■ 国民学校(こくみんがっこう)・青年学校
私は玉城尋常(たまぐすくじんじょう)高等小学校(現在の玉城小学校の前身)に入学したが、在学中に、学校の名称が玉城国民学校に変わった。学校では忠魂碑(ちゅうこんひ)や奉安殿(ほうあんでん)の前で黙(もく)とうをさせられていた。「戦争で、僕らは弾に当たって死ぬまで(戦う)」、「日本は勝つ」と思っていた。
昭和19年(1944)3月に玉城国民学校高等科を卒業した後、私は青年学校に通った。青年学校では3日に一度授業があり、軍人勅諭(ちょくゆ)などを教わっていた。
■ 武(たけ)部隊の軍犬の世話
昭和19年に武部隊(第9師団)が玉城(現 南城市)にやってきてから、多くの人が村内の陣地構築(じんちこうちく)にかり出されるようになった。
ある時、糸数アブチラガマの陣地造りに向かっていると兵隊に呼び止められ、軍犬の世話をするように命じられた。軍犬とは、30匹もの大きくてオオカミのような犬であった。噛まれるかもしれないし怖いので断ろうとしたが、「しっかりしつけられているから絶対噛まない。1ヵ月でも良いからここで働いてくれないか」と諭(さと)されたので引き受けることにした。私が履いていた地下足袋(じかたび)のにおいをすべての軍犬にかがせて私のことを覚えさせ、爪切りや餌(えさ)やりなどの世話をした。
■ 飛行場造りへの動員
青年学校1年生だったその頃には、軍の飛行場造りにも動員された。初めは西原飛行場の建設だったが、動員された者は、青年は私1人だけで他はおじさん達ばかりだった。おじさん達は、「中屋富祖(私の家の屋号)のあのワラビ(私のこと)はチムグルサニヤ(かわいそうだ)。こんな歳で動員されることはなかったのにね」と言っていた。また、おじさん達は、土が山盛りに積まれた畚(ふご)(モッコ)を軽く運ぶために、急に引っ張って少し土をこぼすという方法を教えてくれた。
あるとき、1人の男性が作業中に手を止めて立っていると、馬に乗って巡回していた隊長が近づいてきて馬を降り、彼を叩いた。少しでも動きを止めると叩かれた。西原での飛行場造りは雨天が続く中で行われた。濡れながら畚や綱を担いで作業をした。
西原での飛行場造りは早い時期に打ち切られ、そのあとは小禄飛行場(一般の動員)、読谷飛行場、そして再び小禄飛行場(青年たちの動員)に行かされて作業をした。馬車を持つ人々は、馬車ごと動員されていて、私たちが馬車に積んだ土を運搬していた。今考えると、ショベルや馬車で飛行場を造っていたのはおかしなことだと思う。
食事は木の弁当箱に入れたものが支給された。弁当の中に、白飯の他に何が入っていたのか覚えていないが、弁当は飛行場の工事を引き受けていた國場組からの配給だったと思う。
■ 南風原(はえばる)村での壕掘り
飛行場造りの次は、津嘉山(つかざん)(現 南風原町)や喜屋武(きゃん)(現 南風原町)での壕掘りに動員された。喜屋武の民家の一番座に15日間泊まり、2週間ずつ作業をした。食事は芋ご飯の弁当であったが、これだけではお腹が満たされず、夜に豆腐屋で豆腐や芋を買って空腹をしのいでいた。
その後、現在の南風原文化センター(現 南風原町)のあたりにあった陸軍壕を構築する作業に行かされた。男性がショベルやつるはしで土を掘り、女性は掘られた土が入った畚(ふご)(モッコ)を運んでいた。壕の中は暗いため、入口20~30メートル付近で兵隊が大きな鏡を置き、太陽の光を反射させて照らしていた。奥で通路が曲がるところには光が入ってこないので、カーバイトランプのようなものを使って明るくしていた。
そこでの作業の後は、津嘉山集落の後ろの方で陣地構築をした。
■ 義勇隊(ぎゆうたい)への動員
沖縄戦が始まると、私たち家族は前川樋川(ヒージャー)のところに掘っていた民間防空壕に避難した。私の家の壕はヒージャーガー(樋川)の真上に掘られていた。兵隊の壕とは違い、民間の壕の内部は大人が立てる高さがなかったため、座って過ごしていた。壕には祖父母と母、私(長男)、弟3人(当時7歳くらいの四男、6歳くらいの五男、2歳くらいの六男)が避難していた。父は防衛隊(ぼうえいたい)として、姉(私の1つ年上)は独立混成第十五連隊第三大隊第九中隊の救護班員として軍に取られていたため不在だった。次男と三男の弟たちは熊本県の日奈久(ひなぐ)に学童疎開(がくどうそかい)をしていた。
壕にいた時に区長が壕にやってきて、「あんた方の息子はいないか?首里までみんなで弾薬を運びに行くだけだから集まってくれ」と声をかけた。軍から区長に、弾薬運搬のために人を集めるよう要請があったのかもしれない。壕の中で布団をかぶって隠れ、行かなかった人もいたようだ。
私は玉泉洞(ぎょくせんどう)(現 南城市)近くの谷底に行くよう指示された。義勇隊としての動員であった。みんなが集合した後、「誰々は向こうに行きなさい」と振り分けられた。私は他の義勇隊員2人とともに、前川に駐屯していた独立混成第十五連隊第三大隊第九中隊に配属されたが、第八中隊に配属された隊員もいた。
私たちは、前川、山川、津嘉山、一日橋(いちにちばし)(たくさんの人が死んでいた)、識名園(しきなえん)、金城町(きんじょうちょう)の石畳を通り、安里八幡宮(あさとはちまんぐう)の後ろにある第九中隊の陣地(激戦地となったシュガーローフの近く)まで弾薬を背負って運んだ。
途中の識名園では、防衛隊に取られていた父が「弾にやられたが元気だ」という話を聞いた。父とは石畳のあたりで会うことができた。その後、父は安里八幡宮近くにあった部隊の病院に収容された。私は大丈夫かなと思いながら入院した父を見ていたが、その様子を見た軍医に叱られてしまった。
安里に着いてまもなくの頃は、まだ激戦にはなっていなかった。
■ 義勇隊員への冷たい扱い
あるとき、1つしかない井戸で水を汲もうとしていたら、ある兵隊が、当時背の低かった私をはね飛ばした。私は持っていたバケツを投げて転んでしまった。すると沖縄出身の防衛隊員がその兵隊を捕まえ、「この子はまだ子どもなのに、転ばせてけがをさせるのか」と説教した。そして、私に水を汲んだバケツを持たせてくれた。
食事について言うと、隊長は飯盒(はんごう)のご飯(米)を食べることもあったが、義勇隊員は基本的に乾麺麭(カンメンポウ)(乾パン)ばかり食べていた。私は、持参していた黒砂糖を乾麺麭に混ぜて食べていた。炊事係の兵隊が良い人だと食事(米)をもらえることもあったが、通常はそうではなかった。優しくない兵隊だと、「僕らが義勇隊に仕事をさせているわけではないから、あんた方にあげるご飯は無い」と言われた。また、作業を終えて戻ってくる時に義勇隊の分が全て食べられてしまっていたこともあった。
前川で集められた、私の親世代の義勇隊員のなかには、青年たちを置いて前川に逃げ戻る者もいた。帰り道が分かっていたので、戻ることができた。しかし、青年たちは帰り道を知らなかったので、帰りたくてもそうすることはできず、兵隊の使い走りになり続けるしかなかった。
安里まで弾薬を運んだ翌日の晩は、現在の沖縄県立南部医療センター・こども医療センター(現 南風原町)のあたりにあった山の中の大きな墓で、第九中隊の兵隊や防衛隊員と一緒に過ごした。そこでは夜暗くなってから、兵隊たちは墓の中で薪(たきぎ)を焚き、ご飯を炊いていたが、私たち義勇隊員は墓や兵隊の入っている壕の中に入れてもらえなかった。大きな墓の隣に子ども墓(小さい岩の下にあった)があった。その中には、小さな子どもの遺体が入ったそうめんの木箱が置かれていた。そのような墓の外でご飯を食べるのは嫌だったので、私たちはその遺体に手を合わせて、遺体をそうめんの木箱ごと茂みの中に持っていった。そして、私たちは空になった子ども墓の中に入った。
■ 命がけの水汲み
その後、運玉森(ウンタマムイ)(現在の西原町と与那原町の境にある山)に移動し、森の中に掘られた壕で過ごした。壕には暁(あかつき)部隊と書かれた弾薬箱が置かれていたので、暁部隊が弾薬をほったらかしてどこかに行ったのだと思う。
翌朝、私と同じように前川から義勇隊として徴用された同級生が、「水筒に水を入れて来い」と兵隊に指示された。彼は(私への相談もないまま)「秀雄(私)ができるから」と言って勝手に引き受けた。私と口論になったが、結局私が「戦争に勝つためだから、もう(誰かが)やらんといかんだろう」と言って、行くことになった。
私は25個以上の水筒の紐を首や肩にぶら下げて、井戸を探して1人で歩き回った。馬天港の方を見るとたくさんのグラマン(アメリカ軍の戦闘機)で空が真っ黒になっていた。
山の麓(ふもと)の方に行こうとすると、死体のあばら骨に足を突っ込んでしまった。とても臭いので、下のほうに下りて足袋(たび)を洗っていると、そこには腐った死体がたくさんあった。水汲みにきたところをやられたのだと思う。私がそこで水を汲んでいた最中も、空はグラマンが編隊を組んで何機も飛んでいた。壕に戻ると、兵隊が携帯燃料で足袋を炙(あぶ)って乾かしてくれた。
その後、私たちは再び安里八幡宮へ戻った。防衛隊の人から、「部隊の位置が(アメリカ軍に)知られないようにするために移動することになった。これは隊長命令だから、移動するときに離れたらいけないよ」と聞いた ※1。
■ 激戦地で戦闘に参加
安里八幡宮に戻った翌朝からは激戦が始まった。ある兵隊に引っ張られて陣地に行かされ、すでに掘られていた2つのタコツボ壕の1つに兵隊、もう1つに私が入った。擲弾筒(てきだんとう)の弾をたくさん担いでタコツボに入った私は、信管を抜いて兵隊に弾を投げ渡した。そして、兵隊はアメリカ軍の戦車や歩兵に向かって撃った。一日橋などで大勢の人が死んでいるのを見てきたので、いつかは(死ぬのだ)と覚悟はできていた。ここでは一方的な攻撃ではなく、両軍ともに攻撃し合っていたので夕方まで激戦が続いた。
夜になると戦闘が収まって静かになり、隊長から「後方に下がりなさい」と指示が出たので、私たちは撤退した。私は、救護班員だった姉と、富名腰二区(ふなこしにく)(現 南城市)出身の1期上の男性と一緒に前川に帰ることにした。私は義勇隊員だったので帰ることを許されたが、防衛隊員だったならば許されなかったかもしれない。
■ 前川に帰る
私たち3人は安里を出発した。現在のひめゆり通り(現那覇市)にあった汽車の鉄橋や、古波蔵(こはぐら)、国場(こくば)を通って帰った。国場にあった大きな橋はきれいに壊されていた。そこからは津嘉山、山川、外間(ほかま)(現 八重瀬町)を通った。外間では、首里から避難してきていた家族連れと出会った。かれらは前川を目指していたので、私はかれらを連れていくことになった。道行く避難民の多くが前川を目指していた。
そして神里(かみざと)(現 南風原町)では、負傷が理由で防衛隊から帰宅を命じられていた父と遭遇した。そこから湧稲国(わきなぐに)(現 南城市)を通り、前川の民間防空壕に帰って家族と合流した。この頃は非常に暑かったのを覚えている。
■ 父の戦死
家族と再会したものの、母に「若い男性はアメリカ軍に射殺されるから、あんたたちは逃げた方が良い」と言われ、家族とはここで別れた。私はいとこの夫とその息子と一緒に、前川集落内を転々としながら避難した。前川集落西側の壕(穴川原近くの壕)に避難していた時、私たちは黒人兵に見つかった。外に出るとほかにも大勢のアメリカ兵がいた。私たちは手をあげて捕虜(ほりょ)になった。
けがをしていた父は、親戚である中村医院の医師の治療を受けていた。医師は前川民間防空壕の中にある墓場でけが人の治療をしていた。
父は、その医師とともに南部へ避難した。だが、父と医師は途中で離ればなれになってしまった。医師は南部でトラックの下に隠れていた時に爆撃を受けて亡くなってしまったそうだ。
父は他の防衛隊員2人とともに、30人もの兵隊をギーザバンタからやんばるまで、道案内をすることになったようである。前川の西側まで来ていたようだが、その後に亡くなってしまったという。亡くなった時の状況はよくわかっていない。
■ 知念と船越での収容所生活
私は捕虜になり、アメリカ軍のジープで百名(ひゃくな)のワイトゥイ(岩の切り通しの道)まで連れていかれた。そこで家族が知念にいるという話を聞き、知念へ移動すると家族と再会できた。
家族は、知念の民家を借りてほかの捕虜と共同生活をしていた。姉は艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で右足の太ももを撃たれたため、けがをしていた。ウジも湧いていたので塩水で洗っていたが、なかなか治らなかった。それで、治療のため百名の診療所に行かされたが、そこでは治療できないということで石川(現うるま市)の診療所に送られた。
知念では、みんなで親戚のおじさんが小川で捕った魚やウナギを食べたり、夜に浜辺でおじさんが弾く三線を聞いたりしていた。また、私がウナギの餌であるカエルを焼いたりもしていた。
知念で数ヵ月過ごした後、私たちは船越へ移動した。船越での生活はあまり長くなかった。アメリカ軍が前川の整理をし終えてから、私たちは前川に帰ることができた。
■ 前川での戦後の暮らし
前川に入れるようになってからは、自分たちで家を造った。その頃、東風平(こちんだ)(現 八重瀬町)にはまだ弾薬が大量に保管されていたので、入ることができなかった。そのため、南洋帰りの東風平の人々も前川で仮住まいしていた。住居を確保することができない人のために、ファーフーヤーという家が建設されていた。家が不足していたので、1つの家の半分に東風平の人、もう半分に前川の人が住むということもあった。
わが家では戦争で父を失ったため、私は5人の弟たちを育てるために農業や大工仕事に励んだ。現在住んでいる家も、自分で建てた。
(事務局による聞き取り 2017、2023)
■ 脚注
※1 秀雄さんと一緒に第九中隊の義勇隊員として行動していた中村康雄さんの証言によると、彼らが運玉森方面に向かったのは、配属されていた第九中隊第二小隊の小隊長より、幸地(現 西原町)在の山部隊(第二十四師団)と合流して「米軍撃滅作戦に参加する」という命令が下ったためであった。しかしのちに、この作戦参加が誤報であることが分かったため、安里八幡宮方面(康雄さんは「上ノ屋陣地」と表現している)に引き返したとされている(玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』玉城村役場 2004 859~860頁)。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015778 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 76-80 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |