■大分県へ学童疎開(がくどうそかい)
私は玉城国民学校(たまぐすくこくみんがっこう)(現在の玉城小学校の前身)の高等科2年生の時に、学童疎開で大分県の中野村笠掛(かさかけ)(現 佐伯市)に行った。疎開に行く時には、荷物は柳行李(やなぎごうり)に入れて運んだ。この柳行李は、(引き揚げの時)持ち帰った。
笠掛には、昭和19年(1944)9月27日に到着した。直見駅(現在は無人駅。当時は駅員がいた)で下車し、坂や山を越え、川も渡って笠掛集落に行った。笠掛は山に囲まれた集落だった。
笠掛の人たちは、沖縄から来た私たちのために直見駅までわら草履(ぞうり)を持ってきてくれていた。だが私たちがズックを履いているのを見て、わら草履をリヤカーに積んだまま、お寺(宿舎となった福圓寺(ふくえんじ))に持っていき、床下に入れた。しかしその後、ズックだけでは出入りが不便になり、この草履を使わせてもらうことになった。おかげで助かった。
お寺に着いた数日後、現地で同級生だった中村トクオさん(笠掛に一般疎開で来ていた金城悦子さん一家が間借りしていた主の息子)が自分の家からわらを持ってきて、疎開学童を集めてわら草履の作り方を教えてくれた。彼は同級生の中で一番面倒見が良かった。
笠掛に着いて初めの数日は、現地の婦人会の方々が銀飯(ぎんめし)(芋も麦も入っていない白米だけのご飯)を炊いてくれた。
■笠掛での生活
私たちは、半ズボンをはいて沖縄を出発した。冬服を持参していなかったが、村の人たちが衣類を寄付してくれた。冬には学校の運動場で雪合戦をした。
笠掛では中野国民学校に通学することになった。沖縄では「標準語励行」と教育されていたため、私たちは標準語を使っていた。だが中野国民学校では、担任の先生が現地の方言で話していた。
戦争中だったので村には若い男性があまりいなかった。いたとしても体の弱い人だけだった。そのためか、祭りなども催されていなかった。また、安全な山間地ということで私たちは笠掛に連れていかれたと思うが、笠掛でも一度空襲で機関銃の射撃があった。
食べ物が不足していて、ひもじい思いをしていたので、出されたものは何でも食べた。学童たちは、麦を砕いてメリケン粉にするときに出てくるカスも食べていた。柿の実はいっぱいなっていたので取って食べていたが、誤って渋柿を食べてしまったこともあった。
■卒業後は農家の子守に
私は昭和20年(1945)の3月に国民学校高等科を卒業した。一緒に卒業した現地の同級生の中には、軍の航空隊の試験を受けた人もいた。
困ったのは、学童疎開で本土に来ていても、学校を卒業すると国からの配給や援助が受けられなくなるということだった。自分でどこか行く場所を探して出ていかないといけなかった。引率の喜名先生は、食料がなくて養いきれないという理由で、卒業した学童を早くお寺から出すよう、福圓寺のお坊さんから厳しく言われていた。私は引き取ってくれる親戚もいなかったのでどうしようかなと思って過ごしていたが、喜名先生から「子守の話があるが行くか?」と声をかけてもらった。私は「話してください、助けてください」とお願いした。こうして笠掛の農家に住み込みで滞在できるようになった。私のほかに、同級生の稲福(旧姓東恩納)良子さんと稲福(旧姓當山)エミさんも、同じ笠掛の別の家で子守として住めるようになった。
住み込み先では、お寺にいた時よりも良いご飯を食べることができた。私の住み込み先のおばさんは、気は荒いが優しい人で、日曜日には学校が休みの学童(上級生)を呼んできて農業の手伝いをさせ、報酬としてご飯を食べさせた。農家も男性が兵隊に取られて困っていたし、学童たちも農業の手伝いをするとご飯を食べられたので喜んでいた。
また、私は卒業後、玉城国民学校の大城徹男先生の班が疎開していた上野(かみの)村の青年学校に何度か通った。青年学校は男子だけで、鉄砲の訓練などの教練を受けた。脚絆(きゃはん)などの道具は、住み込み先のおばさんが弟さんのものを貸してくれた。
学童たちの宿舎は、のちに福圓寺から笠掛の倶楽部(集会所のような場所)に変わった。お寺と先生の仲が悪くなっていたので、それも事情としてあったのかもしれない。
■沖縄への引揚(ひきあ)げ
沖縄に帰ることができたのは昭和21年(1946)の10月頃だったと思う。帰る前、住み込み先の家で田植えをしていた頃、刈り取りが10月なので、「自分で作ったのに、食べないうちに帰るな」と言われた。この頃にはその家のお父さんも復員して帰ってきていた。私は、彼と一緒に牛の草刈りや世話などいろいろなことをした。
沖縄に帰る前に1人あたり1000円が支給され ※1、学童たちは別府まで行き、鍋や羽釜(はがま)などいろいろな品物を買った。
引揚げは長崎県佐世保(させぼ)の港からで、船に乗る前に数日間佐世保に滞在した。佐世保で汽車を降りたら、汽車のホーム(セメントでできていた)には満州方面からの引揚げ民がいっぱい寝ていた。兵隊も民間人もみんな混ざっているように見えた。頭を全部丸刈りにされた女性もいた。
沖縄に着き、久場崎(現 中城村)からトラックで玉城に帰ってきたが、その時は村の運動会をしている真っ最中だった。
■戦後も続く疎開先との交流
私は戦後も何度か笠掛を訪れている。沖縄が本土復帰する前に行った時には、パスポートを作って渡航した。復帰後の昭和48年(1973)には元疎開学童の約10人で福圓寺を訪問し、現地で歓迎会を開いてもらった。
2017年には、娘とその夫と一緒に笠掛に行き、住み込みをした農家のおばさんに会うこともできた。
(事務局による聞き取り 2018)
■脚注
※1 引率教員の喜名盛敏によると、疎開学童1人につき1000円が、沖縄帰還の準備金として日本政府より交付された。「沖縄に帰っても何もない」と聞いていたため、喜名先生と子どもたちはさまざまな生活用品を買うために別府に行ったという(『玉城村史 第6巻 戦時記録編』931頁)。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015775 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 57-59 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |