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親川 孝栄(おやかわ こうえい)(昭和元年生まれ 知念・志喜屋)【キーワード】義勇隊

■戦時下の知念村
私は、大正天皇(たいしょうてんのう)が亡くなった昭和元年(1926)12月25日生まれた。知念尋常高等(じんじょうこうとう)小学校(現在の知念小学校の前身)には奉安殿(ほうあんでん)があり、登下校の際には奉安殿に向かって、不動の姿勢(気を付けの姿勢)で最敬礼(さいけいれい)をした。
村内から兵士が出征(しゅっせい)するときには、私たちはアカバンタ(南城市佐敷手登根(さしきてどこん)にある高台)から手を振って見送り、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈った。
(当時、金属は軍需資材(ぐんじゅしざい)として強制的に供出(きょうしゅつ)されたが)小学校にあった二宮金次郎(にのみやきんじろう)の像や、おばあさんたちのかんざしも、その対象となった。
昭和18年(1943)に志喜屋(現 南城市)で行われた献穀田田植式(けんこくでんたうえしき)※1 では、2歳上の姉(城間貞子)※2 が早乙女(さおとめ)として参加した。志喜屋は大きな集落だったこともあり、3人が早乙女に選ばれた。具志堅(ぐしけん)などの小さな集落からは1人だけが選抜された。
田植式には、当時の沖縄県知事の早川元(はやかわはじめ)も、国民服を着て参列していた。早乙女たちは歌に合わせて稲を植えていた。その際、(植えるときについた)足跡を消してから、また植えていた。
昭和19年(1944)の夏には武部隊(たけぶたい)が来て、志喜屋のムラヤー(現在の公民館)や、村民の家に駐屯(ちゅうとん)した。マジク(志喜屋集落南部にある岩山)には重機関銃(じゅうきかんじゅう)の陣地(じんち)が造られた。

■沖縄戦中の志喜屋の人々
沖縄戦が始まると、アメリカ軍の軍艦(ぐんかん)が久高島(くだかじま)(現 南城市)から喜屋武岬(きゃんみさき)(現 糸満市)の方までいて、バンバンと艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を行なった。
志喜屋の人々はヤローヤー ※3 という壕に避難して命が助かった。ヤローヤーは崖の高い部分にあったので、アメリカ軍に見つからなかったのかもしれない。ヤローヤーには風葬(ふうそう)された遺体が2体ほどあったが、ここに避難した志喜屋の人々により、1ヵ所にまとめられ石で囲まれていた。

■防衛隊から義勇隊へ
昭和20年(1945)の2月、私は防衛隊(ぼうえいたい)に召集されて(集合場所の)東風平(こちんだ)(現 八重瀬町(やえせちょう))に行った。赤嶺少尉(しょうい)という沖縄出身の軍人から、「君らは今日から、国に対して貢献(こうけん)しなさい」という訓示(くんじ)があった。その後、私は玉城村(たまぐすくそん)(現 南城市)志堅原(しけんばる)で、ベニヤでできた特攻艇(とっこうてい)を格納することを目的とした壕掘り(ごうほ)作業 ※4 に従事した。
それからしばらくして、軍医(ぐんい)による身体検査があった。そのときに「病気をしたことがあるか」と聞かれ、病歴のある人は家に帰された ※5。
私はそうして家に帰ったが、今度は集落の人の指示を受け、暁(あかつき)部隊に義勇隊(ぎゆうたい)として動員(どういん)された。暁部隊は、(戦後の一時期)玉城村親慶原(おやけばる)の知念高校があった場所 ※6 にいた。当時家にいた青年たちは、女性も男性も暁部隊に動員されていた。
暁部隊にいたとき、一週間から10日ほど、長堂(ながどう)(現 豊見城市(とみぐすくし))の製糖(せいとう)工場があった場所にあった壕に待機した。そのときには、シュガーローフでの戦闘でけがをした暁部隊の隊員を、万福寺(まんぷくじ)(現 那覇市)の一角にあった小さな壕から、親慶原の「アシダガマ」(場所不明)という壕まで運搬(うんぱん)する任務(にんむ)についた。私たちは4人がかりで、負傷兵をモッコに乗せて運んだ。モッコは、わらで編(あ)んだ網にマータク(竹の一種)を入れて作ったものだった。運搬中には砲弾(ほうだん)が飛んでいた。ヒューヒューという音なら弾は遠くに落ちるが、ヒューバンという音の場合には弾の破片(はへん)が飛んでくるので、その場で伏(ふ)せた。そうやって伏せながら、小さな破片を受けて痛い思いをしながら運んだ。途中、糸数樋川(ヒージャー)を通って糸数アブチラガマ(どちらも現 南城市)まで来たが、そのころには東の空が明るくなっていた。
「アシダガマ」には玄米(げんまい)などの糧秣(りょうまつ)があり、その上で寝ることもあった。玉城村新原(みーばる)から義勇隊として来ていた女性たちは、一升瓶(いっしょうびん)に玄米を入れ、棒でついて精米(せいまい)していた。
そのほか、親慶原にいたとき「アメリカ軍が馬天(ばてん)(現 南城市)に来ているから監視(かんし)しろ」と兵隊に命令されて、交代で監視をした。その場所は、(一時期、親慶原にあった)知念高校の入口近くの壕であった。また、監視中、下親慶原にトンボ(アメリカ軍の小型偵察機(こがたていさつき))が墜落(ついらく)して燃えているのを見たことがある。
その後、部隊が与座(よざ)・仲座(なかざ)(現 八重瀬町)に撤退(てったい)することになり、「アシダガマ」にあった無線機(むせんき)はみんなハンマーで割られた。私はそのときにお腹を下していたため、兵隊から「家に帰れ」と言われ、志喜屋に帰った。

■戦後の志喜屋
[知念村は1945年6月上旬にはアメリカ軍に制圧(せいあつ)され、志喜屋も避難民の収容所(しゅうようじょ)となる。※7]うちの屋敷には上間(うえま)(現 那覇市)からの避難民が多く収容されていた。
[1945年9月に制定された「地方行政緊急措置要綱(きんきゅうそちようこう)」により、知念市を含む12の市が誕生する。志喜屋には市庁舎が設置された。※8]市庁舎は、当時は材料が不足していたので(木製の)電柱などを集めて造っていた。そのほかの材料は垣花(かきのはな)(現 南城市)から調達(ちょうたつ)してきていた。
(2015年 知花幸栄・永吉盛信と事務局による聞き取り 構成:山内優希)

■脚注
※1 1943年(昭和18)、志喜屋の親川仁盛の田んぼが献穀田に選ばれ、献穀田田植式が挙行された。献穀田は、新嘗祭(稲の収穫を祝う神行事。毎年秋に天皇が執り行う)に奉納する米を育てる田のことである。毎年、宮内庁が県を通して、村の代表的な篤農家の田んぼを指定した。献穀田に選ばれるのは農家にとっても非常に名誉なことであった。田植式には親川栄蔵村長や区長、小学校教員、県庁職員らも集まり、村から選抜された20人の「早乙女」(17~19歳の未婚の娘)が献穀田の歌を歌いながら田植えをした。(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』南城市教育委員会 2021〔第2版〕531~532頁)
※2 親川さんの姉である城間貞子さんの証言は本紙に掲載されている。
※3 多くの志喜屋住民が避難していた壕。現在の「かちひん橋」北方に所在。急峻な場所にあり立ち入り困難(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』577頁)。
※4 志堅原西方のタカウザファには、特攻艇㋹を保管するための壕がいくつも造られていた(玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』玉城村役場 2004 514,519頁)。親川さんが話している壕掘りとは、この壕の構築のことか。
※5 親川さんの話によると、病歴のある人が村の兵事主任に提出しなければならない資料があったようである。その資料は、病歴により防衛隊を除隊になったことを示す内容のものと考えられる。
※6 知念高校は1946年(昭和21)4月から1952年(昭和27)2月まで親慶原に所在していた。
※7 『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』(南城市教育委員会 2021〔第2版〕)第7章第1節参照。
※8 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』第7章第1節参照。