■井上部隊の救護班に動員
私は、知念村(現 南城市)に配備(はいび)された独立混成(どくりつこんせい)第四十四旅団(りょだん)第十五連隊(れんたい)第二大隊(だいたい)(井上部隊)の救護班員(きゅうごはんいん)として、宮城日出(旧姓安慶田)さんと共に動員(どういん)された ※1。当時15,6歳の女性が各字(あざ)から2,3人ずつ、区長を通じて軍にかり出された。
昭和20年(1945)3月、アメリカ軍による空襲が激しくなってくると、井上隊は知念上原のガマや、佐敷村(さしきそん)(現 南城市)手登根(てどこん)のフナクブ洞穴(どうけつ)(ガマ)に移動した。私たちも部隊と共に行動した。フナクブには、知念村役場の職員も入っていた。
現在のつきしろ集落(現 南城市)の東側にあるイリジョーガマが炊事場(すいじば)になっていて、私たちはそこで炊いた食事をガマまで運んだ。民家に残されていた馬や牛、豚も潰(つぶ)して食べていたため食料に困ることはなく、その点だけはぜいたくができていた。
■スパイ容疑をかけられていた男性たち
ある日、スパイ容疑をかけられた男性2人(どちらも字知念出身)がフナクブまで連行されて、ひどい仕打ちを受けていた。1人は軍に納入(のうにゅう)していた薪木(まきぎ)などの代金を請求(せいきゅう)したため、もう1人はハワイ帰りで外国語を話すことができたため、容疑をかけられていたと思われる。洞窟(どうくつ)入口の軒下(のきした)で、しずくに打たれながら両手を後ろに縛(しば)られてかわいそうだった。
この2人は、部隊が壺屋(つぼや)(現 那覇市)へ移動するとき、縄で縛られたまま連れて行かれた。衰弱(すいじゃく)していた1人は途中の大里村(現 南城市)付近で置いていかれたと思う。もう1人は壺屋の壕付近で射殺された ※2。
■壺屋へ移動
4月に入ってアメリカ軍の攻撃が激しくなると、首里(しゅり)(現 那覇市)方面の防衛のために部隊が移動した。私たちも大里(おおざと)(現 南城市)、津嘉山(つかざん)(現 南風原町(はえばるちょう))を経て、部隊と共に壺屋の壕に入った。
部隊はそこから安里(あさと)(現 那覇市)の高台へと転戦したが、ほとんどの兵士が戦死した。看護師だった私の姉も、そこで命を亡くし帰らぬ人となった。
■負傷兵を連れてフナクブに戻る
私たちは負傷兵(ふしょうへい)を連れ、アメリカ軍の攻撃をかいくぐりながら南下した。途中、あちこちに戦没者(せんぼつしゃ)の遺体(いたい)が転がり、悪臭(あくしゅう)が鼻をついた。壺屋から移動し、池田ダム(現 西原町(にしはらちょう))あたりに来たとき、墓に入って急場をしのいだ。その後、歩いて再びフナクブに戻り、そこで負傷兵の世話をした。
その後、救護班は具志頭村(ぐしかみそん)(現 八重瀬町(やえせちょう))安里あたりで解散になった。そこから知念村に向かって歩いているとき、家族と再会した。
(2016年 知花幸栄・永吉盛信・事務局による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 同部隊に動員されたときの経験を綴った宮城日出さんの手記が、『知念市誌』(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』[南城市教育委員会 2021〔第2版〕]所収)に収録されている。
※2 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』541頁参照。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015785 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 24-25 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |