがま)をかぶっていたが、石ころにつまずいて転んだ。そのとき、羽釜が落ちてコロコロという、ちょっとした音が出た。
すると、タタンシチーの上からアメリカ軍が、盲滅法(めくらめっぽう)に機銃射撃(きじゅうしゃげき)をしてきた。羽釜を落とした音はちょっとした物音だったのに、アメリカ軍はそれを捉(とら)えてバンバンと撃ってきたので、すごいなと思った。私が戦争で1番怖い思いをしたのはこのときだった。
戦争というのは人間の神経を麻痺(まひ)させる。怖いものを怖いと思わなくなる。汚いものを汚いと思わなくなる。知念岬には日本軍の陣地があったため、アメリカ軍の小型砲艦(こがたほうかん)はその近くまで来て、毎日のようにボンボンとそこを砲撃(ほうげき)していた。私は(それに慣れてしまい)艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を怖いと思わなくなった。また、人が死んで腐(くさ)れていようが、汚いとも何とも思わなくなった。(戦争は)それだけ人間の神経を麻痺させる。

■ヤドーヤーに避難
私たちはカンチャの向かいの壕に到着した。そこには人がいた形跡(けいせき)が残っていた。しかし、この壕は雨漏(あまも)りをしていたので、私たちはヤドーヤーに移動することにした。
ヤドーヤーの入口には、いつの時代のものかわからない人骨(じんこつ)が集められていた。風葬(ふうそう)された人の骨だったのかもしれない。
ヤドーヤーの入口は海に向かって開いており、入口にはやわらかい泥の沼地(ぬまち)があった。そこに艦砲(かんぽう)の弾(たま)が2発落ちてきたが、沼地に突き刺さっただけで爆発しなかった。もし爆発していたら私たちはヤドーヤーに閉じ込められてしまっただろうから、非常に運が良かった。
ヤドーヤーにいたとき、日本兵が何人か来て「ここは軍が使うから出て行け」と私たちに言ったことがあった。しかし、あるお年寄りが「どうせ死ぬんだったら、シマウティシヌ(自分の集落で死ぬ)」と言って頑(がん)として拒(こば)んだため、兵隊たちはあきらめて出て行った。もしこのときに日本兵に追い出されて南部に行っていたら、どうなっていたかわからない。

■「戦争中ほどたくさん肉を食べたことはない」
志喜屋の人々は、貧しい家庭でも正月用に食べるための豚(ぶた)を養(やしな)っていたし、山羊(やぎ)も飼っていた。沖縄戦のとき、アメリカ軍は夕方になると攻撃を止めていたので、私たちはその間に豚や山羊などをつぶして食べていた。当時、野菜はほとんどなかった。
また、日本軍の馬だったのかどうかはわからないが、どこからか来た馬が数頭、志喜屋の田んぼの稲(いね)を食べに集まってきていた。その馬たちがアメリカ軍の機銃掃射(きじゅうそうしゃ)で殺されたので、私たちはその肉も取りに行って食べた。だから私は、戦争中ほどたくさん肉を食べたことはない。肉には不自由しなかった。

■ヤドーヤーを出る
(ヤドーヤーにいた志喜屋の人たちは)安全な場所(ヤドーヤー)にいたし、「(アメリカ軍に捕まると)男は殺される、女は強姦(ごうかん)される」という噂も聞いていたため、(他の壕にいた人たちよりも)長い間、壕を出なかった。しかし、他の壕から出ていった人たちが「(壕を)出てみたらアメリカさんはそういうことはしない。物資を支給してくれるし、もう安心だ」と言ったり、マイクで「大丈夫だから出てきなさい。(アメリカ軍は怖いことは)何もしない」と呼びかけたりしていたので、私たちはヤドーヤーを出た。ヤドーヤーには7月近くまでいたと思う。
[昭和20年(1945)6月上旬、アメリカ軍は志喜屋で避難民を収容し始める ※5。]わが家に行くと、すでに別の集落から来た避難民が入っていて、私たちが入る余裕はなかった。「ここは私たちの屋敷だから出て行け」と言うこともできなかったので、私たちはウシナー(闘牛場(とうぎゅうじょう))のところにあった〈ナカジョー〉で長い間暮らすことになった。

■アメリカ軍占領後の志喜屋
アメリカ軍に占領された志喜屋には学校もできていた[志喜屋初等学校が開校し、昭和20年(1945)7月24日に授業を開始 ※6]。しかし校舎はなく、夏場は暑かったので、木陰(こかげ)で勉強した。
わが家の近所に住んでいた女性は、せっかく戦争を生き延びたというのに、玉城村(たまぐすくそん)(現 南城市)前川(まえかわ)まで日本軍の物資を取りに行った際、そこに潜んでいた日本兵に殺されてしまった。そこには、日本兵が置いて行った物資がいろいろ残っているという噂があった。
当時の志喜屋の海岸沿いにはアダンが植えられていたが、その後ろ側は避難民の墓地のようになっていた。亡くなった避難民は、そこにみんな埋められていた。
鹿児島(かごしま)の方から日本軍の特攻機(とっこうき)が飛んで来たこともあった。特攻機は2,3機の編成で来ていたが、海にずらーっと連なったアメリカ軍の艦船(かんせん)からの集中砲火を受けて撃ち落とされていた。何機かは志喜屋の方に落ちていた。
アメリカ兵は子どもたちにはものすごく優しかった。彼らは火炎放射器を持って壕を回っていたが、私はその後ろを一緒について行っていた。

■豊富だったアメリカ軍の物資
アメリカ軍の物資は豊富だった。アメリカ軍の駐屯地に行って物資を盗(と)ってくることを戦果アギー(センカあげ)と呼んでいた。現在の刑務所 ※7 のあたりはアメリカ軍の駐屯地だったので、その辺りから戦果アギーをしてくる人たちがいた。私はまだ子どもだったのでしなかったが、いとこのフミがよく物資を盗ってきて、私にくれていた。
当時、赤帽(あかぼう)と呼ばれていた沖縄人の警察(CP)が戦果アギーをする人を待ち伏せし、「コラコラ」と言って取り締まっていた。見つかった人は盗ってきた物資を捨てて逃げたが、赤帽が彼らを捕まえることはなかった。赤帽は、捨てられた物資を持ち帰っていた。
親慶原(おやけばる)方面(現 南城市)には、アメリカ軍の大きなチリ捨て場(ごみ捨て場)があり、アメリカ軍は、そこに大きなトラックでごみをバーッと落としていた。チリ捨て場は宝庫で、食べ物やいろんなものが捨てられていた。
私が最初に覚えた英語は「ギブミー シガレット(たばこを下さい)」だった。私の祖母がたばこを吸う人だったので、祖母に「アメリカ軍からたばこをもらってきなさい」と言われていた。当時アメリカ軍がくれたチョコレートは苦くて私の口には合わず、「こんなまずいものがあるか」と思っていた。
浜には、アメリカ軍が捨てた期限切れの牛肉やオレンジ、りんごなどの食材がたくさん流れ着いていた。夕方になると、私たちは浜に行ってそれらを取りに行った。
あるとき、私が海で泳いでいると、アメリカ軍の上陸用舟艇(じょうりくようしゅうてい)が、タマター(タマタ島 ※8)とアドゥチ(アドチ島 ※9)の間のアドゥチ寄りに来た。舟艇に乗っていたアメリカ兵が、泳いでいた私たちを呼んだので、2,3人で行くと裸の男性の遺体を渡された。アメリカ兵がその遺体をどこで拾ってきたのか、また遺体の男性がどこの人かはわからなかった。
また、志喜屋の護岸(ごがん)には3人ずつ、計6人の日本兵らしき遺体が流れ着いて来ていた。彼らの頭はみんな、きれいに割れていた。

■戦後の歩み
戦後、私は具志堅初等学校(ぐしけんしょとうがっこう)※10、知念中学校を卒業したのち、知念高校に通った。入学当時の知念高校は親慶原にあった。しかし、校舎には水道がなかった。そのため、周辺にあったカー(湧泉、井戸)から朝に水を汲んでくるのが1年生の仕事だった。大きなドラム缶が3つあり、それが満杯になるまで運ばなければならなかった。
私が高校2年生のころ、学校が与那原町に移った。校舎を建築する大工が1人しかいなかったため、生徒も建築作業にかり出された。そのため、移転前の1学期、2学期は勉強ができなかった。
高校卒業後、私は裁判所に就職し、60歳の定年まで42年間勤め上げた。
(2015年 知花幸栄・永吉盛信と事務局による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』(南城市教育委員会 2021〔第2版〕)533~534頁参照。
※2 知念村史編集委員会編『知念村史 第三巻 戦争体験記』(知念村役場 1994)によると、畳を敷いたような平滑な石が入口にあると表記がされているが、タタンシチーという名称の由来については明確に記されていない。なお、仲里さんは、内部の上の方に畳を敷けるような平べったい場所があるので、タタンシチーは「畳敷き」という意味であると述べている。だが2024年現在、事務局はこのことを裏付ける文献資料やほかの証言を見つけていない。
※3 前掲『知念村史 第三巻 戦争体験記』では「ヤローヤー」と表記されている。「ヤローヤー」と呼ぶ人々はいるが、仲里さんは「ヤローヤーではなくヤドーヤーだ」と話しているため、ここではヤドーヤーと表記している。
※4 志喜屋集落内にある「カンチャ大川」の南の岩かげに掘った細長い壕のこと。
※5 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』641~642頁参照。
※6 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』690~691頁参照。
※7 南城市知念具志堅にある沖縄刑務所。
※8 南城市知念にある志喜屋漁港から沖合いに位置する岩礁。近くにアドチ島がある。
※9 南城市知念にある志喜屋漁港から沖合いに位置する無人島。近くにタマタ島がある。
※10 1946年に授業を開始。具志堅、志喜屋、山里の子どもたちが通った。1952年、具志堅小学校に改称。同年、知念小学校に統合され、具志堅小学校は1, 2年生が通う分校となり、1954年に知念小学校へ完全移行となった。前掲『南城市の沖縄戦 資料編』第7章第3節 参照。