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照喜名 朝一(てるきな ちょういち)(昭和7年生まれ 知念・知名)【キーワード】佐敷村・知念村へ避難

*文中の[]内は、次の資料を参考にして補足した説明です。
① 2014年8月9・10日付『琉球新報』「未来に伝える沖縄戦―失われた青春時代―(128・129)」に掲載された照喜名さんの戦争体験の記事
② 琉球新報のYouTube「<未来に伝える沖縄戦 128>戦に震え、死は恐れず 照喜名朝一さん(82)上」(https://www.youtube.com/watch?v=MLegHunQMN4&t=987s)
③ 琉球新報のYouTube「<未来に伝える沖縄戦 129>父、米兵テント襲撃制止 照喜名朝一さん(82)下」(https://www.youtube.com/watch?v=fSvYdT9fDsI&t=999s)

■戦時下の知念村
小学生だったころ、「敵機来襲(てっきらいしゅう)※1!」という叫(さけ)び声(ごえ)を聞いたら、すぐに耳と目を押さえる訓練をさせられたのを私は覚えている。[知念国民学校5年生になると、登校中に先輩(せんぱい)たちが「敵機来襲!」と叫んだら、溝(みぞ)や岩の陰(かげ)に隠(かく)れる訓練が始まった。逃げる練習をしないと罰(ばっ)された。]
日本軍は村内にいくつかの陣地を造っていた。知念岬(ちねんみさき)※2 のクビリ(坂になった小道)というところには中城湾(なかぐすくわん)に向けた大砲(たいほう)、現在の守礼(しゅれい)カントリークラブ(現 南城市知念知名(ちな))がある場所には大砲2門(もん)、さらにその頂上には高射砲(こうしゃほう)(航空機を攻撃する火砲)が設置されていた。現在、南城市知念社会福祉センター(現 南城市知念久手堅(くでけん))があるところには砲門(ほうもん)※3 が3つあった。
昭和19年(1944)になると空襲警報(くうしゅうけいほう)が盛んに発せられるようになった。警報が出たときには、「ランプを消して明かりを戸外(こがい)に漏(も)らさないように」と自警団(じけいだん)※4 が回って注意していた。
私の父はヤブー ※5 をしていたので、体の具合(ぐあい)が悪くなった日本兵がよく訪ねてきていた。[父の名厚は半農半漁(はんのうはんぎょ)で生計を立てていたが村議会議員も務めていた。]治療代は無料だった。母が兵隊にゆで卵をあげているのを見たことがある。
当時、徒歩(とほ)以外の人の移動は荷馬車や客馬車が主で、安座真(あざま)(現 南城市)から客馬車が出ていた。日本軍が来てからは車やトラックが往来(おうらい)するようになり、にぎやかになった。

■十・十空襲
昭和19年10月10日の十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)の日、私は板馬(イチャンマ)(現 南城市知名の一地域)のイチクブリという場所で壕掘り(ごうほり)の手伝いをしていた。2人1組でモッコを持って、掘り出した土を外へ運び出す作業をしていた。[そこに、馬に乗った吉岡隊の兵隊が来た。サーベル(軍刀(ぐんとう))をさげてピストルも携行(けいこう)していた。この日、上空を飛んでいる飛行機の音がいつもとは違っていた。兵隊は「今日は友軍(ゆうぐん)※6 の演習」だと言った。]しかし、その後、彼は双眼鏡(そうがんきょう)で空を見上げて「敵機来襲!敵機来襲!」と大声を発し、180度回転して陣地の方へ走って行った。[急きょ、壕掘りは休みになった。しばらくすると、久高島(くだかじま)のある方向から米軍機(べいぐんき)が飛んできて、バババババと機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を行なった。]海上で漁をしていた人は機銃掃射を受けて逃げまどった。このときの機銃掃射で、監視所(かんしじょ)にいた兵隊が1人亡くなった。青年たちが(機銃掃射で撃たれた)彼をサバニ(小型の木造船)に乗せて、板馬(イチャンマ)から与那原にあった部隊の本部まで運んだが手遅れだったという。[その後、30機ぐらいの米軍機が知念から去っていった。]
そして午前11時ごろに、がーん、がーんという大きな音と共に地響き(じひび)きがした。首里(しゅり)(現 那覇市)の方を見ると、入道雲(にゅうどうぐも)のような[黒い]煙(けむり)が[下から上の方にボンボンすさまじい勢いで]わき上がっていた。[「首里がやられた」と大人たちが叫(さけ)んでいたが、夜になり、首里ではなく那覇が攻撃されたという情報が入ってきた。]あとから、このときの空襲で、那覇の港に停泊(ていはく)していた船が破壊されたと聞いた。その残骸(ざんがい)が、波之上沖(なみのうえおき)(現 那覇市)に戦後しばらく残っていた ※7。

■疎開に行きそびれる
しばらくして、父から、私と次兄(じけい)の妻の2人は、「(沖縄にいると)危ないから県外疎開(そかい)をするように」という話があった。[当時、次兄は日本兵として中国大陸にいた。]
疎開に行くことになった私たちは、大きな風呂敷(ふろしき)に着替えなどを入れて荷造りをした。[しかし朝方(あさがた)まで準備をしていたため、出発当日の朝に寝坊(ねぼう)して客馬車に乗り遅れてしまった。この日は、安座真(あざま)で客馬車に乗って佐敷(さしき)(現 南城市)まで行き、そこからバスに乗って与那原(よなばる)に向かい、与那原から軽便(ケービン)鉄道に乗って那覇に行く予定だった。結局、今から佐敷まで歩いてもバスに間に合わないということで]疎開に行くことを断念(だんねん)した。[これは運といえば運だと思う。疎開船に乗っていたら、その後どうなっていたかわからない。]

■壕を転々として避難
三男兄(朝進)が海軍(かいぐん)に召集(しょうしゅう)されたが、彼を見送ってしばらくしてから、空襲警報がひんぱんに出されるようになった。昭和20年(1945)3月ごろには、大きな爆弾(ばくだん)が下(した)ターブックヮ ※8 に落とされた。アメリカ軍が上陸するという情報も流れてきたので、[両親と私、妹の4人で]防空壕(ぼうくうごう)に避難(ひなん)するようになった。
北谷(ちゃたん)(現 北谷町)の方からアメリカ軍が上陸したという情報を聞いたあと、山の向こうで炎が上がっているのが見えた。アメリカ軍の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)も激しくなり心配になってきた。アメリカ軍の艦船(かんせん)は、夜はみんな沖の方へ行き、翌朝になるとまた来て、陸に向かってバンバンと艦砲射撃をしていた。日本軍も大砲を2,3発撃(う)っていたが、それよりもアメリカ軍からの攻撃の方が激しかった。
[米軍機が落とした焼夷弾(しょういだん)により祖母の家が全焼(ぜんしょう)し、逃げ遅れた祖母が亡くなった。長兄も南洋(なんよう)で亡くなった。]
私たち家族は板馬(イチャンマ)の自然壕(しぜんごう)にいたが、そこは危ないということで海野(うみの)(現 南城市)の防空壕へ移った。しかしそこには避難民が多く入っていたため、入れなかった。その後、場所をあちこち移動して防空壕を探した。親慶原(おやけばる)(現 南城市)から港川(みなとがわ)(現 八重瀬町(やえせちょう))に避難するつもりで歩いていたときに、爆風(ばくふう)を受けて一時目が見えなくなった。気も失ったが、両親の声で目が覚めた。[海野からは佐敷村(現 南城市)の伊原(いばら)、そして久手堅へと移動した。伊原から久手堅に向かうときには、ナーワンダー(久手堅にあるグスク)の近くで迫撃砲(はくげきほう)を撃(う)たれたが、弾が爆発せず命拾(いのちびろ)いをした。久手堅の壕にいた6月ごろ、義勇隊(ぎゆうたい)に動員(どういん)されていた四男兄(朝賞)が帰って来た。そのころ、父は戦争に勝ち目がないと思ったのか、壕の入口に隠してあった手りゅう弾(しゅりゅうだん)を持ってくるよう私に言った。しかし、隠してあったはずの場所に手りゅう弾はなかった。手りゅう弾があったら、みんな死んでいたかもしれない。]
避難中には、防空壕の裏で爆弾が破裂して亡くなった人や、佐敷の畑で機銃掃射を受けて命を落とした人など、計3人の死を見た。子どもながらに、戦争というのは人殺しをするものだと思った。

■白旗をかかげて出て行く
[その後、家族で久手堅の山を下り、家がある板馬(イチャンマ)へ向かった。私は兄と2人で行動した。普段(ふだん)は20分くらいで通る道を8時間かけて、アメリカ軍の攻撃を避けながら移動した。板馬で両親と妹と合流し、壕を見つけ、家族5人と親戚(しんせき)の女性2人の計7人でそこに避難した。その約1,2週間後、アメリカ兵約10人が壕の近くでテントを張っているのが見えた。その後のある日、父は自分のふんどしを木の枝にくくりつけて白旗(しろはた)を作った。]
その白旗を私が持って先頭に立ち、家族みんなで壕の外に出た。道にはアメリカ兵が10メートルおきに座っていた。私たちはそこで捕虜(ほりょ)になり、屋比久(やびく)(現 南城市)に収容された。

■三線とともに乗船
アメリカ軍は、板馬(イチャンマ)の前に桟橋(さんばし)を造る計画をたて、リーフの磯(いそ)まで埋め立てるために砂利石(じゃりいし)を撒(ま)き、トラックが通る道を造っていった。そうして沖桟橋(おきさんばし)ができると、屋比久に収容されていた避難民たちは、そこから船に乗せられてヤンバル(沖縄本島北部)に送られた。私たちも強制的に船に乗せられた。私は、沖に行ったら重りを付けて沈(しず)められると思い、半泣きになっていた。
このとき、父が「これを持って行きなさい」と言って私に三線(さんしん)を持たせた。家は戦争で焼かれてしまったが、家宝(かほう)として大事にしていた三線だけは防空壕に隠してあった。この三線は戦後にどこかで盗(ぬす)まれてしまい、今はない。[なお、船に乗るときにたくさんの避難民が移動する中、折れて捨てられていた三線を見つけた。父に言われて、その三線のチーガ(胴(どう))も一緒に持って船に乗った。]
船が着いた先は久志村(くしそん)(現 名護市)だった。そこで降ろされた私たちはトラックに乗せられて、嘉陽(かよう)(現 名護市)という場所に連れて行かれ、そこで生活することになった。
[次姉 ※9 に言われて、私は嘉陽の浜で三線を弾(ひ)いた。すると、若い女性たちが10人ぐらい集まり、彼女たちに「あれ弾いてくれ」「これ弾いてくれ」と頼まれた(このころ、若い男性は軍に取られていたのでいなかった)。伴奏(ばんそう)すると、彼女たちは喜んで歌い、歌いながら泣く人もいた。今考えると、自分の恋人のことを思い出していたのかもしれない。その様子に驚いた父は、私がその三線をなくしたら困ると思い、カンカラ三線 ※10 を作って私に持たせた。それが、私にとって初めてのカンカラ三線となった。]
私たちは翌年(1946年)1月ごろまで嘉陽で過ごし、知念村に帰ってきた。しかし、知名岬にはアメリカの艦船があり、すぐに自宅に帰ることはできなかった。知名岬、板馬(イチャンマ)、佐敷、馬天(ばてん)、与那原までは立ち入り禁止区域になっていた。大きな台風 ※11 が来て艦船が打ち上げられており、その整理に戸惑(とまど)っていたようだった。板馬のクビリ(坂になった小道)のところにCP(沖縄人の民警察(みんけいさつ))がいて、アメリカ兵と2人で監視(かんし)をしていた。
(2016年 知花幸栄・永吉盛信による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 敵の飛行機が激しい勢いでおそいかかってくること。
※2 南城市知念字久手堅にある岬で、太平洋を一望できる。現在は公園として整備されている。
※3 砲弾(ほうがん)を発射するために城壁や砲塔、艦船などに開けた穴のことで、砲眼ともいう。
※4 自警団は、火災や盗難などから自分たちの安全を守るために民間人が自発的に組織する団体のことであるが、照喜名さんがここで述べているのは警防団(けいぼうだん)(1939年1月に警防団令(れい)により新設され、地域の消防や防空、その他の災害の防護に従事した団体。1947年廃止)のことである可能性もある(空襲警報の発令時に活動していたということであるため)。
※5 鍼(はり)や灸(きゅう)、薬草(やくそう)などを使って治療を行う民間の治療師。
※6 味方の軍隊のこと。日本軍のことを指す。
※7 裏付けとなる資料を事務局は確認できていないが、照喜名さんの語りをそのまま掲載した。
※8 ターブックヮは、沖縄の言葉で「田んぼ」を指す。場所は不明。
※9 照喜名さんのご家族によると、別々で避難していたが途中で合流し、一緒に収容されたとのこと(事務局による聞き取り 2024)。
※10 空きカンと棒を組み合わせて作られた、手作りの弦楽器のこと。
※11 1945年10月に猛威(もうい)をふるった台風(Typhoon Louise)のことか。