■久高尋常高等小学校を卒業
私の家では、私が4歳のときから父がテニアン島(とう) ※1に出稼(でかせ)ぎに行っていた。父から、家族をテニアン島に呼び寄せようとする連絡があったが、母が行くと祖父母の世話をする人がいなくなるので、祖父たちが「絶対に親を捨ててはいけない」と反対し、母と私たち子どもは久高に残った。
私は久高尋常高等小学校(くだかじんじょうこうとうしょうがっこう)(現在の久高小中学校の前身)に進学した。同級生は、私を入れて男子3人(卒業のときには2人)、女子7人だった。学校に奉安殿(ほうあんでん)はなかった。校内に天皇陛下(てんのうへいか)の写真が飾(かざ)られているのも見たことがない。だが、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)をしたことや、紀元節(きげんせつ)※2や天長節(てんちょうせつ)※3などの行事のときに、校長先生が「朕惟フニ(ちんおもうに)~」と教育勅語(きょういくちょくご)を奉読(ほうどく)していたことを覚えている。勅語奉読(ちょくごほうどく)のときには、生徒たちは頭を下げていないといけなかった。ちなみに当時、校舎の一部屋が校長用の住宅になっていて、校長先生はそこに住んでいた。
私は昭和16年(1941)3月に高等科(こうとうか)を卒業した。私の学校の成績は良い方だったので、卒業前に校長先生(大里村(おおざとそん)出身の玉城清助(たまきせいすけ)校長)※4は私の祖父の元に何度も通い、私を必ず中学校に進学させたいと話していた。しかし祖父は、「自分たちの力では上の学校までは面倒を見きれないから」と言って断っていた。進学していたら学徒(がくと)として戦争に巻き込まれ、どうなっていたかわからないので、進学しなくて良かったのかもしれない。結局は防衛隊(ぼうえいたい)として戦争に参加したが、運良(うんよ)く生き延びた。
祖父母は私が高等科を卒業するころに立て続けに亡くなった。その後、真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)で戦争が始まり(太平洋の島々は危険になったので)、それからはテニアンの父の元に行こうという話は出なくなった。
父はテニアン島での戦争で生き残り、昭和21年(1946)、16年ぶりに久高に帰ってきた。
■石垣島と久高島で漁師をする
高等科卒業後、私は漁師(りょうし)になった。4月から9月までの半年間は、石垣島の新川(あらかわ)にいた母方の親戚(しんせき)のカツオ船に乗り、カツオ漁に従事した。10月ごろに久高に戻り、冬の間は追い込み漁やタコ捕(と)りをした。追い込み漁では毎日クリ舟を漕(こ)ぐので筋肉がたくさんついた。鍛(きた)えられて力が強くなった。当時は、寒くても海の中を裸(はだか)でビュンビュン泳いだ。どの辺にタコがいるかわかっていたので、泳いで行って、たくさん捕ることができた。このように、4月から9月は石垣で、10月から3月は久高で漁をする生活を昭和18年(1943)まで続けた。石垣には3回行ったのを覚えている。
石垣から帰るときには、蒸気船(じょうきせん)に乗って西表島(いりおもてじま)に行き、船浮港(ふなうきこう)で1泊した。翌日は宮古島で1泊して、それから沖縄本島に帰った。つまり石垣を出て3日目に沖縄本島に着いた。船に乗る際には、「アメリカ軍の潜水艦(せんすいかん)に船の航路(こうろ)がばれてしまうので、海にごみなどを落とさないように」という注意があった。宮古島で1泊したときには、徴用(ちょうよう)で連れて来られた朝鮮人(ちょうせんじん)を見た。
■青年学校での訓練
昭和19年(1944)には週に一度、仕事を終えた夕方に久高の小学校の校庭で軍事訓練を受けるようになった。訓練のときには、知念村役場の兵事係(へいじがかり)だった前城(まえしろ)セイフウ ※5さんという知名(ちな)出身の方が来て、銃剣術(じゅうけんじゅつ)や銃の持ち方などを指導していた。銃は3丁(ちょう)ほどあったと思う。
この訓練に出席していたのは徴兵検査(ちょうへいけんさ)を受ける前の男性だけで、7、8人ほどだったように思う。私の2歳年上の先輩(せんぱい)が最年長(さいねんちょう)だった。
■防衛隊に召集
昭和20年(1945)の1月中旬だったと思うが、久高から知念村(現 南城市)安座真(あざま)に立ち退かされて一週間ほど経ったころ、防衛隊(ぼうえいたい)に召集(しょうしゅう)された ※6。召集のとき知念村の兵事係が安座真まで来た。同じように召集された安座真の人たち約10人も一緒に、集合場所の具志頭(ぐしかみ)国民学校 ※7(現 八重瀬町(やえせちょう))の校庭(こうてい)まで歩いた。
召集されたとき「戦いに行くぞ」というような感じではなかった。召集されたから行くだけで、「行って、いつ死ぬかな」というくらいの思いしかなかった。
召集されて3日目には軍医(ぐんい)による身体検査(しんたいけんさ)があった。100人ほどが、パンツ1枚だけ身に着けて一列に並べられた。沖縄本島の人は(肌が)色白で筋肉がなくヒョロヒョロしていたが、私は色が黒くて筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)だった。軍医が最後の方に並んでいた私の方に目を向け、「こんな体格(たいかく)は見たことがない」と驚(おどろ)いていた。中隊長(ちゅうたいちょう)も「申(もう)し分のない、立派(りっぱ)な甲種合格(こうしゅごうかく)だ」と大きな声で叫(さけ)んで大変褒めてくれた。
召集された際に、軍服(ぐんぷく)や靴(くつ)、靴下(くつした)、背嚢(はいのう)(背に背負う布製のカバン)、飯盒(はんごう)などが支給(しきゅう)された。軍服には階級章(かいきゅうしょう)はなく、白い布に名前を右から横書きにした名札(なふだ)がつけられていた。防衛隊員には銃の支給もなかった。
■第二十八船舶工兵隊に配属
私は、暁(あかつき)部隊の第二十八船舶工兵隊(せんぱくこうへいたい)※8という、特攻艇(とっこうてい)による攻撃(こうげき)を目的にして編成(へんせい)された部隊に配属(はいぞく)された。中隊長は鈴木少尉(すずきしょうい)で、カワサキ兵長(へいちょう)が分隊長(ぶんたいちょう)をしていた第4分隊に割り当てられた。部隊にいた兵隊の大半は高知県(こうちけん)出身者で、タカサキ、ヤマザキ、トクダ、キシという名前の兵隊がいたのを覚えている。
第4分隊の人数は40人ぐらいで、私を含む6人(並里センジさん、内間末七(すえしち)さん、糸数兵五郎(へいごろう)さん、西銘十三郎(じゅうさぶろう)さん、内間エイジさん、私)が久高の人たちだった。6人の中で私が1番年下だった。
第二十八船舶工兵隊に召集された久高の防衛隊員のうち、西銘文真(ぶんしん)さんと西銘十三郎さんが戦死した。アメリカ軍が沖縄に上陸したあと、彼らはクリ舟(ふね)を漕(こ)いで神山島(かみやましま)※9へ日本兵を連れて行ったそうだ。防衛隊員は(兵の移送を終えたら)そのまま帰ってきてよいという指令を受けていたようだが、2人は兵隊と一緒に弾薬(だんやく)を担(かつ)いで行って亡くなってしまったらしい。このことは、私が部隊の炊事(すいじ)班として根差部(ねさぶ)(現 豊見城市(とみぐすくし))にいたときに、知念村海野(うみの)の出身で第2分隊か第3分隊にいた運天さんから聞いた。戦後、私は、2人の遺族に、かれらが神山島で亡くなったことを伝えた。また、「遺骨は探せないだろうから、現地の小石を拝んで墓に入れたら良いのでは」と言った。その後、遺族の1人が現地へ行き、小石を拾って持って帰った。
■特攻艇と壕
奥武島(おうじま)(現 南城市)の観音堂(かんのんどう)の広場には大きなテントが張られ、特攻艇に乗る隊員が宿泊していた。特攻艇は40隻あったので、隊員も40人いたと思う。彼らはみんな20歳前後の本土出身者で、夕方になると必ず「海行(うみゆ)かば」を合唱(がっしょう)していた。
奥武島と志堅原(しけんばる)(現 南城市)には特攻艇(とっこうてい)を入れるための壕(ごう)が造られ、1つの壕には3隻(せき)の特攻艇が入れられていた。また、壕から海に向かって特攻艇を出すための台車(だいしゃ)のようなものが造られていた。その長さは30メートルぐらいあり、12センチ、15センチ角(かく)くらいの角材(かくざい)を組んで造られていたが、車輪(しゃりん)はついていなかったと思う。
特攻艇は弾1発で穴があくような、薄(うす)いベニヤ板で造られた消耗品(しょうもうひん)だった。私は、試運転(しうんてん)をしているのを見たが、エンジンはキリキリという音を出してよく回り、船はすごく速く進んでいた。エンジンの後ろにワイヤーで爆雷(ばくらい)が取り付けられていて、船を操縦(そうじゅう)しながらスイッチを押すとワイヤーが外れて爆雷が投下(とうか)されるようになっていた。中隊長から、爆雷を投下してから4秒間で200メートル進むと、この特攻艇の乗員(じょういん)は助かると聞いた。
■防衛隊員としての生活
第4分隊の久高出身者6人は、身体検査を受けたあと、志堅原の民家で寝泊(ねと)まりすることになった。この民家は広場の隣(となり)にある茅葺(かやぶ)きの家で、親切なおばあさんが1人で住んでいた。朝の起床(きしょう)は6時で、毛布(もうふ)はピシャーっときれいに畳(たた)まねばならなかった。広場で朝・夕の点呼(てんこ)があった。分隊に配属されていた兵隊が、各家に防衛隊員の見回りに来ていた。
朝ご飯の時間は6時半ごろで、炊事班が準備したものを人数分もらってきて食べていた。部隊には粉味噌(こなみそ)や粉醤油(こなしょうゆ)などの食料がちゃんとあった。朝ご飯のあとは毎日何かしらの作業をさせられたが、召集されて初めのころは奥武島の砂浜に行って、体操(たいそう)などいろんな訓練をさせられた。
また、あるときの作業では、避難壕(ひなんごう)の上部の枠(じょうぶのわく)にするための松の木を切るために親慶原(おやけばる)(現 南城市)まで行った。大きな松の木を伐採(ばっさい)して10人で担いだが、親慶原から富里(ふさと)(現 南城市)に下りる下り坂では、木の運搬が大変きつかった。富里から奥武島へ向かう曲がり角で、私たちは5分から10分くらい座って休憩した。その後、分隊長が「さぁ、いのー」と言った。それは高知の言葉で「さぁ、帰ろう」という意味だったが、私たちにはわからなかったのでそのまま座っていると、「コラー!」と大きな声で怒鳴(どな)られた。
休みは1日もなく、家族のいる安座真へ帰ることもできなかった。だが、十三郎さんと兵五郎さんの奥さんは面会に来ていた。十三郎さんは喘息(ぜんそく)持ちで、息苦しそうに咳(せき)をしていた。班長はかわいそうだからと作業を休むのを認めていた。下宿先のおばあさんが十三郎さんにお粥(かゆ)を炊(た)いてあげることもあった。
■沈んだ特攻艇を引き上げる
3月中旬、検査のためにすべての特攻艇(とっこうてい)を奥武と志堅原の壕から出し、奥武島の橋の下につないでいた。すると23日の夜明けに、玉城(たまぐすく)(現 南城市)の新原(みーばる)方面から米軍の飛行機が1機飛んできて、つないであった特攻艇に機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を行なった。この攻撃で16隻の特攻艇が沈められてしまった。
残って浮いていた特攻艇は、のちに飛行機が来ない間に引き上げられて壕の中に移された。なお、この機銃掃射のとき、奥武の竹藪(たけやぶ)のほうで国吉シンユウさんという東風平(こちんだ)(現 八重瀬町)出身の同年代の防衛隊員が機銃掃射を受けて亡くなった。夕方の点呼を取っていたときに彼だけおらず、そのときに彼が亡くなったことがわかった。彼は2人の防衛隊員と奥武まで行ったが、そこで攻撃を受けたようだ。あとの2人は逃げ帰ってきた。数日後に空襲(くうしゅう)で志堅原の茅葺きの家が燃えたが、その際、私たちは奥武から運んできた彼の遺体(いたい)をそこに入れて火葬(かそう)した。同じ東風平出身のコハツさんという人が国吉さんの遺骨(いこつ)の一部を拾って持っていたが、コハツさんが戦争を生き延びたのかどうかはわからない。
沈んだ特攻艇16隻は、私を含む久高島出身者4人で海に潜(もぐ)り、一晩ですべて引き上げた。3月中旬で寒い中、水中メガネも灯(あか)りもないまま5メートルほど潜り、手探(てさぐ)りで船を探した。夕方から作業を始めたが、途中で兵五郎さんがガンガゼ(ウニの一種)を踏(ふ)んでしまい、作業ができなくなったので、その後は3人で潜ることになった。途中で2回ほど火を焚(た)いて休みながら作業を続けた。最後の特攻艇を引き上げるころには夜が明けてきていた。水中メガネがあれば、それほどきつくはなかったと思う。
引き上げ作業が終わったとき、中隊長が来て、「本当にご苦労だった。ありがとう」と言って、私たちに頭を下げた。
引き上げた特攻艇は、一晩のうちに玉城村(たまぐすくそん)(現 南城市)船越(ふなこし)のキビ畑までトラックで運んだ。そして、キビ畑の真ん中を伐採して穴を掘り、1隻ずつ隠した。
■アブチラガマに移動
4月に入ると、私たちの部隊は志堅原から玉城村糸数(いとかず)のアブチラガマへ移動した。アブチラガマには5月20日ごろまでいたと思う。ガマの中にはいろんな食料品が山積みにされていた。「慰安婦(いあんふ)」もガマの中で見た。
このころには毎日夜間作業があった。たとえば、船越に隠した特攻艇がアメリカ軍に見つからないようにするため、擬装(ぎそう)を施した。夜に船越の楠(くすのき)を伐採して、特攻艇を隠していた穴の枠(わく)にし、上からその枠に土とサトウキビの葉っぱを被(かぶ)せて、外からはわからないようにした。部隊が、一度沈められたこれらの特攻艇を再び使おうとしていたのかどうかはわからない。
同じ第4分隊の防衛隊員の中に、内間エイジさんという先輩がいた。彼は目が悪かったので、夜間作業に出るのをいやがって参加しなかった。しかし、班長は、エイジさんの昼間の元気な様子を見て、彼が目が悪いことを言い訳にして夜間の作業に参加しないとみていた。
ある日の夜9時ごろ、班長がいたところにロウソクの火があったので、エイジさんが私に「タバコの火をつけてきてくれ」と頼んだ。私が班長のところへ行くと、班長は「内間、もう消灯(しょうとう)時間だからタバコを吸わせるな」と言った。戻ってそのことを伝えると、彼は自分で班長の元へ火をつけにいった。すると班長は「貴様(きさま)、何べん言ったら分かるのか!消灯時間だからタバコを吸うな!」と言った。それでも彼はタバコに火をつけようとした。それで班長から「タバコ全部持ってこい!」と言われ、エイジさんはタバコを没収(ぼっしゅう)されることになった。
しかし彼はタバコを少し残していたようで、数日後にタバコを吸っているのを班長に見つかった。彼は班長に呼び出された。そして、2人の間でこのような言葉のやりとりがなされた。「貴様、『吸うな』と止められているのになぜタバコを吸うか」「辛抱(しんぼう)できなくて、すみません」「辛抱ができなければ、何で班長の前に来んのか」「班長が怖いです」「班長が怖ければ、貴様、別の中隊に行け!」と(エイジさんは言葉で叱責されただけでなく)見ていてかわいそうになるくらい、竹の鞭(むち)で叩(たた)かれた。彼は結局、別の部隊(第1中隊)に異動させられた。
ちなみに彼はその後、クリ舟での斬り込みに参加させられたそうだ。しかし、斬り込みに行きたくなかったため、舟が那覇港を出て波之上(なみのうえ)(現 那覇市)まで来たところで水はけ用の穴を開けて(海に出るときは閉じている)、舟を浸水、沈没させたという。彼は泳いで陸に上がって捕虜(ほりょ)になり、戦争を生き延びた。
■クリ舟で斬り込みに出る
私たちの部隊もアブチラガマから豊見城(とみぐすく)(現 豊見城市)の高安(たかやす)にあった本部の壕に移動し、夜間にクリ舟10隻以上で斬り込み(きりこみ)に出ることになった。クリ舟は糸満(いとまん)や小禄(おろく)(現 那覇市)からかき集めてきたもので、1隻に12、3人ずつ乗っていたと思う。兵隊も防衛隊員も一緒だった。
私が乗ったクリ舟では先輩(内間末七さん)と私が漕(こ)ぎ手になり、先輩が舵取(かじと)りを行った。同乗(どうじょう)していた兵隊は軽機関銃(けいきかんじゅう)を持っていたが、私たち防衛隊員には武器はまったく支給されなかった。末七さんは伝書鳩(でんしょばと)が入った箱を持たされていたが、それは中隊長への連絡用だったのかもしれない。
夜の8時半ごろ、暗闇の中、舟はメガネ橋(豊見城市の石火矢橋(イシバーシ))あたりから那覇港を出た。嘉手納(かでな)沖にアメリカ軍の艦船(かんせん)の灯りが見えていた。初めは(それが艦船だと気づかずに)それに向かって漕いでいった。しかし、近づくとそれが艦船だとわかったので進路を変更した。たどり着いたところが牧港(まきみなと)(現 浦添市)の海岸だった。漕ぎ手が2、3人しかいないので(速く進めず)、着いたのは夜中だった。私たちはその海岸から上陸し、アメリカ軍に斬り込みをしようとした。
■アメリカ軍からの機関銃攻撃
しかし、舟から下りて上陸を始めようとしたとき、照明弾(しょうめいだん)が上がり、辺りが昼と同じように明るくなったので、逃げも隠れもできなくなった。そして2つの機関銃陣地から攻撃を受けた。初めのうちは、弾は頭の上を飛んでいたので恐怖感はなかった。しかし、私たちが陸地に近づくにつれて弾が体の周辺にピューっと飛んでくるようになると(怖くなってきた)。
やがて、周りの兵隊たちがバタバタ倒れて(地面は)真っ赤になった。自分のところにも弾が飛んでくるのが見えた。陸に上がるまでに半分以上の兵隊は撃たれてしまった。私は乾麺麭(かんめんぽう)(乾パン)2袋と握り飯(にぎりめし)2個を入れた背嚢(背に背負う布製のカバン)を持っていたが、自分の身の安全さえ、まともに確保できない中で、これらを持って歩く余裕はなかった。なので、(身を軽くして動きやすくするために)背嚢を捨てた。末七さんも伝書鳩を捨てた。
私は何とか陸に上がった。海岸の護岸(ごがん)を飛び越えると、そこは麦畑(むぎばたけ)のような平坦地(へいたんち)になっていた。畑の真ん中から底の浅(あさ)い水路が伸びていたが、それに沿って、ソテツの木があちこちに2、3本ずつ生えていた。私と末七さんは、ほかの兵隊と一緒に、あらかじめ決められていた通り、アメリカ軍の陣地の方へ向かって進んで行った。しかし、兵隊たちは次々にアメリカ軍の機関銃攻撃を受けて倒れ、亡くなった。
このとき、アダン林の隙間(すきま)からアメリカ軍の様子が見えた。座ってタバコを吸っている兵隊や本を読んでいる兵隊もいた。座談会(ざだんかい)のような雰囲気(ふんいき)があり、余裕(よゆう)が見えた。向こうは戦争気分じゃない。その様子を見てすぐ、もう戦争は負ける。もう絶対ダメだと分かった。武器を見ても、日本軍の武器や鉄砲(てっぽう)で勝てるはずがない。向こうの銃は引き金を引いたら何発も撃てたが、日本軍の銃は1発1発、弾をこめて撃たなければならなかった。アメリカ軍は「おもちゃのようだ」と笑っていたのではないかと思う。
私と末七さんは話し合い、弾もそのうち止(や)むはずだからそれまで待とう、ということになった。それからしばらく経つと、日本の兵隊が動くのが見えなくなったからか、とうとう弾が撃ち止んだ。末七さんが「海岸に戻ろう」と小さな声で言ったが、私は撃たれるのが怖くて先に行けなかった。すると、末七さんが先になって死んでいる兵隊の上を這(は)って行った。(私は末七さんの後に続いた。)
そうして移動している途中、動いているのがアメリカ軍にばれて銃撃が始まった。私のすぐ横を通過した弾もあった。
私たちはゆっくりゆっくり這って行き、とうとう護岸の下の海岸にたどり着いた。そこは日本軍の機関銃陣地だったのか、海に向けて穴が開いていて、ちょうど2人隠れるぐらいの空間があった。私たちは夜明けまでそこに隠れていた。
夜が明けるころ、今度は2人の日本兵が私たちの方に向かってきた。私たちはアメリカ兵だと思い、もう命がないと思って手を挙げると、日本兵から「防衛隊か?」と小さな声で聞かれた。その後日本兵はそこから出たが、出ると同時にアメリカ軍の攻撃を受けた。彼らはそこでそのまま亡くなったと思う。
私たち2人はその後、海岸のアダン林の根の下に横穴を掘って入り、飲まず食わずで日が暮れるまで隠れていた。
■波之上まで泳ぐ
私と末七さんは、そこから海を泳いで避難することにした。日が暮れると同時に、隠れていた穴から飛び出て海に飛び込んだ。陸にはアメリカ軍がいるため、水深1.5メートルぐらいまで潜り、那覇の方向に向かって平泳ぎで泳いだ。深いところしか泳げなかったが、海岸沿いを泳いでいけばだいたい大丈夫だと判断した。毎日泳いでいたので10キロメートルは泳げるという自信があったが、泊港(とまりこう)(現 那覇市)のところは引き潮で大変だった。握り飯などが入った背嚢(はいのう)は捨ててしまっていたので、飲まず食わずで4、5時間ほど泳いで、波之上(なみのうえ)(現 那覇市)にたどり着いた。
泳いでいたとき、2、30メートル離れたところにもう1人、誰か泳いでいる人がいるのが見えた。そのときは誰かわからなかったが、あとから順一さんだったことがわかった。順一さんによると、牧港に上陸した翌朝まで13人は生きていて、たくさんあったアダン林に隠れていた。しかし、陣地から下りて来たアメリカ軍に向かって日本兵が手りゅう弾(しゅりゅうだん)を投げたので(日本兵の居場所がばれて、アメリカ軍に)めちゃくちゃに撃たれてしまい、ほぼ全員死んでしまったらしい。彼は(日本兵と)一緒にいたら死ぬと思って1人で逃げたので助かったのだそうだ。その後、日が暮れると同時に海を泳いで泊(とまり)(現 那覇市)で上陸したという。
波之上で上陸した私と末七さんは、お宮(みや)の向こうにあった大きな丸い火災用タンクの中の水で軍服を洗った。その後、私たちは部隊の本部壕がある高安(たかやす)(現 豊見城市)まで戻ることにした。しかし、夜中になると那覇の街で方向がわからなくなった。那覇は焼け野原になっていたからだ。この方向かなと思った方に歩いて行くと、途中で避難民の一家に出会った。彼らは「こっちまでアメリカ兵が来ているから、自分たちは南部の方に避難する」と言った。私はそれを聞いて、自分たちが泊方面へ逆戻(ぎゃくもど)りしていたことがわかった。私と末七さんはこの一家と一緒に歩いて行くことにした。
歩いていた途中で艦砲(かんぽう)の破片(はへん)が飛んできて、この一家のお父さんがけがをした。「やられた」と言って一家は右往左往(うおうさおう)していたが、私たちは助けるどころではなかったので、私と末七さんはそのまま歩いてその場を離れた。当時は(他人を助けるということは)あまり考えられなかった。
真玉橋(まだんばし)(現 豊見城市)の近くまで来たとき、今度は男性2人に出くわした。薄月夜(うすづきよ)だったので顔や服装がはっきり見えなかったが、朝鮮人(ちょうせんじん)だったと思う。私は中隊の話をしようと思って立ち止まったが、末七さんが急に飛んで逃げたので、びっくりして私も彼のあとを追って走った。話を聞くと、「1人が短刀(たんとう)を持っていた」ということだった。
■部隊に戻る
真玉橋はアメリカ軍に利用されないように日本軍が壊していたので、私たちは川の中を渡って高安の本部壕へ行った。そこには漢那(かんな)という名前の曹長(そうちょう)が残っていたので、彼に牧港での状況を説明し、中隊長も小隊長もみんな戦死して誰も戻ってこないことを伝えた。彼は「全滅(ぜんめつ)か」とがっくりしていた。
私たちは部隊に戻り、今度は残っている分隊の炊事班(すいじはん)に入ることになった。壕は根差部(ねさぶ)(現 豊見城市(とみぐすく))にあり、壕の口は東を向いていて、内部はL字型をしていた。
その壕の向かい(高台の向こう)には避難民が自分で掘って造ったような壕が2つあった。それらの壕の前には小さな川があり、あちこちにソテツの木が立っていた。6月に入ったある日、その壕の避難民が川で洗濯をして、ソテツに洗濯物を干していた。それがアメリカ軍の偵察機(ていさつき)に見つかり、昼の4時ごろだったか、飛行機からその壕に爆弾(ばくだん)が落とされてしまった。
その影響で松の大きな木がドサッと倒れて壕にかぶさり、壕の避難民は生き埋めになった。2つの壕にはおそらく10人以上の避難民がいたのではないかと思う。その日の夕方にも、私たちの壕の数十~数百メートル先に爆弾が1発落とされて山も崩(くず)れてしまい、生き埋めになった人たちを助け出すのはいっそう困難になった。自分のいた壕の向かいで起こった出来事だったので、私はその様子を実際に見ていたが、かわいそうと思うだけで、どうすることもできなかった。
戦後になって私の親族が地元の人に聞くと、それらの壕のことは分からないということだった。あの壕の避難民たちは地元の人ではなかったようだ。私も県に、この壕で遺骨収集(いこつしゅうしゅう)をしたかどうかを問い合わせたが、「わかりません」という答えだった。
■危険と隣り合わせの炊事
避難民たちが生き埋めになってから2日後、今度は私たちが寝起きしていた壕が崩落(ほうらく)した。私は午前2時ごろから起きて炊事をしに行っていたので無事だったが、ちょうど私が寝起きしていた場所で崩落が起きたので、本当に運が良かった。
炊事は1日1回で、根差部にあった茅葺きの家でテントを張っておこなっていた。大きな鍋(なべ)が2つあり、1つはご飯、1つは汁物(しるもの)を作るのに使っていた。汁物に入れるタマナー(キャベツ)は根差部の畑から盗み、出汁(だし)には部隊にたくさんあった牛缶を使った。部隊には粉味噌や粉醤油もあった。
ある日、班長が馬の肉をたくさん買ってきた。それは高安で売られていたという。それを「お汁に入れなさい」と言われて調理(ちょうり)したが、肉が生臭(なまぐさ)くて切るのに大変苦労した。真昼間に切ったが、私はこの臭(にお)いのせいで吐(は)いてしまった。
別の日には、炊事のときに使っていた小さな井戸に爆弾が落とされ、そこにいた炊事班の隊員2人が飛ばされてしまった。2人は運ばれていったが、助かったのかどうかわからない。私はカマドの前にいたので無事だった。
それから数日後、炊事場もアメリカ軍の爆撃(ばくげき)を受けて燃えてしまった。隣の家は茅葺きだったので、そこが燃えて炊事場のテントに火が移ってしまったのだと思う。燃えてしまった炊事場を見てびっくりしたが、アメリカ軍の飛行機が来る夜明けまでにはご飯を炊かないといけなかったので、焼け残った釜(かま)を一生懸命洗った。
■南部に移動
その後、アメリカ軍が近くまで攻めてきているということで南部へ移動することになった。
私たちが移動する前、根差部の避難民たちは天ぷらを焼いて私たちに持ってきてくれた。私たちはその礼に私たちの部隊が保管していたお米をかれらに持っていった。お米は根差部の広場に山盛りにして置いてあった。私たちはそれらを一俵(ぴょう)ずつ担(かつ)いで彼らが避難していた崖(がけ)っぷちの岩陰(いわかげ)まで運んだ。私は「私たちは移動するが、お米は置いて行くのでなくなる前に早く取りなさい」と伝えた。
(とはいえ、すべてのお米をかれらに渡したわけではなく)私たちもお米を10キログラムずつ担ぎ、夜に糸満の名城(なしろ)ビーチのあたりまで歩いて移動した。軍から移動の指示があったのかどうかや、このとき部隊に何十人残っていたのかはわからない。私たちは名城で一晩泊まり、翌日にまた歩いて具志頭村(ぐしかみそん)(現 八重瀬町)の与座(よざ)・仲座(なかざ)まで行った。壕はもうなかったので海岸の岩陰に避難したが、そこからは自由行動となった。このとき、アメリカ軍はそこまで来ていなかったが、部隊には陣地を造れるほどの組織や人数はもうなかった。
自由行動になってから、私は昼間に仲座の製糖工場(せいとうこうじょう)のところにあった大きなガジュマルの横で休んでいた。すると偶然(ぐうぜん)、軍に徴用(ちょうよう)されていた久高の出身者4人(漢那のオジー、西銘トウキンさん、糸数セイスケさん、川平傳次郎(でんじろう)さん)がそこを通った。彼らは、久高出身で当添(とうそえ)(現 与那原町(よなばるちょう))に住んでいた西銘モリジロウさんが所有していた小さな船に乗っていた人たちで、船ごと軍に徴用されていた。彼らはスコップを持っていて、「南の方に行く」と言っていた。4人のうち漢那のオジーと川平さんは亡くなり、西銘さんと糸数さんは生き残った。
その後私たちは、集落内に入ることができなかったので海岸線に戻り、岩陰に隠れながら歩いて避難した。アメリカ軍は玉城(現 南城市)の方まで攻めてきており、人々は南の方に追いつめられ、海岸にも避難民がたくさんいた。アメリカ軍の艦船(かんせん)は毎日毎日、海岸に向かって艦砲を撃ち込んでいた。
ある日、私たちと一緒に歩いていた、那覇から避難してきていた姉妹の妹が艦砲の直撃を受けた。姉はどうすることもできないし、私たちも助けることができず、妹は亡くなった。ちなみに、5月、6月はハブ(毒ヘビ)が出る時期だが、岩陰のどこに隠れてもハブを見ることはなかった。ハブも艦砲射撃に驚いて隠れていたのかもしれない。
■「泳いで生き延びよう」と決める
私は並里センジさん、内間末七さんと一緒に、艦砲を避けながら岩陰を走って、摩文仁(まぶに)(現 糸満市)の近くにあるウルバマという平坦地(へいたんち)まで行った。3人とも、靴下にいっぱいに詰めたお米と飯盒を持っていたので、「(ここにいたら)どうせ最後には追い詰められて殺されるから、夕飯を食べて、泳いで生き延びよう」と決めた。それまでは逃げ隠れするので精一杯(せいいっぱい)だったが、このときには「泳いで助かろう」と決意した。
しかし、ご飯を炊くために必要なマッチがなかった。それで避難民を探し、お米との物々交換(ぶつぶつこうかん)でマッチ1個と換(か)えてもらえないか頼むと、避難民は「助かった、助かった」と大喜びしていた。そうしてマッチをもらい、艦砲が落ちたところにできた穴に溜(た)まった水でお米をとぎ、大きな松林の下で、煙(けむり)がたたないように枯葉(かれは)を選んで火を点(つ)け、飯盒いっぱいにご飯を炊いた。そして日が暮れるのを待ち、日が暮れると同時に海岸に下りて、岩陰でご飯を食べた。
その後、私たちは夜の7、8時ごろから泳ぎ始めた。センジさんは非常用の海軍の乾(かん)パンを持っていた。私は「これ早く食べよう」と言ったが、彼は「島に帰ったら食べるものが無いよ」と言って、乾パンを頭に載せて縛(しば)って泳いだ。
私たちが港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)の漁港の方まで泳いできたとき、潮(しお)が干上(ひあ)がっていた。それでリーフの上に立ち、今度は漁港の入口の方を泳ごうとしたら、真っ黒な不気味な物体がいくつか見えた。私は与座・仲座の海岸の岩陰にいたときに、アメリカ軍の水陸両用戦車が沖から入って来るのを見ていたので、それがここに2隻(せき)停泊(ていはく)しているのだと思った。しかしセンジさんは、「10月空襲(1944年10月10日の空襲)で沈没(ちんぼつ)した日本の木造船が、潮が引いたから干上がってるんじゃないか」と言った。「違うよ、アメリカ軍の船がたしかにここに入って来たよ」と私は言い返した。
その後、立っていたリーフから漁港の入口の方に向かって泳ごうとした矢先に、センジさんが首をバーン!と撃たれた。センジさんの「やられたー!」という声を聞いて、末七さんと私は潜り、軍服を全部脱ぎ捨てた。その後浮き上がってきたときには、弾は撃ち止んでいた。
それから末七さんと私は沖の方に向かって泳いだ。足が痙攣(けいれん)するまで泳ぎ、もう大丈夫だろうと思ってたどり着いたのが新原(みーばる)ビーチ(現 南城市)だった。潮が干上がっていたので、私たちはリーフに上がった。センジさんがそのまま亡くなったと思っていたので、海の向こうに向かって手を合わせた。
■志喜屋の収容所で証明をもらう
末七さんと私は新原の浜に上がり、その晩に久高に戻るつもりで、知念(ちねん)や久手堅(くでけん)の海岸沿いを片っ端(かたっぱし)からクリ舟がないか探した。しかし全然見つからず、島に渡ることができなかった。それで、志喜屋(しきや)の向かいにある無人島(むじんとう)のアドチ島(現 南城市)まで泳いで渡り、そこの岩陰の砂を掘って一晩寝た。
夜が明けると、砂浜の周辺にはアメリカ軍の艦船から捨てられたリンゴやオレンジなどがたくさん流れ着いていたので、それを拾って腹いっぱい食べた。その後、末七さんが「潮が引いたら志喜屋に知り合いがいるからそこに行こう。向こうでお芋を食べよう」と言ったので、志喜屋に渡った。
志喜屋集落へ芋を食べに行こうとしたら、知念の浜から銃を肩にかけたアメリカ兵が3人、こっちに向かって歩いてくるのが見えた。そのため私たちは、志喜屋の海岸のアダン林の中に入り、日が暮れるまで潜り込んでいた。
夕方になると、そこに志喜屋の青年が夕涼(ゆうすず)みに来た。彼に「こっちにはアメリカ軍がいるのか?」と聞くと、「もうここは収容所(しゅうようじょ)になっている。(捕虜(ほりょ)であるという)証明をもらわないと自由に出歩けないよ」と言われた。それで証明をもらおうということになった。しかし、私たちは帽子をかぶっていた頭の部分以外は日焼けをしていたので、大変だということになった(軍にいた防衛隊ということがばれると思ったからである)。だが幸い、久高の同級生で母方の親戚(しんせき)でもある福地家の人が捕虜になっていて志喜屋にいた。彼は私立開南中学校に通っていたので、私は彼の制服を借りて帽子もかぶり、「学生だった」と言っただけで、ササッと証明をもらうことができた。末七さんは、「遠洋漁業に出て戻ってくると久高島が全島立ち退きになっていて誰もいなかったので、ここに避難していた」と話した。すると、通訳をしていた大久保という日系2世の米兵が「そうか」といって簡単に証明をくれ、「こっちに網がたくさんあるから魚を捕ってこい」と冗談(じょうだん)も言っていた。
■久高に渡る
それから3日ほどしたころ、私たちは志喜屋の人から、センジさんの消息を聞いた。センジさんは証明をもらいに来て、「初めは3人でいたが自分はけがをした。あと2人が生きているのか死んでいるのかはわからない」と話していたという。末七さんと私は、海岸にある網を保管する小屋にいたセンジさんと会うことができ、泣いて再会を喜んだ。センジさんは港川で撃たれたあと、「陸に上がったら死んでも良い」という思いで、奥武島近くの海岸まで泳いだらしい。センジさんも、末七さんと私は死んだと思っていたそうだ。
私たち3人は、「クリ舟があるはずだから今晩、島(久高)に行こう」と話した。それで久手堅(くでけん)の下のアダン林の中で、壊れた小さなクリ舟を見つけた。先の方が割れていたので縄で縛り、水はけのための空き缶も用意して、3人とも後ろの方に乗って漕ぎ出した。割れていた先の部分は水につけないように上げて漕ぎ、ひとまずコマカ島(現 南城市)に到着した。
私たちは、コマカ島にアメリカ軍がいないかを確認し、誰もいる気配がなかったのでそこで一休みした。するとアメリカ軍の救命胴衣(きゅうめいどうい)のような、綿が入っているものが流れ着いているのが目に入った。私たちはそれを割いて、クリ舟の先の部分を補修(ほしゅう)した。おかげで先の方にも1人乗れるようになった。
コマカ島から久高までクリ舟を漕いで、私たちは現在の徳仁港(とくじんこう)(久高島の港)の下にある小さな砂浜に到着した。そこから集落に上がり、「人がいるなら井戸の水が使われているはずだ」ということで新川(ミーガー)に行くと、確かに水が使われた跡(あと)があった。それで避難民がいることがわかり、その後、私たちより数日早く島に戻ってきていた母たちと再会することができた。他にも島の人たちが40名くらい戻ってきていて、「よく生きて帰った」と喜び合った。
島には40人くらいが入れる自然壕があり、その周辺にも4、5人が入れる小さな壕があったので、人々はそれらに隠れていた。男性で泳げる人はすぐに魚を捕ることができた。麦や大豆、芋などもいっぱいあったので、食べ物には苦労しなかった。
■アメリカ軍に見つかる
久高で1番最初にアメリカ軍に発見されたのは、久高ノロ ※10をしていたおばあちゃんだった。このおばあちゃんは他の島民と一緒に壕に避難していたが、壕での生活が嫌になり、1人で集落に戻って空き家で暮らしていた。そのころ、アメリカ軍が週に1回ほど上陸用舟艇(しゅうてい)で島に来ていたのだが、そのときに見つかってしまった。彼女はアメリカ兵からタバコやオレンジ、リンゴなどをもらったらしい。初めは「毒(どく)が入っているのではないか」と警戒(けいかい)していたが、アメリカ兵がみずからタバコを吸ったり、オレンジの皮をむいて自分で食べて見せたりしたので、タバコや食べ物をもらったそうだ。
そのとき、言葉がわからない彼女は「避難民があっちにたくさんいるよ」と、身振り手振りでアメリカ兵に教えたらしい。それでアメリカ兵が2人ぐらい、壕に続いていた足跡をたどって、人々が避難していた壕の中まで入って来た。みんな驚いて、こわいのであちこちに逃げたが、結局は東海岸のタチ浜の辺りに集まった。そして、ここで通訳のアメリカ兵から「壕にいたら飛行機に見つかって攻撃されるかもしれないから、集落の方に行きなさい。一週間後に迎えに来るから」と言われた。
それで集落に戻ると、4、5日ぐらいしてから上陸用舟艇で海軍兵が来て、タバコやオレンジをくれた。私はタバコを吸わないが、おじさんが吸うのでたくさんもらって帰った。当時、アメリカ兵は1人に1、2箱ずつタバコをくれたので、うちのおじさんはタバコをいっぱい吸っていた。
■浜比嘉島に送られる
ちょうど一週間ぐらい経ったころにLST(戦車揚陸艦(せんしゃようりくかん))が来て、久高にいた人たちは浜比嘉島(はまひがじま)(現 うるま市)に送られ、そこで半年ほど生活した。浜比嘉ではアメリカ軍の物資(ぶっし)を配給されて(その物資で)暮らしていた。夏だったので私たち男性は毎日島の周辺を泳ぎ、モリで魚を突(つ)いて捕っていた。当時は魚がいっぱいいて、1日に200斤(きん)(約120キログラム)ほど捕れた。地元には「網を持ったら自分にはかなわんよ」と言うおじいちゃんがいて、彼は船を出して網で小魚を、私たちはモリでミーバイ(ハタ類の魚全般(ぜんぱん))やチヌマン(テングハギ)などの大きな魚を捕っていた。
捕った魚は地元の比嘉集落の人たちに分けていたので、「久高の人のおかげ」と大喜びされた。私たちが浜比嘉を引き揚げるときには、「久高の人が行ったら魚食べられないね」と寂(さび)しがられた。
■奥武島での生活
私たちは、浜比嘉での生活が終わると、アメリカ軍の水陸両用の車で屋慶名(やけな)(現 うるま市)まで送られ、そこからトラックに乗せられて知念村(現 南城市)まで移動した。知念村内では知人の元に行き、のちに具志堅(ぐしけん)集落に行った。そこから奥武島に移動し ※11、そこでまた半年ほど暮らした。
奥武島では、割り当てられた大きな瓦葺きの家で生活した。奥武島には久高の人たちが30人ぐらいいたと思う。(久高の)若者は(奥武島の人と)毛遊び(モーアシビー)※12をしていたが、奥武島の青年に「なぜ久高島の若者同士で遊ばず、奥武島の人と遊ぶのか」と言われていたので、カップルはできなかった。
奥武島にいたときには、アメリカ軍が使わなくなった上陸用舟艇を2隻もらって漁業をした。それらは、現在のホワイトビーチ(現 うるま市)にあった。そのような上陸用舟艇はそこにいっぱいあった。
また、日系2世のアメリカ兵で通訳をしていたチャーリーと大久保という2人から、アメリカ兵の大好物のエビを捕るように言われて、エビも捕った。夜にはエビが岩から出て来て這(は)っているので、それをアメリカ軍が持ってきた水中電灯(すいちゅうでんとう)を使って手づかみで捕った。いっぱい捕れたのでアメリカ兵は大喜びしていた。
■久高に帰る
昭和21年(1946)に久高に帰ると、私の祖父が建てた瓦葺きのきれいで上等な家がアメリカ軍に焼かれ、跡形もなくなっていた。私たちのように家が焼けて住むところがなくなった人たちのために、40、50代の先輩方が復興班(ふっこうはん)、工務班(こうむはん)を作り、アメリカ軍から支給(しきゅう)されたトゥーバイフォー ※13で、家族が多い世帯から優先的に茅葺きの家を建てていった。このころ、私は島の書記(しょき)をしていた。書記として2年間、島の復興に携(たずさ)わった。
(防衛隊で牧港に上陸したとき)雨が降るように弾を撃ち込まれた中、生きて帰れたのは久高出身の3人だった。戦争で生き残ることができたのは、久高の神様のおかげだと思う。
(2018年 井口学と事務局による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 北マリアナ諸島の島のひとつ。現在はアメリカ合衆国の自治領。
※2 神武天皇が即位したとされる2月11日を祝った祝日。1966年(昭和41)から建国記念の日として国民の祝日となった。
※3 天皇の誕生日を祝った祝日。1948年(昭和23)に天皇誕生日と改称されるまで、この呼び方が用いられた。
※4 ここでは内間さんの語りをそのまま記載したが、『知念村史 第2巻 資料編2』では、「タマグスク セイスケ」となっている(知念村史編集委員会編『知念村史 第2巻 資料編2 知念の文献資料』知念村役場 1989 600頁)。
※5 『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』(南城市教育委員会 2020)67~70頁および、知念村史編集委員会編『知念村史 第3巻 戦争体験記』(知念村役場 1994)204~210頁に掲載されている、「兵事主任の手記」の執筆者の前城盛夫氏のことか。
※6 防衛研究所所蔵の『沖縄戦当時に於ける部隊所在表 防衛召集概況一覧表』(沖台-沖縄-28 アジア歴史資料センター C1111001980)では、知念村から「海挺基地二八大隊」の防衛隊として召集された人々が「入隊」したのは昭和20年2月18日、集合場所は「東風平記念運動場」と記されている。「東風平記念運動場」は、現在の東風平小学校の校庭部分にあった明治記念運動場のことだと思われる。
※7 ここでは内間さんの語りをそのまま記載したが『知念村史 第3巻』234頁に掲載されている内間さんと内間末七さんの証言では「東風平国民学校の記念運動場」となっている。
※8 海上挺進第二十八戦隊所属の部隊だと思われる(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』438~439頁参照)。
※9 慶良間諸島の最も東側にあり、隆起したサンゴ礁でできた3つの無人島(神山島、ナガンヌ島、クエフ島)のひとつ。この3つの島を総称して慶伊瀬島(けいせしま)(チービシ、チービシ諸島)という。
※10 村落祭祀をつかさどる女性祭祀。
※11 玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』(玉城村役場 2004)468頁によると、1945年(昭和20)11月17日から、「知念村久高島の漁民が許可を得て戦災を免れた屋号百次(ムンナン)や神舎慶(カンシャギ)に入居して漁業を営んでいた」という。
※12 未婚の若者が広場に集い、夜更けまで歌や踊り、会話などを楽しむ習俗。「毛」とは原野や広場のこと。
※13 沖縄戦で家を失った住民や引き揚げ者のためにアメリカ軍が支給した住宅のこと。骨組みに2×4インチの角材が使用されていた。キカクヤー(規格家)やホンダテヤー(本建家)とも呼ばれた。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015782 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 6-18 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |