なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

知念 信夫(ちねん のぶお)(昭和8年生まれ 玉城・糸数)【キーワード】学童疎開

■フィリピンへ移民した父
私の父は、僕が4歳だった昭和12年(1937)、家族を残して1人でフィリピンのダバオに移民した。その時は、数十人の男性たちが一緒になって行ったそうだ。
ダバオでは、主に日本に輸出するための麻(あさ)栽培をしていたようだ。麻は当時、船をつなぐロープ作りのために重宝されていた。父はフィリピンで何千坪もの麻畑を耕し、日本へ輸出していたと聞いた。

■奉安殿(ほうあんでん)と忠魂碑(ちゅうこんひ)
玉城国民学校(たまぐすくこくみんがっこう)(現在の玉城小学校の前身)の運動場の隣にある小高い丘の上には、奉安殿と忠魂碑があった。奉安殿は忠魂碑から約1メートル下がった所(階段のてっぺんに近いが平坦部ではない場所)にあり、中には教育勅語(きょういくちょくご)やその他の貴重品が入っていた。天長節 ※1や正月には、運動場で全校生徒が並び、校長先生はネクタイに燕尾服(えんびふく)という当時では見たこともないような服を着て、「朕惟(ちんおも)フニ我カ(わが)皇祖皇宗(こうそこうそう)」と教育勅語を唱えた。唱え終わるまで生徒は頭を上げてはいけなかった。戦後、奉安殿には穴が開けられ、扉や中に入っていたものはなくなっていた。
戦前は、忠魂碑は全国で宝のように大事にされていた。玉城国民学校にあった忠魂碑は、忠魂碑のデザインコンクールで沖縄で1番、全国で2番になったと聞いたことがある。全国1になると賞金があったらしいが、2番だったのでもらえなかったそうだ。
忠魂碑のそばには、海で使用される爆弾である機雷(きらい)も2つ設置されていた。機雷は、盗まれないようにコンクリートの台を作り、鎖でつながれていた。そのそばには大砲の弾も2つ設置されていた。
この2つの機雷は、日本軍が使う鉄がどんどん不足していったため、のちに軍に供出された。私たちの家にあったアルミの弁当箱もすべて供出され、代わりに竹製の弁当箱が支給された。

■家族の中から1人で学童疎開(がくどうそかい)
私は国民学校の初等科5年生だった昭和19年(1944)、家族の中から1人だけ、大分県へ学童疎開をした。学童疎開の対象は初等科3年生から高等科2年生までだったため、初等科1年生だった弟は行くことができなかった。沖縄戦中、弟は母と一緒に糸数アブチラガマに避難していたそうだ。
学童疎開は学校から希望者を募(つの)って行われたが、反対する親が大半だった。また、疎開を希望する子ども達みんなが疎開できたわけでもなかった。というのも、疎開地で生活していけるかどうか、事前に1人1人面接が行われたからだ。校長先生と吉元先生、日本軍の将校の3人を前に、1人ずつ座らされた。質問は「泳げるか」などだったが、元気ではきはき答えられるかを見ていたと思う。面接に合格しないと疎開はできなかった。将校が日本刀を持っていたので、それを見て泣いた子もいた。そういう子たちは疎開に行けなかった。
ある程度人数が集まると、那覇の港へ行って乗船するのを待つことになった。しかし那覇で待っている時に、疎開船が撃沈(げきちん)されたという話を聞いた。乗船予定の船も入港していないということで、いったんはみんなで歩いて玉城へ戻った。

■疎開をやめた兄弟
それから約2週間後の9月の初め頃、再びみんなで那覇へ歩いて行ったが、たくさんの親が玉城から追いかけてきて、自分の子どもを「疎開に行かさない!」と引き留めようとした。だが荷物を先に船に積み込んでいたので、ほとんどの子が疎開に行った。
ある糸数出身の兄弟(弟は私の同級生で、兄は2歳上だった)も、同じ船に乗る予定で荷物も船に積んでいた。しかしかれらの長兄と母親が那覇までやってきて、「(疎開に)行かさない」と言った。彼らの父親は日本兵として南洋に取られていた。
疎開に行くことを止められた2人の兄弟は、沖縄戦の時に南部戦線で攻撃を受けて亡くなってしまった。私たちが疎開先から沖縄に帰ってくる時には、彼らの荷物も一緒に持って帰ってきて母親に渡した。荷物に入っていた砂糖や味噌などの食料は九州にいる時にみんなで食べてしまっていたが、服などはそのままにしていた。それを見た母親は、「うわぁーっ」と泣き崩れていた。

■切畑(きりはた)国民学校に編入
学童疎開の私たちは、那覇港を出てから約2週間あまりの船旅を経て鹿児島に着いた。それから汽車に乗って大分県の上岡(かみおか)駅(現 佐伯市)に到着した。
玉城国民学校からの学童疎開は、第1陣と第2陣(私は第2陣だった)に分けて行われたが、両陣の学童は、4つの班に分かれており、それぞれ疎開先が異なっていた。切畑村(現 佐伯市)に行った私たちの班の引率者は吉元仙永先生で、先生の妻が寮母さんとして一緒に疎開生活をしていた。ほかにも2人の女性が炊事係として一緒に来ていた。洗濯や縫(ぬ)い物などは、基本的に学童がみんな自分でやっていた。
切畑に着いてからは、昼間は暑くて問題なかったが、朝晩は冷えて大変困った。沖縄の子どもたちは半袖・半ズボンの服しか持っていなかったので、村長さん達が子ども用の服を集めてくれた。自分の身丈に合うものを2、3枚ずつもらった。学童は布団1枚に2人ずつで寝ていた。
現地では切畑国民学校に編入した。地元の先生が大分方言で話すので、最初は何を言っているのかよく分からず、この先生は日本人なのかと思った。1クラス40人ほどの生徒がいたが(5、6人が沖縄出身の子だった)、沖縄の子の方が標準語が上手だったので、本読みはいつも沖縄の子が指名されていた。

■手旗信号(てばたしんごう)を覚える
学校に駐屯(ちゅうとん)していた海軍の人々から、手旗信号を教わったことがある。土日は食料確保のため、疎開学童たちは地元の農家に手伝いに行っていたが、その際、手旗信号を使っていた。畑仕事などをしているとき、遠くにいる学童に「おーい」とかけ声をして、あとは手旗信号でやりとりしていた。「お昼は帰ってくるか?」「家で食べる。準備しておいて」といったやりとりなどをしていた。
手旗信号は、ひと月もかからず覚えたと思う。私たちは生活の中に手旗信号を取り入れていた。学校での会話で手旗信号を使うこともあった。地元の人も、「沖縄の人は兵隊と同じことをしている」とびっくりしていた。

■ひもじい思い
学校から帰ると、「今日は芋掘り」「今日は薪(たきぎ)拾い」など、日々仕事の割り当てがあった。男女6人ほどのグループで行動していたが、薪拾いの帰りなどには河川敷(かせんしき)に座って、みんなで話をしていた。ある女の子は、「白いご飯を腹いっぱい食べられたら、いつ死んでもいい」と言っていた。みんなそんな気持ちだった。普段のご飯は麦や押麦(おしむぎ)が大半で、残りが白米だった。川で鮎(あゆ)を捕って食べたこともある。あまりの空腹に、農協の倉庫から生の米や大豆などを失敬して食べたこともあった。
イノシシを捕ることが当地ではよく行われていたが、肉は高くて(沖縄から来た)私たちには買えなかった。でも中身(モツ)はそうではなかったので、スープなどにして食べていた。「沖縄人はモツを食べている」と悪い風に噂されたが、調理次第でおいしいことが知られると、地元の人も食べるようになった。

■空襲と時限爆弾の処理
切畑(現在は佐伯市の一部だが、当時は切畑村としてあった)は空襲で直撃されることはなかったが、大分でも空襲を受けたところはあった。特に、切畑から近くにある佐伯市には海軍の基地があったので、空襲されていた。私は切畑から空襲の様子をよく見ていた。
また、近くに投下された時限爆弾の処理もよく見た。投下された爆弾はいつ爆発するかわからない。3日後かもしれないし、一週間後かもしれない。それをそのままにしておくと危ないので、モッコで担いで番匠川(ばんじょうがわ)の河川敷まで運んでいた。100メートル運んで、その場に置いて逃げるというのを繰り返していた。爆弾は数日後から一週間後に爆発していたが、人が巻き込まれたという事件はなかった。
日本軍の高射砲(こうしゃほう)は、空高く飛ぶ米軍機に届かなかったのであまり意味をなしていなかった。だが終戦間近になると、米軍機も高度を下げて攻撃してきた。すると今度は、日本軍の飛燕(ひえん)(戦闘機)が佐伯の飛行場から飛び立ち、米軍機に体当たりするようになった。その様子も見ていた。

■学校で聞いた玉音(ぎょくおん)放送
終戦の玉音放送の時には、学校にみんな集められてラジオを聞いた。女性教員たちは「わぁー」と泣いていた。男性教員たちは兵隊帰りも多かったので、「ちくしょー!」と怒っていた。学校のグラウンドには兵隊もいたが、やけっぱちになったのか、兵隊同士でケンカを始めた。あぁ、もう日本は終わりかなぁと思った。
終戦後、海軍の航空兵の乾(かん)パンをもらいに行ったことがある。リヤカーいっぱいに積んでもらったが、とてもおいしかった。

■糸数出身の疎開者と再会
終戦後には学校を休んで、汽車に乗って大分市まで遊びに行ったこともある。小遣いがないので、目立たないように汽車に飛び乗って行った。
また、熊本の坊中(ぼうちゅう)駅(現 阿蘇(あそ)駅)で降りてバスに乗り、黒川温泉の方にも行った。そこには糸数出身の一般疎開者がいた。その人はエーキンチュ(金持ち)なので、私は荷物持ちをして一緒について回った。「この着物1枚と米5、6升(しょう)を交換してくれませんか?」と、物々交換をして回っていた。

■父と沖縄へ帰る
フィリピンにいた父は、戦争が激しくなると飛行場守備隊として徴兵(ちょうへい)された。その部隊は全部で350人ほどいて、そのうち50人くらいが沖縄出身の人だったようだ。ほとんどが麻(あさ)の栽培で移民した人たちだったらしい。アメリカ軍の攻撃に遭うと、みんなジャングルの中に逃げ込んだそうだ。ウチナーンチュは食べられる植物を知っているから、ジャングルの中で生き残った約30人はほとんどが沖縄の人だったそうだ。
父は昭和21年(1946)に京都の舞鶴(まいづる)に引き揚げてきたようだが、持ち物は肌着と毛布1枚だけだった。他の荷物は乗船するときに没収されたらしい。
父は舞鶴から、私のいる大分県に会いに来た。別府温泉にパイプをつなぐ仕事があったようで、食事が提供されるということもあり、沖縄に引き揚げるまでそこで働いていた。昭和21年11月、私は父と一緒に沖縄に帰ってきた。
沖縄に帰ってきてまず驚いたのは、DDTを頭の先からたくさんかけられたことだ。指示を出すのはアメリカ人だったが、実際にかけるのは沖縄の人だった。
糸数に帰ると、集落の様子は(以前と)全然違っていたが、母と弟が元気でいたので安心した。

■軍関係の仕事に就く
私は20歳の時に試験を受けて玉城村役場に入ったが、その前は天願(てんがん)(現 うるま市)でアメリカ軍の警備員の仕事をしていた。給料は1ヵ月4000円ほどだったと思う。沖縄の墓地の前に貯蔵されていたアメリカ軍のガソリンタンクを警備する仕事で、小銃も持たされていた。
ある日、警備員が刺殺されてドラム缶がすべて奪われるという事件が起きた。「たばこの火を貸してください」と言われ、(それに応じようとして)やられたようだ。
現在の中央パークアベニュー(沖縄市)のスーベニアショップ(お土産品店)で、嘉手納のアメリカ兵相手に働いたこともある。そこで英語も少し覚えた。陶器のティーカップセットは6000円くらいで販売していたので、これを売ると大きな儲(もう)けになった。

■奉安殿と忠魂碑(平和之塔)の取り壊し
私が玉城村役場で建設課長だった時、玉城中学校の敷地拡張と新校舎の建設のため、玉城小学校に残っていた奉安殿と平和之塔(戦前の忠魂碑の「忠魂碑」という文字が消され、平和之塔として転用されていた)の台座であった大きな岩を撤去することになった。この岩の撤去には昭和42年(1967)11月から着工し、翌年2月に完了した。岩と一緒に、その上に建っていた奉安殿と平和之塔もダイナマイトで爆破した。学校側の判断で奉安殿の取り壊しを決めたが、議会では「残せ」という声もあり、大変な議論になったらしい。
ダイナマイトが使用された時、現在の琉球ゴルフ倶楽部の敷地にあった米軍基地(CSG部隊)から2人のアメリカ人(軍人ではなくシビリアンだった)が係として派遣された。ダイナマイトも箱詰めで届けられた。爆破は、玉城村駐在の警官立ち合いのもとに行われた。私は建設会社での経験があり、役場の建設課長で現場担当でもあったため、ダイナマイトの取り扱いを担当した。爆破した後の岩のかけらは、米軍基地から借りてきた大きなブルドーザー(キャタピラー社のD8という型だった)で撤去した。
奉安殿の扉は鉄製だったが、当時は扉が朽ちて中が見える状態になっていた。また、平和之塔の上の三角部分は、「戦死者たちの魂があるから」と先輩たちに言われ、玉城村の戦没者名簿と一緒に村の慰霊之塔(1971年建立)の中に納めた。
(事務局による聞き取り 2015、2020 中村春菜による聞き取り 2016)

■脚注
※1 天皇の誕生日を祝った祝日。1948年(昭和23)に天皇誕生日と改称されるまで、この呼び方が用いられた。