■小学校卒業後に那覇に出る
私は八重山(やえやま)で生まれた。生まれたころの私は、夜に泣いて眠らなかったそうだ。そのため、ウートートー(神仏を拝むときの仕草や発する言葉)させた ※1。すると、「久高島(くだかじま)にいるおばあちゃんが初孫(はつまご)(私のこと)を思っているから」と言われた。それで生後(せいご)3ヵ月のときに、私は久高島に行くことになった。シマナー(島名)はグルーだった ※2。私が1歳のころに父が亡くなった。
私が6年間通った小学校を卒業したとき、台湾(たいわん)で大きな事業をしていた伯父(おじ)さん(父の兄)が、「この子に、この島で農業をさせるのはかわいそうだ。台湾に連れて行こう。この子が望む通りに何でもさせる」と私を迎えに来た。私と親子2人で生きてきた母は、(伯父さんからその話を聞き)びっくりして、「ありがたいですが、この子は私の杖ですから離(はな)しませんよ」と言ったそうだ。「親がそう言うのならかなわない」と、伯父さんは私を台湾に連れて行くのをあきらめたそうだ。
しかし、私は久高を離れることになった。当時那覇(なは)でお店を営(いとな)んでいた、伯父さんの娘さん(ユキ)に赤ちゃんが生まれたため、住み込みで子守(こもり)をすることになった。そのため、私は3月に小学校を卒業したあと、5月から那覇に出て、戦争が始まる少し前まで那覇にいた。当時は定期船もなかったので、久高にはなかなか帰れなかった。
今でも、頭の中には昔の那覇の記憶がいっぱい残っている。最近では今日あったことも忘れてしまうが、那覇のことは忘れていない。
■久高島から見た十・十空襲
戦争が近づいてくると、「戦争が来るからもう島に帰りなさい」と言われ、私は久高に帰った。伯父さんの娘さん一家は、夫がヤンバル(沖縄本島北部)の人だったのでヤンバルに行くことになった。
島に帰ったあとの昭和19年(1944)10月10日の朝、私は切った芋を干すために外に出た。早く行かないと、干すための良い場所がなくなってしまうので早い時間に家を出た。すると飛行機が3機(き)一組で、空いっぱいに飛んでくるのを見た ※3。家に帰ってから那覇の方を見ると、すごい大空襲で、大きな煙が上がっていた ※4。
■久高からの立ち退き
十・十空襲の後、いつだったかよく覚えていないが、寒い時期に、「久高の人はみんな島から出なさい」と言われ ※5、島民は知念村(現 南城市)の安座真(あざま)と具志堅(ぐしけん)に分かれて住むことになった ※6。私は母と2人、具志堅(当時はシマグヮーと呼んでいた)に割り当てられて住むことになった ※7。食べ物は配給(はいきゅう)されていたと思う。ヤーサ(ひもじい思いは)しなかった。具志堅にいたときに、陣地構築(じんちこうちく)にかり出されたことはなかった。
久高島から全員出るように言われていたが、足の悪いおばあさん2人は島に残った。アメリカ軍が上陸する前のある日、島に残った2人のうちの1人の娘さんが、具志堅の水が出る場所で洗濯(せんたく)をしていると、戦闘機が島に行くのを見たそうだ。私は、娘さんが「お母さん」と言って泣きながら歩いているのを見た。おばあさん達は2人とも戦争で亡くなってしまった。
■中城で引き返す
島民が安座真と具志堅に分かれて住むようになった後、ヤンバルの金武(きん)村(現在の金武町と宜野座(ぎのざ)村)に疎開(そかい)するよう指示が出された。金武村に行った島民もいれば、私たちのように行かなかった島民もいる。私のいとこはヤンバルまで行ったが、屋嘉(やか)(現 金武町)にいたときに、子どもが背中におんぶされたまま亡くなった。いとこは、戦後にこの子を埋めた場所を探したけれど、どこの山だったのか、どこの木の下だったのか、わからなかったそうだ。
私と母は中城(なかぐすく)まで避難した。このころには、空襲はもう始まっていたかもしれない。しかし、中城までから知念村(現 南城市)へと引き返した ※8。
■安座真のアンガーガマに避難
中城から引き返してきた私と母は、私の同級生といとこと一緒に、安座真にあったアンガーガマに避難(ひなん)した。安座真に来たころには、もうあまり寒くはなかった。
安座真には日本軍の陣地があり、兵隊さんに「中城の方はもう戦争になっているから行かないで」と引きとめられた。アンガーガマにいたころには夜に畑へ芋掘りに行ったが、兵隊さんがおにぎりをくれたので、掘ってきた芋を食べることはなかった。兵隊さんたちも夜間に、煙を出ないように気をつけながらご飯を炊いていた。量がいっぱいで食べきれなかったので私たちにもくれたのかもしれない。
私たちがアンガーガマにいたとき、兵隊さんたちが軍服(ぐんぷく)を脱ぎ、あちこちに捨てられていた民間人の着物を着て、逃げ回っているのを見た。道で死んでいる兵隊も見た。
■久高に戻る
その後、サトウキビ畑にあった、壊(こわ)れた小さなサバニ(小型の木造船)を盗んで、6人くらいで久高へ帰った ※9。夜にバーンと照明弾(しょうめいだん)があがって昼のように明るくなる中で海を渡ったので命がけだった。このとき14,5歳の人が先導(せんどう)してくれた。
私たちの他にも、海を泳いで帰ってきた人や、同じようにサバニを盗んで帰ってきた人たちがいた。久高島に戻ってきた人は2,30人くらいいたかもしれない。私と母は、久高島に戻ってきた人達と7人くらいで島内のガマ(ティンドゥルガマ)へ避難した。
ある日、アメリカ軍の戦車が久高島に上陸してカベール ※10 の方まで来ていた。その後、一緒にいたうちの1人が「出ておいで、アメリカ兵は人を殺さないよ、出ておいで」と呼びかけたので、みんなでガマを出た。アメリカ兵はニコニコと笑って立っていた。
■浜比嘉島に収容される
久高島に戻っていた人たちは、アメリカ軍の舟艇(しゅうてい)に乗せられて浜比嘉島(はまひがじま)(現 うるま市)に送られた。私たちが浜比嘉に送られる前は、久高には空襲をまぬがれて焼けずに残った家がいくらかあったが、私たちが移動した後にアメリカ軍に焼かれてしまった。
私たちが舟艇に乗せられる前から、私の夫(戦後に結婚した)のお兄さんは「いつまでもこっち(久高島)にいられないよ、やがてアメリカが迎えに来るよ」と言っていた。二世(にせい)(日系(にっけい)二世のアメリカ兵)も、「お嬢(じょう)さん、急げ急げ」と言っていた。
舟艇に乗せられた後、アメリカ兵からリンゴをたくさんもらったが、慰安所(いあんじょ)に連れて行かれて親とも別れることになると思っていたので、リンゴを食べる気にもなれなかった。
浜比嘉では現地の民家に数人ずつ割り当てられて寝泊まりし、平和な暮らしをすることができた。男性は海で魚を捕り、女性は芋掘りに行って生活をしていた。食べ物の配給もあった。
いつだったかは覚えていないが、浜比嘉からトラックに乗せられ、安座真ではないところへ行き、そこから船で久高に帰った。
(2018年 事務局による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 秀子さんのご家族によると「詳細は不明だが、ユタにみてもらったと思う」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※2 戸籍上の名前とは異なる個人名のこと。童名(ワラビナー)ともいう。秀子さんのご家族によると「グルーという名前は首里にいた祖母の名前から付けた」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※3 秀子さんのご家族によると「3機1組の編隊で10以上の飛行機が飛んでいた」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※4 秀子さんのご家族によると「家のある場所は西海岸のため那覇の空襲の煙が見えた。なお、芋を干す場所は東海岸だったので空襲の様子は見えなかった」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※5 秀子さんのご家族によると「島を出ていくように言われたのは十・十空襲前。誰に島を出ていくように言われたかは不明」とのこと(2024年事務局聞き取り)。ここでは秀子さんの語りをそのまま掲載した。
※6 『沖縄県史 第10巻 各論編9 沖縄戦記録2』(沖縄県教育委員会編集・発行 1974)904頁では、久高からの立退き命令が下された時期は1945年(昭和20)の「二月上旬」とされているが、同書922、925頁の島民の語りでは「昭和十九年十二月頃」または「昭和二十年の一月七日」に島から立ち退いたとされているため、立ち退きの詳しい時期はわかっていない。
※7 秀子さんのご家族によると「大きな家に間借りさせてもらっていた。家主家族も住んでいた」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※8 秀子さんのご家族によると、秀子さん達は津覇(つは)小学校(現 中城村津覇)の辺りまで歩いていった後に引き返したとのこと(2018年事務局聞き取り)。
※9 秀子さんのご家族によると「サトウキビ畑の場所は現在の斎場御嶽(セーファウタキ)周辺の住宅地。ウランヌ浜(裏の浜)あたりから久高島に帰った」とのこと(2024年事務局聞き取り)。
※10 久高島の北東端にある岬のこと。ハビャーンともいう。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015783 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 19-21 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |