なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

岸本 松子(きしもと まつこ)(昭和6年生まれ 知念・志喜屋)【キーワード】村内避難

■昭和18年の献穀田田植式
昭和18年(1943)の献穀田田植式(けんこくでんたうえしき)※1 のとき、私より3歳以上先輩の人たちが早乙女(さおとめ)として田植式に参加していた。田植式では、知念国民学校(現在の知念小学校の前身)の高等科2年の女生徒たちが一列に並んで献穀田の歌を歌い、その歌に合わせて早乙女たちが田植えをした。
翌年には玉城村(現 南城市)の百名(ひゃくな)の田んぼが献穀田に選ばれた ※2 ので、私はその田植式も見に行った。

■変になっていった世の中
昭和18年までは世の中はおとなしかったが、昭和19年(1944)からは少し変になっていったように思う。軍国主義の風潮が強く、兵隊に対して少しでも文句を言えば首をたたき切られてしまうような恐怖さえ感じる、大変な時代だった。下っ端(したっぱ)の兵隊でも、「兵隊」という名がつけば、民間人は何も文句を言えなかった。人間が人間じゃなくなってしまっていた。
[昭和19年の夏ごろから、知念村内でも第三十二軍の各部隊の駐屯や陣地構築(じんちこうちく)が始まる。陣地構築や兵隊の炊事(すいじ)等に多くの村民が動員(どういん)された。※3]
当時のわが家は、私を含む子ども8人の10人家族だった。母が子育てなどで忙しく、軍の陣地造りや炊事に参加できなかったので、私が代わりに参加した。そのため私は勉強ができなかったし、戦後も家族のみんなを食べさせるため、勉強をする余裕はなかった。

■タタンシチーに避難
志喜屋(しきや)にはタタンシチー ※4 や、ヤローヤー ※5 などの壕があった。沖縄戦のときには、私たち一家はタタンシチーに避難した。私たち家族のほかにも、何世帯かが一緒に避難していた。
タタンシチーのそばには川があり、水には困らなかった。ヤローヤーの周辺には水が少なかった。食べ物は何を食べていたか、よく覚えていない。避難中、私は兵隊からの指示で、芋や畑から盗んできたキャベツを(軍の)大きい鍋に入れて炊事の手伝いをしていた。野菜を洗う余裕はなかったので土も混じっていたと思う。また、(アメリカ軍の)飛行機の音がしたら、炊事の煙が見つからないよう火を消していた。
兵隊は私の家族の人数が多いことを知っていて、「まっちゃん、お前の家族の子どもたちにあげなさい」と言って、鍋から食べ物を取り、飯盒(はんごう)に入れて持たせてくれた。私はそれを持ち帰り、弟たちに食べさせた。半端(はんぱ)な煮炊きしかできなかったものを食べ、ようやく生きていた。
ある日、タタンシチーの中で弟(昭和16年生まれ)が急に立ち上がり、天井から垂(た)れ下がっていた鍾乳石(しょうにゅうせき)に頭をぶつけて大けがをしてしまった。当時は薬もなかったのでどうすることもできなかったが、そのまま治って一命をとりとめた。だが体の弱かった彼は戦後、中学生のときに心臓病で亡くなった。
[次の話は、島田叡(しまだあきら)沖縄県知事が沖縄戦中にタタンシチーを訪れたという話である。それが実際にあった出来事である可能性は否定できないが、事務局は2024年現在、それを裏付ける記録を発見していないということを前置きしておく。※6]ある日、タタンシチーに長い靴をはいた男性が訪れた。彼は一晩ほど滞在して島尻(しまじり)(沖縄島南部)へ行った。私たちはその人が誰かわからなかったが、当時知念村役場の職員だった父が、「沖縄県の知事だよ」と皆に話した。父は彼と話をしていたが、何を話していたのかはわからない。
タタンシチーには球(たま)部隊や暁(あかつき)部隊の兵隊がよく来ていたが、私たち避難民を追い出すようなことはなかった。しかしある日、父が兵隊に文句を言い、危ない目に遭(あ)いそうになったことがある。当時は学生のような若い人も義勇隊(ぎゆうたい)として軍にかり出されていたので、父がある兵隊に「何の役にも立たない学生や子どもたちまでも戦場に行かせてはいけない」というようなことを言った。するとその兵隊は「何を言っているんですかあんたは」と父に怒った。今にも父を攻撃しそうな状態だったので、私は陣地造りのときなどで知り合っていた別の兵隊を呼んできた。それでその場を収めることができたが、父に怒っていた兵隊は、「首をぶった切っておけばよかった」と話していた。父は首を切られるところだったのかもしれない。

■タタンシチーを出る
ある日の昼、アメリカ軍がヤローヤーの上まで来た。そしてその夜、アメリカ軍がタタンシチーの中に上から何かを入れたようで、壕の中で煙が立ち込めた。この煙は毒ガスかもしれないから、ここにいたら大変だということで、私たちはタタンシチーを出て山里(やまざと)(現 南城市)に向かった。
その晩は雨が降っていた。アメリカ軍が迫っていてどこに行くのも怖かったので、みんなでとある墓の中に入った。墓の中にあった遺骨からは変なにおいがしたが、その中で一晩過ごした。
次の日の朝、アメリカ軍が私の知人の女性を連れて、鉄砲(てっぽう)をかついで歩いて行くのが見えた。そのとき、母におんぶされていた幼い妹がワァーと声をあげて泣いた。私は後ろから妹をポンポンたたいてなだめていたが、妹の泣き声でアメリカ軍に攻撃されたら大変だと思い、持っていた帯(おび)で妹の口をふさいだ。しばらくして妹が「んんん~」と苦しそうにしたので、死んでしまうと思って帯を取ると、妹はぐったりしてしまった。妹は幸い死なずに済んだが、このときのことを思い出すと、本当に、何とも言えない気持ちになる。
そのころから、昼はアメリカ軍や避難民が歩いているのが見えた。今思えば、このときに手を挙げて出て行けば助かっていたが、当時は何をされるかわからなくて怖かったので、私たちはカンチャ(上志喜屋。現在の南城市知念字志喜屋)に避難した。

■自分達で山を下りる
私たちはカンチャの山に行ったが、砲弾(ほうだん)による攻撃がなかったので、静かだね、もう戦争ないのかね(終わったのかね)と思いながら山の中にいた。アメリカ軍はすでに近くまで来ていてテントも設営していたのだが、私たちはそのことを知らなかった。
しばらくして、(近くにいた避難民たちと)「あの人たちもみんな生きているようだ」「自分たちも出よう、出よう」と話し合い、自然な流れで自分たちは山を下りて行った。一方で、同じ山の中に避難していた佐敷村(さしきそん)(現 南城市)新里(しんざと)のある一家は、夜に新里に向かっていたときにアメリカ軍の照明弾(しょうめいだん)に照らされ、機関銃(きかんじゅう)攻撃を受けて数人が亡くなってしまった。この家族には赤ちゃんもいたが、照明弾を受けたときに泣いてしまったのか、親族の手で殺されたとのことだった。
[昭和20年(1945)6月上旬、アメリカ軍は志喜屋で避難民を収容し始める。※7]私たちの家にはすでに西原の人たちが入っていたため、私たち家族は自分の家に入ることができなかった。当時は避難民たちに、「(この家は)あんたたちのものではない」と言われていた。家のタンスの引き出しもみんな出され、避難民たちに箱として利用されていた。避難民たちがかれらの村に帰った後、私の両親は、(散逸していた)タンスの引き出しをすべて探し出し、洗った。今でも、これらの引き出しは残っている。

■志喜屋での戦争被害
タタンシチーに避難していたとき、同じくタタンシチーにいたある男性が、「日本軍の飛行機を見る」と言って壕を出て木に登っていた。そうやって登っていたのは彼だけだった。当時、海ではアメリカ軍の艦船(かんせん)が激しい艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を行っていた。彼は木の上で爆弾の弾(たま)の破片(はへん)を受けてけがをしたが、大事に至らずに済んだ。ヤローヤーにも弾が入って来たようだが、不発だったそうだ。
しかし、マジク(志喜屋集落南部にある岩山)の下にあった壕に避難していた奥武(おう)(現 南城市)の人たちは、みんなやられてしまったそうだ。

■食べるのに必死だった戦後
戦争が終わってからは、私は年上のお姉さんたちと一緒にアメリカ兵に引率されて、島尻まで日本兵の遺体の片付けに行った。ほかにもアメリカ軍のテント掃除などといった軍作業があり、それに参加すると日本軍が捨てた乾物(かんぶつ)などの食料をもらうことができた。そのため私は学校には行かず、家族のために軍作業に行っていた。
戦後は食べることしか考えず、食べるものがあれば何でもよかった。人の遺骨の上にできていた大きな芋も食べた。玉城村の富里(ふさと)にはアメリカ軍のごみ捨て場があり、アメリカ軍は少し膨(ふく)れた缶詰(かんづめ)や(外装(がいそう)の)箱が壊れただけの食品も捨てていた。民間人たちは競争してそれらの食品を取っていた。なかには羊の肉もあり、ごみ捨て場で取ってきた食品はごちそうだった。
(アメリカ軍の食べ物はおいしいので)私の兄は「アメリカ軍の犬になりたいな」と言っていた。彼は大正15年(1926)生まれで、兵隊として召集されて(激戦地だった)南部まで行き、命からがら生きのびたが、昭和22年(1947)に海で亡くなってしまった。きょうだいの中では兄2人が兵隊に行った。戦争の映画を見たときには、兄たちのことを思い出して夜は寝られなくなる。
そのほか、モービルオイルを使って揚(あ)げた天ぷらもよく食べていた。役場職員だった父の同僚が家に来たときには、出せる食べ物がなかったのでその天ぷらを出していた。当時、「(モービルオイルで揚げた)天ぷらを食べたら何歳までに死ぬ」ということが言われていたので、「じゃあ私は30歳まで生きないね」と言うと親に叱られた。だが、そんなものを食べていたけど、私は今もこんなに元気でいる。
ある日、わが家の畑に芋掘りに行くと、見たこともない、まるで牛のような、大きな爆弾があった。不発弾(ふはつだん)だったと思うが、それが爆発するかもしれないということをそのときはわからず、頭に載せて運んだ。(爆発するかもしれないことを)何もわからなかったので大変なことだったと、今となっては思う。
私より年下の人達は戦後に毛遊び(モーアシビ)を経験し、奥武まで遊びに行った人もいたようだ。しかし私たちが年頃のときには、毛遊びはできなかった。(アメリカ軍の一員として)沖縄に入ってきていたフィリピン人などの外国人が出歩いていたからである。
昭和20年代の半ばごろまでは本当に大変だった。
(2015年 知花幸栄と事務局による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 1943年(昭和18)、志喜屋の親川仁盛の田んぼが献穀田に選ばれ、献穀田田植式が挙行された。献穀田は、新嘗祭(稲の収穫を祝う神行事。毎年秋に天皇が執り行う)に奉納する米を育てる田のことである。毎年、宮内庁が県を通して、村の代表的な篤農家の田んぼを指定した。献穀田に選ばれるのは農家にとっても非常に名誉なことであった。田植式には親川栄蔵村長や区長、小学校教員、県庁職員らも集まり、村から選抜された20人の「早乙女」(17~19歳の未婚の娘)が献穀田の歌を歌いながら田植えをした。(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会 2021〔第2版〕531~532頁)
※2 1944年(昭和19)、百名一区の冝保盛昇の田んぼが献穀田に選ばれ、献穀田田植式が挙行された。献穀田は、新嘗祭(稲の収穫を祝う神行事。毎年秋に天皇が執り行う)に奉納する米を育てる田のことである。献穀田に選ばれるのは農家にとっても非常に名誉であった。田植式には県知事、村長、その他関係者らが見守る中で執り行われた。田植えは各字から1人ずつ(前川、奥武は2人)選抜された20人の「早乙女」(17~19歳の未婚の娘)が、高等科女生徒たちの「献穀田田植式の歌」に合わせて行った。(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』550~551頁)
※3 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』533~534頁参照。
※4 志喜屋集落の後方にある熱田原貝塚の南側の崖下に位置する壕。
※5 多くの志喜屋住民が避難した壕。現在の「かちひん橋」北方に所在。急峻な場所にあり立ち入り困難。
※6 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』539頁参照。
※7 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』641~642頁参照。