■ 戦時下の生活
私の家族は父、母、私(長男)、弟(次男、2歳くらい下)、弟(三男、4歳くらい下)、妹(戦争当時6歳くらいだったと思う)で、父は農業をしていた。
私は玉城国民学校初等科(たまぐすくこくみんがっこうしょとうか)(現在の玉城小学校の前身)の6年生で、学校では壕掘りにかり出されていたため、勉強はあまりできなかった。学童疎開(がくどうそかい)の呼びかけはあったと思うが、私の家は貧しくて学童疎開の費用を出せなかったため、行けなかったと思う。
父は50歳を超していたので防衛隊(ぼうえいたい)や義勇隊(ぎゆうたい)には取られなかったが、沖縄戦が始まる前、西原飛行場の建設に徴用(ちょうよう)されたことがある。飛行場造りに行っていた父に、弁当を2、3回持って行ったことがある。
富名腰二区(ふなこしにく)(現 南城市)では、家の近くの山に各世帯で防空壕を掘った。現在山は削られてしまい、その防空壕は残っていない。
■ 伊原(いはら)で母たちと妹が犠牲になる
アメリカ軍の上陸前後、家のあたりには艦砲射撃(かんぽうしゃげき)も空襲もそれほどなかった。私たちは家や防空壕にいた。アメリカ軍はのちにこのあたりのほとんどの家を焼いた。しかし、富名腰二区では、戦闘はとくに行われなかった。アメリカ軍はここを通過しかしなかったらしい。移動せずここに留まった人もいた。ウージ(サトウキビ)畑に隠れ続けた後、捕虜(ほりょ)になった家族もいる。
しかし、アメリカ軍が近く(大里のカトリック教会のあたり)まで迫ってきたと聞いた頃、父の先妻を加えた家族7人で南部に向けて避難した。私は親について行くだけだったため、どこを通ったのかはっきりと覚えていない。富名腰二区(現南城市)を出たのは昼間だった。攻撃を避けるため大きな道は通らず、主に山道を夜間に通って行った。富名腰二区、前川、後原(こしはら)(現 八重瀬町)、新城(あらぐすく)(現 八重瀬町)、大度(おおど)(現 糸満市)、伊原(現 糸満市)あたりを通ったと思う。摩文仁(まぶに)(現糸満市)へは行っていない。海の近くも通っていた覚えがある。避難中に食事をした記憶はあまりないが、水を飲むための器を持っていたことと、サトウキビやイモを食べたことは覚えている。
伊原あたりで木の下に隠れていた時、家族で輪になって座っていたが、すぐ近くにカンポウの弾が落ちた。私は落ちたところを見た。その破片が父の先妻と、先妻に抱かれていた妹、母の3人に当たり、先妻と妹は即死した。妹は腹を切られ内臓が出てしまっていた。避難中に兵隊や住民などの亡くなった人をたくさん見ていたし、自分もいつやられるかわからなかったので涙も出なかった。
無傷だった父と私、弟2人は「艦砲(カンポウ)ヌクェーヌクサー」だった。カンポウの破片はとても熱く、それを踏んで小さなけがをしたが、大きなけがはしなかった。
その後、伊原から富名腰二区に戻ることを決めた。父は母を背負って移動したが、まもなく母は息を引き取った。砲弾が落ちてできた穴に遺体を埋め、残った4人で富名腰二区を目指した。来た道とは別の道を通ったと思うが、よく覚えていない。普通の道は通れなかったので、山道を歩いた。前川のワイトゥイ(岩の切り通しの道)を通ったことは覚えている。
富名腰二区に着くと、一軒だけ焼け残った家があったので、そこに隠れることにした。しかし、一晩隠れた後、アメリカ兵を見て、手を挙げてそこから出て行き、捕虜になった。その時、富名腰二区のウージ畑(サトウキビ畑)にずっととどまりどこにも逃げなかった家族も、一緒に捕虜になった。
■ やんばるの嘉陽(かよう)へ送られる
捕虜になって、垣花(かきのはな)(現 南城市)の収容所(しゅうようじょ)まで行かされた。垣花の収容所は金網で囲われていなかった。テントの中に何世帯も一緒に入れられていた。父はそれを嫌がったのか、知人に頼んで家族4人だけで豚小屋(昔の豚小屋で石積みだった)に入れるようにした。私たちはグシチャー(すすき)を敷いて一、二晩はそこで過ごした。
垣花の収容所で1週間ほど過ごした後、GMC(アメリカ軍のトラック)に乗せられ、馬天(ばてん)(現 南城市)あたりの港に連れて行かれた。そこからやんばるのどこかまで船で移動し、車で嘉陽(現名護市)まで運ばれた。船に乗せられた時には、やんばるへ連れて行かれるということは分かっていた。
嘉陽に着くと、10~20人が入れるテントが用意されていた。地面の上にテントを張っただけで床もなく、布団などの配給はなかった。夏だから寒くなかったと思う。のちに父たちが裏の山まで木材を切り出しに行ったり、竹を編んだりして仮小屋を建て、そこで富名腰二区から来た何世帯かと一緒に暮らすようになった。
嘉陽では食料が不足していた。畑にあったカンダバー(カズラ)を取ろうとしていたのを、持ち主に見つかって怒られたこともある。父が天仁屋(てなや)(現 名護市)までヒヨーグヮー(日雇い)に行き、もらってきた芋を食べて暮らしていた。
その頃、私はマラリアにかかった。決まった時間に必ず震えが来て熱が出た。完治するまでに長いことかかった。嘉陽ではマラリアや病気で亡くなる人がたくさんいて、同じ仮小屋に住んでいた女性も亡くなった。
母を失ったわが家では、私が炊事などの家事をするようになったため、私は学校に通えなかった。家事の合間に、近くにあった海で泳いで遊んだ。
■ 船越(ふなこし)収容所と戦後の暮らし
嘉陽で半年ほど過ごしたのち玉城(現 南城市)へ帰れるようになったが、富名腰二区にはすぐに戻れず、船越収容所に約半年いた。船越収容所には木造長屋が造られており、一軒に4家族が入って暮らしていた。玉城に帰ってからも、私は家の手伝いのため学校には通わなかった。
伊原で亡くなった父の先妻と妹の遺骨は、収骨できなかった。戦後にその場所をアメリカ軍がブルドーザーで敷きならしたためである。母の遺骨は、穴に埋めたときに何か目印をつけていたのか、父が戦後に拾ってきた。
戦後、私は区の書記をして40代で酪農を始め、その後区長も務めた。
(事務局による聞き取り 2018)
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015779 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 81-82 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |