■戦前の分教場(ぶんきょうじょう)問題
戦前の玉城村(現 南城市)には初等学校が1校しかなかった。遠距離通学に困っていた児童が多かったため、祖父の一八は村東部の父兄たちと共に、仲村渠二区(なかんだかりにく)(現 琉球ゴルフ倶楽部 株式会社 玉城園地内)の馬場近くに分教場を設置する運動を始めた。しかし、1つの学校が分かれることになるため行政側にとっては不都合だったようで、運動をしていた人たちには警官が付きまとい、昼も夜も監視されていたそうだ。村東部の父兄たちが、行政側に抵抗するために子ども達を欠席させたこともあった。
父兄たちの大変な苦労の結果、村東部は仲村渠二区の上江洲口(イージグチ)に、村西部は前川に分教場が設置されることになった。上江洲口の分教場(瓦葺(かわらぶ)き屋根で2教室あった)は、祖父のサトウキビ畑の敷地の一部が使われ、昭和18年(1943)に造られた。しかし分教場は、翌年(8月頃)からは日本軍の駐留場所になった。それ以後、大きな民家で授業が行われるようになった。そこに、机や腰掛が持ち込まれた。上江洲口のわが家も、一番座と二番座は教室として使われた。この頃から、わが家にはドラム缶を地中に埋めたトイレとドラム缶のお風呂ができた。
■日本軍が家に宿泊
上江洲口のわが家にも、日本軍が駐留するようになった。その後、村(むら)(仲村渠二区)の女子青年が、毎日のように屋敷の裏の松の木の下に集まり、軍の炊事の手伝いをするようになった。かれらは軍の玄米を木製のつき臼(うす)に入れ、杵(きね)で搗(つ)いている姿がよく見られた。松の木の近くには、軍の食糧(しょくりょう)倉庫のテントが外側の石垣にそって張られていた。
わが家には井戸(チーガー)や天水タンクはあったが、軍の炊事には多量の水が必要であったため、新川の地下タンクの水や、字大城(ウフグシク)の村屋(ムラヤー)の下にあった簡易水道の水を利用した。子どもの私も、馬車(わが家の馬車を利用)に乗せてもらい、オイキーさん(兵隊さんのことをそう呼んでいた)と一緒に大城まで水運搬に行ったことがあった。
家では一番座と二番座に軍が宿泊し、私たち一家は台所そばの廊下のようなスペース(トゥングヮ)で寝食をしていた。三番座は仏間で空けていたため、日本軍と隣り合うことはなかった。
のちに日本軍がわが家から移動していったが、移動は夜間に行なわれたようで、目が覚めたら軍の物は何ひとつ残っていなかった。
■空襲・艦砲射撃(かんぽうしゃげき)
昭和20年(1945)3月、春分の日の朝、彼岸のごちそうをつくっている最中に、空襲警報のサイレンも鳴らないのに突然、南の空の方からアメリカ軍のグラマン戦闘機が次々に低空で飛んできて空襲が始まった。
私たちは急いで防空壕へ避難した。わが家はチーチー屋(ヤー)(牛乳販売屋)だったので、避難壕では1日中、主に販売予定だった牛乳を食事代わりに飲んだ。夜になると静かになったので、家に戻って夕食をとり、家で眠った。
翌日(空襲2日目)は、朝早くから昨日の薄暗い防空壕とは別の場所に避難することになった。そこはノッチ状の大きな岩で、周りが石垣(高さ約1メートル)で囲まれていた。岩と石垣との間から光が入るので、中は明るく、外もよく見えた。その日は親戚のおじいさんと子どもたち(私、おばさん小(グヮー)の光子。光子は私の父の妹で、私より2、3歳年上だった)の3人が一緒にそこに避難した。
その日も朝早くからグラマンが飛び回っていた。昨日とは違い、瓦葺(かわらぶ)きのわが家に、プープーとガソリンのようなものを吹きつけていた。しかし、家は燃えなかった。今度はトンボ小(グヮー)(アメリカ軍の軽飛行機)がやってきて、屋敷の周りを低空で旋回して去って行った。パイロットの顔がはっきり見えたので、思わず手をふりそうになった。
しばらく静かになった。
突然、岩の南側近くに砲弾が落ちて爆発した。土砂などが飛び、白煙におおわれた。用足しに出て行っていた光子が転げ回っていた。それを見た親戚のおじいさん(縄をなっていた)が、急いで光子の元へ行き、血まみれになった光子を抱きかかえてきた。カンポウが近くに落ちた音を聞いて、私の母(春子)と祖母(ナハ。光子の母)が慌ててやって来た。泣き叫ぶわが子を見て、非常にびっくりした祖母は、「イッターヤ ナカリーヤスミ(君たちは泣けるか)」※1 と言ってわが子を抱き、「いたいよー、いたいよー」と泣くわが子に対し成すすべもなく「ヤムサ、イ、イッペーヤムサ、ナチスムンドー、ナケー(痛いはず、はい、大変痛いはず、泣いていいよ、泣けー)」と言っていた。祖母に抱かれていた光子の「いたいよー、いたいよー」という声は、しだいに小さくなっていった。
■タチアブーへ避難
光子が艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で亡くなった後、親慶原(おやけばる)のタチアブーという自然壕に祖父(一八)と祖母(ナハ)、母(春子)、私、妹(初枝)の一家5人で避難した。
タチアブーは、はしごで降りてから入る壕だった。周囲にはアラティーガマやティーラガマなどの壕があったが、それらとは地下でつながっていて自由に行き来できた。
軍医と馬がいた壕もあり、その軍医は父と知り合いだったため、私のリンパ腺が化膿(かのう)したときには軍医に手術をしてもらった。軍医はあっという間に患部を切り、傷口は縫合(ほうごう)せずガーゼみたいなもので押さえるだけで、その後私は何回か通って様子を見てもらった。当時は壕内を裸足(はだし)で歩いていたから、破傷風(はしょうふう)にならなかったのが不思議に思う。
ある日、地元の人でない避難民が壕に来たため、壕内の人数が何十人も増えた。しかし、かれらは翌日にはいなくなっていた。今考えると、かれらはアメリカ軍に追われて南部に逃げる途中に一時避難してきた人達だったのだと思う。
昼間、上江洲口(イージグチ)上空を頻繁に旋回していたトンボ小(グヮー)(アメリカ軍の軽飛行機)が日本軍に撃墜された。日が暮れると墜落現場を見に、壕から出て行く人の群れについて行った。機体は、畑(Y字形の小道に囲まれた三角形状の畑)に落下して、バラバラに壊れていた(墜落現場は、今のチャーリーレストラン ※2 近くか?)。また、2人の遺体が腰掛けた状態で焼け焦げていた。その後、遺体がどうなったのかはわからない。
■祖父を筆頭に壕を出る
ある朝、軍服を着た民間人の男性が用足しに壕から外へ出て行ったとき、銃声が聞こえた。その男性は負傷して、うんうんと唸りながら、はしごを降りて来た。次々と人が集まり、負傷者を担架(たんか)のようなものに寝かせて(壕の中に入れて)応急手当をした。
それから、しばらくして壕の上の方で戦車の音が聞こえてきたので、私は壕の奥まで逃げた。母は私を探しに壕の奥まで来た。祖父は私の妹と一緒に壕の入口に畳を敷いて寝ていたが、数人のアメリカ兵が現れ、そのうちの1人に起こされて壕の外へ連れられて行き、この壕で1番目の捕虜となった。妹を抱いたまま外へ出ていく祖父を壕の中から攻撃する者はいなかったが、祖父が外へ上がっていく時、アメリカ軍に向かって手りゅう弾を投げた人がいた。それが爆発した音は、壕の中から聞こえた。
祖父は壕の上でアメリカ兵と手真似で会話した(首を切るのか?と聞くと、アメリカ兵は手を横に振っていた)。祖父はペルー帰りでスペイン語を少し話せたので、アメリカのことも多少知っていたのだと思う。母と私は、その会話を見て、外へ出て捕虜になった。祖母だけは出ていかず、夜に娘の安次富ハル(私のおばで、すでに嫁いでいた)の元へ行った。
外に出ると、以前は竹藪(たけやぶ)や石垣だったところがアメリカ軍のブルドーザーで敷きならされていた。アメリカ軍は、親慶原の三叉路(さんさろ)の道を造っている最中だった。私はブルドーザーでひき殺されるのだと思いびくびくしていたが、周囲の壕から集められた捕虜の人々とともに、現在のチャーリーレストランの前にあった広場へ移動させられ、そこに用意されていたジープに乗せられた。
ジープに乗っていた時、アメリカ兵がチョコレートやチューインガムなどいろいろくれたが、チョコレートはアメリカーカジャー(アメリカ人のにおい。いま考えるとチョコレートのにおいだった)するため食べなかった。
現在の新里(しんざと)ビラ(現 南城市)の終わり(坂の下)で降ろされ、しばらく休んだのち、皆(捕虜になった人たち数十人もあわせて)と一緒に、歩いて屋比久(やびく)(現 南城市)の収容所へ行った。妹は母に背負われていた。
ジープから降ろされて休んでいた時、残り少ないお粥(かゆ)を妹に飲ませるように母に言われた。私にとって(妹に飲ませることは)初めてだったので、おじおじしてしまい、大切なお粥をこぼしてしまった。母はとても悲しそうな顔をしていたが、私を叱ることはなかった。
■屋比久で亡くなった妹
屋比久にはすでに避難民がいた。空き家があったので、そこに2、3週間滞在した。時期は、梅雨明けの6月20日頃だったのだと思う。トイレとして使っていた豚小屋でギンバエが急に増えていたし、カエルが水の張った田んぼで鳴いていたから。妹がやせ細っていたため、私は母に言われて、毎朝起きるとすぐ田んぼにカエルを採りに行った。しかし、妹は屋比久で亡くなった。
妹を亡くして手が空いた母は、米を探しに糸数アブチラガマまで歩いて行ったらしい。そこには食料があるのを知っていたようだ。遠いし妊娠していたので大変だったと思う。それとも、上江洲口のわが家の防空壕まで米を取りに行ったのか。いずれにしても大変危険であったと思う。このときに食べた久しぶりのご飯はとってもおいしかった。鍋は新里から屋比久まで歩いた際、焼けずに残って倒れていた家の中から集めて来ていた。
■屋比久から親慶原、垣花(かきのはな)へ
屋比久に収容されている間、祖父はMP(アメリカ軍の憲兵)と一緒に壕を回り、住民に投降(とうこう)を呼びかける役割を務めていたようだ。知念(現 南城市)や佐敷(現 南城市)の辺りで祖父に助けられた人は多いと思う。しかし(アメリカ軍に協力しているところを)日本軍に見られたらスパイ容疑をかけられ命を狙われる危険があった。そのため、祖父と母、私の一家3人だけは、親慶原に移ることになった。私たち一家は、祖父が仲良くなったメキシコ系のMPの誘導の下、歩いて移動した。
その頃には、現在のチャーリーレストランの前にある道はすでに新しく造られていた。親慶原には避難民がいっぱいいたが、何軒か空き家(井戸に近い茅葺(かやぶ)き)があったのでそこに住むようになった。しかし「親慶原にいる避難民がやんばるに移動させられる」という話を耳にすると、母が妊娠していたこともあり、(その移動から免れるために)祖父の判断で私たち一家は昼に歩いて垣花(現 南城市)へ行った。
垣花の母の実家(茅葺き)は焼失していたので、別の茅葺きの家(屋号アガリムンニー)にしばらく住んでいた。この家の納屋も残っていたが、そこには日本軍の高官が潜んでいたらしい(この人はのちに無事に本土へ渡ったと聞いた)。その敗残兵(はいざんへい)がいたため安心はできなかった。
ある時、アメリカ軍が空に向けてパパパパパと花火のように銃を撃った。今思えばその日は日本が降伏した8月15日だったのかもしれない。
垣花に来て何日もしないうちに、またやんばるに移されるという話が来た。GMC(アメリカ軍のトラック)が避難民を迎えに来ていたが、また祖父の判断により、私たちはそれに乗らずに、荷物を持って百名(ひゃくな)(現 南城市)へ行った。途中、仲村渠樋川(ヒージャー)でアメリカ軍に連れてこられた日本軍捕虜が冷水摩擦(まさつ)をしているのを見た。そこで、戦前に私の家に宿泊していた西尾伍長と再会した。
■百名に戻ってからの暮らし
百名の私たちの屋敷(屋号下門(シムジョウ)。上江洲口に移転する前の屋敷)にはすでに避難民がいた。そのため、母方の祖父と、母の弟で当時8年生(高等科2年生)だった叔父は垣花から材料を運んできて、近くにあった親戚の屋敷(西下門(イリーシムジョウ))に茅葺きの家を造った。私たちは2~3年ほどそこで暮らした。他の避難民の多くはテント暮らしだったが、祖父と叔父が妊娠中の母の健康を案じて茅葺き家を造ったと思う。仮小屋にしては上等な家だった。壕で別れた祖母とは、百名に戻ってきてから合流した。母は妹を産んだ。そのあと、三男おじさんが無事、ティモールから帰ってきた。
食料は足りず、生きるのに精いっぱいだったので、少し年配の人たちは軍へ「戦果(センカ)をあげに行く」こともあった。アメリカ軍のごみ捨て場になっていた垣花のトゥムンジョー(製糖所跡)でいろいろ取ってきたようだ。
垣花にあった豚小屋(ウヮーフル)跡にはミニトマトがたくさんできていた。ある期間、友達と一緒に百名から毎日のようにそこに通って食べていた。
下門に住んでいた垣花の人達(避難民)が自分の集落に戻った後(私が小学校4、5年生の頃だった)に、私たちはようやく下門屋敷に戻り、規格家(きかくヤー)を建てて住むことになった。
■ 配給所
配給所は、はじめ加茶原(カチャバル)にもあったが、後に、屋号島仲(シマナカ)の茅葺きの長屋に移った。配給所では少なくとも3人の職員が働いていた。その後、同じ敷地内の納屋のような家(のちに精米所になった)が、配給所として利用されるようになった。長屋は村屋(ムラヤー)(公民館)に使われた。配給所では石油や、加州(かしゅう)米(カリフォルニア米)やメリケン粉(小麦粉)、缶詰などが売られていた。私は、ランプを灯すための石油をよく買いに行った。
のちに配給所は屋号西前原(イリーメーバル)の屋敷に移ったが、そのあとは個人商店のような店になったと思う。トタン屋根で百名売店と呼ばれていた。
■ 日本兵の捕虜収容所(ほりょしゅうようじょ)
現在の百名小学校の場所には、元日本兵を収容する金網(有刺鉄線)で囲まれた捕虜収容所が設置されていた。金網(有刺鉄線)から離れた中央あたりにテントがあり、そこに捕虜が収容されていた。住民は前道(メーミチ)までは自由に来れたが、この捕虜収容所とは接触できないように、収容所から離れた前道の近くにも金網(有刺鉄線)が張られていた。
収容所の金網(有刺鉄線)は、のちに百名の農協(当時は「農業組合」と呼んでいた)がトマト畑を作るときの囲いとして再利用するようになった。
■ 軽飛行機墜落事故(当時、避難民から聞いた話)
伊波ガー(井戸)近くが当時は高台になっていて、そこにテントがあり避難民もいた。そのテントのポールにアメリカ軍の軽飛行機が引っかかり、野戦病院の墓地(集団埋葬地)に墜落した。人が亡くなったという話は聞いていない。その後、畑からその軽飛行機の防弾ガラスの破片が時々出ていた。
■ MPとCP
アメリカ軍の憲兵であるMPは、焼けずに残っていた屋号大座波(ウフザーファ)の瓦葺きの家を本拠地にしていた。現在のカフェ東海道辺りには大きな1本松があった。そのそばには、MPが1人だけ入る交番のようなMPボックスがあった。そこにはラジオがあり、子ども達はラジオを聴きによく遊びに行った。
当時は、百名以外にも収容所が何か所かあったが、自由な行き来はできなかった。捕虜収容所のある方向に向かってMPボックスを越えていくことも、簡単にはできなかった。特に夜間は、収容所にいる捕虜の脱走や、捕虜が誰かと連絡をとることを防ぐため、収容所の方への行き来はできないようになっていた。昼に行き来ができていたかどうかは覚えていない。一度、夜にバンバンという銃声を聞いたことがある。
防衛隊であった沖縄県出身の捕虜は、MPに連行されて大前(ウフメー)屋敷に収容された。捕虜自ら屋敷内の草木を伐採して、屋敷内の東側にテントを張り、金網(有刺鉄線)を張り巡らして、収容所を造った。(収容所建設後)数日で解放された。希望者は民間の警察であるCP(赤帽というヘルメットをかぶっていた)に任命された。CPのキャプテンは、CPと書かれた白い帽子(ヘルメット)をかぶっていた。
屋号大前(ウフメー)には瓦葺きの家が焼けずに残っていたので、そのままCP本部として使用された。
当時、カンジャーヤー(鍛冶屋)前の交差点(旧百名給油所前の交差点)では、時々交通整理が行われていた。初めの頃はMPだけが立って行っていた。CPができてから、MPとCPの共同で行うようになったと思う。その後CPだけで行うようになったが、いつの間にか交通整理そのものが行われなくなった。なお、CPを養成する警察学校がシバキガー・ヤードゥイの屋号シバキガーに創設された。
この交差点の近くには坂道が新しく造られたが、そこでGMC(アメリカ軍によるトラック)による交通事故があり、男子児童が亡くなってしまった。
■ 百名初等学校
田島清郷さんが戦後初の百名区長になった。彼が区長だった時に、区立百名初等学校(現在の百名小学校の前身)が創立された。初代校長は摩文仁朝功氏で、その後、本田清氏が校長となった。
はじめの頃は比嘉福栄さんの瓦葺(かわらぶ)きの家(屋号安里)が職員室として使われていた。教室はなく、生徒は屋敷内の東側にあった木の下で立ったまま授業を受けた。出欠はとらなかった。小さなベニヤ板を黒板がわりにしていた。授業は何か所かで行われていたが、学年別というわけではなかった。私は3、4歳上のお兄さんたちについて行って、そのまま授業を聞いていた。
チナージョウの道向かいに運動場ができると(元は畑だったのでアメリカ兵が整備した)、毎朝、学年別に大太鼓に合わせて体操を行うようになった。夏のある朝、浜川御嶽(ハマガーウタキ)の前で、生徒全員(男女別)で冷水摩擦をしたことがあった。また、運動場では生徒とアメリカ兵とのバレーボール親善試合が行われたこともあった。
1945年(昭和20)の10月頃だったと思うが、捕虜収容所の跡地を使った運動場で、百名初等学校の第1回目の運動会が開催された。また、この運動場では、アメリカ兵も娯楽としてソフトボール試合を時々していた。
1946年(昭和21。当時の私は初等学校2年生だった)、百名初等学校は捕虜収容所跡(当時の運動場)の北側一帯に移転した。教室用の建物は、アメリカ軍の野戦用の大きなテント(四角形)で、山手(高台)の傾斜がやや緩(ゆる)やかな場所に建てられた。机や腰掛はなかった。地面の上に直接カマス(丈夫な植物の繊維で編んだ土のう袋のようなもの)を敷いて、その上に座って授業を受けた(もちろん本やノートはない)。雨天の時には、小石などで地面を削って、雨水が流れていくための溝を造り、カマスが濡れないように工夫した。また、移転後は後援会(保護者、有志で設立)もできた。
小学2年生だった当時、第1回目の学芸会が百名劇場で行われた。8年生の「黄金(こがね)の瓜実(うりざね)」の演劇と、「英語劇」が大変素晴らしかった。
1947年(昭和22)4月頃(当時は小3)、教科書(国語と算数)が初めて配られた。また、学校用地として確保されていた平坦な敷地(敷地を囲う石垣はあったが建物はなかった)には、6棟の校舎が建てられ、本格的な授業がスタートした。
校舎の配置は、中央(戦前には前門(メージョウ)という屋号の屋敷があった場所)に2棟(南と北にコンセット)、その東側(戦前には西門(イリージョウ)という屋号の屋敷があった場所)に2棟(南にコンセット、北に茅葺き)、西(戦前には知念(チニン)という屋号の屋敷があった場所)に2棟(南にトタン葺き、北に茅葺き)あった。校舎は南向きであった。
校舎の真ん中が木の板壁で仕切られ、東側と西側に教室が造られていた。中央のコンセットの南校舎(東教室、雨戸付き)は職員室、西のトタン葺きの南校舎(東教室、雨戸付き)は宿直室(用務員室兼湯沸かし室)であった。
トイレは、1946年(昭和21)当時に造られた「汲(く)み取り式トイレ」で、長い年月使われていた。西の北校舎裏(東側寄り)の溝の近くにあった。
水道は、米軍払い下げの水道パイプで、水は字垣花の「垣花ヒージャー」(湧水)からひいていた。この水道を利用した水飲み場があり、適度な高さで、左右に数個のガランが付いていた。身体検査が毎年行われていたが、配られたビタミン剤や虫下(むしくだ)しを、この水飲み場で飲んだこともあった。
ビンギ(クワノハエノキ)の枝に吊るされた酸素ボンベを鐘として使い、それを叩いて時間を知らせていた。
屋敷の石垣には、大きなガジュマルの根や幹が互いに絡み合っていた(特に南の運動場側の道路沿い、一部は現存)。
小3、4年生ぐらいの頃、親慶原にあった知念高校のグラウンドで行われた「知念地区陸上競技大会」で優勝し、応援歌を歌いながら学校まで行進した。特に、バレーボールは毎年のように地区大会で優勝していた。また、当時は運動場の南側に相撲場(土俵は盛られて高くなっていた)があり、時々8年生が使っていた(先生も付いていた)。相撲をしていたのが授業中だったのか、放課後だったのかは覚えていない。運動場のフィールド内には砂場もあった。砂場では、幅跳びや高跳び、棒幅跳びなどをして遊んでいた。この砂は、浜川(ハマガー)の砂浜から全校生徒でカマスなどに入れて運んだ。途中休みながら運んだが、とてもきつかった。また、台風が来るたびに大雨で前道(メーミチ)(現在の校門前の道)から運動場あたりまで、冠水するのが常であった。
1950年(当時小6年)のとき、知念地区の小中学校合同の生徒集会(学校代表の生徒が参加)が、知念高校(親慶原にあった)の講堂で行われた。この集会では、各学校で取り組んでいる学習状況について、生徒から発表があった。当時の百名初等学校では、毎朝全校生徒が各教室で「金剛石(こんごうせき)の歌」を歌っていた。特に、朝の自習や家庭学習に力を入れていた。家庭学習の指導として、学級担任による家庭学習帳(学校から配布されていた)の点検が行われていた。また、6年生のときには英語の授業が正式に行われていた。学級担任とは別に英語担当の先生がいた。
■ 知念高校の創立
1945年、知念村志喜屋(しきや)(現 南城市)に知念高校が創立されたが、3週間ほどで百名(テントの教室)に移転した。校門のそばには旧日本軍のトラックが停めてあった。親慶原に移転後も、その場に放置されていた(時々子ども達の遊び場になっていた)。1946年度の入学試験は百名で実施され、身体検査は濱松先生の病院(屋号眞榮(メー)の瓦葺きの家)で行われた。1946年4月には親慶原の、アメリカ軍が引き揚げたあとの建物に校舎が移った。運動場の西側は、霧がかかるとよく見えなくなり、低空で飛んでいたB29が墜落したことがあった。
知念高校の生徒たちが作った作品の展示会は素晴らしかった。風車、顕微鏡(けんびきょう)、電車が走る都市模型、ラジオなどがあった。ラジオはほとんどの生徒(男子)が作っていた。捨てられた戦車の中から部品を集めて作っていた。電気がない時代なので、自分たちで発電機を回してラジオをならしていた。私は2日間も展示会の見学に行った。運動場には、水を汲み上げる風車も展示されていた。当時の学校長は、屋良朝苗先生(戦前、物理の先生だった)で、先生の影響が大きかったと思う。
その後、知念高校は与那原に移った。鉄骨でできたトタン葺き(ぶ)の体育館も全校生徒の力で移設された。移転後、通学用のトラックバス(トラックの荷台に人を乗せていた)がしばらくの間、運行していた。
■ 孤児院と養老院(ようろういん)
戦争で身寄りをなくした子どもたちとお年寄りは、まず比嘉福栄さんの家に連れて来られ、そこから屋号儀間小(ジーマグヮー)の家に移された。その後、〈儀間小〉より下のほうに孤児院の建物ができた ※3。孤児院と養老院は同じ敷地内にあった。
やせ細り弱った子どもたちは、口の周りにたかった蠅(はえ)も追い払えないほど体力を落としていた。食欲もなく、お粥(かゆ)などを与えられても食べきれなかった。亡くなった子もいたと思う。就学前の乳幼児くらいの子どもたちだった。
毎週日曜日には孤児院の講堂のような場所で、玉城の教会の翁長牧師が日曜学校を開いていた。日曜学校には一般の大人や子どもも参加していた。日曜学校の後には私の家に招くことがよくあった。
その後、民政府の那覇への移転に伴って、孤児院も首里に移った(1949年11月。小学5年生で学期の終わり頃)。孤児院が百名から発つときには見送りをした。百名以外からも見送りのために来ている人がいた。大人よりも子どもが多かった(大人は働いているから少なかったのだと思う)。見送った時間帯は夕方くらいで、涼しかった記憶がある。
■ 知念地区中央病院
8月15日の終戦直後、屋号眞榮(メー)の白いペンキ塗りの民家(焼けずに残った瓦葺きの家)に病院ができた。院長は濱松哲雄医師だった。その後、ウシナーにあったアメリカ軍の野戦病院(テント張りだった)が台風で飛ばされて閉鎖したので、そこの医薬品や道具を野戦病院からもらい受けていた。
眞榮の隣の屋号仲門(ナカジョー)には長屋の入院室が2棟あった。中山で不発弾をいじった子ども達の死亡事故があった時には、かれらはここに搬送された(この入院室ができる前は屋号前与那城(メーユナグスク)の一部が入院室として使われていた)。
その後、病院は幸喜屋取(ヤードゥイ)(現在の百名団地付近)へ移転し、茅葺(かやぶ)き長屋を入院室にしていた。屋号仲幸喜(ナカコウチ)の屋敷(院長の住宅)の左側から降りて行ったところには細長いコンセットがあり、そこに手術室や診察室があった。病院の水道の水源には伊波ガー(井戸)を利用していた。病院の名称は何度か変わったが、この頃の名称は知念地区中央病院となっていた。
この病院には知念地区だけでなく、粟国や宮古などの島々からも患者さんが来ていたと思う。祖父の一八は、日頃の病院の職員のご苦労に感謝して、かれらを呼んでヒージャー会(ヤギを食べる会)を自宅で開いたこともあった。
その後、院長の濱松先生たちは、那覇に移って濱松医院を開院した。また、親慶原の近くにあった軍政府や民政府の移転に伴い、百名の人口も急に減った。
■ 百名劇場
戦後、前道(メーミチ)沿いの屋号神舎慶小(カンシャギグヮー)と前道新屋(メーミチミーヤ)の敷地が1つになり、百名劇場が設置された。当時は島尻、中頭(なかがみ)、国頭(くにがみ)にも劇団があり、百名には梅劇団が常駐していた。百名劇場の奥の南側にテント張りの長屋があり、劇団員たちはそこに住んでいた。百名がその人たちの生活と練習の場になっていた。
百名劇場では、琉球舞踊のほかに、「マカンミチの逆立(さかだ)ち幽霊(ユーリー)」、組踊「花売の縁」、「アナタハンの女王バチ」、「伊江島(イージマ)ハンドー小(グヮー)」、「仲直り三良小(サンラーグヮー)」などが上演された。はじめの頃は入場料は必要なかったが、劇場が座波小(ザーファグヮー)ヤードゥイ(ジンコウ座波小)に移ってからは、入場料が必要になったと思う。
その後、百名劇場では百名青年会や知念青年会による上演もあった。また、有料の映画も上演されるようになった。
■ 戦争で亡くなった親族
父(傳正)は沖縄戦で防衛隊長(玉城村。現 南城市)として召集されて戦死した。戦前の父はあまり家におらず、外を歩き回っていた。今思うと情報収集をしていたのかもしれない。空襲警報の際にはサイレンを鳴らす係だった。サイレンは家のそばの高台にあったが、のちに村役場に移動された。体は大きくなかったが意地の強い人だったように思う。日本軍が来る前、陣地構築のために新垣源勇先生と一緒に、知念半島(現 南城市)を調査したことがあったと聞いている。
父は沖縄戦中、馬車に乗って弾薬や食糧(しょくりょう)を運搬(うんぱん)する係をしていたようだ。前川から首里の前線に行く前には、こっそり祖父母と母に会いに来ていたらしい。私たち子どもには会わなかった。当時は秘密保持が徹底されていたので、子どもが口をすべらせると困ると考えたのだろう。私たち子どもは父の来訪を知らなかった。
妹(初枝)だけでなく、父のきょうだいのうち、兄の傳太さん、弟の傳一さん、傳行さん、傳進さん、妹の光子さんが沖縄戦で亡くなった。
(事務局による聞き取り 2016、2023)
■脚注
※1 仲村さんの語りをそのまま記載した。仲村さんによると「光子の姿を見て驚いた祖母(ナハさん)が、思わず発した言葉」とのこと。この時、祖母だけは泣かず、周りの人(仲村さんの母や、一緒に避難していたおじいさんなど)は泣いていたとのこと。
※2 現在の南城市玉城親慶原にあるレストラン。
※3 『玉城村史 第6巻 戦時記録編』によると「昭和21年3月にはウシナーの西側に知念地区養老院が落成」とある(玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』玉城村役場 2004 323頁)。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015777 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 65-75 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |