■井上部隊の救護班に動員
私は、具志堅(ぐしけん)(戦前はシマグヮーと呼ばれていた)の区長を通して、知念村(現 南城市)に配備(はいび)された独立混成(どくりつこんせい)第44旅団(りょだん)第15連隊(れんたい)第2大隊(だいたい)(井上部隊)の救護班員(きゅうごはんいん)に動員(どういん)された。私たち救護班員も各自手りゅう弾(しゅりゅうだん)を2個持たされ、いざというときに備えて、それを爆発させる方法を教えられた。
具志堅のウージミチャガマ(別名ウージヌガマ)※1に避難していた家族を訪ねたときには、私が逃げやしないかと見張りの兵隊がついてきた。それぐらい、部隊による監視(かんし)が厳しかった。
■射殺されたスパイ容疑の男性たち
[沖縄戦中、フナクブ(現 南城市佐敷手登根にあるフナクブ洞穴(どうけつ))には、知念村出身の男性2人がスパイ容疑(ようぎ)をかけられて拘束(こうそく)されていた。1人は軍に納入(のうにゅう)していた饅頭代(まんじゅうだい)などを請求(せいきゅう)したため、もう1人はハワイ移民(いみん)帰りであったため、容疑をかけられたと思われる。彼らは部隊が壺屋(つぼや)(現 那覇市(なはし))に移動する際に連行された。衰弱(すいじゃく)していた1人は途中の大里村(おおざとそん)(現 南城市)付近で、もう1人は壺屋の壕付近で射殺(しゃさつ)された ※2。]
スパイ容疑をかけられた男性2人のうちの1人の娘さんが父親を見舞(みま)いに来た。そのとき彼女は、水滴(すいてき)でずぶ濡(ぬ)れになって手を縛(しば)られていた父の姿に驚き、その場で倒れて救護室に運ばれた。
壺屋に連行される際、衰弱していた1人は歩行困難(ほこうこんなん)になったため途中で銃殺(じゅうさつ)された。
■部隊とともに移動
部隊の移動にともない、私たち救護班員もフナクブを出て大里村、津嘉山(つかざん)(現 南風原町(はえばるちょう))を経て真和志(まわし)(現 那覇市)を通り壺屋に行った。そこで、前線に出撃(しゅつげき)した1人の兵長(へいちょう)が足を撃たれて運ばれてきていた。
戦死者が多く出てくるようになると、部隊は沖縄島南部方面に撤退(てったい)を開始し、私たちも負傷兵(ふしょうへい)とともに具志頭村(ぐしかみそん)(現 八重瀬町(やえせちょう))に移動した。そこで救護班は解散となり、同郷(どうきょう)の人達と一緒に知念にたどり着いた。
■「お金よりも命が大事」
[昭和20年(1945)6月上旬以降、知念村はアメリカ軍により制圧(せいあつ)され、各地に収容所(しゅうようじょ)が開設(かいせつ)される ※3。]
家族 ※4や親戚(しんせき)たちも知念村外に避難していたため、私は誰もいない民家でしばらく暮らした。のちに、ウージミチャガマからヤンバル(沖縄本島北部)に避難していた家族が帰ってきて再会を果たすことができた。
わが家では、防衛隊(ぼうえいたい)に召集(しょうしゅう)された兄が戦死した。どんなことがあっても、あのような戦争は二度と起こしてはならない。お金よりも命が大事である。
(2016年 知花幸栄・永吉盛信・事務局による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 具志堅集落の北方に位置し、琉球石灰岩の崖下にある自然洞穴。
※2 『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』(南城市教育委員会 2021〔第2版〕)541頁参照。
※3 前掲『南城市の沖縄戦 資料編』第7章第1節参照。
※4 新垣さんのきょうだいの証言は本紙に掲載されている(当間春子さん、知花幸栄さん)。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2025/02/nanjo-2024pdf.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015781 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2024) |
| ページ | 4-5 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 知念、佐敷 |
| 発行年月日 | 2025/02/28 |
| 公開日 | 2026/05/22 |