なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

城間 貞子(しろま さだこ)(旧姓親川 大正14年生まれ 知念・志喜屋)【キーワード】村内避難

■献穀田田植式に早乙女で参加
昭和18年(1943)に志喜屋(現 南城市)で行われた献穀田田植式(けんこくでんたうえしき)※1 で、私は早乙女(さおとめ)に選ばれて参加した。田植式のときには、笠(かさ)をかぶった早乙女の衣装(いしょう)のままで田んぼに入り、(田んぼのそばに立っていた合唱隊の)歌に合わせ、早乙女みんなで揃(そろ)って田植えをした。このときの歌を今でも覚えている。「今日はめでたや 知念村(ちねんむら)の ユラティク ユラティク 献穀田の御田植え(おんたうえ) ユラティク ユラティク 苗(なえ)は蓬莱(ほうらい) 玉(たま)の苗」という歌詞だった。
(献穀田で収穫された、新嘗祭(にいなめさい)に献上する)米は、割れや欠けのない上等なものを選ぶために、一粒一粒、選別されていた。それはマスクをしながらの作業であった。

■タタンシチーのそばの壕に避難
沖縄戦のとき、私はタタンシチー ※2 のそばにあった大きな壕(ヤローヤー ※3 ではない)に避難した。壕に弾(たま)が入ってくることはなく、弾は大里村(おおざとそん)(現 南城市)の方に飛んでいっていた。
沖縄戦が始まってしばらくしたころ、避難民たちが志喜屋の大通りから字(あざ)知念や佐敷村(さしきそん)(どちらも現 南城市)の方に移動していくのが見えた。そのとき志喜屋の人たちは壕の中にいて、「あら、みんなイチュンドー(行っているよ)、イチュンドー」と言って、その様子を見ていた。
その後、夕方に私たちは自分の家がある志喜屋の方に下りて行った。家は焼けていた。
(2015年 知花幸栄と事務局による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 1943年(昭和18)、志喜屋の親川仁盛の田んぼが献穀田に選ばれ、献穀田田植式が挙行された。献穀田は、新嘗祭(稲の収穫を祝う神行事。毎年秋に天皇が執り行う)に奉納する米を育てる田のことである。毎年、宮内庁が県を通して、村の代表的な篤農家の田んぼを指定した。献穀田に選ばれるのは農家にとって非常に名誉なことであった。田植式には親川栄蔵村長や区長、小学校教員、県庁職員らも集まり、村から選抜された20人の「早乙女」(17~19歳の未婚の娘)が献穀田の歌を歌いながら田植えをした。(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会 2021〔第2版〕531~532頁)
※2 志喜屋集落の後方にある熱田原貝塚の南側の崖下に位置する壕。
※3 多くの志喜屋住民が避難していた壕。現在の「かちひん橋」北方に所在。急峻な場所にあり立ち入り困難(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』577頁)。