■師範学校(しはんがっこう)への入学と寮生活
私は昭和17年(1942)、那覇市安里にあった沖縄県女子師範学校(翌年に沖縄師範学校女子部に改称)に入学した。40人の定員に約400人が受験した。試験は口頭(こうとう)試問だけだった。
私が小学校6年生の時、先生が家に来て進学先を一高女(いちこうじょ) ※1にするか師範学校にするかを相談した。その際、母は「師範学校以外は行かせない」と答えたようだ。その頃の私は女学校しか知らず、師範学校の存在を知らなかったのでびっくりした。のちに師範学校に合格した時には、母に卵を持たされて、東風平(こちんだ)(現 八重瀬町)にいたおばさん(母の姉)の元へ報告しに行った。その時、「あんたよりお母さんの方が喜んでるはず」とおばさんに言われた。おばさんによると、母は若いころに師範学校の受験を先生たちから勧められていたものの、家庭の事情であきらめたそうだ。母は、自分が行きたかった学校に私を行かせたくて、一高女などの女学校ではなく師範学校にと言っていたのかな、と思った。
師範学校に入学した時、那覇のおじさんの家に下宿することになったが、そのおじさんが八重山の女学校に転勤になったため、いとこと一緒に2学期から寮(寄宿舎)に入った(私が予科2年にあがった年に全寮制に変わった)。寮に入る時、おじさんは布団を準備してくれた。私は「7室」に入ったが、そこは20人くらいの大部屋だった。寮に入ってすぐは寂(さび)しいし、先輩がたくさんいて怖くもあった。わがままも言えないし、礼儀正しくしないといけなかった。夕食後は勉強時間で、おしゃべりは厳禁だった。
同じ部屋に仲宗根伸さん ※2と喜屋武信子さんという同級生がいた。2人は入学時から寮に入っていたので(そのような生活に)慣れていた。仲宗根さんは美里(みさと)(現 沖縄市)、喜屋武さんは屋我地(やがじ)(現 名護市)の出身で、草履(ぞうり)の並べ方、食事の準備、先輩への対応の仕方を教えてくれた。喜屋武さんはお習字の好きな人で、部屋の中でもよく書いていた。うらやましくて習いたいなと思っていた。2人とも戦争で亡くなった。仲宗根さんはどこで亡くなったかわからない。喜屋武さんは第3外科壕(げかごう)で亡くなった。2人ともとても美人だった。
■戦時下の師範学校
入学した昭和17年(1942)の頃は、沖縄に戦争が来るとは思っていなかったが、(予科)2年生に上がって以降は陣地構築(じんちこうちく)作業が始まった ※3。体育の授業時間などが割(さ)かれ、作業に充(あ)てられた。国語などの科目は割かれなかったと思う。芋掘り作業は1年生の頃にあった。
1年生の頃、初めて芋が混ざったご飯を出されて、なんでこんなことをするのかと思った。3学期からはンスナバー(フダンソウ)の茎(くき)が混ぜられた。そのため、実家に帰ってご飯を食べるのが楽しみだった。船越(ふなこし)(現 南城市)では田んぼが目の前にあって、白いお米が食べられた。おむすびを作って学校へのお土産にしていた。
私は、週に1回は玉城に帰っていた。初めの頃は家で1泊できたが、だんだんできなくなっていった。1泊できていた頃は土曜の授業終了後に帰り、日曜の5時の点呼(てんこ)に間に合わせて帰っていた。日帰りの時は、朝礼(点呼)と朝ごはんの後に出発していた。安里の寄宿舎から軽便鉄道(ケービンてつどう)の汽車に乗って古波蔵(こはぐら)(現 那覇市)で乗り換え、稲嶺(いなみね)(現 南城市)で下車し、そこから歩いて帰っていた(以前はバスもあったがなくなってしまったので稲嶺から歩いた)。だが、十・十空襲の前から汽車には乗れなくなっていたと思う。それからは安里から歩いて帰るようになった ※4。
■十・十空襲(じゅうじゅうくうしゅう)
十・十空襲の日は学校で将校会議があるということで、相思樹並木(そうしじゅなみき)を掃除するように言われていた。私は寮の室長の屋良ヨシさんに、「家に帰りたいから掃除しなくていいか」と聞いて許可をもらい、帰ることにした。帰る途中、現在の真和志(まわし)小学校(現 那覇市)あたりのところで飛行機がたくさん飛んでいるのを見た。銀色でギラギラ輝いていた。近くにいた兵隊も「今日の演習はすごいな」と言っていた。立って見ていたら、将校らしき人が「敵機だ!壕に入れ」と言った。天久(あめく)(現 那覇市)あたりから高射砲(こうしゃほう)が撃たれていたので空襲だとわかった。あの時は空いっぱいに飛行機が飛んでいた。
そこから、学校に戻ろうと思って現在の那覇市役所真和志支所の方へ移動した。しかし、那覇の方でたくさん爆弾が落ちる音がしていたので、怖くて戸惑う(とまどう)ようになった。すると、民家のおばさんが「こっちにおいで」と私を呼び、役所の下の壕に入れてくれた。夕方、空襲が収まった頃に寄宿舎に戻ると、屋良さんが「あんたが帰ってこないから心配だったさ」と涙をぽろぽろ流していたので、帰ってきてよかったなと思った。
空襲後には(陣地構築の)作業がどんどん増えていった。天久台の高射砲陣地やガジャンビラ(現 那覇市)の陣地の構築などの作業をした。私たちは、壕掘りで出てきた土を運ぶ作業を割り当てられた。一番忘れられないのは、どの兵隊さんだったかわからないが、よく「誰か故郷を想わざる」という歌を歌う人がいたことだ。あの当時、毎日お家のことを想って歌っていたのかな、と今となっては思う。私もこの歌を自然に覚え、今でも印象深く感じている。
■学徒隊への動員
アメリカ軍が沖縄への猛爆撃(もうばくげき)を始めた昭和20年(1945)3月23日、私たち生徒は校長室の前に集められて、「今日からお国のために頑張るように」と言われた。救急かばんとリュックを持って南風原(はえばる)村(現 南風原町)に移動したが、そのまま家に帰れなくなるとは思っておらず、着替えは2日分くらいしか持っていかなかった。日記帳も(リュックに)入れていたかもしれない。今思うとバカだったなと思う。家も焼け、家族とも会えなくなるとは思っていなかった。校長先生と握手して「がんばれよ」と言われ、そのまま南風原に向かった。
南風原(沖縄陸軍病院)に着いた日から、みんなで24号壕に寝泊まりした。初めは勤務というよりは壕掘り作業をさせられた。晩に壕から壕へ品物(薬品か食料)を運んだ。ある日、休憩していたら、那覇の方からボンボン音がして、焼かれている景色を見たのでびっくりした。だがその時は平気で「勝利の日まで」などの軍歌を歌ったりしていた。飛行機が低空飛行で軍艦(ぐんかん)を破壊する光景も見たが、そういう時は万歳(ばんざい)と喜び、軍歌を歌っていた。たくさんの人が亡くなったかもしれないのに喜んでいた。今思うと人間の教育というのは大変だなと思う。動員させられてもすぐに帰れると思っていたし、飛行機が自爆するのを見ても「勝った、勝った」と喜んでいた。神国日本が負けるなんてことは全然考えていなかった。
24号壕の床は土のままでジメジメ、ジャカジャカしていて(平らになっていなくて)、横になろうとしても休めなかった。しかし、その翌日だったか、寄宿舎から布団が運ばれてきて、それを敷いて眠ることができるようになった。
■南風原の壕での勤務
4月の初め頃、私は壕の中の勤務になった。看護教育を受けていたので、医療関係の仕事をするのかと思っていたら、便を片付けたり食事を運んだりという、今の介護士がするような仕事だった。
2段ベッドの上の方には重傷患者、下の方には独歩(どっぽ)患者が寝かされていた。重傷患者が「学生さん」と何度も呼ぶので、その面倒を見るのに精一杯だった。中には亡くなる方もいたので埋葬もした。患者さんに呼ばれても、100人近くの患者を2人で看(み)ていたので行き届いた看護はできなかった。自分では勤務しているつもりだったが、相手からしたら呼んでも来ないから不満だらけだったと思う。よく怒鳴られていた。
水汲(く)みは、勤務していた21号壕から山を降りたところにあった井戸まで行っていた。水汲みには水筒を10個くらい持って行った。砲弾(ほうだん)が飛ぶ中、「今大丈夫だ」と井戸に行くと、他にもたくさんの人が水を汲みに来ていた。周囲には他にも壕があったが、井戸は1つしかなかった。小さなバケツのようなもので水を汲むが、水筒の口は小さいので入れにくい。いっぱい入れられる時もあれば、ちょっとしか入れられない時もあった。
水をいっぱい入れることのできた水筒の持ち主は「ありがとう」と喜んで飲んでいた。一方、(水が)入っていない水筒はどうしようかと思っていたら、その水筒の持ち主に「これ僕のでしょう」と言われることがあった。その際、「今すぐ汲んできます」と言ってまた井戸へ行き、その水筒にはいっぱい水を入れた。あの水汲みだけは忘れられない。発熱している患者にとっては、水は命綱だったので、水だけは欲しかったのだろうと今になっては思う。
(患者用の)食事はピンポン玉くらいのおにぎりが1日に1個か2個だけだった。傷口にはウジが湧いていた。南風原(沖縄陸軍病院)の第2外科壕を見るたびに当時を思い出して仕方がない。
■足にケガをする
南風原での勤務は1ヵ月くらいしかしていない。ある日私は、水汲みに行った時に地下足袋(じかたび)で何かを踏んでケガをしてしまった。21号壕から20号壕に通じる横道のところが控え場所だったが、気が付くとそこに寝かされていた。勤務中に倒れたのかもしれないが、戦後に聞くと、誰も私が倒れたことに気づいていなかったようである。誰かが運んでくれたのか、それとも自分で行ったのかはわからない。
お手洗いに行きたくなり、起き上がろうとしたが起き上がれなかった。無理して起き上がったら明かりが見えたので、その明かりに向かって立ったり座ったり、這(は)ったりしながら行くと、そこは医務室だった。玉城村(現 南城市)出身の大城軍医に見つかって、「おい、こっちに来い」と言われた。私は勤務していないから怒られると思い「お手洗いに行きたい」と言うと、「真っ直ぐ行って左だ」と言われて、行ってみるとそこのトイレは素晴らしいトイレだった。後で知ったが、そこは軍医さんの私用のトイレだったようだ。(医務室では)大城軍医が待っていてくれて、「腰掛けに足をおけ」と言われて置くと注射を2本打たれ、綺麗(きれい)な包帯で巻かれて「休んでおけ」と言われた。怒られると思ったのに休んでおけと言われたので嬉しくて、控えの場所で休むことにした。何日だったかわからないが、ぐっすり休むことができた。
■糸数分室(糸数アブチラガマ)へ移動
痛みもなくなってきてそろそろ勤務できるかと思った頃に、糸数アブチラガマに開設された沖縄陸軍病院糸数分室への移動命令がきた。控えの場所にいる時に命令がきたので、救急かばんも何も持っていなかった。勤務していた壕にあるかと戻ったら、リュックはあったが救急かばんがなかった。のちに救急かばんは見つかったが、写真も財布も、中身が何もかもなくなっていた。戦後に友人に聞くと、「あなたの写真が散らかっていた」と言われた。かばんがあっただけでもありがたかった。
玉城村の糸数分室への移動命令は、私が同村出身だったからという理由かもしれない。でも歩けなかったので、「なんで私がこんな遠いところに勤務替えになったのかな」とワジワジー(イライラ)した。私は宮城秀子さん(旧姓知念)の肩に手を置き、かばんも持ってもらっておんぶされるような感じで移動した。4月30日の晩に糸数分室にいざ到着して見ると、ほっとしてとても嬉しく思った。当時の壕(糸数分室)は、集落の人の屋敷の裏側から出入りしていて、出入口は車が通れるぐらい広々としていた。中では電気が明々(あかあか)とついていてびっくりした。あんまり大きいので、壕に入ったというよりは村に帰ってきたような感じだった。
みんなは控え室に行ったが、私はあまりにも珍しく感じて、あっちこっち見て回った。すると炊事場のところで、ある兵隊さんに「エー、フナコシ、アマガシカムミ(ぜんざい食べるか)?」と話しかけられ、あまがし(沖縄風のぜんざい)をスンカンマカイ(小さめのどんぶり)にいっぱい入れて持ってきてくれた。「ナーフィンカムミ(もう一杯食べるか)?」と聞かれ、「はい」と言ったらまた入れてくれた。食べてほっとして、お礼を言おうと思ったら誰もいなくなっていた。あまがしを食べた後、その兵隊さんには会っていない。他の学徒はあまがしのことを知らなかった。
戦後、あの兵隊さんは新原(みーばる)(現 南城市)出身の高嶺さんという方で、亡くなっていることが分かった。一緒に糸数分室で勤務した富村さんも、「高嶺さんに呼ばれて一緒に医療事務をしていたが、彼はとても素晴らしい人でした」と話していた。私は高嶺さんにお礼を言いたかったし、あのあまがしの味が忘れられず、戦後はぜんざい屋を回って食べ歩いた。また、勤務先の学校で偶然(ぐうぜん)、戦後に生まれた高嶺さんの弟さんに会ったことがある。一度だけ、新原のお家にお線香をあげに行った。
■糸数分室での勤務
糸数分室では5月1日から25日まで勤務した。患者さんは600~1000人、学徒が14人 ※5、医師が3人 ※6、看護婦さんが3人ほどいたのではないかと思う。壕には「朝鮮ピー」(朝鮮半島から連れてこられていた「慰安婦(いあんふ)」のこと)がいる、食料がたくさんある、糸数の人が避難している、ということを聞いていたが、勤務に追われていたせいか、見たことはなかった。糸数では一度だけ埋葬をしたことがある。
糸数に着いて数日後のこと、私は引率の先生に「家族に面会してきなさい」と言われ、足は痛かったが喜んで飛んで行った。出発前に大城軍医に挨拶(あいさつ)に行くと、「糸数樋川(ヒージャー)の水を汲んできなさい」と水筒を渡された。家族へのお土産に缶詰も5つくらい持たせてくれて、母が喜んでいた。当時、父は防衛隊(ぼうえいたい)に取られていて不在だったが、ほかの家族は糸数樋川近くの洞窟(どうくつ)に避難していた。母は白いご飯と味噌汁(フーチバー汁)を準備してくれた。おいしくて3杯も飲んでしまった。あのフーチバー(ヨモギ)汁の味も忘れられない。私は家族と話しをするどころか寝入ってしまった。何日くらい寝ていたのかわからないが、母に「早く起きて幸雄先生(大城軍医のこと)の水筒を持って行きなさい」と言われて、戻ることにした。母から大城軍医と生徒へのお土産を持たされた。樋川に行って水を汲もうとした時、近くに至近弾が落ちた。びっくりして水筒だけを大事に持ち帰った。お土産のことはすっかり忘れて樋川に置いてきてしまった。
勤務に追われてイライラしてきたら、トイレの近くの空気孔(くうきこう)から天を見ていた。昼はそこから飛行機が飛び交うのが見え、晩は星がキラキラしているのが見えた。空気孔からの様子で昼か夜かがわかった。星を見るたびに家に帰りたくてしょうがなかったが、「先生が大変なことになる」と思って我慢していた。
糸数分室で印象に残っているのは、一中(いっちゅう)(沖縄県立第一中学校) ※7の玉那覇と名乗っていた学徒のことだ。彼は壕内の橋を越えてちょっと行ったところにいた。私は足をケガして普通の仕事ができなかったので、お膳(ぜん)に薬品をのせて看護婦さんの後ろから付いていっていた。そのとき「イッターヤ ヤマトゥービカーン ンジュン(あなた達は日本の兵隊ばかり診るのか)」と大声で怒鳴られた。びっくりして「何かご用ですか」と聞いたら「ここにいるのはみんな中学生だよ」と言われた。彼はあの時、自分が生きていた証、そこにいたという証を残したくて、みんなの前で大声で怒鳴ったのかもしれない。しかし内容を日本兵に聞かれたらまずいから方言(ウチナーグチ)で言ったのかもしれない。私はその時まで、まさか中学生が動員されているとは思っていなかった。その時、私はここで彼と話していたら次の患者の治療ができないと思い、「後で来ますから」と言って離れた。しかし、しばらくして南部への撤退命令が出てしまったので、彼のもとに行くことができなかった。戦後、彼が当時中学2年生で学徒隊に動員され、戦死していたことがわかった。
■伊原(いはら)へ撤退
5月25日、軍医さんから「今日はみんなの包帯を替えるように」と言われて、一生懸命やっていた。治療を済ませて戻ってくると学徒たちが入り口で待っていたので、荷物を持って出た。私は引率の先生と学徒たちだけで出たように覚えているが、「兵隊も一緒に出た」と話している学徒もいる。
昼間は砲弾が落ちてくるため、夜間に移動した。糸数からは前川、具志頭(ぐしかみ)村(現 八重瀬町)の新城を通って、さらに東風平(こちんだ)村(現 八重瀬町)の富盛(ともり)、世名城(よなぐすく)を通って行った。途中、八重瀬岳が見えた。世名城出身で本科2年の知念芳さんの家族が八重瀬岳の近くにいるということで、大声で「知念芳さんのお父さんはいらっしゃいませんか?」とみんなで呼びかけたが、なんの返事もなかった。芳さんは「もうどこかに移動したんじゃないかね」と言ってそのまま通り抜けた。
八重瀬から伊原(現 糸満市)への移動には現在の大きい通りを通ったと思う。伊原に着いたのは27日か28日だったと思う。初めの2日間は伊原の民家に泊まり、その後、兵隊が移動して空いた壕(伊原第1外科壕)に移動した。その時、糸数分室にいた負傷兵は誰1人いなかった。(空いたと思われていた)壕は他の部隊の人でいっぱいだった。そのため私たちは、昼は砲弾を見ながら木の陰に隠れ、攻撃がひどくなると壕の中に入り、静かになったら外に出るという生活をしていた。
■至近弾が落ちる
6月17日の晩、バケツを持って(壕から)100メートルくらい離れたところの井戸に行った。水を汲もうとつるべをおろしたのと同時にドンドンドンドンドンドン!と集中攻撃が来て、私はびっくりした。みんなその場に伏(ふ)せた。しばらくしたら静かになった。だがまた水を汲もうとガサガサ音を出すと攻撃がきた。甲斐班長が「今日は水汲みはしない、夕食も炊かなくていいから帰れ」と言ったので壕に帰った。
壕の中に入ろうとしたら、いつも人でいっぱいだった場所がガランとしていた。「なんで空いているのか」と聞いたら、「兵隊たちは斬り込みに行ったのでいない」ということだった。兵隊たちが控え場所にしていた上の台が空いていたので、はしごでのぼって、イーアンベー(いい気持ち)と思ったと同時に至近弾が落ちた。
何がどうなったかわからないが、「わー」という声だけが聞こえた。この時にたくさんの学徒が亡くなった。私も水汲みに行かず、(壕の)奥の方にいたら死んでいたかもしれない。人の生きる、死ぬとはいったい何だろうと思った。下にいた古波蔵満子さんも即死だった。この前から体調を崩していた知念芳さんも、この時にけがをしてしまった。
■解散命令
翌日の18日は亡くなった人を埋葬したり負傷者を治療したりしていた。私は埋葬のお手伝いをした。その晩に学徒隊の解散命令が出た。「近くまでアメリカ軍が来ているから自分たちで命(の安全)を確保するように」と壕から出された。解散命令はどの先生から聞いたかわからない。このときに引率の大城知善先生から、私と知念芳さん、宮城秀子さん(旧姓知念)の3人は隣村出身同士なので「どんなことがあっても行動を共にしなさい」と言われた。(しかし、知念芳さんはけがをしていたので、一緒に行動できなかった。)
19日の朝早く、けがをしていた芳さんの枕元に「芳姉さん、これを持っていてね」と言って、救急かばんとリュックサックを枕元に置き、秀子さんと一緒に壕から出た。壕を出た時は、芳さんを世名城の家に届けるべきか、安全な場所に連れて行って家族を呼んでくるべきか、どのようにしたらいいかと考えていた。100メートルくらい進んだら集中攻撃でどこにも行けなくなった。そのまま壕にも戻れないので向かいの山城の山に向かった。芳さんの枕元に私と秀子さんの荷物も置いてきたので、私たち2人は着の身着のままだった。芳さんはそのまま第1外科壕で亡くなった。芳さんの妹さんが戦後、毎年慰霊祭に来てくれたが、会うのがとても辛かった。(芳さんの)話を聞きたかっただろうが、(私から)話したことはないし、話したくなかった。自分だけ生きて、芳姉さんはあのまま亡くなってしまった…と思うと、何とも言えない気持ちになる。
■戦場を1人で逃げまどう
山城の山の上では、日中は攻撃が激しかったが隠れる場所がなくて眠ることも出来なかった。「死なせてください、1発で死なせてください」と願いながら、どうしようもなくソテツの根っこに隠れていた。夕方になると静かになったので、(自分の周辺は)どうなったのだろうかと思い、出ていったら遺体だらけだった。中学生らしい人から、「姉さんたち、早く山から下りないと戦車が下に来てるよ」と言われた。でも何も感じない。私たちは、彼が下りて行ったのと反対方向の海岸側に下りていった。昼のようなひどい砲撃はなく、とても静かだった。遺体だらけで、生きた人がいるような感じはしなかった。空を見上げたら上弦(じょうげん)の月が見えた。のちに他の人達には「満月だった」と言われたので、私の感覚でそう見えたのかもしれないが、すばらしい上弦の月だった。海岸に近づき、入り江まで下りて(海を)眺めた。海は真っ黒で、波は銀色に輝いてとてもきれいだった。崖の方から「この海は八重山まで続いているのに私達は家にも帰れない」という女性の声が聞こえた。その声は、その人が海に飛び込もうとしていると思わせるほど、とても寂しそうだった。その時に初めて家のことが気になり、家に帰ろうと思った。するとその時、私の左側にあったアダン葉のところがピカっと光った(右側は崖だった)。私は人がいることにびっくりしてわーっと逃げた。逃げた後、戸惑っていたら秀子さんとはぐれてしまった。
すると崖の方から兵隊が、「おいこら、こっち来い」と1人ぼっちになった私を呼んだ。「何ですか」と聞いたらピストルを突きつけられ、「君はスパイだろう」と言われた。一生懸命やってきたのにと頭にきて、「違います」と言ってから自己紹介をした。彼は「学徒だったら一緒に斬り込みに行きなさい」と言って崖の下を指差した。そこには、たくさんの人が集まっていたが物音1つ聞こえなかった。みんな兵隊に集められて、斬り込みに行く予定だったのかもしれない。その後、崖の下に下りたところまでは覚えている。気がついたら翌日(20日の朝)になっていた。その日は大雨だった。あまりに寒いので起きたら波打ち際にいた。
人々はみんな東へと歩いて行った。私は自分ひとりになってしまいどうしようもなくしていたら、濁流(だくりゅう)が流れてくるのを見て急に水が欲しくなった。上流に行ったらきれいな水があるかもしれないと思って行こうとしたら、アダン葉が燃えてきた。これは大変と思ってあちこち逃げ惑い、崖の方から飛び降りて砂浜に出た。
■死を覚悟する
そこには人が大勢いた。みんな東の方に東の方にと移動していたので、ついて行ったらどうにかなると思ってついて行った。摩文仁(まぶに)(現 糸満市)の水が出る広っぱまで来たらたくさんの人が集められて、そこは占領されていた。アメリカ軍が舟艇(しゅうてい)から、「昼は港川(現 八重瀬町)に行きなさい」と放送していた。その時は、すでにアメリカ軍に占領されているとか、そういうことは全く頭になく、もう家に帰ろうとしか思っていなかった。「なんであそこに人が集められているのかね」とひとり言を言うと、40代くらいの女の人が「アメリカがいるから大丈夫」と答えるので、私は「ウリヒャーナー(ええっ)、アメリカがいたら大変」と思って逃げた。するとその家族の中の男の子が追いかけてきて、「姉さんが逃げたら僕達が殺されるから行こう」と言って私をつかまえた。しかし、私は彼を離して自分だけ逃げた。
隠れる場所がなくどうしようもない。砂浜を見たら遺体がいっぱい転がっている。身を隠す穴を探せずにいると、どこの女学校の生徒かわからないが、10人くらいのグループに「手りゅう弾(しゅりゅうだん)を持っているから一緒に死のう」と声をかけられて混ざった。しかし(起爆させたつもりが)いつまで経っても爆発しない。私のお尻を誰かが蹴とばしていくので、あれ?と思ったら、手りゅう弾を持っていた人がいなくなっていた。手りゅう弾がないと死ねないので彼女を追いかけていったが、見失ってしまった。そのようにして逃げ惑っている間に、はぐれていた秀子さんといつの間にか再会していた。
■声につられて穴から出る
秀子さんが小さな岩穴をみつけた。とにかく中に隠れて身を隠そうとした。(岩に)貝がいっぱいくっついていたので、なんとなく貝を舐めていたら、人が入ってくる感じがした。私は「2人しか入れない」と言ったが、秀子さんが「つめて入りなさい」というので入れると、その人は日本の将校だった。兵隊と将校は軍服の生地で違いがわかった。兵隊さんでなく将校さんだからと思い安心していた。秀子さんが「手りゅう弾を持っていますか」と聞いたら持っていないという。手りゅう弾を持っていない軍人がいるのかと思いなんとも言えない気持ちでいたが、彼は日本刀を持っていて、それを足にはさんで座っていた。
3人で座っていると、誰か人が立っているような感じがしたので、見てみたら、アメリカ兵がこの将校に向かって銃を突きつけて立っていた。どうしていいかわからず頭が真っ白になり、岩にしがみついていた。しかし、「戦争は終わったから一緒に帰りましょう」という声につられて出ていった ※8。穴に隠れるまで、周りには遺体だらけで生きている人はいないと思っていた。しかし、穴から出たら、人がいっぱい集められていた。見ると女性は2人だけ。日本兵たちは上半身を裸にされ、残兵狩りとして集められていた。
うろたえていたら、秀子さんがとぼとぼと海の中に入って行った。しかし、アメリカ兵に引っ張られ陸に引き戻されていた。私は、アメリカ兵が差し出してくれた水を何の考えもなく2杯飲んだ。
たくさんの人が山の方に行っていた。私は秀子さんと2人、手を繋いでどうしようかとうろたえていたら、アメリカ兵が「あっちに行きなさい」と合図した。日本兵についていって山の上に来た時、岩の影の方に座りなさいと言われた。どうしたらいいかわからなかったが、逃げてもアメリカ兵につかまると思い、うつむいて座っていた。
すると、アメリカ兵がコップに何かを入れて持ってきた。私は怖くてうつむいていると、アメリカ兵はそれを私の口元に持ってきた。私たちが飲もうとしないので、このアメリカ兵はコップを置いていった。よく見るとコップがたくさん並べられていた。また、お菓子のようなアメリカ軍の食料も開けて渡そうとしたが、私たちは怖くて見ることも食べることもできなかった。そして、あとから来た兵隊はタバコを2つくわえて、ひとつを秀子さん、もうひとつを私に渡そうとしたが、(受け取らなかった。)私はタバコを見たことがなかった(おばあちゃんたちがキセルにいれて吸うところしか見たことがなかった)。そのアメリカ兵はタバコを1つ置いていった。すると、「姉ちゃん、このタバコ僕にくれる?」と話しかけられた。見ると、捕虜になったたくさんの日本兵が作業をさせられていた。(私は捕虜に向けて)タバコを投げ、お菓子も投げてあげた。
■糸満から座波(ざは)・伊良波(いらは)に送られる
二世(にせい)(日系二世のアメリカ兵)なのか捕虜なのかわからないが、迷彩服を着た人に「学生さんだろう」と聞かれた。ばれたら大変だと思って「違います」と答えたが、何度も「学生だろう」と聞かれた。「名前は何か、本籍はどこか」と聞かれ、「中城の新垣」と嘘をついた。「仕事は何か」と聞かれたので「農業」と答えた。「手を見せろ」と言われた。あの当時は作業だらけだったので、手は豆だらけだった。「学生だろう」と何度も聞かれたが聞かないふりをしていた。最後に「糸満を知っているか」と聞かれた。知っていると答えたらなんと言われるかわからないので「わかりません」と答えた。「知っていたらあなたたちを(糸満に)行かせるのに」と言われたので、「わかります」と答えた。「わかるなら自分たちだけで行け」と言われ、すぐその場で解放された。2人だけで糸満へ行くことにした。
(糸満に)行こうとすると、たくさんの人が山を下りて行くのが見えた。捕虜になった人が下ろされていたのだと思う。途中で2人の男性が攻撃され、土手の方に倒れてもがいていた。だが、(出ていくと自分も)やられるんじゃないかと思って、私はそのまま山から下りて逃げた。彼らは芭蕉布(ばしょうふ)の着物を着ていたが、今考えると日本兵だったのではないかと思う。兵隊が捕虜になるために、(兵隊でなく民間人だと偽ろうとして民間人の着物に)着替えて逃げているのを、別の日本兵が「彼らが(アメリカ兵に)捕まると、自分たちも捕まることになったら大変だ」と思って攻撃したのではないか。あの時もしまともに考えることができていれば、負傷した人の元に行ってけがを診ていたかもしれない。人間は恐怖に陥ると自分のことしか考えられないのかな、と思う。
山から下りると、たくさんの人が糸満に向かっていたのでついて行った。戦争が負けている、終わっているなどと考えることはできなかった。ただ生きることしか考えていなかった。糸満の三叉路(さんさろ)(ロータリー)に着くとたくさんの人が集められていた。そこでジープに乗せられて座波・伊良波(現 豊見城市)に連れて行かれた。
座波・伊良波で降ろされると事務職の内間先生がいて、「あなたたちは女師・一高女の生徒でしょう、診療所に先生も生徒もいるから行こう」と言われたが、私は家のことしか考えられず「家に帰ってから行く」と答えた。すぐに家に帰れるものと思っていた。その後、内間先生とは会っていない。
■石川での収容所(しゅうようじょ)生活
座波・伊良波からトラックに乗せられ、気がついたら石川(現 うるま市)の収容所に着き、そこで捕虜生活を送ることになった。家族が生きているのか死んでいるのかもわからない状態で、収容所の金網の中にいた。着の身着のままで何も持っていなかった。金網にもたれていたら、同級生の名嘉山末子さんのお姉さん(私が1年生の時に4年生だった)に「あんたよー」と叩かれて、「もう少し女子師範の生徒らしくしなさい」と言われた。びっくりして見たら、彼女はきれいにお化粧もして洋服もきれいだった。彼女は具志川(現 うるま市)出身なので、石川で早くから収容されていて、普通に生活していたのだと思う。私は髪も顔も洗っていなかったので恥ずかしくなり、どこにも移動しなかった。テントもあったがいっぱいで入れなかった。夜は砂浜で寝て、昼は人目につかないよう隠れていた。
軍作業があり、参加しないと配給をもらえなかった。軍作業は芋掘り作業や軍の洗濯など、いろいろあった。将校クラブの手伝いをしていた時、アメリカ兵がそばに寄ってきて英語を教えようとしてくれたが、怖くなって聞かないふりをしていた。絵を書いているような人が遠くに見えたが、モデルみたいに「裸になれ」と言われたら大変だと思い、翌日から将校クラブの仕事はしなかった。殺されるのはいいけど、辱(はずかし)めを受けるのは大変だと思って行かないようにした。将校クラブでは、ボタンひとつつけるだけでお菓子を持ってきてくれたので、食べきれず、お菓子がたくさんたまった。そのお菓子は、私を将校クラブへ誘ってくれたいとこのお姉さん(石川の出身だった)がもらってくれた。
その後、どうしようかと思っていたら、船越の人で湧上聾人(わくがみろうじん) ※9さんの長女であるマツおばさんが「あなたは三郎さんの娘さんでしょう」と声をかけてきた。「そうです」と答えると、「一緒に生活しよう」と言ってくれた。この方は産婆(さんば)さんで仮小屋を持っていた。家の半分は産室、半分は区事務所になっていた。私はそこに連れて行かれて、区事務所のお茶出しをしながら一緒に生活するようになった。
■家族との再会と帰郷
7月半ば頃、小学校の同級生の志喜屋ハツさんに「明日、知念にトラックが出るみたいだから一緒に行かないか」と誘われた。よかったと思い「行く」と言ったが、行けるかどうかわからなかったので、湧上のおばさんには言えなかった。そのまま翌日にトラックの集まる場所に行ったら、たくさんの人が集められてMP(アメリカ兵の憲兵)がかれらを囲んでいた。ハツさんが運転台の方から登り、「こっちおいで」というので、そこから登るとすぐに車が出た。
トラックは知念の久手堅(くでけん)(2018年に閉鎖された南城市役所知念出張所があった場所)に止まった。見たら人がたくさん集まっていて、家の近所のおばさんに「ヤー、ゲンキヤティ、スミちゃん(澄ちゃん元気だったね)」と言われたので喜んで降りていくと、おばさんが「イッター、ヤーニンジュハミンナゲンキヤクトゥ、シワーサンケヨー(あなたの家族は皆元気なので心配しないで)」と言ったので、喜んだ。「リカリカ、ワッターンカイ リッカ(行こう行こう、私たちのところに行こう)」と言われたので連れて行かれ、ご飯を食べさせてもらい、なんとも言えない気持ちで過ごしていた。
「ヤーンカイレンラクセークトゥ、ムカエチュークトゥ、マッチョーケヨー(家に連絡したら、迎えに来ると言っているので、待っておきなさい)」と言われていた。しかし、待っても待っても家族が迎えに来ない。家族はみんな亡くなっているけど、(おばさんは)私を安心させるために「迎えが来る」と言ったのかなと思いながら待っていた。その時私は、久手堅から家族のいる志喜屋(しきや)まで相当距離があり、行って戻ってくるまでに時間がかかるということをわかっていなかった。
夕方に弟が迎えに来て、「お母さんは?」と聞くと「サギョウカイ、ンジ、ナーラケーラン(作業に行っていて、まだ帰っていない)」ということだった。弟に連れられて行ったが歩いて相当の距離で、イチムリヤー(行ったり来たり)させて大変だったなと思った。着く頃には母親は帰ってきていた。何も言わず、ただ涙だけで再会を喜びあった。防衛隊員だった父は亡くなっていたが、そのほかの家族は無事だった。
その後、一高女のある女子学徒のお母さんが訪ねてきて、「自分の娘の安否を知らないか」と聞かれた。その学徒は一高女なので学校が違うし、村も違う人なのでわからなかった。お母さんは「ガッコウハティーチヤル、ワカラン?(学校はひとつでしょう、なのに知らないのか?)」と言って怒って帰った。翌日以降も3日ほど来て「ウビンジャシ?(思い出したか?)」と言っていた。私は怖くて炊事場の裏側の水がめを置いていたところに隠れていた。のちに、この学徒は第3外科壕で亡くなっていたことを知った。だが当時は知らず、「わからない」としか言えなかった。しかし、嘘をついていると思われたのかもしれない。
その後、船越に移動して落ち着くことになった。船越は収容所となりたくさんの人が収容されていた。移動した時にはすでに学校ができていた。教員が少ないということで私はすぐ採用された。当時は古波津里珍先生が校長だった。青空教室で教科書もなかったので、ひとつの黒板に、あいうえおを書いて字を教えるような状況だった。
■文教学校でもらった教員免許
翌年1月、具志川に沖縄文教学校 ※10ができた。校長先生に「明日文教学校から迎えがくるから準備しておきなさい」と言われた。翌日ジープが迎えに来た。知念あたりからたくさんの人が乗ってきた。
文教学校には知念秀子さんや、同じ船越出身で師範学校男子部に通っていた川崎正剛さんも通っていた。文教学校には外語部や農林部などもあったが、私は師範部に在籍していた。
文教学校の寝室は小さな4人部屋だった。ベッドとして担架(たんか)が1人ひとつ支給され、それに寝ていた。毛布が1枚支給されていたが、着の身着のままだったため、寝られないくらい寒かった。文教学校については、ヤーサ(ひもじい)、ヒーサ(寒い)しか覚えていない。(まともに)勉強ができなかった。食べ物も(十分に)なかった。ほかの学生との交流もあまりなく、同じ部屋の人同士で集まってこそこそと話しをするだけだった。私と同じ部屋には、一高女の卒業生で、私より2つぐらい年上のナカムラヨシコさんという津嘉山(つかざん)(現 南風原町)出身の方がいた。彼女も代用教員をしていたのかもしれない。
文教学校で一高女や師範学校に通っていた人と出会い、その頃になって初めて、戦争で誰が亡くなったということを知った。
文教学校には1月10日ごろに入学した。3月16日ごろに卒業式があって教員免許をもらった。
(大城牧子による聞き取り 2016)
■脚注
※1 沖縄県立第一高等女学校のこと。沖縄師範学校女子部と併置校だった。この2校から動員された生徒たちのことを戦後「ひめゆり学徒隊」と呼んでいる(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団立 ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』2011[第2版]36~37頁、132~133頁参考)。
※2 澄枝さんは「ノブコさん」と語っているが、ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集3)』(2004)の表記にならった。
※3 陣地構築作業への学徒の動員については、昭和19年から本格的に始まったと語られることが多い。しかし、澄枝さんが予科2年生だった昭和18年にも陣地構築への学徒の動員が行われていた可能性は否定できないため、ここでは澄枝さんの語りをそのまま記載した。
※4 1944年(昭和19)からは軍事優先の運行が行われるようになったためと考えられる。
※5 のちに学徒が2人合流して16人になった(玉城村史編集委員会編『玉城村史 第6巻 戦時記録編』玉城村役場 2004 142頁)。
※6 当初は軍医2人が治療にあたっていたが、のちに民間開業医1人が応援に加わった(糸数アブチラガマ整備委員会編『糸数アブチラガマ』玉城村役場 1995 33頁)。
※7 現在の沖縄県立首里高等学校の前身。
※8 謝花さんは、「戦争は終わったから一緒に帰りましょう」と声をかけてきた人物について、前掲『玉城村史 第6巻 戦時記録編』では「穴に逃げ込んできた兵隊と米兵が」(886頁)、『生き残ったひめゆり学徒たち-収容所から帰郷へ-』では「日本兵は銃を突きつけられて出て行ったようです。(中略)先に出た日本兵が」(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団立ひめゆり平和祈念資料館編『ひめゆり平和祈念資料館 資料集5 生き残ったひめゆり学徒たち-収容所から帰郷へ-』2015[第2版]232頁)と、それぞれ語っている。
※9 1888年(明治21)玉城村富名腰(現在の南城市船越)生まれ。村議会議員、県議会議員、衆議院議員をつとめ、農業開拓や病院の開設などに携わった。幼少時の高熱が原因で片耳が不自由となり、のちに自ら障がい者(ろうあ者)であることを公表するため、「平二」から「聾人」に改名した(照屋唯志 編・文『南城市が生んだ心優しい偉人 湧上聾人』2016 船越小学校「絵本を作ろう会」)。
※10 具志川市田場(現 うるま市)に開設された教員養成機関。
| ダウンロード | https://nanjo-archive.jp/wp/wp-content/uploads/2024/11/nanjo-2023.pdf |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015774 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2023) |
| ページ | 45-56 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 玉城 |
| 発行年月日 | 2024/03/05 |
| 公開日 | 2026/05/22 |