■ 屋取(ヤードゥイ)の地で出生
私は長女として生まれた。私の父(恭善)は字玉城(あざたまぐすく)、母(マツ)は字喜良原(きらばる)出身。父方の稲福家は首里から屋取 ※1 で字玉城に来た家だったので、清明(シーミー)の際には、家族は玉陵(タマウドゥン)(琉球王国の王族の墓)に行っていた。
那覇に行くときには、大人も子どももここぞとばかりに着飾って行った。4、5歳の頃、南米へ移民に行く親戚を見送るため、父に連れられて那覇で1泊したことがある。玉城から大里の稲嶺(いなみね)十字路まではバス、そこから軽便(ケービン)鉄道に乗って那覇まで行った。当時のバスは木炭が燃料だったので、坂道ではしょっちゅう止まっていた。乗員が多い場合も、重くて止まった。止まった時は、よくみんなでバスの後ろを押して歩いた。那覇に着くと、みんな大事に抱えていた草履(ぞうり)を履きだしていた。
那覇に行ったときに印象に残っているのは、泊まっていた旅館(同郷の玉城の人が切り盛りしていた)で初めてアイスコーヒーを飲んだことだ。また、しわにならないようにと着物を綺麗(きれい)に畳(たた)んでいたら、そこの女中さんたちに「アイエーナー!ウッピグヮヌワラバーガアニリッパグァニチンタクロウサ(この子は立派に着物を畳んでいるよ)」とすっとんきょうな声で言われ、恥ずかしかったのを覚えている。
わが家は「稲福のウチフカ」という3家族の1つ。3家族とは、〈稲福〉※2(私の生家)、〈イリー稲福〉(父の実父の家)、〈メー稲福〉(親戚関係は不明だが、ターヌメーというおじいさんがいつも世話してくれた)。これら3家族は親しく親戚付き合いをしていた。戦争で逃げたときも、この3軒が一緒だった。
■ 紀元2600年祭
天長節(てんちょうせつ) ※3・紀元節(きげんせつ) ※4 の時には大々的に行事が執(と)り行われた。その時、村民は、玉城国民学校(現在の玉城小学校の前身)のグラウンドに集まっていろんな人のスピーチを聞いた。昭和15年(1940)には紀元2600年祭 ※5 という記念行事が行われた。学校のグラウンドで子どもたちが「2600」という大きな人文字を作り、それは遠くから写真に撮られた。
■ 村葬(そんそう)と忠魂碑(ちゅうこんひ)
忠魂碑が学校のグラウンドの側に建っていたが、戦死した人のお骨は、その前でお迎えをした。
私が国民学校4、5年生くらいの頃、隣家だった〈東恩納(ヒジャンナ)〉の盛順兄さんが海軍兵として出征して亡くなった時、忠魂碑の前で村葬が行われた。盛順兄さんの奥さんは、喪服の着物を綺麗に着て参列していた。
盛順兄さんは私たちが小さい頃に沖縄を出ていたので、私は見たことも会ったこともなかったが、当時は「海軍に入る」ということに、なんだか誉(ほま)れ高い思いを持っていた。
■ 戦争協力の日々
戦前は自給自足が基本で、配給よりも軍への供出(きょうしゅつ)のほうが多かったような印象を持っている。大人はとにかくよく供出の話をしていた。実際に供出をしているのは見たことがなかったが、米や芋(いも)などを供出していたようだ。ジーファー(かんざし)や鍬(くわ)、釜(かま)などの金属類は何でも供出し、ヒマシ油まで供出していた。
また、道ばたで女性たちが集まっていると、国防婦人会(こくぼうふじんかい)(昭和17年に大日本婦人会に統合された)の人たちがそこへやって来て「千人針(せんにんばり)を縫(ぬ)ってください」と言っていた。国防婦人会の活動は、地域のまとめ役の女性たちが担(にな)っていた。うちの母は子どもたちを育てるので大変だったから、そういう活動はしていなかったと思う。
隣組(となりぐみ) ※6 というものもあったが、今でもその歌を覚えている。「とんとん とんからりと 隣組 格子(こうし)を開ければ 顔なじみ 廻(まわ)して頂戴(ちょうだい) 回覧板(かいらんばん) 知らせられたり 知らせたり♪」これは、隣組を通じて住民たちを団結させて、みんなで戦(イクサ)に勝ち抜いていこうという意味をこめた歌だった。女性も子どもも、銃後(じゅうご) ※7 を固めるためにもてはやされていた。
■ 勤労奉仕(きんろうほうし)と日本兵
日本軍が村に駐屯するようになってから、玉城国民学校は日本軍の兵舎になった。そのため、仲村渠(なかんだかり)二区の上江洲口(イージグチ)(現在の琉球ゴルフ倶楽部)にいた一八(イッパチ)というおじさんのところで授業をするから何月何日に行くように、と学校の先生に言われて2回くらい行ったが誰も来ておらず、それっきり学校の授業はなくなってしまった。
授業の代わりに勤労奉仕があった。私たち子どもは並んで、壕掘り(ごうほり)の時に出た土をバーキ(ざる)で運ぶ作業をさせられた。竹やり訓練もあったが、私は見るだけだった。
日本兵は威張(いば)っていて、「おい、こら」が合言葉のような感じだった。日本兵と話しをした覚えはあまりないが、年頃の姉さんたちは日本兵に憧れを抱いていたようだった。
1つ、とても嫌な思い出がある。ある夜、私も含め2~3人が兵隊に呼び出され、とても重い爆弾を頭にのせて運ばされた。この兵隊は手ぶらでそばを歩いているだけだったので、この時には子どもながらも、県民を馬鹿にしているのかと反骨(はんこつ)精神がものすごくメラメラと燃えた。でも何も言うことができなかった。このことは忘れられない。
沖縄戦が始まって、壕の中でみんなが食うや食わずのギリギリの生活をしている中でも、将校は綺麗に化粧をした「慰安婦(いあんふ)」をつれて歩いていた。子どもの私でも、その光景にヌーヤガ(何だ)と違和感を覚えた。
■ 疎開(そかい)を反対される
玉城二区(現 南城市)からは十数人の子どもたちが大分県に学童疎開(がくどうそかい)をした。残った学童は私を含め5、6人ほどだったと思う。友達みんなが疎開するので、自分も疎開したいという気持ちがあった。「イチュンディンドー(行きたい)」と母に話したら、「ウウン、ヤーヤイカサン(いいや、あなたは行かさない)。ユムシヌルアタヤラー、マジュンディシヌル(どうせ死ぬんだったら、一緒に死ぬ)」と言われた。母は私と妹を疎開させなかった。その時、父が八重山(やえやま)の飛行場建設に動員されていたので、母は長女だった私を片腕として残したかったのだと思う。
■ 十・十空襲(じゅうじゅうくうしゅう)で父を失う
昭和19年(1944)10月10日、うちの近くのサーターヤー(製糖場(せいとうじょう)。小高い丘になったところに建っていた)のところから、那覇の方が明るくなるのを見た。はじめは、日本軍が演習をやっているんだねぇと思ったし、大人もみんなそう思っていた。しかし、あとからアメリカ軍の攻撃だったのだと分かった。
八重山の飛行場建設に行っていた父は、この十・十空襲で亡くなった ※8。一緒に行っていた1人が自力で久米島(くめじま)に泳ぎ着いて生き残り、後からいろいろと話を聞いた。父の遺体はどこに行ったのかは分からない。
もともと、父は建設にかり出される予定ではなかったが、誰かの代わりで行かされたようだ。母は父を行かせた人(役場に勤めていた人)をとても憎んでいた。残された母は当時30代だったが、子ども6人や両親を守らないといけなかったので大変だった。
■ 戦争前夜の気持ち
戦争直前には学校や集落の大きい家が軍に取られた。子どもの頃の感覚だけれど、なんだかいつも暗い雲がヒタヒタヒタ…と押し寄せてくるという感じがしていた。ウージトーシ(サトウキビ刈り)の帰り道、なんとなくとっても「寂しい」という気持ちになった。この感覚は忘れない。
■ 玉城への攻撃の始まり
十・十空襲からしばらく経った、お彼岸(ひがん)の頃だったと覚えている。オバァたちが準備したせっかくのご馳走(ちそう)が、いきなり落ちてきたアメリカ軍の爆弾で灰をかぶってしまい、あぁもったいないと思った。
奥武島(おうじま)(現 南城市)を取り囲むようにしてできた珊瑚礁(さんごしょう)に、アメリカ軍の艦船(かんせん)がびっしりと並んで艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を撃(う)ってきた。その姿はとっても怖かった。「チューヤアミフイヤクトゥ、クウシュウネーンハジ(今日は雨が降っているから空襲はないだろう)」と言って、みんな壕をぞろぞろ出て外で昼寝しようとしていたが、砲弾をパカナイパカナイ(どんどん)撃たれた。祖父は飛んできた破片を受けて、足から血を流していた。
この艦船に向かって日本の特攻隊が攻撃しようとしていたが、空中で墜落され花火のようになっていた。特攻機に乗っていたのは18、19歳くらいの青年たちだったのだろうが、可哀想に思う。
■ 村内の壕を逃げ回る
玉城二区の住民に割り当てられた避難壕(ひなんごう)はアガタンメーの壕(現在の琉球ゴルフ倶楽部内にある)だった。ウチフカ3軒はずっとそこで一緒に避難していた。壕内では、食事し寝るだけでなく、排泄(はいせつ)も行っていたので、ひどい臭いがしていた。食べ物もまともになかった。長兄と母が夜に畑に行って芋を掘り、夜のうちに煮炊きをして、それで食いつないでいた。昼間に煮炊きをすると煙で居場所が知られてしまうため、食事は全部夜のうちに準備していた。
この壕に日本兵が来ることはなかった。この壕には、中城村(なかぐすくそん)から避難してきた新垣さんという女性と子どもたち(息子3人と娘1人)も一緒にいた。彼女たちとは、のちに収容所生活を送った下田の家でもずっと一緒にいた。戦後しばらくの間は「恩人」だと言って、よく稲福の家に来ていた。
1番長く避難していたのはこの壕だったが、いろいろと戦時情報を仕入れていたターヌメーのおじいさんが「アメリカ軍がどんどん攻めてきている。南下してくるから、ずっとここにいたら危ない」と言ったので、ワチバル(現 琉球ゴルフ倶楽部)に避難した。それからは、落ち着くまであちこち何度も壕から壕へと避難した。ある日、ンメー(おばあちゃん)と子どもをどこかの壕に避難させたが、「ミジガココマデヒルガトーンド(水がここまで広がっているよ)」と言って、壕を出ることになった。それからまた別の壕に移動したのち、玉城城跡の中腹くらいにあった自然壕に避難した。
その頃はちょうど雨季だった。現在の玉城青少年の家の前あたりを歩いて移動していたとき、何十メートルも先から死臭がしてきた。でもそこを通らないと前進できなかったので、死体を仕方なく踏みつけて歩いた。死体はピーラビーラ(腐っている)していた。私は裸足(はだし)だったので感覚が直に伝わってきた。「ごめんなさい」と思う余裕もなく、「あい、いまどの辺踏んだ」と思うだけだった。この感触は忘れない。
■ 戦争が終わったと実感した日
ウチフカ3軒で壕の中に隠れていたある日、玉城城跡から外の様子をうかがっていると、人々がアリのようにゾロゾロゾロゾロと列をなして道を歩いているのが見えた。「ソーティンジャーニ、アメリカーヤ、ムルクルスガハジヤー(連れて行って、アメリカ軍は皆殺すのだろうね)。可哀想に」と思っていた。そのようなことが数日間続いた。
そんなある日、長兄が志喜屋(しきや)出身の同級生に会った。当時は食料も布団も全部壕に置いていたので、同級生はそれを探しに来ていた。彼は「アイエーナー!イナフクハムルウランドー(稲福はみんないないよ)。ミンナシーワソーンドォ(みんな心配したよ)」と話していたらしい。また、「いつまでもここにいると危ない、アメリカー(アメリカ兵)が爆弾落とすから、早くンジレー(壕を出なさい)。アングトゥ、ソーテンジャ、ミンナクルサンド(連れて行っても、みんな殺されないよ)。みんな普通に生活できるよ」とも言っていたという。それで、私たちは「あぁ、殺されるんじゃないんだ。生きられるんだ」と言って、荷造りをして外に出た。壕の中で何ヵ月も陽の当たらない生活をしていたので、また、みんな、オージャマーしていた(青白くなっていた)ので、空がまぶしかった。
壕を出ると、山のはずれのところにある井戸に頭を突っ込んでいるようにして倒れている人を見た。頭を撃たれたのだろうか、頭部にウジが湧いていた。
また、途中でアメリカ兵と出くわした。言葉も通じなかったが、祖父が「兵隊さん、タスキティキミソーレー(助けてください)」と言って、助けを請う手真似をした。すると無表情で助けてくれた。初めて見るアメリカ兵だったし、今までは(アメリカ兵のことを)敵兵だと思っているし、人を見ては殺すだろうと思っていたので、怖くて顔を見ることもできなかった。私たちは6月23日以前に捕虜(ほりょ)になっているが、日にちは覚えていない。
■ 下田(しもだ)で戦後の生活がスタート
「カチャバル(百名)(ひゃくな)から西の方はまだ戦争が終わっていないから行ってはいけない」と言われて、私たちは仲村渠(なかんだかり)(現 南城市)の下田に住まわされた。祖父の姉家族(「シチモー」と呼んでいた)が下田に住んでいたので、1、2年ほどは下田でお世話になった。母屋(おもや)は中南部からの避難民でいっぱいになっていたので、私たちは馬小屋に住んでいた。当時は「自分の家に勝手に帰ってはいけない」と言われていたので、帰宅できなかった。
シチモーには本当に多くの人(70~80人ほどいたと思う)が住んでいた。1つの家に4、5世帯の家族が住まわされていたのではないか。家に入りきらず、兄は従弟(いとこ)と一緒に軒下に寝ていた。
食べ物も不足し、カズラ(芋)の葉っぱさえなかった。飢えをしのぐ程度の最低限の生活をしていたと思う。薪(たきぎ)などもなく、若い木も切り倒して乾燥させて使うほどだった。
壕の中に食料や布団など全部置いていたので、兄、母と一緒に壕まで荷物を取りに行ったことがある。ある時、壕の中で荷物を探していたら日本兵に出くわしたことがあった。飯盒(はんごう)(水筒(すいとう)にも見えた)があったので、それを取ろうとしたら「これは私のものだから取らないでください」といきなり声をかけられてびっくりした。一緒に来ていた兄に相談したら、「ここにいたらこの人はアメリカ兵に殺されるだろう。イリクルサリンドー([鉄砲で]撃ち殺されるよ)、ソーティーケー(連れて行け)」と言った。それで、この日本兵も一緒に連れて下田に帰った。2、3日はこの人も一緒に住んでいたが、顔もあまり合わせようとしないし、話しもあまりしなかった。この人がのちにどうなったか分からないが、おそらく百名の収容所(軍人・軍属用の捕虜収容所(ほりょしゅうようじょ)があった)に連れていかれたのではないか。
■ せっかく建てた瓦(かわら)の家だから
当時、避難民の人たちは、薪や新しく家を建てるための木材を手に入れるために、周辺の家をどんどん切り崩していた。
祖父の恭信はその様子を見て耐えられなくなり、当時は自由に自宅へ帰ることが許されていなかったにもかかわらず、帰って、1人自分の家に住んで番をしていた。集落で初めての瓦屋根の家を自分で建てたので、思い入れがあったのだと思う。私たちは毎日、下田から浜川(ハマガー)の道を通り、祖父に弁当を持って行っていた。
■ 再就学へ―知念高校入学
戦後おそらく2、3年してから、私はたった1日、2日ほどの受験勉強をして知念高校に入った。当時はノートも本もなく、何を勉強したのかも覚えていないが、受験して合格した。もちろん制服なんてなかったので、GI ※9 の軍服を手縫(てぬ)いしてセーラー服を仕立てた。
当時の知念高校は親慶原(おやけばる)(現 南城市)にあった。私は6期生で、当時、屋良朝苗先生が校長先生だった。比嘉盛範先生が2年間担任をしていた。屋良先生はよく「アメリカの言いなりになってはいけない」と言っていた。
夏休みに、自分たちで机か腰掛けを作ったことがある。当時の知念高校は、物理や化学が秀(ひい)でていたと思う。軍政府も近かったので、そこからいろいろと部品を取ってきて(いろんなものを)作っていたようだ。私も毛布でオーバーコートを縫って、学校の展示会に出品したことがある。生物の山城亀信先生、書道や公民の石川先生、漢文の湧上元雄先生にもお世話になった。
また、叔父の1人(母の弟)は戦前に満州(まんしゅう)へ移民していたが、そこで妻子をロシア軍に殺されたらしい。戦後2、3年ほどしてから叔父さんだけが帰ってきたが、その際、私は今のユインチホテルの辺りに迎えに行った。叔父はその後、軍作業員として親慶原で働き、のちに愛知県に渡った。
(中村春菜による聞き取り 2016)
■ 脚注
※1 近世期以降、首里・那覇での生活に困窮した士族が地方へ居を移し、農業などで生活を立てるために開いた小村。また、その家のこと。
※2 本稿では、屋号は〈〉で括って表記する。
※3 天皇の誕生日を祝った祝日。1948年(昭和23)に天皇誕生日と改称されるまで、この呼び方が用いられた。
※4 神武天皇が即位したとされる2月11日を祝った祝日。1966年(昭和41)から建国記念の日として国民の祝日となった。
※5 神武天皇の即位から2600年目にあたるとされた昭和15年には、日本全国でそれを祝う記念事業や行事が行われた。
※6 内務省が発表した「部落会町内会等整備要領」により昭和15年(1940)に全国で制度化され、国民統制のために作られた地域組織のこと。
※7 戦場の後方。また、戦争の前線に対して後方支援活動を行うことや、間接的に何らかの形で戦争に参加している一般国民のことも指す。
※8 沖縄県教育庁文化財課史料編集班編『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』(沖縄県教育委員会 2017)230頁によると、昭和19年10月10日、八重山からの帰りの徴用船が久米島沖で米軍機による攻撃を受け、約500人が犠牲になったという。
※9 アメリカ兵を指す俗称。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015780 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 83-88 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |