■女子青年として毎日竹ヤリ訓練
私は佐敷村字新里(現 南城市)の〈東佐久間前(アガリサクマヌメー)〉の長女として生まれた。戦争当時は20歳だった。
戦(いくさ)が来る前は、壕堀りや竹ヤリ訓練を相当させられた。訓練は新里の製糖工場 ※1 で、男も女も一緒になって毎日行った。1,2,3の号令で「ヤー ヤー」と言いながらワラ人形を(竹ヤリで)突いていた。今考えると、ままごとのようだと思う。青年会として(この訓練を)やっていたが、男は出征していたので、参加者のほとんどは女子青年だった。
■冗談を言いながら楽しんで壕掘り
大里村の旧稲福区(いなふくく)(現 南城市)※2 の〈新屋小(ミーヤグヮー)〉の後ろの山に、武(たけ)部隊の壕を掘った。壕はザンクビリの近くにあった。ザンクビリは旧稲福区の東側のはずれから、小谷(おこく)集落(現 南城市)に向かってのびる山道で、〈新屋小〉の屋敷はその道に沿ったところにあった。私たちは一生懸命、(壕掘りを)やった。武部隊が台湾に移動したあとは、球(たま)部隊が来ていた。
新里の女性に冗談好きの人(私より4,5歳上)がいたが、兵隊たちやほかの作業する女性たちと冗談を交わしていた。なので、壕掘りは楽しんで行っていた。
あるとき、作業の様子を見ていた〈知念小(チニングヮー)〉のおじいさん(セイロウスーと言っていた)がやって来て、「兵隊さん、新里の女はみんな淫売ですよ」と、怒った口調で言った。すると、この冗談好きの女性は卑猥な冗談を言って(このおじいさんを)からかった。そのため、そのおじいさんは余計に怒っていた。そのおじいさんの顔は今でも目に浮かぶ。
■板と米俵を担ぐ
新里や旧稲福では日本兵の人数が少なかった。壕掘りのとき、兵隊の姿はあまり見かけなかった。
壕掘りが終わると、次は佐敷の学校から野戦病院壕まで板を2枚運ばされた。野戦病院壕は旧稲福集落の西側にあった製糖工場の近くにあった(詳細な場所は不明)。私は板を担ぎながら、そこへ行くために小谷集落の坂を通り、そして、旧稲福区のザンクビリを上って行った。この作業は1日に2回だった。
野戦病院の壕では多くのけが人がいた。これらのけが人は木の枝で作った床に寝かされ、「水をくれー」と呻いていた。私はその様子をかわいそうと思いながら見ていた。その壕は、今もそのまま残っていると思う(現存しているか不明)。
また、米俵も4人がかりで運んだ。米俵は棒で担いで、(板を運ぶときと)同じ道を通って、稲福の殿(トゥン)に運んだ。米を担いで坂を上るのはつらかったが、当時は若かったので難儀とは思わなかった。男がいなかったので女の人たちが力仕事をしていた。戦争当時は色々あったが、いい勉強になった。
戦争が始まったとき、日本兵は5,6人しかいなかった。「兵隊はドロボーだ。鶏も盗んでいた」という話を聞いたこともあったが、自分には関係ないと思っていた。
■新里集落上の壕で避難生活
昭和20年(1945)の3月(何日かは不明)、自分たちで掘ってあった壕(名称なし)に避難した。父(助造(すけぞう))は義勇兵(ぎゆうへい)として出征(しゅっせい)していたので、私は祖父母(蒲(かま)、ツル)、母(カメ)、2歳下の妹(シゲ)、親戚の佐久間(本家)のおじいさん(名前不明)と、その人の孫で6歳くらいの男の子(セイケン)の7名で避難した。
壕は現在のユインチホテルの北側の崖下あたりに掘っていた。側には泉(新里坂(ビラ)を上がった右側にあった)があった。私たちはその壕に避難してから、どこにも移動しなかった。
■壕から眺めていた日本軍の特攻攻撃
壕のあるところは、ちょうど新里(集落)の後背地になっていた。そのため、壕からは海がよく見えていた。勝連(かつれん)半島(現 うるま市の東南部に位置する半島)近くの海にアメリカ軍の軍艦が、いっぱい停留しているのが見えた。
日本軍の特攻隊が飛んできて、アメリカ軍の軍艦めがけて特攻攻撃をしていた。しかし、(特攻隊の飛行機は)突撃する前にほとんど落とされていた。一機だけ突撃に成功していたのを見たことがある。私たちは毎日、そのような状況を見ていた。
■水も食糧も豊富な壕生活
旧稲福にいた日本軍が島尻(しまじり)(沖縄本島南部)に移動以降、私たちは1人の日本兵にも会わなくなった。戦争が激しくなっていた時期だったが、私は夕方になると腰に木の枝を差して芋掘りに行っていた。また、殿(トゥン)には米が山盛りに残してあった。以前そこに米を担いで運んで行ったことがあるから、そのことを知っていた。私は、殿から(避難している壕まで)米を担いで運んだ。私たちが捕虜になったあとは、ほかの住民が殿の米を取り合うようになった。
旧稲福区にある慰霊塔の西側にあるカゾーラーヤマ壕(場所不明)にも、タオルや鰹節(かつおぶし)などの日本軍の物資が相当あった。私はそこの壕にも物資を取りに行った。
ある日、カゾーラーヤマ壕から現在の稲福の北はずれにあるイランダ(玉城盛明さんの家のあたり)で、アメリカ軍がテントを張っているのを見て、大変だと思って逃げ帰ったことがあった。
旧稲福区のザンクビリ付近に、〈上玉城(イータマグスク)〉の畑があり、その畑の下にガマがあった。そのガマには米や乾燥ジャガイモ、ワカメなどの食糧品や、毛布などがいっぱいあった。私たちはそのガマからも米を取っていた。私はそのとき、カリガマーというところで一軒だけ明かりが付いているのを見た。稲福の人たちが、ほとんど島尻に避難している時期だった。
日本兵がいたところでは、早く島尻に避難するように言われていたようだ。また、百名(ひゃくな)や喜良原(きらばる)(どちらも現 南城市)あたりの人たちも島尻に避難していたようだ。私の親戚も喜良原に避難していたようだ。
新里には日本兵がいなかったので、私たちはそのまま壕にいた。捕虜になってから色々なことはあったと思うが、戦争中の新里の犠牲者は4,5人と少なかったと思う ※3。
弾は私たちの頭の上をヒューヒューと飛んでいたが、私たちのところには落ちなかった。新里を超えて日本軍のいる島尻に飛んでいた。
私たちが避難していた壕の近くには水が湧くところがあった。その水でご飯を炊いたり、風呂に使ったりしていた。そのため何の不自由もなかった。夜はシンメーナービ(大鍋)で米を炊き、ヤギや豚を潰(つぶ)して夕飯を食べ、壕の中で寝た。翌朝はアメリカ兵が壕に来たら大変だということで、朝食をすましたあと、昼ご飯用に肉を詰めたおにぎりを作って山に隠れていた。
私は山の中に隠れているとき、捕虜になった住民を載せたトラックが、新里ビラ(坂)を通っていくのを見たことがある。
当時は芋を主食とする時代だったが、(戦争中は)戦争前よりご馳走を食べられた。(そういった面では)喜びながら過ごしていた。しかし、シラミが大変だった。シラミはいくら潰してもずっと湧き出てきて、とても気持ち悪かった。あの体験はよく覚えている。今でも、(避難していた)あたりを通ると「おかげでご馳走になりました」と、礼をして通る。
■情報が少なかったのが幸いだった
避難中、誰からも連絡はなかった。ある時、山のカズラ(芋の葉)を摘むために歩いていると、刀を差した日本軍の将校らしき人たちとばったり会って、びっくりしたことがある。その日本兵たちは「心配するな。向こう(東側の海)にはアメリカ軍の軍艦がいっぱいいるから、危ないときには豊見城(とみぐすく)の軍の壕を探して行きなさい」と言っていた。(この日本兵たちは)きっと偵察のために歩いていたのだと思う。しかし、私は豊見城の壕に行く気はなかった。なぜなら、食べ物があるから逃げる必要はないと思っていたからだ。どこにも行かなかったのは(今思うと)不思議なことだ。
■山の中で食べたアメリカ軍の缶詰
私たち以外周囲には誰もいなかったので、私は(安全だと思って)たまに壕から出歩くことがあった。すると、アメリカ軍の缶詰やタバコ、石鹸(せっけん)などを入れた小さい携帯箱が所々に置かれていた。私はそれを拾って壕に持ち帰っていた。
(一緒に避難していた)年寄りたちが「これはお前たち若い人が先に食べてはいけないよ。毒が入っていたら大変だ。年寄りは食べて死ぬのは構わないから、あんた方はあとで食べなさい」と言って、先に食べた。すると、「アイエナー こんなの食べたことないよ。ハッサミヨー ご馳走だよ」と言って、かき込んで食べた。そして、年寄りたちは「こんなおいしいものは食べたことがない。早くあんた方も食べなさい」と言った。缶詰には卵やソーセージなどの肉が入っていた。携帯石鹸は長く使った。
アメリカ軍が小箱を置いていたのは、避難民が隠れていないか様子を探るためだと思う。あとで、アメリカ軍が避難民を探していたという話を聞いた。
■壕を出て親戚の墓に移動
ある日の朝、ガヤガヤしているのが聞えたので見に行ってみると、アメリカ兵がいっぱいいた。私たちが避難していた壕の下側は山になっていたのだが、そこにテントがあった。アメリカ軍が一晩でテントを張ったのだ。ここにいたら(アメリカ兵に見つかって)大変だと思い、私たちは壕から移動することにした。
壕を出て、新里と小谷の間にあるチジンキ山(新里の山)の方に移動した。(山の中を)歩き回っていたら墓を見つけた。その墓には、おばさん(母の妹の嶺井ムタ)の着物があった。「ここに、おばさんは隠れていたんだね」と喜び、その墓に避難することにした。このおばさんたちは、私たちより先に捕虜になって墓から出ていたそうだ。私たちは墓の中にあった厨子(ずし)ガメに寄りかかって寝ていた。
私たちは長い間、壕にこもって生活をしていたので、誰にも見られていなかった。そのため、(私たちが)死んでしまったという話が(親戚から)出ていたそうだ。私と一緒に避難していた人たちの中で、弾に当たって被害を受けたのは1人もいなかった。
私たちの中で、死人を見た者は2人しかいなかった。1人は新里の上の山の中にあった日本兵の死体を見た。もう1人は戦後に旧稲福区のカゾーラーヤマ壕の側からンマイー(馬場)に上がるところで死体(兵隊か民間人かは不明)を見た。
■おばさんに促されて山を下りる
私たちが壕から墓に移動していた時期にはすでに、新里の人たちは、ほとんど捕虜になっていたようだ。
私たちが捕虜になったのは、おばさんが呼びに来たからだ。おばさんが墓に置いていた自分の着物を取りに来たとき、「ヨシコー」と私を大きな声で呼んだ。その声を聞いた私は、「大声を出したら(アメリカ軍に見つかって)大変なことになるのに」と怒った。するとおばさんは「ここにいたのか。あなた方だけがまだ出てきていない(捕虜になっていない)よ。あなた方は死んでしまったという話も出ている。早く(山から)出てきなさい」と言った。そこで私たちは、おばさんと一緒に山を下りた。
おばさんは「あなた方は生きていたのか」と言ったが、私は「私たちが死ぬもんですか」と笑って答えた。
■新里での自由な捕虜生活
捕虜になった私たちは、新里の瓦葺(かわらぶき)の民家(〈新垣前(アラカチメー)〉)に収容された。近くのンマイー(馬場)には金網で囲われた施設があり、アメリカ兵がたくさん駐留していた。私を含めて女たちが、その近くを歩いていると、アメリカ兵が「ハバー ハバー」と言っていたが、私たちが両手でバツ印の仕草をして相手にしなかったら、向こうは何もしてこなかった。このアメリカ兵は作業班だと思うが、彼らは囲いの中にいて、集落内や民家付近を出歩くことはなかった。(反対に)私たちは集落内を自由に出歩くことができた。そのため、(アメリカ兵との間で)事件が起きるということはなかった。
新里で捕虜になっていたときに、アメリカ兵による「女漁(あさ)り」があったという話は聞いていない。小谷では、集団で畑に芋掘りに行った女たちの中で、アメリカ兵に引っ張られた人がいるという話を聞いたことがある。なお、近くの集落では「作業に出る」と言って、アメリカ兵相手に儲け(稼ぎ)に行く人もいたようだ。
■ヤンバルでの苦しい生活
(しばらくして、)馬天港(ばてんこう)(現 南城市)から船に乗せられた。どこで降ろされたかわからないが、久志村(くしそん)の東喜(とうき)(現 名護市二見(ふたみ)の一地域)という小さい集落に収容された。
東喜でも配給はあったが少ししかなかった。米は1合ぐらいだし、他に食べるものはなかった。配給だけでは足りなかったので、チファンプー(フキ)の茎をゆがいて皮を剥ぎ、川で晒(さら)して灰汁(あく)を抜いて食べた。捕虜になってからの生活は苦しかった。
私たちは米を少し持っていたから、まだましなほうだった。戦争中は(苦労もそれほどなく食生活は)上等だったが、捕虜になってからはアワリ(苦労)した。それでも生き延びたからよかった。
■戦時中も慈悲の心を忘れない母
母は、側にいる親戚の人たちが何も持っていなかったのをかわいそうに思い、米を分け与えていた。私が「難儀して担いできて、自分の食べるものも少ないのに、他の人にあげるのか」と言うと、「皆同じ(状況)であるのに、自分たちだけ食べることができるか」と言っていた。私の母はそんな人だった。
■本家のおじいさんと孫が、ケガが元で亡くなる
ヤンバルでは食べるものがなかったから、「軍に稼ぎに行く」と言って、山に入ってアメリカ兵相手に商売をする女の人も多かったと聞いている。
当喜には何ヵ月いたかわからないが、そこで私や私の周りの人たちがマラリアに罹(かか)ることはなかった。ただ、一緒に行動していた佐久間のおじいさんと、その孫のセイケンは、ケガが元で亡くなった。私の母はセイケンを背負って病院に連れて行っていた。
2人は新里で私たちと同じ壕に避難する前に、他のところで怪我をしたそうだ。なお、そのときに母親(セイケンの母か?)は亡くなったという。その後、私の母親が2人を引き取り、2人は(新里の壕に)一緒に避難するようになったそうだ。
■ヤンバルから新里へ帰る
東喜からは船で帰ってきたと思うが、(いつ乗って)どこに着いたかは覚えていない。上陸後、アメリカ軍のトラックに乗せられて新里に着いた。私の家は焼けてなくなっていた。私の家は製糖工場の側にあったので、最初に焼かれたのだと思う。
私の新しい家は、区民の共同作業で建てられた。資材はアメリカ軍から配給された。そのころは、生活がすでに落ち着いてきていて、仕事もできるようになっていたので、区民たちは自分たちで建てることができた。
■イクサユー(戦の世)は、みんな頑張った
戦の最中に栄養をつけて今まで元気でいる。イクサユー(戦の世)はみんな頑張った。私の祖母は八重山に寄留していた息子のところに行き、そこで93歳で亡くなった。私の母は長生きして92歳で亡くなった。妹も93歳まで生きた。
戦争中、島尻あたりに避難した人たちは食べることもできないで、相当苦労したようだ。私たちは一切そのようなことはなかった。どこにも行かず(ひどい戦争被害を受けなかった。ほかの戦争体験者の苦労を考えると、戦争体験を語るのは)恥ずかしい。だから、戦争体験としてはあまり参考にならないと思う。
(知念昌徳による聞き取り 2016 構成:事務局)
■脚注
※1 当時の製糖工場は現在の新里公民館にあったと考えられる(佐敷町字新里字誌・編集委員会『字誌新里』佐敷町字新里区 2000 272頁)。
※2 かつて集落の中心だった場所で、「上稲福」と呼ばれる。現在の稲福集落の東側丘陵上に位置する。稲福遺跡や稲福殿などの文化財が現存。
※3 『字誌新里』に掲載されている「字新里戦没者名簿」によると、軍人48人、軍属32人、一般住民215人とされている。(佐敷町字新里区字誌・編集委員会『字誌新里』佐敷町字新里区 2000 690頁)
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015789 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 34-39 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |